【教育1-③】大学世界史教育から考える東南アジア史とジェンダー(桃木 至朗)

2015.01.30掲載 執筆:桃木至朗(大阪大学文学研究科)
初出:「歴史教育におけるジェンダー視点の導入に関する比較研究と課題の検討」研究会
2014年3月2日・大阪大学中之島センター
http://daiviet.blog55.fc2.com/

1.いくつかの前提

1.1. 1970年代以降の東南アジア史と地域研究

  • ー東洋(史)学と近現代民族運動研究・社会経済史研究の衰退←→地域研究の全盛と行き詰まり[石井(編)1991;桃木2001;早瀬・桃木(編)2003;東南アジア史学会(監修)2009]
  • ー歴史学における市民権獲得(←Cambridge History of Southeast Asia[1991年]や岩波講座東南アジア史の刊行[2001~03年]など)、中国史・日本史その他の専門家との交流の拡大(「海域アジア史」経由の交流も含む)の一方でのやりにくさ(相互に相手を理解するリテラシーが欠如)。

1,2. 東南アジア史研究と女性・ジェンダー

  • ー民族学・社会学や比較法制史などに見える「女性の地位の高さ(かつては母系=母権制と理解(注1) 」「性別分業の弱さ」に早くから注目[Lingat 1955; 山本1938;牧野1978(1934)、1985a(1952)、1985(1954);Yu Insun 1990ほか]。ベトナム戦争に限らず、現代女性の活躍も広く知られる[レ・ティ・ニャム・トゥエット2010など]。
  • ー現在でも人類学・社会学などの研究はそれなりに盛んで[綾部(編)1997;北原(編)1989;末成1995、1998;長津・加藤(編)2010ほか]、その「双系制社会」論の影響は日本古代史などにも及んだが[鷲見1983;明石1990ほか]、アメリカなどジェンダー化が進んだ学会(注2)も含め、歴史研究は停滞[片山1997;東南アジア史学会(監修)2009]←「ジェンダー史専門家」は片山須美子氏ぐらいか?
    • *マルクス・レーニン主義と国是とする(『家族・私有財産・国家の起源』は「経典」の一つ)一方で、党と各「社会団体」および国家機関・国営企業の集合体として国家が成り立つという実態をもつ以上は、「女性史」を含む分野・業界ごとの歴史編纂を歴史学の必須の仕事としたはずの「社会主義ベトナム」における、「女性史という専門領域の不在」という不思議な事実(「ハイバーチュンの反乱」など女性指導者の活躍はあくまで「母系=母権制の残存という枠組みの中でエピソードとして取り上げられるのみ)・・・現在もジェンダー学はどんどん流入しているが[Bousquet et Taylor (direction) 2005なども]近代までのジェンダー史は皆無?←「一生結婚しなかった」「父」としてのホー・チ・ミンの存在も影響??
  • ー大航海時代の全体史の中で「女性の地位の高さ」を描いたリードに対し、近世における束縛の強まりを強調してバーバラ・アンダヤが反論したリード・アンダヤ論争[Reid 1989; Barbara Andaya (ed.) 2000; Barbara Andaya 2006]など近世史や、近現代の社会変容の研究に集中[飯島・小泉2000;小泉2001;大橋2001;大橋2010;寺見2001;Otai, Okamoto and Ahmad Suaedy (eds) 2010ほか]。そこでは社会経済史や法制から表象の研究までいろいろおこなわれ、トランスジェンダーの研究も試みられている[Leonard Andaya 2000]・・・大航海時代より前の研究は、拙稿での土地所有研究の試み[桃木2011:第2章]を別とすれば、王権とジェンダーの研究にほぼ限定[Wolters 1999; Day 2003; 青山1992、2001;桃木2001b、2001c、2011ほか]

2.東南アジア史における女性史・ジェンダー史の代表的トピック(注3)

