【年表9】レズビアンの歴史

掲載:2016-11-12 作成:富永智津子

【特集3】LGBT・LGBTIの権利保障【現代アフリカ史10】「レズビアンという選択」のサイトも参照のこと

【年表】

紀元前7世紀末~紀元前6世紀初

・ギリシア詩人サッフォーSappho、女性同士の愛を感動的に描写。自身の少女への愛についても謳っていることから、「レズビアン」という用語は、彼女の故郷レスボス島にちなんで生まれた。(Aldrich:47;フェダマン:392)。

1270年頃

・フランス:男性および女性の同性愛を違法とする法令Li Livres di justice et de pletの制定。歴史上もっとも初期の法令とされる。(Norton:191)。

13世紀

・フランス、スペイン、イタリア、神聖ローマ帝国、スイス:女性同士のソドミーは反自然的であり、火刑に処せられるべき行為に含まれるとされたが、実際に処刑された記録は存在しない(Norton:190,191)。

中世

・ヨーロッパ:尼僧の同性愛的行為に対して40日間の苦行が科される(Norton:190)。

ルネサンス期

・ヨーロッパ:女同士のロマンティックな友愛、花開く(フェダマン:12)

1477

スペイン:「レズビアン」の少女の処刑。歴史記録に残るもっとも早い時期の処刑とされている。(Norton:191)

16世紀

・スペイン:ふたりの尼僧が性具を使用したとの罪で処刑(Norton:191)

1535年頃

・スペイン:男性を装って女性と結婚した罪で、レズビアンの女性が火刑に処せられる(Norton:191)

1549

・スペイン:ソドミーの嫌疑をかけられた女性が追放される(Norton:191)

1555

・スペイン:1265年に男性の同性愛者に科された死刑が、この年、女性の同性愛者にも科されることになるが、その後の300年間に処刑された女性はなし。(Norton:191)

1568

・スイス:レズビアンの女性が溺死させられる(ジュネーヴ文書館で発見された唯一の事例)(Norton:191)

1580

・スペイン:マリーという名前の機織り女が男装をして女性と結婚したとの罪で絞首刑となる(Norton:191)

17世紀~

・イギリス:異性装がレズビアン文化の中心的な特徴となる。死んで初めて女性だと判明する事例も多かった。(Norton:194)

・ヨーロッパ:男性に扮するのみならず、女性と結婚する事例も17世紀ころから見られるようになる(Norton:194)。

17世紀初頭

・イタリア:フィレンツェの尼僧Sister Benedetta Carliniが聖霊に憑依されていた時に他のシスターたちを誘惑した罪で、40年間の禁固刑を科されたとの記録が残っている。(Norton:190)

1623

・スイス:レズビアンのIsabel Galandreという女性が魔女と断定され火刑にされる。(Norton:191)

1626

・スウェーデン女王クリスチナ誕生。「レズビアン」として知られる(在位1632~54;1689没)

1645

・ロシアレズビアンの女性が、ソドミーの罪により火刑に処せられたとの記録あり(Norton:191)

17世紀中葉

・アメリカ:ニューイングランドの清教徒の入植者、レズビアンを死刑と定めるも、実際に処刑された記録はない(Norton:191)

1694

・イギリス:イギリスの法はレズビアニズムを犯罪とはみなしていないが、女性の男装それ自体は時には不良もしくは詐欺的行為として刑罰の対象になることはあった。この年、ある女性が男装し、婚資を入手するためにメイドと結婚しようとして裁判になった事例がある。彼女はラヴレターをメイドに送っており、鞭打ちの刑に加えて強制労働を課された(Norton:192)

1707年、1708

・イギリス:イングランド北西部のCheshireのTaxalという教区に、女性同士の結婚の記録が2件あり。①1707年、Hannah WrightとAnne Gaskill、②1708年、Ane NortonとAlice Pickford(Aldrich:136)。

1710

・イギリスウェストミンスター・アビーの墓碑に、Mary Kendall とCatharine JonesはMaryが1710年に死ぬまで一緒に暮らしたことを示す“Close Union & Friendship”という文字が記録されている(Aldrich:136)

