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【年表6-③】世界女性史年表(人名)19世紀

【年表6-③】世界女性史年表(人名)19世紀

1802年~1880年(アメリカ)
Lydia Maria Child:アメリカの奴隷制廃止論者。奴隷制と奴隷解放に関する最初の本格的研究Appeal in Favor of That Class of American Called Africansを出版。奴隷制廃止運動の展開に寄与した。

1804年~1894年(アメリカ)

Elizabeth Peabody:ニューイングランドの教育家、作家、出版・編集、社会改革家。

1805年~1879年(アメリカ)
Angelina Emily Grimké
: 政治活動家、奴隷制廃止論者、女性の権利擁護者、女性参政権運動家。姉のSarah Grimké(1792~1873)とともに南部の南カロライナからニューヨークに移動し、奴隷制反対を説いた。

1808年~1893年(キューバ)
Mariana Grajales : キューバ独立戦争初期の1868~78年、戦場で支援活動を行い、数名の息子を失った。

1810年頃~1875年頃(セネガル~シエラレオネ)
Mãe Aurélia Correia:傑出した商人。奴隷、ラム酒、農作物を扱った。自身も数百人の奴隷を擁していた。Senoraあるいはsignaresと呼ばれたポルトガル系アフリカ人女性の可能性が高い。彼女たちは、多言語、多文化を身に着け、ポルトガルとアフリカとの文化的仲介者としての地位を最大限に利用し、富を蓄えた。彼女はNhara Julia da Silve Cardosoという女性と姻戚関係にあり、彼女から商売の仕方を伝授されたと思われる。奴隷貿易禁止キャンペーンを張ったイギリスによって、奴隷を商品として扱う時代は終焉を迎え、所有していた落花生プランテーションの労働力であった奴隷たちの解放をやむなくさせられた。

1810年頃~1887年(西アフリカ)
Madame Tinubu:商人。Egba森林地帯で生まれ、商人として成功した祖母から交易について学ぶ。若くして結婚し、2人の息子を授かるが、アベオクタに移住した1830年ごろ、夫を失う。その後まもなく退位させられたラゴス王と出会い再婚、家族でBadagryという沿岸部の町に移動。夫はその支配者として一時的に認められる。折しも奴隷貿易の最盛期にあたっており、彼女は2人の奴隷を使って、アベオクタと沿岸部との商取引に乗り出す。手にした収益を奴隷貿易に投じ、手下を増やして交易を拡大。1835年、夫のAdeleが再びラゴスの王として呼び戻されることになり、彼女は王妃の地位に就く。2年後に夫が死去すると、ムスリムの兵士であり新しい王Oluwoleの臣下でもあったYesefu Bada(Obadinaとしても知られる)と結婚、王室の庇護のもとに商業に従事。1841年にOluwoleが死去し、その後継者をめぐってKosokoとAkitoyeの間で争いが勃発。Tinumuと夫はAkitoyeを支持。いったんは王位に就いたAkitoyeが敗れるという政治的混乱の中、奴隷交易で莫大な利益を手にする。
1851年、Akitoyeに背中をおされたイギリスがラゴスを攻略、Kosokoを退位させ、Akitoye を王に任命。これにより、大西洋奴隷貿易の終焉と新しい商業の時代が到来する。Tinubuはアフリカ人の利益と自治を守るためイギリスに抵抗、アベオクタに追放される。アベオクタでTinubuは奴隷を使ってナツメヤシの栽培を開始。アベオクタの政治にもかなりの影響力を発揮し、その結果、iyalode (町の女性首長)の称号を授与される。
イギリス人はTinubuを常習的な奴隷商人であり、奴隷貿易廃止論者の代表的存在だとするが、彼女は、そうした海外との特殊な貿易に深く関わったというよりむしろ、自身の政治的党派やアフリカ人の自治を守ることに関心があった。Tinubuは、歴史の記録に残ることのなかった植民地化前の西アフリカの女性の中で、珍しく歴史的文書に残されている稀有な事例である。

1811年~1896年(アメリカ)
Harriet Beecher Stowe: 奴隷廃止論者。多くの作品を残す。Uncle Tom’s Cabinはもっとも有名。

1813年~1897年(アメリカ)
Harriet Jacobs
: 7年間の逃亡生活後、Linda Brentとの偽名で自伝Incidents in the Life of a Slave Girlを出版。

1814年~1873年(キューバ)
Gertrudis Gómez de Avellaneda: 詩人、小説家、劇作家。処女作の小説Sabが高い評価を受けた。Harriet Beecher StoweのUncle Tom’s Cabin(1852)と同様、奴隷制という悪と女性の無力との相関関係を描いている。

1814年~1852年(イラン)
Qurrat al-‘Ayn:男女同権論者。知識人、活動家、詩人。バーブ教の初期の信者18人のひとり。テヘランで処刑される。

1815年~1902年(アメリカ)
Elizabeth Cady StantonSusan B. AnthonyとともにNational Woman Suffrage Association(NWSA)を設立(1869)。1895年、女性の優位と宗教による女性の扱いへの疑問を説いたThe Woman’s Bibleを出版。論争を引き起こした。

1816年~1855年(イギリス)
Charlotte Bronte: 作家。当初、男性名Currer Bellの偽名でJane Eyreを出版、たちまちベストセラーとなる。

1817年~1882年(ブガンダ/ウガンダ)
Muganzirwazza: 息子のMutesa一世の即位にあたり、王母(queen mother)として、国王と同等の影響力を行使した。ブガンダにおける最初の反帝国主義者のひとり。

1818年~1893年(アメリカ)
Lucy Stone : Henry Browne BlackwellとともにAmerican Woman Suffrage Association(AWSA)の設立(1869)に参加。

1819年~1875年(アルゼンチン)
Juana Paula Manso de Noronha
: 女性権利擁護の先駆者。女性の教育は女性の社会的・経済的解放のために必要不可欠であり、ひいてはアルゼンチン国家の発展にも寄与すると説いた。

1819年~1901年(イギリス)
Queen Victoria :イギリス最長の君主在位1837~1901) 。彼女の治世は保守的でありながら、多くの技術革新と産業化が進展した時代でもあった。

1820年~1906年(アメリカ)
Susan B. Anthony: クウェーカー教徒。社会改革運動家。奴隷制廃止論者。1871年にVictoria Woodhullが提唱した、既存の法律は女性の投票権を認めているというnew departure theoryを用いて1872年の選挙で選挙権の行使を試みて逮捕された。

1821年~1910年(アメリカ)
Elizabeth Blackwell : イギリス生まれ。アメリカで医学部を卒業した最初の女性。

1821年~1912年(アメリカ)
Clara Barton: アメリカ赤十字初代会長(1882~1904)。アメリカのジュネーヴ条約署名キャンペーンを成功裏に導き、アメリカ赤十字の創設に漕ぎ着けた功労者。

1825年~1913年(アメリカ)
Harriet Tubman: 元奴隷。奴隷制廃止論者。北部に逃れた後、Underground Railroad(廃止に賛同する人々の家を隠れ家にして構築された逃亡ルート)によって多くの奴隷の逃亡を支援。1826年、Combahee Riverのフェリーを掠奪し、750人以上の奴隷を解放した。

1825年頃~1860年(ケニア)
Mwana Kupona:詩人。ケニア沿岸部のラム諸島はパテ島の都市国家Siuで生まれる。どのような育てられ方をしたかは、ほとんど不明。史料は末裔や民俗史家が伝える口頭伝承のみ。ただし、当時の社会・政治状況については、Pate Chronicle(パテ年代記)が伝えている。
夫は彼女よりかなり年長のSiuの支配者Sheikh Mataka。近隣の都市国家との戦争を繰り返し、時にはザンジバルのスルタンSayyid Saidの支援をうけることもあった。Kuponaとの結婚前に一人か二人の女性と結婚していたと思われる。Kuponaとの結婚は1842年前後。
Kuponaは娘をひとり、息子をひとり授かった。夫の死後、跡を継いだ義理の息子との折り合いが悪く、ラム島に移住。自分が死の病に罹っていることを知り、結婚年齢(14~16歳)に達した娘のMwana Sheeのために、夫との諍いのない幸福な結婚生活を送るための知恵をちりばめた叙事詩を編んだ。Utendi Wa Mwana Kupona(『ムワナ・クポナの詩』)である。102節からなるこの詩は、アラビア文字を使用したスワヒリ語で書かれている。このことは、当時としてはKuponaが高い教育を受けていたことを示している。
この叙事詩は、現在もなおラム諸島の人びとの間で、母から娘へと読み継がれている。