2.1.基層社会  

  • -エスニックな多様性と人の移動性の高さを背景とする、家族・婚姻形態やジェンダー構造の多様性と流動性→平野部では「屋敷地共住集団(注4)」を基礎とする「双系的(双方的)」家族と社会が一般的で、伝統的に「姓」をもたない社会も多い[松本・大岩川1994]。出自集団・リニージの認識と実践が弱く自己中心型の家族・親族関係が普通(例:記述は先祖から順番に代を下るが代数は自己からさかのぼって数える近世前期ベトナムのゾンホ(父系宗族)の「家譜」[末成1995])。
    • *牧野巽ら法社会学者も注目した東・東南アジア稲作社会(の古代)における性差の小ささと、東アジア小農社会確立[宮嶋1994]にともなう父系制・家父長制への傾斜(?)
  • -スマトラ島のミナンカバウ人 (注5)、ベトナムのチャム人など「母系」氏族集団を基礎とする社会(かつては国家を形成)も存在・・・近世以降はイスラームとも両立。
  • -ジャワ王権と「南海の女神ニャイ・ロロ・キドゥル」、フィリピンの「フォーク・カトリシズム」におけるマリア信仰など、女神信仰の強さのジェンダー的意味は未解明。

2.2.法制と女性の権利

  • -ベトナムの14世紀末~18世紀の基本法典「国朝刑律(黎朝刑律)」:基本的に「唐律」に倣うが、女性を含む均分相続と一定条件下での女性による宗族祖先祭祀権継承、離婚請求権などを認める(実家からの持参財は夫の財に吸収されず、結婚後になした財は夫婦共有で一方の死後には子どもが半分、寡婦・寡夫が半分を一世給養分として継承〈子どもがなければ寡夫・寡夫の死後はそれぞれの実家に戻る〉)。王族から農民まで各階層にわたる、実態としての女性の財産(土地・奴婢その他)所有の証拠は、桃木が研究した中世(→表1・2)に限らず、いろいろある。
  • -他地域はこれほど多くの史料がないが、儒教の影響を受けたベトナムでこうなのだから、女性の権利はより大きかったと考えられる。

2.3.政治権力と女性

  • -女性君主は多くはないが、14世紀初めのジャワ島のマジャパヒト、近世スマトラ島のアチェやマレー半島のパッタニーなどあちこちで出現・・・現代のアウンサン・スーチー(ビルマ)、コラソン・アキノとアロヨ・マカパガル(フィリピン)、メガワティ・スカルノプトリ(インドネシア)、インラック(タイ)などの女性指導者(ついでにイメルダ・マルコスデヴィ夫人)(注6) の地位と力も、単なる近代化の産物とも、家父長権の代行者とも見なせない部分がある←ただし現代南アジアとの比較は不十分。
    • *娘を跡継ぎにできないタイのプーミボン国王の苦悩(?)
  • -王の「母(注7) 」だけでなく「妻」や「娘」もそれぞれに大きな公的政治力を持ちうる家族・権力構造とその経済基盤→ベトナム戦争のグエン・ティ・ディン南部解放戦線副司令官に限らず、1世紀北部ベトナムのハイバーチュン(徴姉妹)以来珍しくない女性軍事指揮官。
    • *大航海時代の外国商人なども、しばしば現地妻を含む有力女性をパートナーにもつことが商売成功に不可欠(例:アユタヤのナライ王に仕えて財務長官となったギリシア出身のファウルコンの妻は日本人キリシタンの娘で高位の女官だったとされる)。
  • -アンコール帝国(9世紀~14世紀初頭)の28人の王のうち、先王の息子や弟は6人しかいないという例が象徴する、血統の規制力の弱さ→法制・身分制などすべての規制力が弱く、王個人のカリスマ(軍事的・宗教的カリスマ以外に性的パワーの誇示も)と取り巻きとのパトロン・クライエント関係(支持者への富のばらまきや婚姻による紐帯が不可欠)に依存する「マンダラ」権力構造 [Wolters 1999]。
  • *しばしば見られる複数皇后制も、王権の強さではなく妻に格付けをできない王権の弱さを示すものなので、女性の地位が低いと即断はできない。

2.4.近世以降における女性の権利・地位の後退(cf.東アジアの「近世化」)