1721

・プロイセン(ドイツ):SaxsonyのHalberstadtという町で, Catharina Margaretha Linckと Catharina Margareth Muhlhahnがレズビアンの容疑で告訴された事例。Linck (Linckenとも) は当時21歳で、宗教的狂信者であり、処女を守るために常に男装していた。軍隊にも入隊したが、1708年に逃亡し絞首刑を宣告されたが、女性であることが判明して釈放される。1717年に男性を装って、教会でCatharina Margaretha Muhlhahnと結婚。妻は夫が女性であることに気づくが、兄と妹として暮らし始め、性的関係も持つようになる。両者がどのようにして裁判にかけられるようになったかは不明であるが、両者はソドミーの罪で有罪となり、Linckは斬首されて火刑となり(生きながらの火刑を軽減)、Muhlhahnには3年の懲役刑が科された後、追放された。(Norton:193-194)

1746

・イギリス:Mary Hamiltonという女性が女性と結婚し、性具を使用していたとしてvagrancy act違反で鞭打ちと禁固6か月の刑を言い渡された(Norton:192)

1775~1783(アメリカ革命期)

・アメリカ:Deborah Sampsonという女性が男性に扮し、Robert Shurtlieffという男性名を名乗り、戦場へ。女性との性的な関係を持ったとされる。(Katz,pp.212-214)

1777

・イギリス:Ann Marrowという女性が男性の服装をして3人の女性と次々に結婚し、婚資を騙し取ったとして3か月の懲役ならびに辻立ちの刑を受け、女性たちから石などを投げつけられて両目を失明した(Norton:192)

1792

・オランダ:レズビアンの女性が、愛人との間に介入してきた女性を嫉妬して殺したきわめて珍しい事件あり(Norton:191)

1840

・イギリス:Anne Lister(1791~1840) というヨークシャーの貴族階級出身の女性が、他の複数の女性との性的関係を赤裸々に綴った日記を残し、1988年と1992年にHelena Whitbreadによって公表され、カルチャーショックを社会に与えた。レズビアンという用語は使用していないが、彼女がレズビアンを自認していたことは確かである(Aldrich:143;Norton:196~202)

19世紀後半

・アメリカ:中産階級の未婚女性間の「ロマンチックな友情」、この時期に頂点に達する。東海岸では「ボストン・マリッジ」と呼ばれ、女性同士で暮らすジェーン・アダムス(1860~1935:ハルハウス・セツルメントの創設者、ノーベル平和賞受賞者)やM・キャリー・トーマス(1857~1935:プリンモア・カレッジ学長)といった女性運動家も現れた。高等教育を受けた女性が結婚しないことを裏づけた統計―1880~1900年のアメリカ女性全体の独身率が10%だったのに対し、大学卒の女性の独身率は50%―もある。この展開の背景には参政権運動などを要求するフェミニストの活動があり、高等教育の女性への門戸開放があった。(フェダマン:3,12,14,15,16,27)

1865年頃~

・中国:経済的に自立した女性の中に“sworn sisters”(shuang chieh)と呼ばれる女性だけの共同体を形成する者が出現。1930年代の経済的危機で減少し、共産党政権下で「退廃した封建制度」として抑圧され、多くがシンガポールやマラヤや香港に移住した。こうした共同体は1980年代まで存在した(Norton:195)。

1908~1910

・日本:情死501件中、女性同士は18件(0.04%)(礫川全次『ゲイの民族学』批評社、2006)

1911

・日本:新潟県親不知海岸での女学校卒業生同士の心中事件。

1920年代~1970年代

・日本:同性愛を異常視する「変態性欲」の考えが一般化(三成:119)

1920年代

・アメリカ:フロイト理論の普及によって自由な異性関係とバイセクシュアルの試みが許された時代。小説にもレズビアンが登場し、ブロードウェイでも異性装が大流行。しかし、性科学の普及により、「ロマンチックな友情」をレズビアンとして一般女性から切り離し、フェミニストを含めて「性倒錯者」などとの非難が出始める一方、これに対抗してレズビアンのコミュニティ作りも出現。(フェダマン:71~107)

1921

・イギリス:レズビアンを違法とするようフレデリック・マキステンFrederick Macquisten下院議員が提議したが、貴族院で否決。

1930年代

・アメリカ:大恐慌の中、性の自由が中断され、自立した女性への抑圧も高まり、やむなくバイセクシュアルで妥協するレズビアンも現れた。小説にもレズビアンは否定的に描かれ、かつての女子大学などでの「ロマンチックな友情」も影をひそめた。それでも多くの女性がレズビアンを自認し、サブカルチャーを発展させた。(フェダマン:108~131)