1828年~1918年(オーストラリア)
Henrietta Dugdale : メルボルンにVictorian Women’s Suffrage Societyを設立。オールトラリアで最も早くに創設された参政権推進組織のひとつ。

1828年~1906年(イギリス)
Josephine Butler
: 社会改革者。イギリスの性病法を廃案に持ち込むことに成功。

1828年~1906年(ノルウェー)
Henrik Ibsen : 劇作家。コペンハーゲンで上演されたA Doll’s House(『人形の家』)は、ヨーロッパにおける女性運動の第一波を象徴する作品として評判を呼んだ。

1829年~1883年(マダガスカル)
Ranavalona2世:女王(在位1868~1883年)

1830年~1905年(フランス)
Louise Michel
: 無政府主義者、フェミニスト、革命家。パリ・コミューンで中心的な役割を演じた。逮捕後、ニューカレドニアに流刑となったが、1880年にパリに戻り、英雄として迎えられた。

1830年頃~1921年(アサンテ王国/ガーナ)ヤー
Yaa Asantewaa:皇太后ohemaa、イギリスに抵抗した最後のアサンテ王国の指導者。アサンテの皇太后の権力は、Akan民族集団の母系社会の伝統に由来している。アサンテ社会では、ほとんどの政治的役職は男性が掌握していたが、政治的地位を授けるのは女性だった。しかし、皇太后は唯一、女性に与えられた役職だった。皇太后は、王と国家の責任を共有し、男性の王がいない時には、王として国を統治した。
Yaaは、Edweso-Beseaseの王族であるAsonaクランの一員として生まれ、1888年ごろに皇太后の地位に就いた。1896年、王がイギリスによって国外追放になると、Yaaが王に就任。1896年、イギリスとの保護領条約に署名したが、自国領の鉱山地帯をイギリスが占領することには抵抗した。
その後、1900年に総督Frederick Hodgsonの要求によって、ガーナの首都Kumasiで、アサンテ王国の指導を委任される。しかし、それはイギリスの傀儡であって、アサンテの住民を強制労働に駆り立てるといった実質的な権限は総督にあった。
総督の演説を聞いたその夜、Yaaはアサンテの解放のために戦うよう男性たちに呼びかけた。銃を手に取り、空中に弾丸を放った。すべての首長たちは、イギリスに抵抗して立ち上がることを約束。Yaaの指導の下に、戦闘評議会が組織されたが、戦闘力に勝るイギリスには勝てず、1901年に降伏、Yaaはセイシェルに流刑となり、1921年、故郷に戻ることなく死去。

1832年~1888年(アメリカ)
Louisa May Alcott: アメリカの少女像の世界的な偶像となった小説Little Womenを出版。

1832年~1909年(アメリカ/韓国)
Mary F. Scranton
: アメリカン・メソディストの宣教師。韓国でEwha Woman’s Universityを創設。韓国最古の近代的な高等教育機関のひとつ。

1833年~1913年(コロンビア)
Soledad Acosta de Samper
: 19世紀のコロンビアでもっとも重要な作家。女性の教育を擁護し、La mujer en la sociedad moderna(The Woman in Modern Society)を出版。

1835年頃~1890年(ジンバブウェ)
Nyamazanaンゴニの指導者Zwangendabaの姪にあたる女性だとされているNyamazanaは、1819年頃にズールーランドを離れ、Zwangendabaが現在のジンバブウェを移動中に、ンゴニの分派のリーダーとなる。Zwangendabaは1835年にザンベジ川を渡ったが、Nyamazanaは川を渡ることなく、ザンベジ川の南部にとどまった。その後2~3年間、彼女は部下を従えてショナ人の領土を掠奪してまわった。Mzilikazi率いるンデベレ人が1839年頃にジンバブウェに到着すると、Nyamazana率いるンゴニ人はMzilikaziに投降し、以後、ンデベレ国に吸収された。Nyamazana自身はンデベレ王と結婚し、1900年頃に死亡したとされている。(Dictionary of African Historical Biography)。

1835年~1858年(インド)
Lakshimi Bai
: Jhansiのマハラジャと結婚。1857~58年のインド大反乱で、Jhansiの反乱軍を指導した唯一の女性。

1838年~1917年(ハワイ)
Lili’uokalani: ハワイ最後の女王。アメリカによる併合に反対する全島民の署名を携えてワシントンを訪問したが無視される。

1838年~1927年(アメリカ)
Victoria Woodhull : 妹のTennessee Claflinとともに、はじめて女性のためのWall Street brokerage firmを開く。2年後、女性としてはじめて大統領選挙に出馬。常識的ではない社会思想を広めるためにニュースレターWoodhull & Claflin’s Weeklyの出版を開始。

1839年~1898年(アメリカ)
Frances Willard : Woman’s Christian Temperance Union (WCTU) の会長に就任(1879~1898)。WCTUを19世紀アメリカ最大の女性組織に発展させ、中~上流階級のアメリカ女性世代の政治的、法的改革の道を示した。

1840年頃~1900年頃(南ア)
Nongqawuse:コーサ人の預言者。孤児となってオジと暮らしていた1856年のある日、すべての牛を殺し、トウモロコシを引き抜くことによって、コーサ人は蘇るとのお告げをあの世からやってきた精霊から受け取った。というのは、人びとも動物も妖術によって汚されており、生きとし生けるものはすべて浄化されねばならない、そうすれば、人びとも牛も再生するというのである。
Nongqawuseの預言は、ほとんどのコーサ人が信じた。すでに彼らは、Eighth Frontier War(1850~1853)でイギリスに敗れており、それに追い打ちをかけるように、肋膜肺炎(bovine lung sickness)という外来の病気によって牛の頭数が激減していた。このことが、Nongqawuseの預言に信ぴょう性を与えていた。コーサ人の中にも、牛を殺さなかったものも少数いたが、Nongqawuseはこの行為を、15か月にわたる預言の失敗を正当化するために利用した。最終的に、コーサ人は40万頭に上る牛と食用のトウモロコシ、および来たるべきシーズンの種付けのためのトウモロコシを失い、4万人の餓死者を出した。生き残った者は難民となって東ケープに流入した。
この危機的状況は、総督George Greyにとって、80年以上にわたり抵抗してきたコーサ人の勢力を抑え込む絶好のチャンスだった。総督は飢えに苦しむコーサ人を、白人入植者の奴隷的労働力として投入し、コーサ人首長たちを、反逆の可能性ありとして監禁した上、コーサ人の60万エイカー以上の土地が白人入植者用に収用された。
オジを含め、親族の何人かを失ったが、Nongqawuse自身は生き残った。1858年、Nongqawuseは逮捕され、ケープタウンに連行されたが、その後の釈放や死を含めて、詳細はわかっていない。名前を変えて、故郷から遠く離れたAlexandria近くの農園に住みついたという説もある。
Nongqawuseの行為や動機を説明するのは難しい。コーサ人は、Nongqawuseが、総督Greyによって、牛を殺すよう操作されていたと考えている。最近の研究は、キリスト教の復活の影響を強調している。こうした説明に対して、Helen Bradfordは、牛殺しは、妻が牛と交換されるというコーサ社会の家父長制への攻撃だったとする。さらには、Nongqawuseの言う「汚れ」は、コーサ人男性による性暴力を意味しているとも主張する。Nongqawuseが孤児となったEighth Frontier Warの際、多くのコーサ人女性が殺されたりレイプされたりしたからである。しかし、Nongqawuseの預言は、全く新しい何かではなく、首長が支配する牛文化を基盤としたコーサ社会という植民地化前の栄光を取り戻そうとする行為だったという説明も可能だとする研究者もいる。]

