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【年表4】原子力発電所建設との闘い―立地反対運動と原発訴訟(富永智津子)

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年表:原子力発電所建設との闘い―立地反対運動と原発訴訟

掲載:2015.07.04 執筆:富永智津子

はじめに

2011年3月11日(3・11)の福島第一原発事故は、原発の安全神話を崩壊させただけではない。全国に2000か所もあるといわれる活断層との関係、最終的に残る核廃棄物処理問題、その他、本当にクリーンで相対的に安価なエネルギーなのか、といった問題と並び、原発を受け入れた自治体や住民の生活が、交付金と補償金、そして原発関連の仕事なしでは成り立たないいびつな構造に絡め取られている現状を浮き彫りにした。
日本の原発は、1966年に茨城県東海村(日本原電)が初めて営業運転を開始してから、17か所に54基が建設された。そのほとんどが僻地、かつ過疎、そして財政難に苦しむ自治体が引き受けた。それらの自治体には、原発建設を容認する以外に生き延びる選択肢はなかったのか。受け入れる時点で、環境汚染や安全性への危機感はなかったのか。安全神話はそれほどに浸透していたのか。
その一方、原発建設との闘いの記録をひもとくと、これらすべてに疑義を呈し、原発立地を断念させた市や町が30以上もあったこと、なかには30年以上にわたって国と電力会社を相手に闘い続け、そして今も闘いを止めない地域もあることが見えてくる。
今後、何時起こるかもしれない原発事故に怯えながら暮らさざるをえない「30キロ圏」の住民の立場を考えると、何が「明暗」を分けたのかを検証しておくことは、核の脅威から自由な未来を展望する上で重要である。原発訴訟を含め、いくつかの事例を紹介しながら、この論点にせまってみたい。まずは、これまでの主な反対運動と訴訟の歴史を振り返ってみることから始めたい。なお、とりわけ女性が主体的に関わった事例は赤字で示してある。

【年表3】核開発と核の「安全神話」 (富永智津子)

(1)茨木市阿武山関西研究用原子炉設置計画反対市民運動

1957年
 ・「茨木市阿武山原子炉設置反対期成同盟」発足。委員長、田村英茨木市市長。商工団体、農協、婦人団体、青年団体、医師会、歯科医師会、文化団体などを網羅した運動を展開。武谷三男と服部学が現場に入り、「原子炉は本質的に危険なものである」と明言。
・全国25大学の140名に及ぶ専門研究者が連名で白紙撤回を求める要望書を提出。
1958年
 ・白紙撤回

【解説】1953年の国連総会におけるアイゼンハワー米大統領の「原子力平和利用」演説を受けて、1954年3月の国会で突然2億3500万円の原子力開発予算が提案され採決された。これを機に財界や一部大学の工学部を巻き込んだ原子炉導入に向けての取り組みが加速され、その研究用原子炉設置の候補地となったのが京都府宇治市だった。しかし、大阪府知事、大阪市長、大阪財界、大阪大学などが大阪市民の水源地が脅かされるとして反対し、阿武山案となったといういきさつがある。その途端に反対していた大阪知事らが積極的誘致を表明。大都市の発展のためには小都市や過疎地を犠牲にするという論理は、この時に確立された。この論理は政府の「原子炉立地審査指針」に「公衆が原則として居住しない区域であること、低人口地帯であること、人口密集地帯からある距離だけ離れていること」といった表現で盛り込まれている。
武谷(たけたに)三男(物理学者・科学史家・原子核・素粒子論専攻)は後に、阿武山への設置に反対する茨木市民運動は、「日本の公害反対運動のトップだった」と述べている(武谷1981年、273頁)。

(2)関西電力   兵庫県御津市(現たつの市)

1958年
・東海村の一号炉につぐ全国で2番目の原発候補地として兵庫県の複数の町に白羽の矢がたてられる。
1960年
・関西電力が御津町を最有力候補地にあげる。共産党主導で原発の安全性への疑問が議論され、学習会や宣伝資料が配布され、反対運動がひろがる。
・町長が反対し、計画は沙汰止みになった。

【解説】建設計画が発覚したきわめて初期に、共産党の主導によって計画を断念させた事例。 

(3)日本原電  福井県川西町(現福井市)三里浜

1962年
・ボーリング調査で不適となり、日本原電が建設断念を表明。

(4)中部電力 三重県紀勢町(錦漁協・現大紀町)・南島町(古和浦漁協・現南伊勢町)にまたがる芦浜

1962年
・中部電力による建設計画の提示。
1963年
・候補地として芦浜、城の島、大白浜が選ばれる。
1964年
・南島町議会と古和浦漁協による原発反対決議。
・紀勢町に隣接する長島町議会、原発誘致決議。
紀勢町臨時議会、原発誘致を全会一致で可決。
・中電と県が芦浜地区を候補地として決定。
紀勢町錦漁民(推進派)と南島町古和浦漁民(反対派)の衝突事件(羽下事件)。
1965年 
・「南島町原発反対対策連絡協議会」発足。
・中電が芦浜の用地買収を明らかにする。
1966年
・紀勢町錦漁協が原発建設の前提となる精密調査に「条件付き同意」を決議。
長島町名倉港で南島漁民が衆院科学技術振興対策特別委の芦浜視察(中曽根康弘・渡辺美智雄ら)
を実力阻止(長島事件)、6人の逮捕者を出す。
1967年
・田中覚三重県知事、原発終止符を公式表明。
1968年
・田中知事豹変、「終止符」を「棚上げ」。
1972年
・田川亮三知事登場、「電源開発四原則三条件」(地域住民の合意など)を示す。今に至る三重県の基本方針。
1974年
・中電、紀勢町と公共協力費1億円の寄付協定締結。保育園や体育館などの建設費用に当てる。
1976年
・中部電力芦浜調査事務所駐在員、紀勢町長に300万の宣伝費を手渡す。同町長、中電津視点で賄賂30万授受。
1978年
・紀勢町長選挙で、かつての反原発運動の闘士縄手瑞穂当選。
1980年
・紀勢町議会、「原発誘致決議確認」動議可決。
1981年
・縄手紀勢町長、新聞報道の「反原発」を断固否定。
1983年
・三重県で「原発いらない県民の会」発足。
・中電、長島町漁協に5000万円預金、その後逐次増額。
1984年
・縄手紀勢町長、町議会で「条件付き原発受け入れ」を表明。
・田川知事四選。
1985年  (第二次反対闘争へ)
紀勢町と中電、田川知事立ち会いのもと、三重県庁で「芦浜原発調査協定」改訂調印。原発立地のための調査協力を了承、
見返りに町事業に中電が資金援助の約束。
長島町漁協総代委員会、反対決議。
古和浦など各地区に漁民の有志会組織続々結成さる。
同じ頃、次々に結成された各地区の母の会組織と共に、第二次闘争の中心戦力となる
南島町で、18年ぶりに芦浜原発反対決起集会。参加者2000人。
・自民党県議団、公明、民社、無所属議員団と共に県議会に「原発立地調査推進決議案」提出、賛成多数で可決(反対討論をおこなったのは社会党県議1名のみ)。
・漁船約四百隻、19年ぶりに芦浜沖の会場デモ。
「古和浦郷土を守る有志の和」(富田栄子代表)「方座浦郷土を守る母の会」(三浦礼子代表)、紀勢町錦で街頭デモ。
1986年
・紀勢町長選挙で、原発慎重論の谷口友見当選(後、推進派に)。
・チェルノブイリ原発事故で住民に衝撃走る一方、谷口町長「原発を認める方針に変わりはない」。
・紀勢町議会、原発住民投票条例制定直接請求を全会一致で否決。
1989年
・古和浦漁協、3年間で赤字1億5000万円。
1990年
・古和浦以外の各地の漁協に中電より大口預金続々。計23億円。
1991年
・古和浦漁協攻防続く。
・中電、錦漁協に預金2億円追加、計12億円。
1993年
・推進派古和浦漁協の主導権握る.
・中電古和浦漁協に2億5000万円を預金。
・中電、古和浦漁協に2億円の資金提供。同漁協、組合員1人あたり100万円を「越年資金」として支給。
・南島町臨時議会、「原発町民投票条例」(再修正案)を可決。
1994年
・南島町民約1500人、名古屋の中電本店へ抗議デモ。
・錦漁協、中電から3億7000万円の資金受け入れを決定。
・南島町議会が「環境調査に反対する決議を求める請願書」を採択。請願書には町内有権者の75%が署名。
・田川知事、段階的調査実施容認の発言。
南島町、町ぐるみ反対組織「南島町芦浜原発阻止闘争本部」発足。
紀勢町錦漁協、海洋調査受け入れを承認。中電から補償金・協力金8億5000万円は組合員に一律100万円ずつ配分。
長島町漁協、海洋調査反対請願採択。
古和浦漁協海洋調査受け入れ。中電から補償金2億5000万円・協力金4億円。ひとり300万円配分を承認。
1995年
・三重県知事選で北川正恭当選。
・紀勢町議会特別委員会、町民投票条例案を可決。
・紀勢町議会、原発町民投票条例(修正案)可決。
1996年
・「三重県に原発いらない県民署名」が81万筆以上に達し、反対闘争本部長らが「芦浜計画の廃棄」を求め北川知事に提出。
1999年
・紀勢町議会原発問題特別委員会、「原発受け入れ」報告。
・南島町議会臨時議会、「原発反対決議再確認」。
2000年
・北川知事、三重県議会で芦浜計画白紙撤回を表明。中部電力、建設を断念。
2001年
・長島町に隣接する海山町商工会、大白浜原発誘致請願書を議会に提出。
・原発反対海山町民の会、反対請願書を議会に提出。住民投票の結果、反対派勝利。
・錦漁協「海洋調査早期実施・紀勢単独立地決議」再確認。