  • -儒教化が進んだ15世紀以降のベトナムを先頭に、近世における国家権力の強化、世界宗教の前進を背景とした女性の権利や地位の後退→「近世化」はもちろん「近代化」もしばしば、人間の自由や女性の解放より、規律化と父系制や家父長制の実態化につながる(例:王室主導のタイ近代化)?
  • -14世紀までの北部ベトナム村落は仏教寺院が結集核でそこでは男女とも信仰・祭祀の担い手だったが、18世紀以降は村落の共同性の中心となるディン(村落守護神(注8) を祀った集会所)から女性が排除され、ゾンホの家譜は祖先から代数を下っていく「正常」なものになる。『朱子家例』にならった儒教的冠婚葬祭入門(『寿梅家礼』などが普及)。一方で仏教寺院が女性の場となる。
    • *またおそらく男性支配の前進を背景に、北部では柳杏公主(=玉皇上帝の「娘」)などを崇拝する「母道」、津中部ではチャンパーの国の女神ポー・イヌ・ナガールに由来する天依亜那(天仙聖母)を祀る「天仙聖教」などの女神信仰が発展する。
  • -上座仏教圏(シャム、ビルマなど)ではサンガ(僧侶の組織)の教主の地位に女性が就くことや女性の正式出家ができなくなり(在家の下級修行者は可能)、ナット(ビルマ)やピー(タイ族世界)などを祀る民間信仰施設が女性の場となる。

2.5.開発・戦争・グローバル化とジェンダー

  • -経済開発と女性:男女の労働形態の変化と「からゆきさん」「豬花」からタイやフィリピンの女性の国際出稼ぎまでの売春の位置、その一方での現代タイやフィリピンにおけるボクサーの男性表象? そして独立や開発の「父」たちの表象は?
    • *「(男子の理想)中国料理を食い西洋式の家に住み日本の妻をめとる」という現代ベトナムのことわざと、古い家族制やムラ社会を批判し近代文学を築いた「自力文団」から、ドイモイのきっかけとなった告発小説『退役将軍』までの「悪妻」(or純真な男性主人公をたぶらかそうとする悪質な女性経営者)の表象
  • -ベトナム戦争中の南部での売春婦の大量出現と北部(注9) での女性の社会進出(=過重労働)、ベトナム版「靖国の母」の顕彰(注10) ・・・「だらしない男性への叱咤の道具」としての女性の活躍という史論のパターン(注11) と、「夫が倒れたあと立ち上がって侵略者を打ち負かす妻」という物語のパターン(注12) の再生(?)、そして意図せざる男女や家族の別離(注13) と、戦後初期における離婚の増大や結婚難、農村で男手がない家庭の生産が困難であることによる不倫や未婚の母の急増。
  • -ドイモイ後のベトナムで、復活したディンの村落祭祀やゾンホの祀堂の祭祀への女性たちの進出と、「○氏連絡会」などの形式による超村落的ゾンホの拡大、都市男性の「外資系企業に勤めて妻を専業主婦にさせる夢」が共存するなど、現代東南アジアにも多様なベクトル。そしてタイやベトナム(ベト族では子どもは2人までというのが原則)で急速に進む少子化と高齢化[大泉2007]。

3.竜仙の子孫(注14) -中世ベトナムの王権とジェンダー

3.1. 10世紀の独立国家形成 (注15)(→図1)

  • -楊氏と呉氏の政権のやりとり
  • -初めて皇帝を称した丁部領以下の、複数皇后制→王子たちの地位は母によっては決まらず、逆に跡継ぎの母は皇太后として力をもつ。
  • -丁部領と共同統治を敷いていた長男璉の父子が暗殺され、宋が交阯の直接支配再建を目指して出兵を決めるという危機の中で、残された幼子爻がとりあえず即位したが、その母楊皇后は亡夫の近衛軍の長官だった黎桓と結婚してこれを帝位につけ、黎桓が宋軍を撃退して大越は危機を脱する・・・丁爻は黎桓の皇子たち(桓の死後継承争いを展開)と同様に帝位継承候補だったと思われるが、楊皇后が死ぬと翌年に爻も「戦死」。
    • *再婚できる点で単なる「寡婦による家父長権の代行」とは考えにくい。

3.2.李朝(1009-1226)における父系王朝の創造(注16) (→図2)