1940年代(第二次世界大戦中)

・アメリカ:軍でレズビアンを黙認。工場などで、女性だけの組織が誕生し、レズビアニズムの発展に寄与。(フェダマン:137~156)

第二次世界大戦後

・アメリカ:除隊したレズビアンが港町にコミュニティを作り、サブカルチャーを発展させた。さらに大都市へのレズビアンの移住が進み、レズビアン・バーが増加。これは後にレズビアンの組織化につながる。一方、医学界が同性愛に対する「治療」をビッグビジネスに仕立て上げ、マッカーシズムによる迫害も始まる。(フェダマン:161~187)

1969

・アメリカ:フェミニズムや公民権運動を経験した世代が「ストーンウォールの反乱」(ゲイ革命)を起こす。マスコミや医学界、政界にも同性愛に同調する動きが生まれ、解放運動は驚くべき勢いで広まり、ゲイ男性と共同で闘争を繰り広げた。(フェダマン:224~351)

1970年代

・アメリカ:レズビアンによる独立した平和で自由な社会を理想とするレズビアン・フェミニストの登場。しかし、あまりにも理想に走りすぎたため、分裂対立を繰り返し、できたばかりのコミューンも長続きしなかった(フェダマン:247~249)

・フランス:「レズビアン」という用語がポジティヴな意味を持ち始める(三成:317)

1971

・日本:鈴木道子、日本初のレズビアンサークル「若草の会」を創設。会員は5年間で延べ500人を超える。15年後に解散。(フェダマン:388)

1976

・日本:レズビアンのミニコミ誌『すばらしい女たち』の発行(フェダマン:388)

1978

・国際:「国際レズビアン・ゲイ協会」(ILGA)の設立(三成:年表)

・日本:レズビアンのミニコミ誌『ザ・ダイク』『ひかりぐるま』の発行(フェダマン:388)

1980年代

・アメリカ:レズビアンの性的解放をめざしての大論争が起きるも、ゲイ男性の間でのエイズの蔓延により、性に関して社会が保守的になる。レズビアンのコミュニティも穏健になり、民族集団ごとに小グループが登場し、多様化が進んだ。その結果、同性愛者の人権法が各地で成立。(フェダマン:300~318)

1981~1991

・アメリカ:同性愛を理由に除隊した男女は1万6919人(三成:年表)

1982

・日本:レズビアンのミニコミ誌『レズビアン通信』の発行(フェダマン:388)

1984

・日本:スライド『日本のレズビアンたち』を作るグループ「れ組のごまめ」の結成(フェダマン:388)

1987

日本:日本初のレズビアン事務所「れ組スタジオ・東京」の開設(フェダマン:388)

1988

・日本:日本で初めて掛札悠子がマスコミにレズビアンであることをカミングアウト。1992年に『「レズビアン」である、ということ』を出版。(フェダマン:388)

1990

・国際:WHOが疾病分類リストから同性愛をはずす(三成:年表)

1992

・日本:日本ではじめてのレズビアン・ゲイの情報ガイド『ゲイの贈り物』が発売される(フェダマン:390)。

・日本:「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」がスタート。(フェダマン:391)。

1993~2008

・アメリカ:同性愛を理由に除隊した男女は1万3444人(三成:年表)

1994

・日本:日本で初めて「東京レズビアン・ゲイ・パレード」が行われる(フェダマン:390)。

2001

・中国:精神疾患の項目から同性愛を除外(三成:年表)

2008

・ギリシア:レスボス島(ギリシャ語ではMytilene)の住民が、島の名称をレズビアンの語源とするのは、島民の人権を損害し、世界中に恥をさらすものとして裁判を起こしていたが敗訴におわった(BBC News Europe, July 22, 2008)。レスボス島を語源とすることから「レズビアン」ではなく「レスビアン」という用語を用いる研究者(富岡明美)もいる(フェダマン:390)。

2008

・南ア:2010年に南アで開催予定のサッカーのワールトカップ大会で南ア女子サッカーチームのレフェリーをつとめるべく訓練中だったヨハネスブルク郊外のタウンシップ出身のEudy Simelane (31) が、レズビアンを真っ当な性的指向に矯正することを目的とした“corrective rape”の被害に遭い、男性のグループによってレイプされ殺害される。(Di Silvio論文参照のこと)。