【解説】年表から明らかになるのは、37年という年月をかけて原発を止めた芦浜の闘いが、30~40件にのぼる原発立地反対闘争史の中でもきわめて熾烈をきわめた闘争であったことである。いくつかの暴力事件も起きている。その理由のひとつは、芦浜がふたつの町にまたがっていることと関係している。そのために、関係する漁協が複数におよび、漁協間での対立に漁協内部の対立が加わったことによって、反対闘争を複雑にしたからである。町長の態度も定まらない中、電力会社の補償金のばらまきや漁協の財政難につけこんだ預金提供や資金援助、あるいは巨額の補償金や協力金に屈した漁業従事者も多かった。電力会社がつぎ込んだ金額の大きさも、芦浜闘争の特徴である。電力会社が自民党政府を後ろ盾に、いかに芦浜立地にこだわったかが伺える。
一方、漁協とは別次元の推進派と反対派の抗争も激しかった。最終的に紀勢町は推進派に、南島町は反対派に収れんし、その調整に苦慮した北川知事がついに「白紙撤回」を表明したのは、県民挙げての反対闘争の成果だと言えるかもしれない。しかし、その後も、海山町が誘致に乗り出し、紀勢町が単独誘致にのりだすなど、芦浜原発をめぐる闘争は、その後も混乱が続いた。
37年という闘争を振り返って、美容院を営みながら古和浦漁協組合員として夫とともに闘った小島紀子さんは次のように語っている。

「まず無言電話に悩まされました。特に夜が辛かったですね。・・宅急便も困りました。注文もしていないのに毎日のように4個も5個も届くんです。一番小さいものでは痔の薬、一番大きいのはダブルベッドでした。中に請求書が入っているので持ってきた人にすぐに返す必要があります。留守にすることができませんでした。それからゆうメール。毎日100通くらい届きます。・・・差出人のない手紙にはカミソリの刃が入っていた時もありました。・・中電は漁協の中に原発推進派を増やすために、通常総会の委任状の買い取りまでやりました。1人分10万で売れたそうです。・・・町の中が推進派と反対派に二分されてしまって苦しんでいます。なぜそんなにがんばれたのかと、よく聞かれます。ウチは代々の漁師です。先祖から受け継いできた海を、きれいなままで次世代に渡したい。原発などにわたすわけには行きませんよね。」(『婦民新聞』2013年10月10日・20日合併号)

(5)東北電力   福島県双葉郡浪江町・小高町

1966年
・大熊町議会、原発誘致を決議。
・双葉町議会、原発誘致を決議。
1967年
・浪江町議会、原発誘致を決議。
1968年
・東北電力、浪江町棚塩地区に原発建設を決定し、用地買収を依頼(ほぼ99%が浪江町、小高町の土地は境界線をはさんでごく一部)。
・棚塩地区全戸が原発誘致反対を決議し、「浪江原子力発電所誘致絶対反対期成同盟」を結成。
1969年
舛倉隆、反対期成同盟2代目委員長に就任。
1970年
・県開発公社と東北電力、用地取得についての委託契約を締結。
1972年
・反対期成同盟、県の予定地内測量を実力阻止。
1973年 
・東北電力、棚塩地区で個別訪問開始。
・東電福島第一原発一号機で放射能廃液漏れ事故。
・棚塩地区内に原発賛成者を中心に地権者協議会発足。
1974年
・舛倉隆、反対期成同盟委員長に再度就任。
1975年
・舛倉委員長、手作り機関紙『原発情報』発行。
1977年
・原発問題をめぐる意見対立から棚塩地区、南北に分裂。
1979年 
・棚塩公民館で高木仁三郎博士の講演会。
・スリーマイル島原発事故。
1980年
・福島第一原発海域のホッキ貝からコバルト60とマンガン54を検出。東電との補償交渉まとまる。空気中からもコバルト60検出。
1981年
・敦賀原発の放射能廃液大量漏洩事故発覚.
1982年
・舛倉が無償譲渡した原発建設予定地内の土地が、反原発運動家一三人の共有地として登記される。
1986年 
・チェルノブイリ原発事故。
1989年
・枡倉、共有地の持ち分登記を求めて富岡簡易裁判所に提訴。
1991年
・福島地裁いわき支部で和解成立。東北電力の共有地買収が事実上不可能となり、反対期成同盟の勝利確定。
1997年
・舛倉隆死去。
2000年
・高木仁三郎死去。
2010年
・着工先送り、35回目。
2006年
・小高町、原町市と鹿島町と合併して南相馬市に。
2011年
・東日本大震災。
・南相馬市長、新規立地は受け入れないとして電源立地など初期対策交付金の辞退を表明。
・東北電力、原発建設を断念。

【解説】浪江町棚塩地区の原発立地反対運動の背後には、核科学専門の物理学者高木仁三郎、原発現場で指揮・監督するプロの技術者平井憲夫、そして原発学習に取り組んだ枡倉隆がいた。この3人をオピニオン・リーダーとして、当初、地区一丸となって取り組んでいた棚塩地区の住民は、電力会社・政府・県と町の推進派の攻勢を前に次々に反対同盟を離反、反対派は苦しい闘いを強いられた。そんな反対派の戦略の要となったのは、原発建設用地の買収をめぐる攻防戦だった。この攻防戦に決着がつけられたのは、舛倉らの反対派が建設予定地内にある住民81人の共有地について「全員の同意がなければ売却できない」とする確約書を91年に福島地裁いわき支部から勝ち取ったことだった。こうした共有地や入会地を死守することによって、電力会社による建設予定地の買収に歯止めをかける戦略は、その後上関闘争などでも展開されている。
しかし、高木や舛倉が死去し、反対派が世代交替するなか、電力会社は執拗に用地買収を進め、地権者の同意の取り付けをあきらめなかった。そんな矢先に起きたのが3・11だったのである。津波と放射能に追われるようにして、浪江町民の離散がはじまった。東北電力の原発建設を拒否した浪江住民が、東京電力福島第一原発の放射能によって多大な被害を被った無念は想像を越える。

