招待講演「インドのカーストと家父長制」

掲載:2022-03-13 講演者:Uma Charkravarti (ウマー・チャクラヴァルティ) 訳:押川文子

講演(押川文子訳)

皆さん、おはようございます。難しいテーマですが、できるだけゆっくり、わかりやすくお話ししたいと思います。

インドや南アジアの家父長制を考えるためには,まずカーストについて理解する必要があります。カーストは階層化の一形態です。階層化は多くの社会にありますが、カーストは他の社会のそれとは異なる独特の階層化の形態で、時間の経過とともに階層区分が凍結されてきました。カーストと階級は似ているところもあり、土地保有と労働という資源の支配に関わり、生産手段の所有に基づいています。しかしそれだけではなく、カーストは、段階的な不平等を表す制度なのです。つまり、生産手段の所有者と非所有者という2つのカテゴリーにとどまらず、多くの層によって構成されるグラデーションのシステムなのです。そして、この差異化された多くの層は、浄・不浄というイデオロギーに従って配置されています。近年になってこの点については、反カースト運動の先駆的指導者であるB.R. アンベードカル博士[1]が、この方は独立後の憲法起草委員会委員長としてインド憲法制定に携わった方ですが、浄・不浄の概念を批判的に検討し考え方の変更を迫りました。浄・不浄は宗教的上のカテゴリーであるとして、(カーストの階層性については)代わりに世俗的なカテゴリーを使ったのです。彼は、カーストを尊視と蔑視に観念に基づく段階的な不平等システムと呼びました。高位にいる者は尊敬され、底辺にいる人は蔑視され差別的な扱いを受けるとしたのです。つまり、カーストの起源は宗教的というよりも、深い世俗的な意味を持っていると表明する試みだったのです。この点はアンベードカルが、最終的にはヒンドゥーイズムを否定せざるを得ない一因にもなります。彼はヒンドゥーイズムとカーストは深く結合していて、分離することは不可能だと考えました。また、この階層区分のシステムは、決して調和を生み出せないイデオロギーであるとも主張しました。それは調和した社会を生み出すことはできず、むしろ憎しみと不調和を生み出し、永続的な社会対立をもたらすと考えたのです。

この点は、私たちが心に留めておくべき重要なポイントです。そこで、カーストが社会におけるセグメントを区別する決定方法として、忌まわしく、受け入れ難いものであるにもかかわらず、かくも長い間、何世紀にもわたって継続してきたのかという疑問がわいてきます。この疑問が、私たちに家父長制支配について考えるよう導くのです。永続をもたらしたのは、内婚制度でした。それは、非常に厳しく管理された結婚制度で、人々は決められた婚姻サークルのなかで婚姻しなければなりません。そのサークル外では結婚できないのです。つまり一定のサークル内のなかで内婚が繰り返されることによって、最終的にそのサークルにある集団が存続し、集団には何の変化も起こらないのです。したがって南アジアでは、階層や分断、差異化がどのように作られ維持されるかを理解する上で、カーストと家父長制の結合が中心的な課題となるのです。この点を理解するために、フェミニストたちは「バラモン的家父長制(Brahmanical Patriarchy)」という語を作りました。私もこの語を使っています。あるいは、「カーストに基づく家父長制(Caste-based Patriarchy)」と呼ぶこともできますが、この場合は、カーストによって違いがあります。男性による女性のコントロールという点は共通していますが、そのカーストが階層制のどこに位置するのかによって、具体的な様相には違いがあるのです。以上のように、内婚制度を介してカーストと家父長制が結合することが、南アジアの階層システムの重要な特質なのです。