  • -最初の3代は有力な成人男子が即位し先帝の長子だったが、4代仁宗が幼少で即位した際に宋(王安石政権)が侵攻、これを撃退したのち5代目以降も幼帝が続く。また5代神宗(仁宗のオイ)以降は皇后が1人になる→儒教倫理の定着を思わせるが...
  • -父系親族集団は未確立。継承争いは最後まで続く。皇帝を支えるのは皇太后(しばしば近衛隊長を愛人にする点で、外戚の操り人形ではないし、愛人に一方的に操られてもいない)や宦官・文人を含む近臣・・・おそらく血統によらない即位が中国の干渉を招くことから人工的に父系継承制を維持
    • *幼帝が続く状況は17~18世紀鄭氏政権下の黎朝(莫氏、阮氏などの対抗勢力があり、中国の干渉を恐れた鄭氏は「王府」を開いたものの自ら帝位を簒奪することはできない)
  • -皇帝の娘は皇子がない場合に裁判に参与(聖宗代)、地方首長に「降嫁」した公主たちは独自の屋敷・財産をもち地方支配に関与。

3.3.陳朝(1226-1400)による父系継承制の確立と父系親族集団の創出(注17) (→図3)

  • -外戚として帝位を簒奪した陳氏は上皇制(元来は上皇が正式の王で皇帝が東南アジアによく見られる「二王」のような存在か。禁中には皇帝の「官朝宮」と上皇の「聖慈宮」が並立)と父方平行イトコ婚(父系族内婚)の組み合わせで父系継承を確実にするとともに外戚を排除→おそらく日本律令と同様、太上皇后や皇后・皇太妃も太上皇帝(上皇)・皇帝と同等の主権の保持者だが、外戚の排除の方法は院政期日本や高麗中期に類似。
    • *明宗上皇の正妻の子裕宗が男子なしに死んだため、明宗夫妻の死後、跡継ぎとなった庶子(芸宗・睿宗兄弟)の生母の外戚として、黎(胡)季犛が実権を握りやがて帝位簒奪。
  • -男女の皇族は地方に屋敷を構え開発を進めるとともに、有事には中央政局にも参画(裕宗の没後帝位に就いた庶子(?)楊日礼を倒す挙兵を先導した明宗の皇后の娘天寧公主)、一部では明確な族の支派を形成(陳国峻系、陳光啓系など)。
  • -李朝期と同様に公主たちは土地や流通・手工業拠点の管理権、特定の租税の受給権などの財産をもち、政治力・軍事力と少なからぬ公主の「私通」を含めた行動の自由を有しているが、族内婚などを通じた父系親族集団(近世以降のゾンホに類似)の形成は進んでいる・・・鎌倉期の惣領制武士団(五味1982)などと類似か?

4.参考文献

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牧野巽1985b.「東亜米作諸民族における奴隷制――序説的試論――」『牧野巽著作集第4巻』、pp.307-342.[初出『高田博士古稀記念論文集 社会学の諸問題』有斐閣、1954年]
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桃木至朗1989. 「ベトナム庶民と社会主義」桜井由躬雄編『もっと知りたいベトナム』弘文堂、pp.308-323.
桃木至朗2001a.『歴史世界としての東南アジア 第二版』山川出版社(世界史リブレット).
桃木至朗2001b.「唐宋変革とベトナム」石澤良昭(編)『岩波講座東南アジア史2 東南アジア古代国家の成立と展開』岩波書店、pp.29-54.
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桃木至朗2011.『中世大越国家の成立と変容』大阪大学出版会[第2章「金石文に見る14世紀の農村社会」、第5章「一家の事業としての李朝」、第7章「一族の事業としての陳朝」ほか].
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資料1.『嶺南摭怪』<れいなんせっかい>鴻厖伝<こうぼうでん>

(14世紀に原型? 1492年に完成したベトナムの伝説集)