(6)関西電力  兵庫県香住町(現香美町)

1967年
・県と町が原発誘致を発表。共産党、ただちに「誘致反対」に動き、県議会で問題を追求。香住町住民の有志による講演会や集会やデモが繰り広げられる。
1970年
・町長が議会で誘致棚上げを表明。

【解説】原発誘致発表からわずか3年で誘致の棚上げに至った事例。共産党が中心となって積極的に動き、町民有志とともに運動を支えた事例。

 (7)関西電力  和歌山県日高町阿尾(あお)・小浦(おうら)地区(クエの漁場)

1967年
・日高町阿尾に原発建設計画持ち上がる。町議会、満場一致で誘致決議。当初誘致に賛成していた住民、町長との懇談後、「阿尾地区原子力誘致反対同志会」(愛郷同志会)を立ち上げる。
1968年
・阿尾地区総会で反対決議可決。区長ら役員総辞職。
・比井崎漁協で反対決議。日高郡の他の14漁協も「かかる全世界人類最大の危険物の誘致に対し漁民の真意をよく御諒察いただき・・」(汐見2012、48頁)との反対決議。町長ら推進派、原発建設を白紙にもどすことを了承。
1975年
・阿尾に隣接した小浦に原発建設の計画。建設用地は観光開発の名目で関連会社が75年ころから買収。
1978年
・小浦地区、陸上事前調査受け入れを決議。関電、建設スケジュールを発表。
・関電、比井崎漁協の条件付き事前受け入れで、漁協口座に3億円を預金(漁協の赤字財政につけこむ)。
日高町の女性たちが「原発に反対する女の会」を立ち上げる。
・比井崎漁協、事前調査の受け入れをめぐって紛糾。
1979年 
・スリーマイル島原発事故。町長、事前調査凍結。
・「原発に反対する和歌山市民の会」結成。
1980年
・資源エネルギー長官から「原発は安全」との県知事への書簡。
・日高町長、事前調査凍結解除。
・反対派による京都大学原子炉実験所小出裕章講演会。
・「日高町原発反対連絡協議会」結成。
1981年
・「和歌山県原発反対住民連絡協議会」結成。
1982年
・町長選挙、反対派候補善戦するも敗退。
・比井崎漁協の再建案をめぐって、補償金を当てにする推進派と自主再建をめざそうとする反対派が対立。
1986年
・チェルノブイリ原発事故を機に翌年、「日高原発反対30キロ圏内住民の会」結成。
日置川の女性たち「ふるさとを守る女の会」結成集会。
1988年 
・日高医師会の医師31人が連名で新聞に反対意見広告を出す。全国各地から応援あり。
比井崎漁業組合事務所前での女性たちの座り込み。
・漁協総会、紛糾・混乱の末、事前調査の話は白紙撤回され、漁協の役員総辞職。
1990年
・町長選挙で反対派の町長が当選。
2002年 
・原発反対の町長当選。
2005年
・国が小浦の「開発推進重要地点」解除。実質的に建設は不可能となる。

【解説】伊水道の海に面した日高町の阿尾で、次に小浦で関電が原発建設を計画。町を二分した闘いが展開された。約40年を経て、ついに原発の火種を消したのは、豊かな海を守るという原点をみつめて、巨額の補償金で住民の分断を図った関電と闘った住民・医師・漁師の連携だった。反対派に「アカ」というラベルが貼られるのは、他の事例でも散見されるが、ここでもそうした政治がらみの誹謗中傷が展開されたという(URL③)。 そうした誹謗中傷をものともせずに立ちあがった女性たちがいた。女性たちは、地区を越えた共闘体制をつくり(県下10団体が「紀伊半島に原発はいらない女たちの会」に結集)、勉強会を通して啓蒙活動を行いながら、各戸にビラを配布する活動を90年の日高町長選挙まで続けた。立地計画は実質的には88年に、公的には2005年に白紙撤回されたが、その間、2003年に使用済み核燃料の中間貯蔵施設を日高町隣の御坊市に建設する計画が明らかになり、それへの反対運動が続けられている。

(8)関西電力  和歌山県古座町(現串本町)

1968年
・計画浮上、町議会、原発誘致を決議。
1969年
・近隣の太地町議会、原発反対決議。
・太地町住民「太地町原子力発電所設置反対連絡協議会」結成。
・古座漁協を中心に四漁協が「紀南漁民原発反対協議会」を結成。
1972年
・漁民による大規模な海上デモ。陸上でも反対派の決起集会。
・町議会、原発誘致決議を白紙に戻し、誘致・設置に反対する特別決議を可決。
1976年
・反対派3団体が結束して「紀南原発反対連絡協議会」結成。
・町議選挙で、反対派後退。
・漁船135隻による海上デモ。「補償欲を捨てて紀南の海を守れ」「企業より人間を守ろう」との横断幕。
・古座漁協、推進に傾斜。
1977年
・古座町に隣接する古座川町で原発反対決議。
1978年
・古座町、原発誘致反対決議を白紙撤回。
1979年
・米国スリーマイル島原発事故で危機感高まる。
1980年
・古座町議会議員選挙で推進派が多数を占める.
1983年
・古座町長選挙で共産党・社会党の推薦を受けた元共産党町議が保守系の二候補を破って当選。
1986年
・チェルノブイリ原発事故。
1990年
・古座町議会、原発設置反対の決議を行い、関電建設計画を断念。

【解説】原発建設への反対は、一貫して海を守ることを軸に展開されている。町議会は当初から誘致を鮮明にしていたが、反対を貫いていた漁協の中には推進に舵を切るものも現れル中、スリーマイル島やチェルノブイリの原発事故も追い風となり、共産系の反対派町長の出現により、建設計画は終息を迎えている。

(9)関西電力  福井県小浜市(若狭湾)

1968年
・内外海半島の入り江にある田鳥に建設計画。市長は推進姿勢。住民も田鳥から市街地まで車で行ける道路がなかったことから、道路整備を求めて誘致に傾く。一方、内外海漁協が反対の声をあげる。
1969年
・小浜市議会に原子力発電所誘致のための委員会設置。
・「内外海原発設置反対推進協議会」発足。反対派(発起人角野政雄、支援者明通寺住職中嶌哲演)の熱意により県道が開通。県道の開通が誘致の口実にされないための反対派の行動だったが、推進派はあきらめず。
1971年
・「原発設置反対小浜市民の会」結成、労働組合、教職員組合、宗教者団体、共産党を含め九団体が大同団結。
1972年
・署名運動開始、3ヶ月で有権者の半数を越える1万3000人の署名が集まる。これを受けて市長が誘致断念を表明したが、市議会は請願を不採択。
1975年
・市議会に発電所安全対策調査研究委員会が設置され、立地調査推進決議案が提出される。
1976年
・市民の会を中心に反対運動再燃。
・新市長、誘致拒否の結論を出す。

(10) 四国電力  愛媛県津島町(現宇和島市)