2009

・アイスランド:首相に就任したヨハンナ・シグルザルドッティル、レズビアンを公表した世界初の国家首脳となる。

2019年

・台湾:アジア発となる同性婚の法制化

【解説】

「レズビアン」という用語は、紀元前6世紀の詩人サッフォーSapphoの故郷であるレスボス島Lesbosに由来するとされる。サフォーの詩は少ししか残っていないが、その中には女性の美に焦点をあて、自分の少女への愛を主題としたものがあり、それがレスボス島の名称がレズビアンに関連づけられたとされている。しかし、「レズビアン」(女性の同性愛関係)という概念は、20世紀になってから構築されたものである。当然、それ以前にレズビアン関係が存在しなかったというわけではない。ところが歴史的にみて、レズビアン関係は男性のような自由や自己主張が制約されてきた一方、男性の同性愛者のような厳しい法的・社会的制裁の対象にもなってこなかった。レズビアン関係は、男性が伝統的に享受していた権利を侵さない限り無害なものと認識されていたからである。その結果、レズビアンに関する歴史史料は少ない。残されている数少ない処罰の事例からは、レズビアンが国家や公的権力の統制下には置かれず、詐欺罪や社会的公序良俗に反する罪として単発的に断罪された事例であることが伺える。

19世紀に性科学者がホモセクシュアル行為を分類したり叙述したりし始めた時、女性のセクシュアリティに関する知識不足から、女性のジェンダー役割を遂行しない女性としてレズビアンを識別し、彼女たちを精神病者であると決めつけた。

精神病との烙印をおされた欧米のレズビアンの女性たちは、レズビアンであることを隠すか、反社会的であることを受け入れてサブカルチャーを創造し、レズビアンというアイデンティティを持つようになる。第二次大戦後の経済的低迷の中で、各国の政府がホモセクシュアルの取締りを強化しはじめると、女性たちは社会的ネットワークを構築し、お互いを啓発し合うようになった。その後の経済的社会的自由の展開の中、レズビアンの女性たちにもお互いの関係を構築し、家族を形成できる展望が生まれた。20世紀における第二派フェミニズムや女性史の発展、あるいはセクシュアリティ研究の進展によって、レズビアンの定義も拡大され、レズビアンとは何かをめぐっての議論が展開した。つまり、性的欲望がレズビアンの主要な構成要因であるかどうかといった議論である。同性愛行為をおこなう女性の中には、自分がレズビアンであるということを拒否し、バイセクシュアルであることを主張するものもいれば、自分の性的指向が同性愛嫌悪と捉えられるのを恐れるといった理由から、レズビアンを自称していても必ずしも性的指向や性行為を伴わない女性もいる。

メディアの中のレズビアンは、女性的なジェンダー役割に挑戦する女性によって社会が脅かされてきたことを示唆している。レズビアンたちは差別・偏見・マイノリティであることからくるストレスに起因する肉体的・精神的抑圧に直面している。政治的状況や社会の反応もまた、公共空間におけるレズビアン関係や家族の形成に影響を与えている。近年、問題となっている極端な事例が“corrective rape”(あるいはhomophobia rape)である。2008年にヨハネスブルク郊外のタウンシップ(黒人居住区)での女子サッカーチーム所属のレフェリー訓練生Eudy Simelaneの殺害である。性的指向による差別を禁じた南アで、レズビアンに「真っ当なセックス」を教えることによって性的指向を矯正しようとするこうした犯罪が後を絶たない背景には、社会にまん延している同性愛嫌悪がある。

【参考文献】

Aldrich, Robert, ed. 2006

Gay Life and Culture: A World History, Thames & Hudson, Ltd

Norton, Rictor, 1997

The Myth of the Modern Homosexual: Queer History and the Search for Cultural Unity, Cassell, London and Washington

Di Silvio, Lorenzo, 2011

”Correcting Corrective Rape: Carmichele and Developing South Africa’s Affirmative Obligations to prevent Violence against Women,” Georgetown Law Journal 99(2011) 1469~515

BBC News Europe, July 22, 2008

 

『大正女性文学論』新・フェミニズム批評の会、翰林書房

フェダマン、リリアン『レスアンの歴史』(高岡明美・原美奈子訳)、筑摩書房、1996年

三成美保編著『同性愛をめぐる歴史と法―尊厳としてのセクシュアリティ』明石書店、2015

礫川全次『ゲイの民族学』批評社、2006