このように考えれば、女性のセクシュアリティが決定的な資源であると理解することが何よりも重要だということになります。女性のセクシュアリティが決定的な資源であるからこそ、南アジアでは厳重に管理されるのです。女性のセクシュアリティが管理されているところはほかにもありますが、私のみるところ、そうした世界のどの地域よりも南アジアでは強く管理されているように思います。では、女性のセクシュアリティはいつから管理されるようになったのでしょうか? 父系相続、つまり父親から息子への継承を実現するために、資産制度が歴史的に形成されてきたことはよく知られています。生れてくる男児が確実にその男の息子であることを保証するためには、女性のセクシュアリティを管理する必要があるわけです。というわけで、ご存知のように世界の各地で様々な管理の方法があみ出されてきたわけですね。南アジアも同様に、相続に対応してきました。しかし南アジアでは、息子が父親の子であることだけでなく、継承と父系のカテゴリーの再生産はカーストの境界にも適合的でなければならなかったのです。このため、婚姻サークルがきわめて重要となり、結婚は手配されるものとされ、そうしたシステムとなったのです。したがって女性のセクシュアリティは他の社会よりも格段に厳しく統制する必要が生じました。なぜなら、息子は、資産相続システムのためだけでなく、自分が属している特定のカースト集団のために再生産されなければならないのですから。そのための唯一の方法は、結婚相手が所属する集団が同じ集団であることです。南アジアでは、女性のセクシュアリティに対する慣習や規制は、単に父親から息子への継承が問題となる場合よりも、はるかに切迫した不安を掻き立てます。このことにしっかり留意しなければなりません。

その上で、問わなければならないのは、このシステムは、どのようにしてこれほど長い間、何世紀も、少なくともおそらく2000年にもわたって存続してきたのか、という点です。この問いについては、信仰の体系、特に宗教的なイデオロギーの役割について考えなければなりません。世俗的なイデオロギーも、カーストという文脈ではある種の宗教的な承認が必要となるのです。

この点に関連して、インド古代において形成された2つの主要な思想体系について触れておきます。一つはバラモン的なヒンズーイズムの流れから生まれたもの、もう一つは 仏教によって生み出された思想です。この2つの思想体系の間の重要な違いの1つは、バラモン的なヒンドゥーイズムの文脈では、カーストは神聖な方法で、聖なる行為によって創造されたものとされた一方で、仏教ではカーストは世俗的な制度でありある種の状況のもとで人間によって作り出したものと考えられていたことです。したがって、仏教ではカーストには聖的な正当性は伴いません。残念ながら、仏教は発祥の地から消えてしまったため、カーストと家父長制について生き残った唯一のイデオロギーは、バラモン的なヒンズーイズムのイデオロギーでした。それはある意味で両方の制度を正当化したのです。女性のセクシュアリティに対する支配の機能が存在することは、女性が従属的な位置に置かれるだけでなく、カーストの境界維持において女性が決定的に重要であることを意味しています。彼女たちがいるからこそ、カーストの境界が破綻することなく維持されているのです。