1968年 
・四国電力は津島町が適地だとの結論を出せず

(11)  関西電力  和歌山県那智勝浦          

1969年
・那智勝浦町議会、原発誘致決議。
・原発に反対する住民「那智勝浦町原発誘致反対町民会議」を結成。
1971年
・町長選挙、僅差で推進派候補当選。共産党の反対派候補善戦。
勝浦下里の母親ら「子どもを守る母親の会」を結成。その後も次々に反原発運動が生まれ、広範な反対運動を展開。
・那智町議会、原発反対の決議。
1972年
・環境庁長官、那智勝浦町における原発計画について国立公園内の地質調査を認めるとの見解を明らかにする。
・反対派、長官へ陳情。
・反対派、知事に陳情。
反対派女性、知事夫人に陳情。
1974年
・原発反対全国集会、那智勝浦で開催。
1981年
・町長、「設置反対」を町民に回答し、原発計画は消滅。

【解説】那智勝浦町は、当初誘致に動いた町議会が住民の動静を汲み、比較的早い時期に反対決議を行い、設置反対を決めた事例。その背景には、「子どもを守る」ことを反原発運動の基軸に据え、国の介入を撥ねつけた母親らの広範な反対運動があった。「母親の会」代表の佐竹美代さんは次のように語っている。

「それはそれは、毎日集まりました。敷布を集めて鉢巻やタスキ、旗づくりもしました。堅調はもちろん、当時の大石環境庁長官に直訴するために上京もしました。初めて経験することばかりでした。町は賛成と反対で真っ二つに分かれ、気持ちがそぐわんいやーな気持ちがずーっとつづきました。しかし、こればっかりはと思って頑張りました。」(汐見2012、173頁)

(12)  関西電力  福井県小浜市(若狭湾)

1968年
・内外海半島の入り江にある田鳥に建設計画。市長は推進姿勢。住民も田鳥から市街地まで車で行ける道路がなかったことから、道路整備を求めて誘致に傾く。一方、内外海漁協が反対の声をあげる。
1969年
・小浜市議会に原子力発電所誘致のための委員会設置。
・「内外海原発設置反対推進協議会」発足。反対派(発起人角野政雄、支援者明通寺住職中嶌哲演)の熱意により県道が開通。県道の開通が誘致の口実にされないための反対派の行動だったが、推進派はあきらめず。
1971年
・「原発設置反対小浜市民の会」結成、労働組合、教職員組合、宗教者団体、共産党を含め九団体が大同団結。
1972年
・署名運動開始、3ヶ月で有権者の半数を越える1万3000人の署名が集まる。これを受けて市長が誘致断念を表明したが、市議会は請願を不採択。
1975年
・市議会に発電所安全対策調査研究委員会が設置され、立地調査推進決議案が提出される。
1976年
・市民の会を中心に反対運動再燃。
・新市長、誘致拒否の結論を出す。

(13)  四国電力 徳島県海南町(現海陽町)

1970年
・四国電力が調査の中止を決定

(14)  中国電力 岡山県日生町(現備前市)鹿久居島 

1970年
・原発建設計画の話が持ち上がり、「鹿久居島原子力発電所反対実行委員会」、共産党西播地区委員会と協力して市民運動を展開。漁業者も運動を支える。
1972年
・県議会が原発反対の陳情書を採択、町議会が調査の中止を決定。

【解説】原発建設計画のごく初期段階で、市民運動が共産党と歩調を合わせて電力会社に建設を断念させた事例。  

(15)  関西電力  京都府舞鶴市(若狭湾)

1971年 
・県境を越え「原発反対若狭湾共闘会議」の結成。
1972年
・敦賀市にて反核運動家百名による「原電・核燃料再処理工場設置反対全国会議」開催。
1982年
・共産党、関西電力の立地調査計画を暴露、調査計画が頓挫

(16)  中国電力  山口県豊北町(現下関市)

1971年
・原発計画が明るみに出るも漁民の反対が強く計画は見合わせとなる。
1977年
・再度原発計画が表面化、県も推進姿勢をとるも漁民の反対やストライキが起こる。
1978年
・反対派の町長が当選し、町議会も建設拒否を可決、県と中国電力に建設拒否を通告。

(17)  東北電力  新潟県巻町(新潟市)

1971年
・原発計画の発表
1977年
・町議会が建設同意。
1980年
・町長が建設同意。
1994年
・原発予定地中心部の町有地を東北電力に売却しようとしたことに対し、住民有志が「巻原発・住民投票を実行する会」を立ち上げるも町議会により拒否され、新たに「住民投票で巻原発をとめる連絡会」を結成し、自主管理による住民投票実施に踏み出す。
1995年
自主管理の住民投票実施。有権者の45%が投票し、そのうちの43%が反対に投票。
・町議選で、住民投票条例制定派多数当選。
・町長が住民投票の実施を拒否したため町長のリコール運動が始まる。人口約3万のうち1万人以上が署名し、町長辞職。
1996年
・原発反対派の町長が当選し、東北電力の買収・供応・利益誘導・締め付けが行われる中、住民投票が実施され反対票が61%を占める。
1999年
・町長、原発予定の町有地を反対派住民に売却。これを違法として推進派が提訴。
2003年
・最高裁、推進派の上告を不受理。原発建設は不可能となる。

【解説】ここでは、原発立地反対運動のひとつの類型が見てとれる。その流れは、反対組織を立ち上げ、住民投票に持ち込むという手法。それが拒否されると、リコール運動で町長を辞職させて新たに反対派の町長を選ぶ、という戦略。この「住民投票条例」方式は多くの立地計画予定地で運動の中に組み込まれたが、巻町のように制定・実施にまで至るケースは少なく、むしろ、制定にむけての働きかけの中で、住民の意識がひとつにまとまっていくことに大きな意義があったというべきかもしれない。実際に電力会社に建設を断念させる戦略として最も効果的だったのは、ここでも建設予定地の買収に応じない作戦である。実際、反対派町長が原発建設予定地の町有地を反対派住民に売却したことにより立地計画に終止符が打たれた。 

(18)  中部電力  三重県熊野市井内浦

1972年
・市議会が調査拒否を決議

(19)  四国電力  愛媛県窪川町(現四万十町)

1974年 
・原発立地候補地として窪川町が浮上。
1979年
・窪川町長選挙、原発が争点となり、反対派町長藤戸当選。
1980年
・町長、原発推進に転向。
・誘致に賛同する多くの住民や町議から「原子力発電所立地問題に関する請願書」が提出され、町議会で採択される。
・反対派は「原発反対町民会議準備会」を発足させ、学習会をはじめ、「原発設置反対請願」をまとめる。
・保守を含めた反対派による町長リコール運動の開始。その中心に元自民党党員の島岡幹夫がいた。
女性たちが立ち上がる。
19
81年
・自民党幹事長らを巻き込んで、推進派によるリコール阻止運動始まる。
・リコール投票で反対派勝利。
・出直し選挙で町政の混乱の収束を訴えた推進派町長再選。
1982年
・町長、住民投票条例制定
1984年
・立地可能性調査に関する協定書と確認書の調印。
1986年
・チェルノブイリ原発事故により反対世論高まる。
・原発建設予定地の興津漁港、海洋調査拒否。
1987年
・藤戸町長、責任をとって辞職。新町長の中平のもと、町議会は「窪川原発問題論議の終結宣言」を可決。

【解説】この事例は、反対運動の戦略のひとつである「住民投票条例」の先鞭をつけたという意味で重要である。もうひとつ重要なことは、多くの反対運動の担い手が共産党系や社会党系の「革新派」に偏りがちの中、「保守系」の政治家や住民、あるいは商店主が、革新派とされている住民とともに草の根の運動を展開したことであろう。それでもなお、電力会社がちらつかせる補償金や交付金、あるいは原発に潤う町への招待旅行によって安全神話を信じさせられて誘致に傾く住民も多く、町は推進派と反対派に二分され、町政の混乱が続いた。推進派と反対派の対立は親族内にもおよび、修復には時間がかかった。こうした構図は、ほぼどの事例にも共通しており、原発立地反対運動の最も大きな負の遺産と語る経験者や研究者もいる。