1840年頃~1898年(ジンバブウェ)
Nehanda Nyakasikana (1898年没)
ショナ民族の霊媒師であり、ショナ民族の精神的指導者。イギリス南アフリカ会社(British South Africa Company)によるマショナランドとマタベレランドの植民地化への抵抗運動を鼓舞。同盟者Kaguviとともにイギリス当局に捕えられ処刑された。

1842年~1892年頃(南ア)
Princess Emma:コーサの首長Sandileの長女。 二度にわたるイギリスとの戦争に敗れた首長に、イギリス総督は子供たちへの教育を申し出る。それによって、植民地支配に協力的な次世代を養成しようとしたのである。こうして、Emmaとその他の民族集団の首長たちの子弟は、ミッションの寄宿舎に入って教育を受けた最初のアフリカ人となった。イギリス人司教の意図は首長の息子たちを牧師にし、娘にはその連れ合いにふさわしい教育をさずけるというものだった。総督と司教の仲介により、Emmaの結婚相手として選ばれたのは、一夫多妻を放棄することを拒んだ男性だった。一夫一婦の結婚を望んでいたEmmaはその結婚をどうにか拒否することに成功。しかし、結局、娘の結婚を通しての他民族集団との同盟関係によって権力基盤を固めようとしていた父親の勧めもあって、一夫多妻を実行するマイナーな首長の息子との結婚を了承せざると得なかった。Emmaの人生は、イギリス帝国主義とそのケープコロニーへの影響、およびアフリカ人家族の家父長制の中で翻弄された女性の生き方を象徴するものだったといえる。

1844年~1923年(フランス)
Sarah Bernhardt : 19世紀のフランスでもっとも有名で尊敬されていた舞台女優。

1844年~1924年(ザンジバル/タンザニア)
Sayyida Salme/Emily Ruete:
オマーンのサイード王の娘として、東アフリカ領ザンジバルで生まれる。ザンジバル駐在のドイツ人商社マンHeinrich Reuteと恋仲になり妊娠、イギリスの軍艦でアデンに逃亡(1866年)。イスラーム教徒からキリスト教徒に改宗し、合流したハインリッヒと結婚してドイツに渡る。1870年に夫が交通事故で死亡。幼い3人の子供を抱え、財政的にも困窮し、ザンジバルの王室メンバーの遺産の相続権をめぐって、新たに王位についた異母兄のバルガッシュとの交渉を始める。しかし、イスラーム教徒であることを捨てた妹を、バルガッシュは冷たく突き放す。1885年の初めてのザンジバルへの帰郷は、遺産相続に決着をつけたいとのエミリーの意図とは別に、東アフリカ分割をめぐってザンジバル王に圧力をかけたいドイツ当局の思惑が絡んでいた。彼女の意図は、バルガッシュ王がドイツの要求を受け入れたことによって無視される。その後もさまざまな画策を行うも、イギリスもドイツも、外交政策の駒としての価値を失ったサルメを支えようとはしなかった。傷心の彼女は、2度目のザンジバル訪問(1888年)からの帰路、ドイツに戻らず、直接、レバノン(オスマン帝国領)に居を移す。第一次大戦の勃発によって、敵国となったオスマン帝国領のレバノンからドイツに戻り、1924年没。1886年に刊行されたMemoirs of an Arabian Princessは、アラビア王女によって書かれた世界初の自伝である。(Dictionary of African Historical Biography)

19世紀中葉(ザンビア)
Mamochisane (Ma-Muchisane):
コロロ国を創設したSebitwani王の娘。コロロがザンビア西部を占領していた時、彼女はロズィ王国によって捕えられたが、害を与えられることなく父親のもとに帰された(1840年頃)。このことがあって、父親がロスィを征服した時、ロズィに対する扱いが寛大であったとされている。父親のSebitwaneは、ロズィ王国を4つに分割し、そのひとつの統治を娘のMamochisaneに委ねた。彼女は1851年の父親の死にともない、後継者としてコロロの女王に就任したが、まもなく兄弟のSekeletuに王位を移譲し、結婚して家庭生活に退いた。(Dictionary of African Historical Biography)

1845年頃(フランス植民地アルジェリア)
Veronique Allix-Luce: フランス人女性。アルジェにフランス人とアラブ人の少女のための学校を創設し、約千人の少女に教育を提供した。1861年、ムスリムの反対によって閉鎖に追い込まれた。

1846年~1921年(ブラジル)
D. Isabel de Bragança : 父Emperor Pedro 2世の摂政として、ブラジルの奴隷制廃止法に署名。

1847年~1933年(イギリス/インド)
Annie Besant
: 神智学者、女性の権利(Women’s rights)積極行動主義者、作家、演説家、アイルランドおよびインドの自治支援者、神智学協会第二代会長、英国フリーメーソンの国際組織レ・ドロワ・ユメー創設者、インド国民会議派議長(1917年)。The Women’s India Association(1917)の創設者のひとり。

1847年~1934年(ニュージーランド)
Kate Sheppard:ニュージーランド女性参政権運動の指導者。1893年、世界で初めて女性の参政権の導入を達成。イギリスのリバプール生まれ、両親はスコットランド人。1869年に父親が死亡。その後数年経って、一家はニュージーランドに移住。3年後、Walter Allen Sheppardと結婚。1885年、Temperance movement(禁酒運動)の一環としてWomen’s Christian Temperance Unionの創設に関わる。この組織を通して、女性参政権に関心を持つようになり、1887年以降、さまざまな運動を展開、1893年の女性参政権法案の成立に導いた。ニュージーランドの10ドル札に肖像が刻まれている。

1848年~1915年(イギリス/ナイジェリア)
Mary Slessor貧しい労働者階級の家庭に生まれる。父親は靴職人だったが、アルコール中毒で職人を続けられずに工場労働者になる。母親も向上に勤める。メアリーも、11歳になると、半日学校へ、残りの半日は工場で働いた。やがて父親が死亡、14歳でジュート工場の専任の労働者となる。母親は熱心なプレスビテリアンの信者で、毎日、メアリーに宣教師の記事を読み聞かせた。やがて、伝道に関心を持つようになった矢先、リヴィングストンの死を知り、彼の足跡を継ごうと決心する。
United Presbyterian Church’s Foreign Mission Boardにコンタクトを取り、エジンバラで訓練を受けた後、1876年、28歳でナイジェリアのCalabar地区のEfic (エフィック人)の居住地に赴任する。そこで、双子が生まれるとどちらかが呪われた子供であるとして捨てる慣習があることを知る。彼女は、捨てられた子供を拾って育て、悪習を根絶しようとした。にもかかわらず、彼女は現地の人びとの信頼を得て、現地に溶け込んでいたと、1881~2年に視察に行った宣教所の使者は報告している。その理由のひとつとして、彼女が現地の言葉を話すことができたことが指摘されている。その後3ねんほどして、健康上の理由で帰国、その際、Janieと名付けた養女を伴った。
帰国後、母親の介護やJanieの養育にしばらくを費やした後、再びCalabarに戻り、何百という捨て子をブッシュから救い出した。同時に、犯罪の審議の際に毒を飲ませる慣行も止めさせるために努力し、イエスの言葉を広めた。この双子の慣習は、CalabarのEfik人だけではなく、隣接するIbo人の社会にも、その他の地域にも存在していた。
1888年、彼女は、かつて男性の宣教師が殺されたOkoyongを訪れる。女性なら現地の人びとの警戒心が小さいだろうという考えからだった。 1892年、MaryはOkoyongの副領事となり、現地の裁判に係るようになり、1905年には現地の裁判所の副長官に任命される。故郷に帰国することなく、1915年にCalabarで没す。
Maryは、Calabarに職業訓練所Hope Waddell Training Instituteを設立するなど、イエスの言葉の普及よりむしろ、現地の対立抗争の調停や交易の推進、社会改革、西欧教育に力を注いだ。

1849年~1919年(日本)
Hirooka, Asako:1884年(明治17年)ごろから炭鉱事業に参画し、筑豊潤野炭鉱(福岡県飯塚市、後の製鐵所二瀬炭鉱)を買収して、開発に着手。1888年(明治21年)に加島銀行を設立。続いて1902年(明治35年)に大同生命創業に参画するなど、加島屋は近代的な金融企業として、大阪の有力な財閥となる。これらの活躍により、広岡浅子は鈴木米鈴木商店)、峰島喜代子(尾張屋銀行)らとともに、明治の代表的な女性実業家としてその名を馳せる。日本女子大学の創設と発展にも寄与。

