●プロフィール(富永智津子)
1942年生まれ、東京女子大学でドイツ史を、津田塾大学大学院と東京大学大学院で国際関係論と地域研究を学び、その合間にロンドン大学SOASに2年ほど留学、1989年から宮城学院女子大学でアフリカ地域研究などを担当、2009年に定年退職、以後フリーの研究者としてアフリカのジェンダー研究に貢献しようとささやかな努力をしながら現在にいたっています。ここでは、自己紹介に代えて、よく投げかけられる質問に対する回答を記しておきます。ひとつは、なぜ「ジェンダー」に関心を持ったのかということ、もうひとつは、なぜアフリカなのか、という質問です。前者については、『婦民新聞』に掲載中のエッセイ「アフリカとわたし」の中から、私が ジェンダーに関心をもったきっかけとなった「母の死」と題する短文を転載します。
「母の死」
「自分を押し殺し、夫と子どもにすべてをささげて、母は生きてきた。母がそれに満足していたわけではないということが分かったのは、母がガンを患ってからだ。ガンの告知は私がした。きっぷのよい江戸っ子だったから、母はそれを聞いても動じることはなかった。変化は、父への態度に現れた。それが、母の最初で、そして最後の「父権」への抵抗なのだと気づいた時、私の胸は痛んだ。ガンは直腸から肺へ、そして肝臓へと転移していた。排便との闘いが、人工肛門によって終止符が打たれると同時に、母は寝たきりになった。母は延命処置を拒み、病気のことは一切口にしなかった。死への恐怖を語ることもなかった。しかし、母の父への態度は、ガンの進行とともに冷たさを増した。一方、父は母の気持ちに寄り添おうと懸命に看病した。母はそれを拒むことはなかったが、最後まで父に「ありがとう」の一言もいわずにこの世を去った。同性として、母に同情した私と父との間に、目に見えぬ心の隔たりが残った。母の死後、父はめっきり口数が減った。その分、たばこの量が増えた。外出する回数も年ごとに減り、次第に足腰が弱っていったが、それを気にする風もなかった。ひたすら死を待っている、そう感じることすらあった。その父も1999年、89歳の生涯を終えた。小雪がちらつく寒い日だった。火葬場から戻った私は、父が14年間、片時も離さずに枕元に置いていた手のひら一杯ほどの母の骨を、父の骨壷の中に入れた。枯れ葉がかさこそと風にたわむれているような音がした。その音とともに、私の父へのわだかまりも消えた。しかし、その後もずっと母の死を受け入れられない私がいる。それは、母が自分の一生を受け入れること無く死んでいったことと一つに重なっている。母は、死に直面して「母性」が文化の仕掛けであることを身をもって私に伝えていたのではなかったか。この個人的体験は、私がその後「女性史」に関心を広げ、「ジェンダー」という概念を強く意識し始めたきっかけのひとつとなった。」(「アフリカとわたし」『婦民新聞』2009年2月20日)
これは、近代的なジェンダー秩序に組み込まれた大正生まれの母の姿ですが、一方父は、戦死こそ免れましたが軍医として国家に「犠牲」を強いられたり、家族を養わねばならないという「重荷」を背負わされてきました。母の死後、こうしたことを父は男性としてどう考えてきたのか、生前の父ともっと語り合えたらよかったと後悔しています。
なぜアフリカ?
もうひとつの質問、なぜアフリカ? これまで何度聞かれたことでしょう!その度に、ヨーロッパ史や日本史、アジア史の方がうらやましく思えたことを思い出します。この質問が、とりわけアフリカ史研究者に多く投げかけられることが、いみじくも日本におけるアフリカ認識を象徴していると思ったものでした。個人的動機は、大学でドイツ史を勉強したことと関係しています。結婚12年後、夫の突然の死去で社会復帰を余儀なくされた時、ドイツ植民地であったタンザニアを研究対象に選び、研究者の道を志したというのがとりあえずの回答です。その後、アフリカを訪れる度に、女性の置かれている状況に母への思いが重なり、次第に女性史やジェンダー史へと傾斜していった、というわけです。「特論」の「軍事性暴力小史」をたどっていただければ歴然としますが、20世紀末~21世紀にかけてのアフリカ内戦に伴う女性への性暴力は目を掩うばかりです。どうしてこうなったのか、それを明らかにすることは歴史研究者の責務であると思っています。