(20)  関西電力   京都府久美浜町(現京丹後市)

1975年
・関電、事前環境調査を町に申し入れ。
1990年
・有権者の7割を超える反対請願署名、推進派町議による不採択。
1995年
・前年から95年にかけて推進派による原発学習会計8回開催され、「安全神話」を振りまく。
1987年
・町長選挙で、反対派候補者善戦するも敗退。
2001年
・町長選挙で、反対派候補者(共産党)善戦するも敗退。
2004年
・久美浜ほか5つの町が合併して京丹後市誕生。
2006年
・市が関電に「旧久美浜町以外の住民に久美浜原発立地の理解を求めるのは困難」として、計画撤回を申し入れ、関西電力が断念を表明。

【解説】年表を追ってみると、30年以上にわたる反原発闘争が必ずしも反原発派有利に展開していたわけではないことが分かる。一転して関電に計画を断念させる転機となったのが、2004年の5つの町の合併だった。直接漁業と関係のない住民人口の増加が、電力会社に計画を断念させた事例といえよう。

(21)  中部電力   石川県珠洲(すず)市(北陸電力・中部電力・関西電力)

1975年
・原発計画の浮上。
・市議会全員協議会において「原子力発電所、原子力船基地等の調査に関する要望書」を議決。
・市議会で議決した要望書を石川県知事の中西陽一に提出。
1983年
・市議会において、珠洲市長の谷又三郎が原発推進を表明。
1984年
・電力三社が原発立地調査を珠洲市に申し入れ。
1985年
・北陸電力珠洲営業所内に「珠洲電源開発協議会」を設置。
1986年 
・市議会で原発誘致を議決。
1987年
・珠洲市議会議員選挙。定数18名の中、反原発の国定正重が初当選して1議席を奪還。
1988年
・北陸・関西両電力が珠洲市に高屋地区での立地可能性調査を申し入れ。
1989年
・関西電力が高屋地区での立地可能性調査に着手。 建設反対派住民が珠洲市役所内で座り込みを開始、その後40日間続けられる・関西電力が立地可能性調査を一時見合わせることを表明。
1991年 
・統一地方選挙で反対派県議会議員1人誕生(その後援会長をつとめたのが、高屋地区の塚本真如(まこと)住職。
1993年
・珠洲原子力発電所1号機・2号機を国が要対策重要電源に指定。
・市議会が電源立地促進を議決。
・珠洲市長選挙で開票作業の混乱から不正選挙裁判へ。
1996年
・93年4月に実施された珠洲市長選挙の無効訴訟で最高裁が上告を棄却。やり直し選挙で当選した市長、誘致に積極的姿勢。
1999年
・電力会社に土地を売った地主の脱税が発覚し、土地買収が明るみに。地主は有罪確定(03年)。
2003年
・電力三社が珠洲市長へ珠洲原子力発電所計画の凍結を申し入れた。事実上の断念。(電力会社側の理由①電力自由化を目前に、建設費の莫大な原発による経営悪化を懸念、①地元の合意が不十分、③電力需要の伸び悩み)

【解説】珠洲市の事例は、北陸・中部・関西という三電力会社が共同で運営を予定していた事例である。91年の統一地方選挙ではじめて反対派の県議がひとり当選するという保守的な土地柄のなか、反対運動は、組織というより何人かの個人がリードする形で進められた。そのひとりに塚本真如住職がいた。反対派の闘いは、市長選挙に敗れたこと、不正選挙訴訟に敗れたことにより手詰まり状況に陥ったが、電力会社が採算を見込めないことと地元の合意が不十分であることを理由に建設計画を断念している。電力会社の計画断念の理由のなかに、地元の合意が不十分だったことが挙げられていることは、少数でも声を上げ続けることの重要性を示している。
なお、珠洲市の事例はNHKスペシャルや地元のテレビ局で何本もドキュメンタリー化されている。そられはいずれも、反対派と推進派の主要人物が、ともに抱えた苦悩の年月を語るという構成となっている。そこに投影されているのは、原発立地計画に翻弄された地元の姿である。それは、原発の建設によって被るかもしれない環境汚染や放射線被害への不安が建設計画の中止によって取り除かれた安堵感(反対派)や誘致に成功しなかったという挫折感(推進派)を超えた修復不可能な人間関係の破壊である。原発立地反対運動の負の遺産に苦しむ住民の姿が、ここにもあった。

(22)  関西電力  和歌山県日高町日置川(ひきがわ)町(現白浜町)

1976年
・日置川町臨時議会にて原発誘致を前提に町有地を関西電力へ2億5900万円で売却する議案が、傍聴者を閉めだして可決。住民は翌日の新聞報道で初めて知る。
・町長と関電との間で土地売買契約の締結。
・日置川漁協、直ちに質問状を町長に提出。
・反対派住民「原発反対共闘準備会」を結成。
1977年
・町長選挙で反対派の阪本町長当選。公約通りに関電の調査申し入れを拒否。
1980年
・阪本町長二期目にして推進派に変節。
1982年
・「日置川原発反対協議会」の結成。
・「反原発新聞」の発行。
1983年 
・町政の混乱により町長辞職。出直し選挙で阪本町長三選を果たす。
1984年
・阪本町長、財政難・過疎を口実に関電の環境事前調査受け入れを前提に予算案を組む。町議会、予算案を否決。ただし、否決は町議員の原発反対を意味せず(単なる阪本降ろし)。
・町長選挙で推進派の宮本町長当選。
1986年
・町長、電源三法交付金による町財政建て直しを図る。
・チェルノブイリ原発事故後も「安全神話」に依存。
・原発推進派「日置川原子力発電所立地推進協議会」を結成。
1988年
・町長選挙で、自民党が支援する候補に対し、反対派の三倉候補(もともとは保守)を支持したのは共産党県議や元代議士の他自民党県議ら。
「紀伊半島に原発はいらない女たちの会」(県下の10にのぼる婦人団体で構成)のメンバーを中心とした「女たちの交流会」開催。
・反対派町長の当選。
・和歌山県知事、原発誘致をあきらめず。関電も引き続き地元の理解を得られるよう努力するとの社長の談話発表。
1992年
・町長選挙で、推進派は原発を争点としない作戦(原発隠し)をとる。反対派の三倉候補、73票差で当選。
1995年
・日置川町議会、原発計画を「長期基本構想」から削除。
2005年
・日置川町、電源開発促進重要地点としての指定から外される。

【解説】地域住民の頭ごなしに決定された原発建設、次いで住民の同意を得るために電力会社が行った施策(原発見学ツアーへの招待、原発安全パンフレットの配布など)がかえって住民の反発と疑念をかきたて、八八年についに反対派の町長を誕生させた日置川町。その背景には、台風に伴う水害の一環として、日置川上流に関電が建設した殿山ダムの放流によって大洪水が起こり(1958年)、その責任を取らなかった関電への不信感があったという。(汐見 2012、32~34頁)。ここでは、町長選挙が原発推進か反対かを決める争点となってきた。その転機となったのが88年の町長選挙だった。この時点で反対派町長が当選した背景には、チェルノブイリ原発事故に触発された危機感から、「この素晴らしい自然と環境を子孫に残したい」という思いをひとつにして一斉に立ち上がった女性たちの運動があった。反対派の切り崩し作戦はその後も続き、原発予定地の大半を依然として所有している関電も、決してあきらめてはいなかった。3・11は、最終的に新しい原発立地にとどめを刺したといってよい。しかし、使用済み核燃料の中間貯蔵施設の建設を狙っているのではないかとの懸念を抱く関係者もいるという(汐見2012、129頁)。