1849年頃~1906年(シエラレオネ)
Madam Yoko
:シエラレオネ内陸部の最大の政治領域を誇ったKpa Mende連合国家(1878~1906)の創設者であり支配者。最初の夫と離婚、二番目の夫とは死別。その後、メンデランド西部の強力な首長と結婚。呪術と外交に長けた第一夫人としての名声を得る。
近隣集団と同盟を結び、大きな連合体を作り上げた。もっとも重要な同盟相手は、シエラレオネ内陸部の政治に大きな存在感を示していたイギリスであった。イギリスの外交や和平の手助けをし、見返りに、イギリスの警備隊を自国領内に駐屯させるといったイギリスの支援をとり付けた。1886年、ライバルである首長がフリータウンとの交易を阻害していると通告し、イギリスに追い払わせるなどした。
1896年、イギリスがシエラレオネ内陸部を保護領化すると、その2年後に小屋税の導入に反対する暴動が戦争に発展したが、彼女はイギリス側にとどまった。その褒章として、戦争後、イギリスは彼女が領地を拡大することを認可。イギリスの間接統治下で、彼女は連合国家をまとめて中央集権化をはかり、さらなる領土拡大をめざした。1906年、彼女は老齢の自分に見切りをつけて、自分で命を絶ったという話も伝えられている。1919年、Kpa Mendeは14の首長国に分裂した。(Dictionary of African Historical Biography)

1850年~1891年(ロシア)
Sofia Kovalevskaia
: 数学者、作家、社会運動家。ドイツのゲッティンゲン大学で博士号(数学)を取得した最初の女性。

1850年頃~1918年(エチオピア)タイトー
T’aitu Bitoul:メネリク2世(在位1889~1913)の妻(皇后)。19世紀の著名な政治指導者の娘として生まれ、エチオピア中部の政治的に重要な家系との広いコネクションを持つ。30歳ころまでの経歴は不明な点が多い。メネリクの妻だった女性の兄との結婚を含めて何回かの結婚歴がある。1883年にシェワ州の王だったメネリクと結婚。それまでのメネリクには多くの女性がいたが、T’aituとふたりで聖体拝受を受けて以降、夫婦としての絆を固めた。
結婚するや、メネリクが宮廷を遷したエントトの丘にSaint Mary教会を建設させる。教会は1886年に完成。同じ年に、現在のAddis Ababaに移る。1889年、メネリクが皇帝に即位し、その即位式はエントトのSaint Mary教会で執り行われた。その2日後、T’aituが皇后に即位する儀式が行われた。その直後、メネリクはイタリアとの間でウッチャリ条約(Treaty of Wechale)を締結。その1年以内に、イタリアが条約文の主文の1節を根拠に、エチオピアの保護領化を宣言したために論争が勃発。T’aituは条約をめぐる交渉に積極的に関わり、皇帝に条約の廃棄通告をさせることに成功。以後、イタリアとの関係はとん挫位し、エチオピアとイタリアが1890年に植民地化したエリトリアとの国境問題が切迫した。1895年、イタリア軍がエチオピアに侵攻し、メネリクは軍隊を招集。T’aituとメネリクは北部に軍を進め、1896年3月1日、アドワの戦い(Battle of Adwa)でイタリア軍を破る。
その後、子供がいなかったT’aituは、1900年、甥のGugsa とメネリクの娘Zewdituとを結婚させたり、姪とメネリクの重臣との婚姻をアレンジしたりして、親族のネットワークを強化した。
1906年と1908年の2度にわたる発作(stroke)で身体の自由を一部失ったメネリクに代わり、T’aituが実権を行使。人事や法令の制定なども行った。しかし、1909年、メネリクはT’aituが薦めるZewdituではなく、孫のIyasuを後継者に指名。その直後に、メネリクは意識を失い、その状況は、以後1913年まで続いた。その間、T’aituに対抗する勢力が台頭し、ついにはエントトのSaint Mary教会に退かざると得なくなり、そこで生涯を終えることになる。

1854年~1929年(オランダ)
Aletta Jacobs : 医者(オランダで初の女性医師)、公衆衛生や普選を擁護、国際平和運動家。女性の権利と平和に関する多くのエッセイを執筆。後に避妊の問題にも関心を持った。

1855年~1920年(南ア)
Olive Schreiner:イギリス系南アのフェミニスト、反帝国主義作家、活動家。バストランドとケープ植民地と南アと境界を接するWittebergenのWesleyan 宣教所で生まれる。12人兄弟姉妹(生き残ったのは6人)の9人目。父親はロンドン生まれ、母親はドイツ生まれの宣教師。
妹の死をきっかけに、9歳でキリスト教を拒否し(のちに、仏教を通して心の慰めと人生の意味を見出すことになる)自由な思索の道を選択。11歳の時、貧困から、兄のWill(1898年にケープ植民地の首相となる)とともに両親の家を離れ、親類や友人の家を転々としたのち、アフリカーナーの家の家庭教師(governess)となる。この経験から、イギリス人とアフリカーナーの文化的価値に対する鋭い考察力を身に着ける。
1881年、女性に開かれた新しい領域を開拓すべくイギリスに渡り、医学の訓練を受ける。しかし、ぜんそくや扁桃腺炎などの持病のせいで、医学をあきらめ、作家の道に転向。1883年に出版された彼女の第二作The Story of an African Farm(Ralph Ironというペンネームを使用)は、語りのうまさ、革新的フェミニズム、勇気ある社会問題への批判などで高い評価を得た。ふたりの主人公の悲劇的結末は、人種、階級、ジェンダー間の不平等が構造化されている植民地文化の中での自己実現は決して達成できないことを明らかにしたこの作品は、19世紀から20世紀初頭に英語で執筆された南ア作品の中で、もっともよく知られた小説となっている。
1889年に南アに戻ったSchreinerは、人種差別や性差別やユダヤ人差別、あるいは肉体労働者への暴力の事例を引用しながら、南アの社会的政治的実態を告発し続けた。1880年代に彼女が執筆したこれらの論説は、彼女の死後にThoughts on South Africa(1923) として出版された。
1894年、Schreinerは家畜のブリーダーとして成功し、のちに政治家に転身したSamuel Cron Cronwrightと結婚。家族や友人が、彼女の急進的な考えに批判的だった中、夫は彼女の平等主義的な政治的社会的信念を支持してくれたが、生まれた娘の死や流産の後、ふたりの関係はうまくいかなくなっていった。
その間の作品として、1897年に出版した小説With Trooper Peter Halket of Mashonalandは、イギリスによる南ローデシア(現在のジンバブウェ)の征服を描いている。その他に、Closer Union(1909)や、死後に出版されたFrom man to Man(1924)がある。
健康を害し、治療のためにヨーロッパに行き、第一次大戦終了後に帰国、1920年に死去し、故郷のBuffelskopの墓地に埋葬された。