炎帝神農氏の3世の孫「帝明」が「帝宜」を生んだ。(帝明は)その後南巡して五嶺(長江流域と華南をへだてる山脈)に至り、仙女と交わって禄続を生んだ。禄続は容貌端正で聡明だったので、帝明はこれに帝位を嗣がせようとしたが、禄続は兄に帝位を譲るべきだと主張して父の命をきかなかったので、帝明は帝宜を立てて北方を治めさせ、禄続を封じて涇陽王として南方を治めさせた。涇陽王は水中に入ることができ、洞庭君の娘の龍女をめとって貉龍君<らくりゅうくん>を生み、これに国を治めさせた。こののち北方の神農氏は黄帝に敗れて滅亡した....貉龍君は帝宜の後継者「帝来」の娘である嫗姫<おうき>と結婚し、一胞を生んだ。そこから百卵が生まれそれぞれが男子となって自然に育った...貉龍君は水にもぐってしまい取り残された母子は北方に帰ろうとしたが、黄帝に阻まれて帰れなかった。嫗姫が泣いて訴えたところ夫の龍君が現れたが、「私は龍種で水族の長だ。おまえは仙属で地上の人だ。水火は相克するので、永久に一緒にいることはできないのだ」と言い、50男を連れて水府に戻った。嫗姫は50男とともに峯州(ハノイ西北方)に残り、長男を雄王として文郎国を立てた。その領域は東は海、西は巴蜀(四川省)、北は洞庭湖、南は占城(チャンパ)と接する...

※1479年に上進されベトナム王朝年代記の範型を確定させた呉士連『大越史記全書』(ただし現行テキストは17世紀末に再編されておりそこで改変された可能性は否定できない)では、母と50子は山に入り、父と50子が平野に残って文郎国の祖となったと記述。

表1 ノンヌオック碑文群に見られる寄進者名[桃木2011:105に加筆]

天竜寺常住三宝物(NN-VII) 4-5恵正王[安登社の田3所15面4高5尺以上]、6-7安登奴管社陶鈍・知社范鯨等、安登社の魏氏正真婆[3人以上の共同で?阿空洞の弄田2高以上]、8-9□□社書火頭阮語字徳真比〈丘〉洎姉都陳六字真修婆[寨雷洞の田1所と土1面?]、9-10湾上伴社(?)男勇首阮波来妻鄭氏[抛洞の田1面]、在黎舎社養姆阮念[黄山米洞の□□隊の田を黎舎洞の田の代わりに寄進?]、11在玃郷蔡氏字崇徳居士洎荘氏字慈忍比丘尼[銭200貫で種□の田2面を買って寄進]、11論冊内戸張玉凛[種岡□檜洞の「間居人民」の田10面]、11-12僧徳増、在黄江口字保□婆[銭100貫と30貫を出し合い□隊の1面3高を買って寄進]、12-13僧徳雲、張氏謙、慈円婆、埋橋社徳円翁・妙善婆、勝福翁、12□当社□□婆、黎舎社□□婆(銭100貫、100貫、100貫、50貫、10貫、50貫、40貫をそれぞれ出し、衆岡洞の1?面を買って寄進)、13-14棹社内侍令大文公丁了洎養婆陳巴[婆倶冷更洞大神隊の田1面]、14-15婆倶社舎人武湯洎室武爛[冷更洞の田5高]、15-16阿空社虎翊都火頭子朝班都□破鄰洎室陶氏特[阿空洞の5高]、16-18在茄郷銀青光禄大夫上将軍上品明字范字曰斍照真士洎族姫陳字曰勝信婆[婆倶浪了?洞の田5面]、18福城社慈福婆[婆勾洞の田2面]、18-19在福城社長堂侍衛人火頭須阮卯字斍心洎室姉都林未[銭356貫で種岡洞の田6面を買って寄進]、19-20在武林渓个躭社黎氏柴[潮洞の紹?田3高11尺]、20-21在阿空社抄社劉容并□黄氏侶、[田?2所計2面7高]、22-24在安登社劉舎廊比丘守愚[遠尾社黄山洞の田2所、一方は4畝]、24-25在安杲社力戸陳婀旱[安楽瀾洞の2面]、26-27在安登社傑特令堂書児火頭...、27-29在安登社□□令堂守墓書児火頭陶箇株并妻呂氏依[僊洞の田地2所計1面]、30在安登社虎翊火頭陶洪妻杜氏?氏礼二人[仙洞の地宅4高]、30-31在安登社陶氏厳并孫陶路人[地4篙]、31-34在安登社上班劉朧釈字悟恵、養姆鄧氏阿朗、在多稼社書都火楊葵并室范氏可磊、比丘潜聞[200貫、100貫、100貫、200貫をそれぞれ出し、偈洞の田3所5面を買って寄進]