(23)  四国電力  徳島県阿南市

1976年
・四国電力、徳島県と阿南町に原発立地の可能性を答申。住民には知らされず。
1977年
・「原子力発電所建設を阻止する椿町民の会」結成。
・敦賀原発の反対運動との連携。
・手作りの新聞を発行し原発の危険性を広報。
・市役所や県庁へ「子孫に安全な海を遺したい」との陳情。
1979年
・市長が「白紙宣言」を行い、終止符。

【解説】ここでは、市民運動を支えた椋本貞憲さんというリーダーの存在が大きかった。旧満州国に生まれ、引き揚げの長い逃亡生活の中で姉と弟、多くの友人を失った椋本さんは、父親に実家のあった椿町での平和な暮らしへの強い思いが運動を支える原動力になったという(URL⑮)。 

(24)  中国電力  山口県祝島―上関原発反対闘争(スナメリなど希少動物の生息地)

1982年ころ
祝島(いわいじま)と眼と鼻の先の田ノ浦湾に面した上関(かみのせき)に原発設置計画の話が浮上。
・上関町長、町民の合意が得られればと誘致を示唆。
1983年
・祝島漁協、賛成派の組合長をリコールし、原発反対決議。
1985年
・上関町議、原発誘致を決議。
1988年
・上関町長、中田に原発誘致を申し入れ中電これを受諾。
1992年
・「上関原発を建てさせない祝島島民の会」発足
1994年
・国の総合エネルギー対策推進閣僚会議、上関原発を要対策重要電源に指定、中電の環境影響調査の開始。
1998年
・8漁協のうち祝島を除く七漁協が漁業補償金の交渉開始。
2000年
・祝島、改めて漁業補償金の受け取り拒否。
2001年
・山口県知事、条件付きで上関原発計画に同意し、経産大臣が電源開発基本計画に上関原発を組み入れる
2005年 
・中電、原子炉設置許可のための詳細調査を開始(~09年1月)
2008年
・山口県知事、原発建設のための海の埋め立て工事を認可。
2009年
・埋め立て工事に反対する漁民の抗議活動続く。
・生物研究の三つの学会が、工事の一時中断と生物多様性保全のための調査を中電に要望。
2011年 ・中電の埋め立て工事、東日本大震災で中断。

【解説】上関原発建設反対運動の構図はいたって明快だ。上関町議会、漁協、山口県知事が誘致に動く中、唯一祝島のみが一貫して反対闘争を繰り広げたからだ。8漁協中、祝島漁協のみが反対を通し、最後まで漁業補償金の受け取りを拒否したことは、その原発反対のゆるがぬ意思を象徴している。その背景には、祝島集落の真正面にひろがる「奇跡の海」「生物多様性の宝庫」と呼ばれる田の浦を守ろうとする島民の固い決意が感じられる。2009年、中電に調査を要望した生物研究の学会の動きは、そうした島民の反対運動の支えとなった。
この事例で特筆すべきことがいくつかある。ひとつは、女性たちの粘り強い反対運動である。1982年にはじまった女性たちによる月曜デモは2011年に1100回を越え、2012年には1150回を数えたという(山北2012、22頁)。次に、着手され始めた田の浦埋め立て工事妨害にかけた漁師たちの執念。工事用の台船を漁船で包囲、それをかわそうとする台船との攻防戦は何度となく繰り返された。その妨害行為に海上保安庁の保安官が投入され、立ち入り検査も行われている。そして、山口県の本州側や広島県からの支援、あるいは反対運動に共鳴した全国からの署名という運動のひろがりである。署名は2010年、ついに100万筆を越えた(同上、190頁)。
2013年現在、祝島漁業者による公有水面埋め立て免許取り消し裁判、四代八幡山裁判(地元神社「八幡宮」が所有していた山林を2004年に中国電力に売却したが、住民は入会地として利用していたと権利を主張)、自然の権利訴訟という3つの裁判が同時進行している(裁判の詳細は「原発訴訟」の年表を参照)。

(25)  中国電力  山口県萩市

1984年
・要対策重要電源初期地点に指定される。
1986年
・市議会が立地調査を求める住民の請願を採択するも、反対派住民は計画中心部の土地を共有登録するなどして抵抗。
1995年  ・中国電力が地元情勢などを理由に事実上断念。

(26)  九州電力  宮崎県串間町

1992年
・原発立地構想が表面化。
1993年
・市民投票条例の制定。
1997年
・九州電力が計画の「白紙再検討」を表明
2011年 ・東日本大震災により4月に予定されていた原発立地の是非を問う住民投票を先送り。事実上串間原発計画は終焉。

【まとめ】

地域社会への影響が大きい原発建設には法的なさまざまな手続きが定められている。まず、建設候補地が長期的な電力供給地としてふさわしいということが政府から認められねばならない。そのうえで、陸上と海上の「環境調査」を行い、「安全審査」を受けるなどして認可をうることが義務づけられている。また、地元に対しても①立地の同意を得る、②用地を取得する、③漁協の同意を得る(漁業の補償をする)という3条件をクリアしなければならない。重要なことは、現行法制度では、建設計画に対して住民が意見を言える場はほとんどなく、この3条件に関する権限は全て都道府県知事にあり、立地される市町村は、原発関連施設を認可したり却下したりする法律上の権限を有していないことである(URL⑬127頁)。しかも、地元の同意を得る前に一部の町役場の幹部と電力会社との間で秘密裏に事が進められた場合が多い。また、用地の取得に関しても、原発建設用地であることを地権者に知られると反対される場合が多かったため、直接原発とは関係のない第三者に買収させ、あとで一括して電力会社が購入するという場合もあったという(汐見 2012:26頁)。

そんな中で、住民の意思を反映させる手段として住民投票条例策定の動きが現れる。しかし、新潟県巻町の事例のように、市町村の議会で可決され実施されても、その結果は法的拘束力を持つとは限らない。代議制民主主義という制度の中で、住民が反対の声を挙げ、県や市町村の政策に変更を迫るためには、反対派の首長を選び直すことがもっとも有効な手段である。実際、多くの立地候補地で、原発問題が町議選や町長選挙の争点になってきた経緯がそれを物語っている。知事に最終的な権限があるとはいえ、立地案件を抱える町レヴェルの意向を無視することができなかったことは、多くの事例が立証している。

その他にも、反対運動はさまざまな戦略を駆使している。例えば、デモ、署名運動、調査妨害、用地買収阻止、他の原発反対運動との連携、裁判闘争・・・などなど。こうした運動を指導するリーダーの存在も、原発に潜む危険性を説き「安全神話」の打破に尽力した研究者の存在も欠かせない。そして、どの立地候補地でも、一番「命」に近いところで日々格闘している女性たちの結束には瞑目すべきものがあった。

また、スリーマイル島やチェルノブイリなどの原発事故が、反対闘争の節目節目に起きて、闘争の追い風となったことも無視できないが、それが必ずしも推進派への歯止めとはならなかったことは、権力と結びついた「安全神話」がいかに強固だったかを示している。

反対運動の理念については、まずは公害・環境問題として始まり、放射能の危険性への認識が高まるにつれ、子孫に負の遺産を遺さない、子どもの命を守る、といった「命」の問題へと収斂していった経緯を、事例から読み取ることができる。