1856年(ブガンダ/ウガンダ)
Muganzirwazza:ブガンダ王国の皇太后(queen mother)。この年、皇太后に即位(1882年退位)。19世紀のブガンダ王国の歴史は、政治組織の統括、支配階級の団結、植民地主義とブガンダ王国のエリート階級との覇権争いの歴史だった。その歴史を明らかにするには、ジェンダー、階級、民族、人種を横断する政治学的視点が必要となる。Muganzirwazzaが皇太后の地位にいた時期は、そうした時代を象徴している。
ブガンダ王国の系譜をたどると、Muganzirwazzaは、22代目の皇太后にあたる。彼女はSunna王(1795~1856)の数百人の妻のひとりで、不屈で影響力のある、反帝国主義者だった。息子のMutesa1世が1856年に王に就任すると、Muganzirwazzaは王と同等の権力を確保した。自分の農園を持ち、労働力や税金を徴収し、裁判官としての役割を遂行し、象牙交易を独占。息子を守るためには、殺人も辞さず、たとえば、1850年代には、Mutesaの異母兄弟11人を餓死させている。
それにもかかわらず、皇太后としてのMuganzirwazzaは、普通の女性より厳しい王国の監視と支配下に置かれていた。首長たちは、彼女の移動の自由を統制することができたはずなのだが、彼女は果敢にそれに挑戦した。さらに、皇太后として、再婚と性的な活動は制約されていた。
熟練外交官でもあるMuganzirwazzaは、探検家のJohn Hanning Spekeからヨーロッパの政治機構や王権や婚姻についてのさまざまな知識を得ていたが、彼女の考えは、当初から変わらず、むしろヨーロッパ人がブガンダの社会政治システムについて学ぶべきだと考えていた。王が気まぐれに一夫一婦制に関心を示しても、彼女は一夫多妻は、クランやクライエントや征服地との間の政治的バランスを維持するために必要不可欠な政治的な制度だと考えていたのである。Mutesa1世は洗礼を受けることなく、84人の妻と1700人の妻の予備軍と1000人の側室を持つ一夫多妻主義を実践した死亡した。
Muganzirwazzaは、ブガンダ王国併合のために王国の政治機構を変えようとしているとして、宣教師が宮廷に介入することを拒否したことからもわかるように、ウガンダで最初の反帝国主義者のひとりだった。1882年に彼女が死去すると、王の宮廷は緊張が高まり、諸宗教間の対立抗争が勃発、ブガンダ王国は1900年、イギリスによって併合されることになる。

1857年(ドイツ)
Anita Augspurg 誕生(1943年没): Carrie Chapman Catt(1859~1947)とともに、International Woman Suffrage Alliance(IWSA)をワシントンD.C.で創設。全世界的な女性の参政権運動を展開。

1857年~1944年(アメリカ)
Ida Minerva Tarbell: McClure’sのジャーナリストとして活躍。2巻本のThe History of the Standard Oil Companyを出版。

1857年~1933年(ドイツ)
Clara Zetkin :社会主義者、フェミニスト。全世界の女性労働者の賃金と労働環境の改善を求めて、International Women’s Day(IWD)を発足させた。1975年以降、国連がその創立記念日3月8日を祭日とした。

1858年~1928年(イギリス)
Emmeline Punkhurst :女性参政権の実現に尽力。Women’s Social and Political Unionパンクハースト(WSPU, 1903~)を設立。1999年、Timeは、20世紀のもっとも重要な活躍をした女性100人のひとりに挙げた。エチオピア研究の泰斗Dr. Richard Punkhurstの妻。

 

 

 

 

1858年~1940年(スウェーデン)
Selma Lagerlöf :ノーベル文学賞を受賞した初めての女性。

1858年~1962年(インド)
Dhondo Keshav Karve:女性の福祉と教育に生涯を捧げた男性。インド初の女子大学(現在、S.N.D.T.Women’s Universityとして知られている)の創設者。

1859年~1934年(アルゼンティン)
Cecilia Grierson :医師の資格を取得した最初の女性。1891年、最初の看護学校を創設。Argentine National Council of WomenとArgentine Association of University Womenの創設メンバー。  

1859年~1947年(アメリカ/ドイツ)
Carrie Chapman Catt :Anita Augspurg(1857~1943)とともに、International Woman Suffrage Alliance(IWSA)をワシントンD.C.で創設。全世界的な女性の参政権運動を展開。  

1860年~1935年(アメリカ)
Jane Addams :Ellen Gates StarrととみにHull Houseをシカゴに設立し、セツルメント運動を開始。1931年、ノーベル平和賞受賞。

1861年~1932年(オーストラリア)
Edith Cowan :西部オーストラリアの州議会に選出された最初の女性。

1861年~1917年(マダガスカル)
RanavalonaⅢ:RanavalonaⅡの死後、後継者としての資格を持つ親族の中から選ばれて王位に就いたマダガスカル最後の君主(在位1883~1897年)。アメリカとイギリスとの貿易と外交を強化することによってフランスによる植民地化に抵抗。しかし、フランスは沿岸部の町を攻撃、結局、1895年に首都アンタナナリヴォを攻略、マダガスカルを植民地化した。

1861年~1923年(インド)
Kadambini Ganguly:イギリス植民地下で、カルカッタのBethune Collegeを卒業し、学士号を取得した最初期の女性のひとり。のちに医学学校に進む。

1861年~1917年(マダガスカル)
RanavalonaⅢマダガスカルの女王在位1883~1897年)

1862年~1900年(イギリス/中部・西部アフリカ)
Mary Kingsley
:イギリス人旅行家。かなりの財産を遺して両親が死去したのち、2回のアフリカへの旅行を行った。最初は1893年で、アンゴラからベルギー領コンゴおよびフランス領コンゴに足を延ばし、そこからナイジェリアまでもどった。二回目は、1894年。ナイジェリア、フランス領コンゴ、ガボン、カメルーンを、小商いをしながら路銀を得て旅費の足しにした。
この旅行を通して、それまでヨーロッパで流布していたアフリカ人の劣等性を否定し、アフリカ人のメンタリティは異なっているだけで、決して劣等なものではないとの結論に達する。その結果、彼女は西欧の植民地化や西欧教育を受けたアフリカ人を非難し、1880年代の慣習法と秩序が支配し、西欧との関係では商取引のみに限定するという考えに到達。帰国後、さまざまなメディアや講演をとおして自説の普及に努めた。Travels in West Africa(1897)およびWest African Studies(1899)は、その後のイギリスの植民地政策に影響を与えた。3度目のアフリカ旅行の代わりに、彼女は南アフリカ戦争の従軍看護婦にボランティアで参加、1900年に現地で病死。(Dictionary of African Historical Biography)

1864年~1936年(フランス)
Marguerite Durand :フェミニスト。ジャーナルLa Frondeを出版。

1865年~1927年(日本)
福田英子:フェミニスト、社会主義者。1885年、朝鮮改革運動に関わる大阪事件に連座し、投獄される。政治事件で投獄された日本で最初の女性。1889年に釈放される。

1866年~1953年(アイルランド)
Maud Gonne :イギリス生まれ。俳優。アイルランドのナショナリスト集団からの女性の排除に対して、Daughters of Irelandを結成して対抗。

1867年~1934年(ポーランド/フランス)
Marie Curie :1903年に放射性元素の発見で、夫とともにノーベル物理学賞受賞。1911年にはノーベル化学賞受賞。

1868年~1953年(アメリカ)
Sophia Hayden :建築家として専門的に訓練されたアメリカの最初の女性。Chicago World’s Columbian ExpositionのWomen’s Buildingのデザインを手がけた。  

1868年~1927年(アイルランド)
Constance Markievicz :アイルランドのナショナリスト。Easter Risingを指揮して失敗。死刑を宣告されるが、1917年に釈放される。

1868年~1960年(シエラレオネ)
Adelade Casely Hayford:パン=アフリカニスト、フェミニスト、教育者。クレオーレのエリートの家庭に生まれ、1872年に家族とともにイングランドに移住。英国とドイツで教育を受け、アフリカ人ディアスポラのエリートの代表的存在となる。西欧の文化やフェミニズムの影響を受けつつ、パン=アフリカニズムの国際的潮流にも深く共感。1903年、弁護士のJoseph E. Casely Hayfordと結婚してガーナに移住する。その後、夫と別居し、1914年にシエラレオネのフリータウンに戻る。1920年以降、少女と女性のための教育機関や職業訓練機関の設立に奔走。1923年、ついにフリータウンにGirls’ Vocational and Industrial Training Schoolを開設、夢を実現させる。

1869年~1940年(アメリカ)
Emma Goldman :ロシア系ユダヤ人のアメリカ人。無政府主義的政治哲学を主張した建築家。

1869年~1939年(ロシア)
Nadezhda Krupskaia :ボルシェヴィキの活動家。レーニンの妻。
1929~39年までソヴィエトの教育相代理を務める。

1870年~1952年(イタリア)
Maria Montessori:教育者。小学校の校長として、個性の尊重と自己啓発能力の開発を重視する幼児教育を推進。

1871年~1919年(ポーランド/ドイツ)
Rosa Luxemburg :German Spartacist League(1919年にGerman Communist Partyになる)の創設者。ベルリンで虐殺される。

1871年~1937年(中国)
Tang Qunying 唐群英 :Chinese Revolutionary Allianceの女性メンバー第一号。Chinese Suffrage Societyを創設。