NN-VI 1京城右伴□□坊徳玄□[大黄路盎社の田1所2面]、3多稼社□□廊徳詠□老并室人黎[□潮洞の1面]、5恵淑公主[宏奴5人]、7在京城右伴餅煎坊故冠服侯陳寧孫[橋哥江口大泳洞の田10面]、9-11恵淑公主男右侯升字号侯陳黄弟并女恵仁大王孫陳技玉媛[□洞の田10面]、13隊長阮平[潮海?洞の田4高]、13-14个低社阮氏豈字慈心婆[汾洞の田3高10尺]

NN-IV 1祖翁河陽郷亜侯... 并室内品陳□[清化府羅洞の田10面]、5住持徳□[嵬洞の田2面]、7在安福社上某廊姉都□□[嘲?洞幻和?隊の田1面]、9在安登社亜上品劉慶[大行洞の田1所12面、衙園田土?1所10面、□□洞の田13面]、14在長安路黎舎社范氏可待字曰遇縁婆[□埋洞の田2面]

NN-VII 5徳紹比丘[阮知社から銭で買った金□洞の田2面]、6□聚比丘俗名中品楊棠朱元朗[金剛寺に25面、水山寺に15面の計40面の田]、8在福城長堂兼主庫何靖字慎定居士[金剛洞寺?に5面、金剛寺に5面]、9徳孫比丘[朝?岸洞の4高]、11在□郷養姆娘范腰[藤洞の7高?]、12-13在波点社范字漸悟居士洎娘阮局字正信婆[透洞の1面]、15□藤社養姆娘范文[藤洞の1面]、17在波点社養姆娘范祖[藤社の5高]、19婆倶洞武□廊拱文公

施済病田碑(NN-V)1当寺徳雲比丘[金□洞の田1面]、3在安登社□宮侍衛人火頭須劉慶[多稼社種剛洞の田5面]、4淑姿元妃[个覧涇阿倶廊の田3所9面]、7在京城隍内檳榔園入内少保長□宗姫著脚紫裙方?蓬?立訟?張孝純[長安洞次七隊の田5面]、9在多稼社戸舎范□婦黎氏□、10応豊路独立郷个低社天長翰林書火勇首武□字了性優婆塞并慈信婆[均洞の田2面、社?洞の1所、汾洞の1面有余、洞名不明の2所、勲洞の1所、巨路洞の1所、馬艾?の1所、隊?阿告の1所、檜厨染園?の秧田、三宝銭210貫で断買した雲社破洞次二隊の田3面]、24鎮旺大将軍賜三層拱宸府彰仁第四女慈徳婆[清化府25所の田*]、26-27在棹郷故父守寺黄抄字自悟居士并修面?婆[地宅?1?面]、27令子黄字慈仁居士并正信婆及妹善徳婆[1面6高]、28(...)戸舎費布・勾当巨了[4人各1高]、29小養児□火頭黄雲□□□室陳氏寧[芮多艾?洞の6?高]、30在烏米郷徳円比丘□慈善婆洎子杜蕩・黎个徳?[潮洞の田1面4高9尺、□□橋洞の1所、个西隊の1所]、32-33在烏米郷翁丁字正福居士并正福婆?[烏米洞の1高1尺]、35在黎舎社呉氏谷?[上黄洞の田1面2高。ただし鄭遺・黎慎舎から売断?]
NN-III 天長路茄郷洰噴社建昌府太堂宮支儀?范庫□釈?曰純智比丘尼等[婆倶朗了洞の各隊に所属したらしい7件あまりの田]

数字は人名が現れる行数(NN-VIでは、4行目の後の空白と、12行目の後の「范師孟題」の部分を無視して行数を数えてある)。□は読めない字、...は読めない部分の字数がわからないもの、?は直前の字に疑問があるもの、下線は人名と思われる部分を示す。[]は寄進した田地・財物。*印は面積・四至等の記載がもともとないもの(それ以外で面積を記さないのは欠字のため判読できないか、四至の記述だけで面積の記述がないもの)。