反対運動は、志を同じくする人々をつなげたが、一方で、推進派と反対派に分断されることによる人間関係の破壊も見られた。この破壊は家族や親族、あるいは漁協内部に及び、原発問題が終息した後も続き、容易にその溝は埋まることがない。

福島の原発事故は、究極の原発廃止へと国策の転換をもたらすと多くの人々は考えたが、2012年末の衆議院選挙で圧勝した自・公民政権は数カ月も経ずして、原発の再利用を考え始めている。海外での原発売り込みも加速している。

原発安全神話に乗って、多額の交付金や補償金と引換えに原発を誘致し、そのくびきから脱却する手立てを見失っている町の将来をも視野に入れた脱原発運動を展開し、脱原発社会を実現するために、われわれは何をなすべきか。原発立地に反対し続けた事例から学ぶことは多い。

[付録]

【主な原発訴訟】

原発の建設・運転を中止させるため、国や電力会社を相手に闘ってきた原発訴訟には、大きく分けて行政訴訟と民事訴訟がある。行政訴訟は原発などの設置許可をした経済産業大臣ら(国)に対して許可の取り消しを求める訴訟で、処分があった日の翌日から60日以内に異議申し立てをすることが前提である。一方、民事訴訟は電力会社などの設置者に対して住民が人格権や環境権に基づいて施設の運転や建設の差し止めと求める訴訟である。この両者を併合したもんじゅ訴訟のような事例もある。

〈行政訴訟〉

伊方発電所

伊方発電所

伊方原発(四国電力)
1973年  1号炉設置許可取り消し訴訟
1978年  松山地裁  棄却

*判決直後、科学者グループ、原告団、弁護団が『原子力と安全性論争―伊方原発訴訟の判決批判』(技術と人間、1979)を出版。地震と立地審査、炉心燃料、蒸気発生器、圧力容器、一時冷却系配管、放射線の危険性など、今日の原発安全論争の原点がまとめられている。また、2016年には、本件における原告の住民側弁護団長を最初から最後までつとめた藤田一良(2013年没)らの裁判闘争の記録『されど真実は執拗なリー伊方原発訴訟を闘った弁護士・藤田一良』が出版された。

1984年  高松高裁  棄却
1992年  最高裁   棄却

*判決の判断基準は、行政の裁量判断を広く認めていること、審査の対象を基本設計に限定していることを除けば、取り返しのつかない災害の性格を踏まえ、かなり高いレヴェルの安全性確保を要求した点は評価されている。その背景にはスリーマイル島とチェルノブイリにおける原発事故に伴う社会的関心の高まりがあった。

福島第二原発1号炉(東電)
1975年  設置許可処分取り消し訴訟
1984年  福島地裁  棄却
1990年  仙台高裁  棄却
1992年  最高裁   棄却

東海第二原発(日本原子力発電株式会社)
1973年  設置許可取消訴訟
1985年  水戸地裁  棄却
2001年  東京高裁  棄却

*地震と耐震設計が大きな争点となったが、国側証人の意見を認めて安全性を肯定。 

2004年  最高裁   棄却

高速増殖原型炉もんじゅ

高速増殖原型炉もんじゅ

もんじゅ訴訟(日本原子力研究開発機構) 
1985年  設置許可無効確認+民事運転差止訴訟
〈原告適格に関する判断〉
1987年  福井地裁  却下
1989年  名古屋高裁金沢支部 一部差し戻し
1992年  最高裁  原告適格を認め、地裁に差し戻し、被告上告棄却
1995年、ナトリウム漏出・火災事故発生)
〈実体部分〉
2000年  福井地裁(併合)棄却
2003年  名古屋高裁金沢支部、許可処分の無効が確認され原告全面勝訴。

*次の三点について安全審査の看過しがたい過誤と欠落を指摘。①ナトリウムによる腐食を考慮せず。②蒸気発生器破損の可能性。③炉心崩壊事故をめぐる判断に過誤。

2005年  最高裁、高裁判決を破棄、原告控訴棄却

*勝手につくりかえた事実を前提として前記3つの事象についての安全審査の過程には何ら過誤、欠落はないとした。

柏崎刈羽原発1号炉訴訟(東京電力)      
1979年  設置許可取消訴訟
1994年    新潟地裁  棄却
2005年    東京高裁  棄却
(2007年  新潟中越沖地震刈羽原発すべてに損傷)
2009年    最高裁   棄却

*住民側は国側に答弁書の提出を求めたが、口頭弁論が開催されないまま訴訟は終了した。                    

伊方原発2号炉訴訟(四国電力)
1978年  設置許可取消訴訟
2000年  松山地裁  棄却                                                                                                               

六ヶ所村ウラン濃縮工場(原燃産業、のちに合併して日本原燃)
1989年  加工事業許可取消訴訟
2002年  青森地裁  棄却
2006年  仙台高裁  却下/棄却
2007年  最高裁    棄却

低レヴェル放射性廃棄物処分施設(原燃産業、のちに合併して日本原燃)
1991年  埋設事業許可取得取消訴訟
2006年  青森地裁  却下/棄却

*事業主の原燃産業(のちに合併して日本原燃)が断層隠しのためにボーリングデータを意図的に隠蔽し、申請書にも嘘を書いたことを認定。

2008年  仙台高裁  棄却
2009年  最高裁   棄却

六ヶ所村使用済み核燃料再処理施設(原燃産業、のちに合併して日本原燃)
1988年  「核燃サイクル阻止1万人訴訟原告団」再処理工場などの事業許可取消を求めて国を提訴。
・再処理工場・高レヴェル放射性廃棄物処理施設(青森地裁)2015年6月現在係争中
・低レヴェル放射性廃棄物処分場(最高裁)2009年7月、住民側敗訴
・ウラン濃縮工場(最高裁)2007年住民側敗訴。

〈民事訴訟〉

女川原発12号機(東北電力)  
1981年
  建設・運転差止訴訟
1994年  仙台地裁  棄却

*津波被害の危険性を指摘するも、地裁は「被控訴人が想定する津波の最大波高が相当でないとすることはできない」とした。

1999年  仙台高裁  棄却

*判決文の中で経済性より安全性を重視すべきことが明快に指摘された。

2000年  最高裁   棄却

志賀原発1号炉(北陸電力)
1988年  建設・運転差止訴訟
1994年  金沢地裁  棄却
1998年  名古屋高裁金沢支部 棄却

*判決文の中に「原子力発電所が負の遺産の部分を持つことは否定しえない」との記述あり。しかし、原子力の当否は裁判所が判断すべきことではないとした。

2000年   最高裁   棄却

志賀原発2号炉(北陸電力)
1999年  運転差止訴訟
2006年  金沢地裁  運転差止(原告勝利)

*耐震設計の適否が重大な争点となり、原告らの立証に対する被告の反証は成功していないとの理由で原告勝利。

2009年  名古屋高裁金沢支部 棄却
2009年  最高裁   棄却

泊原発12号機(北海道電力)
1988年  建設・運転差止訴訟
1999年  札幌地裁  棄却・確定

*判決文の中に「事故の可能性を完全に否定することはできない」「原子力発電所周辺の住民だけでなく、国民の間でも、原子力発電の安全性に対する不安が払しょくされているとはいえない」との文言あり。   

浜岡原発1~4号機(中部電力)
2003年  運転差止訴訟
2007年   静岡地裁  棄却

*中越沖地震は地裁の結審の直後に発生したにもかかわらず、その後の判決文には中越沖地震には全く言及がなされなかった。判決と同時に出された仮処分決定では、「刈羽原発で数多くの損傷・トラブルの発生が報告されているとしても、同発電所の安全上重要な設備に根本的な欠陥が生じたことは報告されていない」との判断がなされた。