1871年~1936年(イタリア)
Grazia Deledda :1926年、ノーベル文学賞受賞。  

1872年~1952年(ロシア)
Alexandra Kollontai :ロシア生まれの政治活動家。最初はメンシェヴィキに入党。1914年以降、ボルシェヴィキに加わる。ノルウェー大使(女性初の大使)。

1872年~1946年(イギリス)
Eleanor Rathbone:フェミニスト、国会議員。戦後の福祉国家にとって重要なFamily Allowances Actの成立を成功させた。

1873年~1968年(フランス)
Alice Guy :フランス映画界の先駆者。

1873年~1947年(アメリカ)
Willa Cather :小説家。1913年、第二作目の小説O Pioneers! を出版。ネブラスカへのスウェーデン人の移民に焦点をあてた小説。これにより、アメリカ西部の作家としての地位を確立。

1874年~1920年(フランス/ロシア)
Inessa Armand :パリ生まれ。ロシアでボルシェヴィキ党員となり、政治活動に従事。

1874年~1939年(南ア)
Charlotte Maxeke:教育者、宣教師、社会活動家。1880年代初頭にポート・エリザベスのEdwards Memorial Schoolを卒業し、教師の資格を取得。
1885年、家族は、ダイヤモンド鉱山で繁栄するキンバリーに移住。妹とともにAfrican Jubilee Choirのイギリスへの公演旅行に参加することによって、2年間のイギリス滞在の機会を得る。ロンドンで、Emmeline Pankhurstを含む参政権論者の演説を聞き啓発される。
さらなる教育の機会を求めて、アメリカへの公演旅行に参加。1894年、オハイオ州のクリーブランドでこの公演旅行がとん挫し、一座が解散すると、African Methodist Episcopal Churchの計らいでWilberforce Universityに入学、宣教師となるべく教育を受ける。W.E.B.Du BoisやIda B. Wells-Barnettといった黒人リーダーの指導の下、1901年に学士号(bachelor of science degree)を取得した最初のアフリカ人女性となる。そこでは、すでに南アからやってきていた未来の夫Marshall Maxekeとの出会いもあった。同年、南アに戻った彼女は、家族と合流。首長に寄贈された土地に学校を建設してキリスト教の布教に専念。合流したMarshall Mazekeと結婚し、共に学校の運営にあたった。
しかし、政府からの支援を得られず、コミュニティの貧困状況も重なって、学校運営の続行が困難になる。その後も、各地で学校を開設するが、いずれも運営難に陥る。最後は、テンブ族の王Sabata Dalindyeboの支援を受けて学校を運営した。
1910年代末までに、農村部からヨハネスブルグ近郊に移動。教会の仕事を続けながら、一方で政治運動にもコミットするようになる。1912年のSouth African Natives National Congress(のちのANC=African National Congress)設立集会に出席。1918年、Bantu Women’s Leagueに、1920年には労働者の権利擁護をめざす労働組合運動にも参加。これが認められて1922年、Native Affairs Departmentの先住民のための福祉業務に就く。1930年に公務から退き、5年間のブランクの後、African Methodist Episcopal Church’s Wilberforce Instituteの女子寮の寮監になり、孤児や貧困家庭の支援を行う。1937年、専門職の黒人女性を結集した全国的なNational Council of African Womenが結成され、その会長に選出されたが、その2年後にこの世を去った。
ヨーロッパの教育と宗教に触れたことによって、深い亀裂で隔てられた黒人と白人の架け橋となり、生涯、アフリカ人、とりわけ女性が立ち上がり、自分のことは自分で判断できるような能力を持っていることを訴え続けた女性だった。

1874年~1946年(アメリカ)
Gertrude Stein :小説家、詩人、作家。The Autobiography of Alice A. Toklas (1933)がベストセラーとなった。

1875年~1930年(エチオピア)
Zewditu, Empress):独立した権力を持って統治したことで知られるエチオピア史上唯一の女帝在位1916~1930年)。メネリク2世の娘。男系優先の伝統にのっとり、1909年に孫のLej Iyasu(他の娘の息子)を後継者として任命。1913年にメネリクが死去すると、Iyasuが皇帝の地位を継いだが、統治能力に欠けていたため、宮廷の重臣たちによって退位させられ、Zewdituが生存していた唯一の子供として、1916年に後継者となった。公的には1917年に即位。彼女のマタイトコTafari Makonnnenが、その次の後継者に指名された。

1875年~1907年(中国)
Qiu Jin 秋瑾 :フェミニスト、作家。清朝への反乱計画の罪で処刑される。

1875年頃~1935年(南ア)
Nontetha Nkwenkwe:預言者。ケープ東部のアフリカ人居住区Ciskeiで、典型的な農村部の家庭に生まれる。結婚し、10人の子供を授かる。夫Bungu Nkwekweは、出稼ぎに出かけた先のケープ西部で死亡。
Nontethaは、すでに薬草の扱いや占いの名手としての評判があったが、何万もの人々の命を奪った1918年のスペイン風邪の流行までは、宗教的なカリスマ性を身にまとうことはなかった。そのきっかけは、病気でこん睡状態が続く中で、スペイン風邪は神の罰(コーサ語でisibeto)であり、終末が近づいているという幻影を見たことだった。幻影の中で、人びとに罪ある行動をとらせないこと、聖書のメッセージを伝えること、教育を受けさせること、首長たちを団結させること、といった特別の使命を神から授かったとするNontethaは、積極的に説教を開始する。文字は読めなかったが、手のひらに書いた記号を、あたかも聖書を読むように語り、少しずつ信者を獲得していった。
Nontetha のメッセージは、あからさまに白人の支配する南ア政府を批判するものではなかったが、こうした自立的なアフリカ人預言者の出現に、白人当局は危機感を抱く。折しも、3千人を超える独立教会Israelitesのメンバーが、預言者Enoch Mgijimaの預言に応えて、共に終末を迎えるためにBulhoekに集合。その集合場所が独立教会の所有地でなかったことから、当局との間で紛争となる。和解交渉は不発に終わり、当局は600人もの重装備の警官を送り込み、強制的な排除に乗り出す。小競り合いがはじまり、結局、Israelitesは200人以上の死者を出した。1921年5月のBullhoekの虐殺である。
数百マイル離れたNonththaの地区にいた役人たちは、このまま放置しておけば、彼女とその信奉者たちがIsraelitesのような不穏分子になるかもしれないと恐れ、彼女を精神病だとして100マイルほど離れたBeaufort要塞に隔離した。しばらくして釈放されたが、説教は禁じられた。それに従わずに再び説教をはじめて、また隔離される。信者が隔離場所に押し寄せ始めると、当局はさらに遠方のプレトリアに彼女を移したが、信奉者が彼女に会うためにプレトリアにやってくるのを押しとどめることはできなかった。1927年には2か月かけて、徒歩で信者が訪れている。二度目の信者の訪問は、当局によって妨害され、1935年に家族との面会を一度も果たすことなくこの世を去った。遺体は、人知れず埋葬され、長い間、行方が分からなかったが、1997年に歴史家が埋葬地を確定、1998年に遺骨は故郷の地に戻された。

1875年~1955年(アメリカ)
Mary McCleod Bethune:Ntional Youth AdministrationのDivision of Negro Affairsの責任者に任命される。連邦機関の高位に就いたアメリカ史上初の黒人女性。  

1876年~1955年(アメリカ
Margaret Abbott :クーベルタンの反対にもかかわらずパリで開催されたオリンピック(1900)に参加し、ゴルフで金メダルを獲得。ちなみに女性が参加できたのは、ゴルフ、テニス、ヨットの三競技のみ。  

1877年~1904年(スイス)
Isabelle Eberhardt :探検家。イスラームに改宗し、スーフィーの男性に仮装し、Si Mahmoudという偽名で北アフリカを20年以上旅行、サハラ砂漠で没。

1877年~1968年(アメリカ)
Meta Vaux Fuller :アフリカ系アメリカ人の彫刻家。代表作Ethiopia Awakeningで、エチオピア・スタイルの女性像にアフリカ人の覚醒と自律への願いを込めた。  

