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【教科書2-3】教科書書き換え(案)③「アフリカの独立と苦悩」
2015.03.23掲載 執筆:富永智津子
●教科書キーワード
○人名:ンクルマ(エンクルマ)
○事項:「アフリカの年」、コンゴ動乱、アパルトヘイト、アフリカ統一機構(OAU)、国連貿易開発会議(UNCTAD)、南北問題
→参考:山川世界史B(385~6頁)
※赤字は教科書キーワード、青字はジェンダー視点からの書き換え
アフリカ諸国の独立と苦悩
アフリカ大陸では、1956年にモロッコとチュニジアが、57年にはンクルマ率いるガーナが独立、そして、一挙に17の新興独立国が誕生した60年は「アフリカの年」と呼ばれている。独立直後、鉱山の利権をめぐって旧宗主国が介入し、内戦(60~65年、コンゴ動乱)が引き起こされた事例もある。一方、ポルトガル植民地は、本国の独裁政権が崩壊し、民主政権が誕生した後の70年代にようやく独立を達成した。また、独立後も白人政権による抑圧体制(人種隔離政策=アパルトヘイト→*注)が続いていた南アフリカやジンバブウェが、白人支配から解放されるのは80年以降のことになる。
独立後、アフリカ諸国のほぼ半数が、社会主義的な政策を採用し、国家主導の経済発展と所得格差のない国造りをめざした。だが、そこに民族解放運動の一翼を担った女性たちの居場所はなかった。女性たちは、再び家庭に閉じ込められ、その政治力や経済力が評価されるようになるのは、80~90年代をまたねばならない。
一方、パン=アフリカニズムの思想と運動は、63年、アフリカ統一機構(OAU)(→*注)に結実し、アフリカ諸国の連帯と独立後も残る旧宗主国の政治的干渉や経済的支配からの脱却をめざした。さらに、OAUは、列強によって引かれた国境線を変更しないという規定を採択した。それによって当面の国際紛争は抑えられたが、不自然な国境線に閉じ込められた民族集団間の土地や権力をめぐる対立抗争が各地で多発し、それが内戦やクーデタを引き起こし、しばしば軍事独裁政権や一党独裁政権を登場させた。
こうした独立後の政治的な不安定化に加え、植民地期に導入された輸出向けの単一作物栽培(コーヒー・紅茶など)や鉱物資源(金・銅・ウランなど)などの一次産品に依存した経済構造が、工業化した先進地域との経済的格差を広げた(南北問題)。それを是正するために、63年、国連貿易開発会議(UNCTAD)が活動を開始したが、十分な成果はあがらず、アフリカ諸国は国際機関や欧米諸国の援助への依存度を深めた。その結果、援助の条件のひとつであった自由市場経済への転換を強いられ、社会主義的な国家建設は成果を生むことなく失敗に終わった。
考えてみよう!
- ① アフリカ諸国の独立は、なぜアフリカの人びとに苦悩をもたらしたのだろうか?
- ヒント 植民地の遺産(国境線、経済構造、政治体制など)、国際関係
- ② 民族解放運動を男性とともに戦った女性たちが、独立後、政治から排除されたのはなせだろうか?
- ヒント 家父長制、キリスト教、イスラム教
【注】
*アパルトヘイト
南アフリカ共和国において展開された人種隔離政策。1948年に法制度として確立され、1994年に撤廃された。
*アフリカ統一機構([英]Organisation of African Unity=OAU)
1963年5月25日に発足し、2002年7月9日にアフリカ連合へと発展した国際組織。目的は、①国連憲章と世界人権宣言の尊重、②アフリカ諸国の統一と連帯の促進、③人民の生活向上のための相互協力・調整、④国家の主権と領土の保全、⑤独立の擁護、⑥新植民地主義との闘いとされた。