2008年  東京高裁から公式に和解の打診がなされた後、中部電力は1、2号機の廃炉を決定。3、4号機に関しては2015年6月現在、係争中。

島根原発12号機(中国電力)
1999年   運転差止訴訟
2010年  松江地裁  棄却

 *地裁、国の指針類の合理性を無批判に肯定。

2015年6月現在、広島高裁松江支部で係争中

大間原発(電源開発)
2014年 ・4月、函館市長工藤壽樹、建設差止訴訟を東京地裁に起こす。自治体が原告となった全国初の原発訴訟。2015年6月現在、係争中。

山口・上関原発(中部電力)
2005年
・所有権移転登記の抹消登記手続き、および入会権確認などの請求訴訟を山口地裁岩国支部に起こす→2013年、広島高裁で控訴棄却の判決。最高裁への上告受理申し立てを行う→2014年、原告の竹広盛三氏死去。                
・自然権訴訟(原告:長島の自然を守る会、祝島島民の会その他、被告:山口県)、2015年6月現在係争中。
・その他、中部電力が祝島島民を、準備工事妨害や作業船の妨害禁止や埋め立て工事妨害の損害賠償訴訟を起こす。和解が成立した案件もあるが、2015年6月現在、係争中の案件もなおいくつかある。

玄海原発3号機(プルサーマル裁判)(九州電力)
2010年
・佐賀地方裁判所に差し止め訴訟
2015年
・3月20日、佐賀地裁、差し止め訴訟を棄却

鹿児島川内原発「温排水」訴訟(九州電力)
2010年
・鹿児島地裁に提訴
2012年
・同地裁で却下。

高浜原発再稼働差止訴訟(関西電力)
2015年
・4月14日、福井地裁、高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の再稼働を認めずとの福井地裁の仮処分決定。2015年6月現在、福井高裁で係争中。

大飯原発再稼働差止訴訟(関西電力)
2014年
・大津地裁、仮処分申請を棄却。2015年6月現在、名古屋高裁金沢支部で係争中。

鹿児島川内原発操業差止訴訟(九州電力)
 2015年
・4月22日、原子力規制委員会の新規制基準に基づく審査に合格した九州電力川内原子力発電所2号機(鹿児島県薩摩川内市)の運転差し止めを住民らが求めた仮処分申請を、鹿児島地裁却下。

【まとめ】

もんじゅ訴訟の名古屋高裁と志賀原発2号炉金沢地裁、および高浜原発3,4号機福井地裁での原告勝利はあったが、その後、上級審でなお係争中であり、最高裁で結審した案件はすべて棄却されている。しかし、判決理由の中で、原子力推進の立場から積み上げられてきた様々な安全神話の矛盾やまやかしや嘘が少しずつ明らかになってきていたことは注目に価する。一方、ここでは詳述できなかったが、棄却の理由が判例として原告に不利な方向で援用されていったことも見逃せない。加えて、裁判長の不自然な交代や、最高栽のダブルスタンダードなど、裁判の複雑なからくりや裏舞台を読み解く作業も欠かせない。

原発訴訟の歴史を見ると、一度建設された原発や建設許可が出た原発を、住民が差し止める手段はまずないと言って良いだろう。それならどうしたらよいか。原発に反対する政府の出現も期待できない中、残された方法は、国際社会の流れを変えることであるが、それも核の廃絶すら実現できない状況では難しい。

福島原発の教訓や責任を闇に葬ることに何の呵責も感じない日本の政財界の体質を変えるには、まずは女性が意思決定に関われるような構造改革が必要ではないだろうか。女性は、産む性・育てる性として男性より「命」に深く関わるポジションにいる。福島原発の放射能汚染から子どもをいかに守るかについての男女の温度差はそれを象徴しているし、原発建設の立地反対運動の歴史における女性たちの結束もそれを如実に物語っている。

当面は、こうした歴史を未来に伝えることによって、改めてどのような日本の未来像を描くかを読者に考える手掛かりを提供できたらと考えている。

参考文献

朝日新聞津支局 1994 『海よ―芦浜原発三〇年』風媒社
海渡雄一    2011 『原発訴訟』 岩波新書
恩田勝亘    2011  新装版『原発に子孫の命は売れないー原発ができなかったフクシマ浪江町』七つ森書館
北村博司    2011 『原発を止めた町―三重・芦浜三十七年の闘い』 現代書館
汐見文隆監修・「脱原発和歌山」編集委員会編  2012 『原発を拒み続けた和歌山の記録』寿郎社
武谷三男    1981 『現代技術の構造』技術と人間
中林勝男    1982 『熊野漁民原発海戦記』技術と人間
山秋 真    2012 『原発をつくらせない人びと』 岩波新書
『婦民新聞』2012年10月10日・20日合併号

参考URL

①ウィキペディア「珠洲市原子力発電所」(2012年1月参照)
②ウィキペディア「巻町」(2013年2月参照)
③ウィキペディア「小浜市」(2013年2月参照)
④ウィキペディア「芦浜原子力発電所」(2013年2月参照)
⑤「住民投票で巻原発を阻止した住民運動」原発問題住民運動全国連絡センター代表委員・原発問題全国連絡センター代表委員藤泰男氏の講演(要旨)http://daemon.co.jp/~nagai/kenminkaigialles/fujimaki.htm(2013年1月参照)
⑥「新潟・巻原発建設計画の断念―長年の住民運動、実結んだ。原発バブルに頼らない町へ」(『しんぶん赤旗』2003年12月31日) http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-12-31/03_01.html(2013年1月参照)
⑦「〈原発撤退へ 立地拒否した町で〉京都旧久美浜町(現・京丹後市)「つくらせなくてよかった」推進派の下議員ら」http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-08-19/2011081904_01_1.html  (2013年1月参照)
⑧「〈福井県・小浜市〉真言宗御室派棡山明通寺住職中嶌哲演さんに聞いた(その2)」「マガジン9」
http://www.magazine9.jp/genpatsu/tetsuen/(2013年1月参照)
⑨「原発の火種消した町・漁師、医師ら四〇年のたたかいー和歌山県日高町」(民医連新聞2012年1月2日)
http://www.min-iren.gr.jp/syuppan/shinbun/2012/1515/1515-05.html(2013年1月参照)
⑩「川西への原発誘致、幻に終わる」(福井新聞2011年11月17日)
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/nuclearpowerplantfuture/31554.html  (2013年1月参照)
⑪「住民と力あわせ原発誘致阻止」『兵庫民報』2011年4月24日
http://hyogo-minpo.blogspot.jp/2011/04/blog-post_6149.html(2013年2月参照)
⑫ 神山治夫「阿武山原子炉設置反対茨木市民運動―原子炉と住民の意思と科学者」原発なくそう 茨木2011年12月28日      http://blog.goo.ne.jp/agoraibaraki2/e/948e65bee709de05d35fa07332910af5  (2013年2月参照)
⑬ 正阿彌崇子(論文)「市民主役の社会のための「住民空間」―新潟県旧巻町原発を巡る住民の動向をてがかりに―」
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/   (2013年1月参照)
⑭ 猪瀬浩平「原子力帝国への対抗政治に向かって―窪川原発反対運動を手掛かりに」(明治学院大学帰還リポジトリ2012年3月31日)http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/handle/10723/1162(2013年1月参照)
⑮「原発を阻止し町を守る」『徳島新聞』2007年6月
http://www.topics.or.jp/special/122545511098/2007/06/118075394716.html (2013年2月参照)

本稿は、研究会「戦後派第一世代の歴史研究者は21世紀に何をなすべきか」(編)『「3.11」と歴史学』有志舎2013所収、富永智津子「年表で読む核と原発」の改訂版である。

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