1878年~1954年(アイルランド/インド)
Margaret Cousins :All India Women’s Conference(1927)の創設者。教育者、女性参政権運動家、社会活動家。
Margaret Cousins

1878年~1942年(日本)
与謝野晶子:歌人、翻訳家、評論家、エッセイスト。  

1879年~1904年(インドネシア)
Raden Ajeng Kartini :ジャヴァ出身。インドネシアのナショナリスト、女子学校教育の先駆者。1963年にスカルノ大統領によって国民的ヒロインと認定された。

1879年~1966年(アメリカ)
Margaret Sanger :ブルックリンに最初の避妊クリニックを開設し、ただちに逮捕。拘禁される。1921年に、American Birth Control Leagueを設立。

1879年~1947年(エジプト)
Huda Sha’rawi:ナショナリスト、フェミニスト。上エジプトの富裕な地主の家庭に生まれる。父親が5歳の時に死亡し、チェルケス人の母親に育てられる。初等教育は家庭で受け、9歳でコーランを暗唱、アラビア語とトルコ語の読み書きを覚えた。その後、当時のエジプトのエリートの間で広く使われていたフランス語も学ぶ。その間、家族と交流のあった女性の詩人Khadija al-Maghribiyyaの影響を強く受けたことを自身で認めている。
1892年、後にWafd Party(ワフド党)の創設者となるイトコのAli Sha’rawiと結婚。20世紀初頭には、公的場面に登場し、活動家としての頭角を発揮するようになる。1909年、慈善団体Mubarrat Muhammmad ‘Aliを創設するとともに、女性のために教育の機会を提供する組織を立ち上げた。彼女の最初の公的なスピーチは、エジプトのフェミニストMalak Higni Nasifの死を悼むものだった。イギリス支配に対する1919年革命は、ナショナリストにとってもフェミニストの活動家にとっても転換点となった。Sa’ad Zaghloulを含む3人のワフド党指導者のマルタ島への追放は、エジプト全土の反英デモの拡散のきっかけとなった。このデモには、上層の女性たちに率いられて、大勢の女性たちも参加。1920年にWomen’s Wafd Central Committee(WWCC)が創設され、Hudaが委員長に選出された。男性主導のワフド党と共同戦線を張ったが、決して従属はしていなかった。1923年に新憲法が発布され、ワフド党が女性参政権を認める約束を反故にした時、彼女は、Egyptian Feminist Union(EFU)を創設する。EFUは国際的な女性の運動と連携し、パレスチナ問題にも積極的に関わるようになる。一方でフランス語の雑誌LEgyprienneを1925年に、また1937年にはアラビア語のal-Misriyyaを発行している。
Hudaの回想録Mudhakkirat Huda Shaw’rawi ra’idat al-mar’ah al-‘Arabiyah al-hadithahは1981年にアラビア語で出版されている。彼女の姪が翻訳したその英語版のタイトルHarem Years (1987)は、東方の女性の地位についてのネガティヴな意味を表象しているとして議論になった。さらには、Huda へのヨーロッパ人女性の影響を強調しすぎていること、彼女のアラブ・イスラーム的伝統を侮辱していること、彼女の政治的な活動家としての側面が過小評価されている、といった批判が出されている。総じて、英語版はHudaの語りを途上国の女性についての西欧フェミニストの言説の中に位置づけようとしたものと解釈されている。一方、アラブとイスラームのアイデンティティを強調しつつ、女性の権利を擁護するというHuda の改革者としてのアプローチは、フェミニストは西欧の思想を宣伝していると受け止められたアラブ世界においては、繰り返し誤解されてきた。彼女の遺産は、ポストコロニアルというコンテキストにおけるジェンダーと民族との関係に関する拮抗するイデオロギーの間で動きが取れなくなっているといえよう。

1880年~1958年(イギリス)
Christabel Pankhurst :Sylvia Punkhurst(1882~1960)の姉。Emmeline Punkhurst(1858~1928)の娘。社会活動家。女性参政権運動で活躍。

1880年~1968年(アメリカ)
Helen Keller:社会活動家。19か月で視力と聴力を失う。1904年にRadcliff Collegeを卒業。最初の著書はThe Story of My Life.

1880年代~1951年(ナイジェリア)
Alimotu Pelewura:反植民地運動の闘士。貧困層の出身。教育歴なし。マーケットで働く女性たちを主体とした首都ラゴスの最大の女性組織Lagos Market Women’s Associationの最高責任者となる。1930年代までに、組織は、イギリス当局との交渉に必要な手紙を書いたり、代弁したりする弁護士を雇えるまでに資金力を高め、20世紀初頭に結成されたナショナリスト政党を支援。イギリス当局が、マーケットで働く女性に課税しようとしたことに抵抗し、もし、課税するなら参政権を与えるよう要求。第二次大戦中に当局が導入しようとした価格統制にたいしても反旗を翻した。1947年、彼女は、女性の利害を代弁する役割を意味するEreluというタイトルを与えられる。
Alimotuが歩んだ闘争の軌跡は、反植民地闘争におけるナイジェリア人女性の強い指導力を示している。

1881年~1965年(アメリカ
Frances Perkins :政治家。1933~45年、労働大臣を務める。入閣した初めての女性。

1882年~1964年(トルコ)
Halide Edib Adivar :フェミニスト、作家。女性が政治に参加し、雇用のチャンスが得られるトルコ像を描いたYeni Turan(New Turan)を出版。  

1882年~1960年(イギリス)
Sylvia Punkhurst :Christabel Punkhurst(1880~1958) の妹。Emmeline Punkhurst(1858~1928)の娘。社会活動家。女性参政権運動で活躍。

1882年~1941年(イギリス)
Virginia Woolf:フェミニスト作家。A Room of One’s Own(『自分自身の部屋』はフェミニストの古典とされている。

1882年~1967年(アルジェリア)
Fadhuma Amrouche :ベルベル農民出身の詩人、フォークシンガー。アルジェリア人女性初の自伝Histoire de ma vieを執筆。出版されたのは死後の1968年。Marie-Louise Taos Amrouche(1913~1976)の母。

1885年~1952年(アルゼンティン)
Alice Moreau de Justo :医師、社会主義者、フェミニスト。Union Feminista Nacionalの創設に参加、その機関誌Nuestra causaに多く寄稿。

1885年頃~1952年(南ローデシア/ジンバブウェ)
Mai Musodzi:Elizabeth Maria Musodzi、Mrs. Frank(s)とも。先駆的なフェミニスト、社会運動家。ハラレのHwata民族の出身。Hwataは、1896~1897年のイギリス南アフリカ会社(British South Africa Company)に反旗を翻して敗れ、Musodziと兄弟姉妹は孤児となり、近隣の首長領に身を寄せる。そこでは、オジの世話で、カトリックが経営するChishawasha農園に住みつく。ここで、彼女はドミニカ修道院のシスターと出会い、多少の教育を受けたが、人生のほとんどを無文字社会の一員として過ごした。
1908年頃、イギリス南アフリカ会社に勤める警官(police sergeant)Frank Ayemaと結婚。ふたりはソールズベリー(現在のハラレ)東部の農園にテナントとして住み込み、5人の子供をもうける。子供たちにはChishawashaで教育を受けさせた。その間、彼女は市場向けの菜園で働き、農業に才能を発揮する。1937年頃、一家は1920年代から借りていた家のあるソールズベリーに転居。こうしたMusodziの波乱に富んだ経験が、彼女の思考や個性に大きな影響を与え、困窮した人びと、とりわけ女性やジェンダーの問題への強い共感を育んだ。
Musodziは、アフリカ人女性が伝統的な家事の境界を越えた意味ある人生を見出すという新しい時代が始まったと感じた。教育や都市の生活は女性を堕落させるだけだとの当時の考えに逆らって、彼女は、両親は家畜を売ってでも子供に教育を受けさせるべきであり、女性には現金収入を得る機会が必要だと力説した。
1917年に洗礼を受け、ソールズベリー地区のSaint Peter’sのメンバーとなった彼女は、Chishawashaからやってきた女性たちとともに、1940年代初頭にChita chaMuaria Hosi yeDenga( Union of Mary Queen of Heaven)を立ち上げ、その議長に就任した。すでに、1938年に、Harare African Women’s Clubを創設していたMusodziは、このクラブを拠点に、さまざまなコミュニティ活動を展開。リクリエーションあり、チャリティーあり、裁縫教室あり、編み物教室あり・・・赤十字教室で訓練され、病院で働く女性も輩出した。
さらに、Native Welfare Society や女性の意見を代弁するNative Advisory Boardで、Musodziは女性の願いや訴えを取り上げ、生活改善に取り組んだ。1940年代初頭のマタニティ・クリニックの建設はその最大の成果だった。
戦後、Musodziの活動は認められ、1947年にはソールズリーを訪れた英国女王の晩餐会に招待され、勲章を贈られている。やがて、彼女が始めた女性クラブ運動は全国に広まっていく。Musodziは1952年に死去。彼女の功績を記念して、古いレクリエーション・ホールがMai Musodzi Hallと名付けられた。   