表2 陳朝寄進碑文に見える男女別の寄進人数・組数と寄進額[桃木2011;114-115]

表2陳朝寄進碑文に見える男女別の寄進人数・組数と寄進額_ページ_1

*人数・組数は、一度に複数所を寄進したものも1人(1組)と数えた。人数・組数の後ろの[ ]内は、それらによる寄進額の合計を示す。田と地・宅・池なども区別がわからない寄進地があるので単純に合算した。また銭いくらで土地どれだけを買って寄進したとあるものは銭高の方に含めた。銭を出し合って土地を寄進した男女で関係がわからないものは、単独として計算した(関係のわからない2人が共同で100貫出したような場合は50貫ずつと計算)。寄進主不明で面積だけ判読できる田地、その逆などもあるので、表2-1の面積合計などとは合わない箇所がある。男性単独の総計人数は、「天竜寺常住三宝物」とNN-VII碑で同一寄進者(劉慶)があるため、各欄の合計より1人少ない。

 

系図1[桃木2001:69]

ももき1

系図2 李朝系図[桃木2011:204]

ももき2

系図3 陳朝系図[桃木2011:273-274に加筆]

ももき3

1)ベトナムでは現在も「女性を抑圧する封建社会と“植民地半封建社会”、女性解放を実現する社会主義体制」というタテマエを崩しておらず(女性の伝統的な地位・権利は「アジア的生産様式」の社会が完全に封建化しなかったため、母系制の影響が根強く残存したと説明される)、西洋流の人類学・社会学やジェンダー学の理論が導入されている現代研究との亀裂が広がっていると思われる。
2)日本のジェンダー学においても、在米ベトナム人トリン・ミン・ハーのポストコロニアル批評(東南アジア研究ということではないが)が知られているであろう。
3)私の授業のうち、教養課程(全学共通教育)の基礎教養科目「市民のための世界史I」は東南アジアのジェンダーにふれる時間がほとんどない。専門基礎科目「アジア史学基礎C(東南アジア史概説)」[3セメスターに1回開講]および、文学部の専門教育科目で史学概論に当たる「歴史学方法論講義(歴史研究の理論と方法)」[毎年1学期に開講]、それにベトナム中世史に関する特殊講義(2年に1学期程度開講)が、東南アジアのジェンダー史にふれる主な機会である。
4)「家族」は単婚小家族が基本だが、子どもたちは結婚後も一定期間は両親と同じ屋敷地内の別棟に居住し(妻方・夫方の両方が可能。また婚姻は一夫一婦が基本だがしばしば非永続的)、しばらくすると分与された財産や自分の開墾地をもって独立(新処居住)する、順々にその過程をへて上の子どもたちは全員独立すると、末子が残った両親の農地・屋敷地を相続して年老いた両親を扶養する、というタイ農村研究から抽出された社会学的モデル。東南アジアや古代日本でも同様のパターンが一般的だったと考えられる。
5)加藤剛(1985ほか)の専門的な研究がある。
6)20世紀初頭のインドネシア民族意識の目覚めを象徴する人物とされるカルティニ(土屋1991)、インドシナ共産党の女性革命家グエン・ティ・ミン・カイなど近代民族運動に名を残した女性もいるし、ベトナム戦争では狭義の軍事指揮官や戦士以外にも、南ベトナムの秘密警察長官ゴー・ディン・ニューの妻で事実上のファーストレディとして振る舞ったチャン・レー・スアン(マダム・ニュー)、南ベトナム臨時革命政府代表としてパリ和平交渉でキッシンジャーとわたりあったグエン・ティ・ビン(のち副大統領)など戦争の行方を左右した女性指導者が少なくなかった。
7)先王の正妻と後継者の生母が異なる場合、生母やその一族が権力を握ることが多く、前の王の正妻(嫡母)の地位は力をもたないのが普通だったと思われる。
8)一村落に複数の守護神が祀られることも多い。中国の都市の守り神にならって「城隍」と呼ばれるが、中国と違い基本的に人格と固有名をもち(歴史上の実在の人物も多い)、女性であることも珍しくない。