1885年~1962年(カナダ)
Cairine Reay Wilson :リベラル派の政治家。カナダ初の女性上院議員。

1885年~1962年(デンマーク)
Karen Blixen :作家。Isak Dinesenの偽名でOut of Africaを出版。

1886年~1971年(日本)
平塚雷鳥 :作家、評論家、思想家、フェミニスト。『青鞜』(1911~16)の創設者であり、主筆。  

1886年~1976年(チリ)
Amanda Labarca :フェミニスト、教育者。女子教育促進のためのReaders Clubを創設。

1887年~1967年(コロンビア)
Maria Cano :社会主義者。労働運動で積極的な役割を果たす。

1887年~1986年(アメリカ)
Georgia O’Keeffe :画家。ヴァギナをイコンとして描いた彼女の絵画から、フェミニストが彼女を「女性の芸術家」として再発見。そのことについて、彼女自身は納得したわけではなかったが、彼女の芸術と生活は1970年代のフェミニズムの第二派と分かちがたく結びつけられるようになった。

1889年~1957年(チリ)
Gabriela Mistral :詩人、ジャーナリスト、編集者、外交官。1945年にノーベル文学賞受賞。

1890年~1964年(アメリカ)
Elizabeth Gurley Flynn :労働運動家。フェミニストとして女性参政権や受胎調節を推進。Industrial Workers of the Worldの中心人物。女性ではじめて共産党の議長となる(1961年)。

1891年~1970年(ドイツ)
Nelly Sachs :ユダヤ系詩人、劇作家。ノーベル文学賞受賞(1966)。

1892年~1960年(アフガニスタン)
Amanullah Khan:アフガニスタン王国の王 (男性:在位1919~1929):一夫多妻の制限、幼児婚の禁止、女子の公立校の開設などを含むアフガニスタンの近代化を推進。志半ばで1929年の内戦で廃位される。

1892年~1938年(アルゼンティン)
Alfonsina Storni:フェミニスト、詩人、劇作家。

1892年~1944年(朝鮮)
金マリア:3.1独立運動で活躍。1962年に建国功労勲章受章。

1893年~1967年(パキスタン)
Fatima Jinnah :政治活動家。「パキスタンの母」とも呼ばれる。パキスタン建国の父Muhammad Ali Jinnahの妹。1964年に大統領選に立候補したが敗北。

1893年~1981年(日本)
市川房枝:政治家。「新婦人協会」を共同で設立し、女性労働者の待遇改善に努力、1924年「普選獲得同盟」を創設、女性の参政権の獲得に尽力。日本の女性参政権運動の第一人者。

1894年~1976年(ブラジル)
Bertha Lutz :Pan American Feminist Movementと人権の問題に取り組む。

1895年~1928年(中国)
Xiang Jingyu :中国共産党の女性局の初代局長。1928年に国民党政府によって処刑される。中国共産党革命期のもっとも有名な殉教者。

1895年~1970年頃?(ケニア)
Rebecca Njeri Kairi:政治活動家、教育者。1920年代、ミッションの経営する学校教育に対抗して始まった「独立学校」を設立しようとする運動の中で、少女のための最初の独立学校を設立、その校長として運営に携わる。1950年代の独立闘争(「マウマウ闘争」)ではリーダーとして頭角を現し、1952年には逮捕拘禁される。1960年に釈放されると、独立派と植民地当局への協力派に分断された女性の団結に尽力した。1961年の最初の総選挙に際して、Kenya African National Union(KANU)の実行委員に選出される。独立後は、女性の経済的自立に尽力した。ケニア史の中では、ケニア独立運動に貢献したもっとも重要な女性リーダーのひとりとして記憶されている。

1896年~1948年(朝鮮)
羅蕙錫:数多くの詩、小説、戯曲、評論、エッセー、旅行記などを書き残した最初の近代女性文学者。

1896年~1968年(キューバ)
Amelia Peláez :近代絵画の巨匠。ニューヨークのMuseum of Modern Artでの展示で最高の評価を得た。

1896年頃~1977年(アメリカ)
Ethel Waters :歌手(ブルース、ジャズ、ゴスペル)、俳優。 NBC(テレビ)のEthel Waters Showの主役となった初のアフリカ系アメリカ人。

1896年~1977年(アメリカ)
Shirley Graham Du Bois
:劇作家作曲家、伝記作家、パン=アフリカニスト。お互いに再婚同士で、W.E.B.Du Boisの妻となったが、再婚以前から、自立した女性だった。アフリカ系アメリカ人の立場から、人種主義との闘いを軸に、国際的なネットワークの中で、共産主義とパン=アフリカニズムの理念の実現に向けて、世界を駆け抜けた女性。

1896年~1973年(ジャマイカ)
Amy Jacques Garvey
:政治ジャーナリスト、パン=アフリカニスト、フェミニスト。Marcus Garvey の二番目の妻。ニューヨークのハーレムのUniversal Improvement Association(UNIA)のメンバーに参加した1919年に、政治に目覚め、1924年~27年の間に200本近い論説をNegro World(UNIAの機関誌)に寄稿。その後、ジャマイカ、ロンドンへと拠点を移しながら、政治活動を続ける。夫の急死後、ガーナのンクルマやケニアのケニヤッタなどとの交流を深め、パン=アフリカニズム運動に専心した。

1897年~1981年(オーストラリア)
Dame Enid Lyons:タスマニア出身。オーストラリア首相Joseph Lyonsの妻。夫の死後、初の女性の国会議員となる。

1897年~1956年(フランス)
Irène Joliot-Curie :人工放射線元素の研究で、夫とともにノーベル化学賞受賞(1934年)。

1897年~1990年(ナイジェリア)
Oyinkan Abayomi:初等教育はナイジェリアで、その後は、イングランドで教育を受ける。第一次大戦後、ナイジェリアに戻り、少女のための中等教育機関の設立に関わる。1935年、Nigerian Youth Movementの機関誌に“Modern Womanhood”という記事を寄稿、女性の政界進出を説く。しかし、男性中心のナショナリスト政党には女性の居場所はなく、1944年、Nigerian Women’s Partyを創設し、女性の権利を主張。1950年に、限定的な女性の参政権が認められ、立候補したが落選。政党のメンバーは多くて2000人を超えることはなく、勢いも衰えた。かわって1959年にNational council of Women’s Societiesが創設され、そのラゴス支部長に就任。死後、功績を称えて、ラゴスのメインストリートがOyinkan Abayomi Driveと命名された。

1897年~1963年(南ア)
Cissie Gool:本名Zainonesa Abdurahman.。治活動家。ケープタウン出身。父は黒人の医師、母はスコットランド生まれの白人。National Liberation League of South Africa(1935)およびNon-European United Front(1938)のリーダー。1938年にケープタウンのCity Councilに選出され、1963年に死去するまで現役を貫いた。反アパルトヘイト運動を指導した最初の女性であり、ケープタウン大学の最初の非白人の学生のひとり。女性の参政権を要求して母親とともに公の会合に参加。1960年にはシャープビル事件に連座して逮捕されている。

1897年~2001年(日本)
加藤シヅエ。社会党員。産児制限のクリニックを東京に開設。後に逮捕され、クリニックを閉鎖させられる。その後は、自宅で活動を続行。優生保護法の成立に尽力。

1898年~1978年(イスラエル)
Golda Meir :イスラエル初の女性首相(1969~74)。  

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