9)女性が生産・戦闘・家庭の3局面を担うという「3つの担当」運動が展開された。1980年代後半の状況については桃木1989で簡単にふれた。
10)村や町には解放戦争で斃れた兵士を祀る「烈士の碑」が立てられ(抗仏戦争から中越戦争、カンボジアのポル・ポト政権との戦争まで)、複数の子どもが解放に命を捧げた母親は「英雄母」として顕彰された。
11)ドイモイ映画「河の女」はその変形で、以下のストーリーであった。ベトナム戦争中のフエで偶然名もない解放戦士を匿った売春婦が、解放の詩(この詩が、ドイモイ前に文壇の権力を握っていた革命詩人トー・ヒウの作品である点も、この作品のドイモイ映画としての政治的意味を示すとされる)を聞かされてこの戦士を愛したが、解放後のフエに高官となって赴任してきたこの男は売春婦とかかわりがあったことを恥と考え、かれを見かけて懐かしさから役所に会いに来たこの女性(社会主義下でまともな職業に就けず日雇い労働をしている)を追い返す、絶望した女性は街で事故に遭い入院する、ところが彼の妻は改革派の新聞記者で、この女性の話を知って義憤にかられ記事にしようとしたところ圧力がかかり、それが夫の仕業と知ってしまう。彼女はしかし圧力をはねのけて告発記事を掲載するとともに夫のもとを去り、今はケガも癒えて昔から言い寄ってきていた元南政府軍の兵士といっしょに暮らす元売春婦のもとを訪れて、あなたが愛した男性は死んでいて、今フエにいるのは別人であることがわかったのよ、とラストで告げる。
12)おそらくハイバーチュンの伝承をもとに近世の各地でこの種の物語や劇が創られ、ベトナム戦後に南部解放の戦いを描いた映画「無人の野」もこの枠組みを踏襲した。
13)もともとはラブソングのシンガーソングライターとして南ベトナムで有名になり、反戦歌「坊や大きくならないで」を作ったチン・コン・ソン(1939-2001、男性)と、かれの作品を歌って人気があったカイン・リー(1945-、女性)のストーリーは、NHKスペシャルでも取り上げられる(『家族の肖像1』として出版[角1997])などかなり知られている。南ベトナム政府が出展した大阪万博の際に二人は日本側から招請されたが、反戦歌を書いていたソンは南ベトナム政府が渡航を許可しなかった。カイン・リーのみ来日し、ソンのラブソング「美しい昔」などのレコードを発売した。この曲は産経特派員近藤紘一の『サイゴンから来た妻と娘』が78年にテレビ化された際にも主題曲として全国のお茶の間に流れた。75年にソンはサイゴンに留まったがカイン・リーはアメリカに逃げ、反共ベトナム難民の偶像となった。一方ソンもラブソング+仏教的平和思想が社会主義政府から睨まれ、75年以前の曲は禁止された。ただし活動は禁止されず、上記「無人の野」「河の女」などの音楽はかれが作曲したし、報告者が留学した86~88年のハノイでは学生や研究者がかれの禁止された作品のカセットテープをこっそりダビングして聞いていた。80年代末からドイモイが始まると禁止は解除され、海外渡航も認められて96年に来日、カイン・リーとの再開もパリでかなった(リーも渡越可能になる)。2003年には天童よしみが紅白歌合戦のトリで「美しい昔」を歌う。ソンは2001年に没したが、南北統一を願った「大きく手をつなげ」(1968年)はハノイ建都1000年記念式典など国家式典で必ず演奏される曲になっているようである。もっともソンの作品をめぐるジェンダー的分析などはまだされていないか。
14)資料1参照。14~15世紀にこれらの建国説話が体系化され国家のオーソライズを受けた。現代ナショナリズムもそれを全体に「ベトナム民族4000年の歴史」という歴史像を構築した。
15)白石1994;桃木2011:序章第1節2項、第5章など参照。
16)桃木2001b;2011:第5~6章参照。
17)桃木2001c;2011:第7~8章参照。