このことは、どのようにしてそれが達成されたのかという重要な問いを再度提起します。どのようにして女性はこの制度に順応したのでしょうか。女性たちはどのようにしてこの制度を受け入れ、あるいは引き込まれたのでしょうか。どのようにして、ある意味では女性たち自らがこの制度を永続させることに貢献したのでしょうか。この点において、イデオロギーの役割は非常に重要です。というのも、神話とイデオロギーが「良妻」について語るために作られたからです。良妻という考え方は広範に見られ、多くの文化にこの考え方が見られます。日本にも、中国にも、南アジアの多くの国にもありますね。インドでは、貞淑で浄なる妻、規則に従順に従う妻というイデオロギーが、神話によって非常に強力に形成されました。つまり「良妻」という語にあらゆる意味で適合するイデオロギーが生み出されたのです。そして、インドの初期文献のなかでももっとも重要なものの1つであるマヌ法典には、これはマヌが語った、あるいはマヌが語ったとされている文献ですが、女性の管理こそバラモン的家父長制にとって決定的な意味を持つと書かれています。女性は監護しなければならない存在であり、そのなかでももっともよく監護された女性とは、自分自身を監護する女性であるとされているのです。喜んで自らを監護し、規則の定めた境界の中に暮らす女性を、「良妻」として言説化しうるなかで最も成功した例としたのです。さて、そうでない場合はどうなるのでしょうか? 女性が自身を監護することなく、あるいは規則に従わない場合は、家父長制家族が女性を管理して確実に女性が境界の中にいることを保証し、女性がそのなかで生きるべき規範から逃げ出さないようにすべきだと信じられていました。マヌ法典にはさらに、もし家父長制家族でさえも妻を統御できない場合は、国家や王が女性の服従を保証するようにとも書かれています。つまり、女性たちを彼女たちに課された規則に従わせるために、イデオロギーがあり、さらに権力や懲罰があったのでした。この点に関連して、ある日本人研究者の研究に言及したいと思います。深沢宏[2]さんという方で、 大変に優れた研究をされました。皆さんはご存知ないかもしれませんが、ぜひ読んでみてください。深沢さんは、18世紀インド西部のペーシュワー(宰相)政権期のマラーター王国について、公文書館に残されている現地資料に基づいてその統治規則について研究し、非常に興味深い発見をしました。それは概略的にいえば、カースト制度の永続と家父長制制度の維持の両方について、王、あるいは支配者はその機能をどのようにして拡大したか、つまり「カーストに基づく家父長制」、あるいはバラモン的家父長制の機能の拡大ということでした。深沢さんの研究は非常に魅力的です。彼は、ペーシュワー、すなわち支配者たちが、あらゆる逸脱に対して処罰や容認拒否を行い、人々にカーストに基づく義務や職分と見なされてきことの遵守を強制したことを明らかにしました。つまり国家は法的権力によって、人々が自らのカーストの職分や義務から移動することを許さなかったわけです。例えば、ペーシュワーは、ヤーディー・ダルマ・スタプナーという、カーストの機能に関する規則を制定しました。その中には、女性がとるべき行いや、カーストがそれぞれの分に留まること、地位の変更をもとめることは許されないことにについて、入念な指示が含まれています。つまり、18世紀という時点においてさえ、バラモン的家父長制が称揚され、国家権力によって強制されてさえいたのでした。これは重要なことです。女性の行動は国家が憂慮すべきことであり、最終的には国家が女性の服従を保証するということなのです。単純化してお話せざるを得なかったのですが、これが大まかな構造です。

さて、このシステムを批判した人はいなかったのでしょうか。人々は反対しなかったのでしょうか。社会はこのように組織化されるべきではないと感じる人はいなかったのでしょうか。声を上げた人々の例はたくさんありますし、その一部は歴史的な資料として残っています。例えば多くの信愛を掲げた宗教集団[3]のなかには、中世においてもすでにカーストを批判し、カースト区分に立ち向かい変えようとした人々がいました。しかし、彼らは社会全体を作り変えその働きを再構築することに成功しませんでした。ジェンダー規範についても同じことが言えます。「良妻』規範では、女性は結婚し、家事、社会的再生産、家父長制家族のための子作りという役割を果たさなければならないとされ、このシステムが機能していたのですが、これに対して声を上げた女性がたくさんいました。その声の一部は、テーリー・ガーター(長老尼偈経)[4]と呼ばれるテキストに残されています。テーリーは長老の尼僧、ガターは偈頌という意味で、仏教文献の一つです。これは大変に魅力的な話です。家庭から離れ、比丘尼になるために家を出た女性たちもいます。ご存知の方もおられるでしょうが、宗教的な生活を自ら選択した女性たちです。私は韓国でも比丘尼を見たことがあります。このような女性たちはサンガ(僧院)に住むことになります。例えば、ムクタという名の女性の詩では、この名は文字通り「解放された」という意味ですが、彼女はこう語るのです。「私は自由よ、自由を楽しんでいます」、そして「私は3つのことから解放されました。性悪な夫、碾き臼、家の煩わしさ、から」と。つまり、ある意味で、これまで女性に割り当てられてきた社会的再生産という役割、つまり女性に選択やエージェンシーを与えない役割に対して、家庭を離れ自身の学びに専念しようとした比丘尼たちは挑戦していたのです。したがって自分がなりたいと思う人間になる自由に高い価値が置かれます。長老尼偈経のなかにはとても美しい詩もあります。ある比丘尼が木の下で座って瞑想していると、悪魔がやってきて、「何をしている? ここに座って瞑想しているか? お前には指2本分の知識があれば十分なのに。米を炊いている鍋の中に2本の指をいれて、飯粒をその2本の指の間に挟んで炊けているかどうかを見るために。お前がもつべき知識は、それだけなのに」というのです。それに対してソーマンという名のその比丘尼は、「どうやって2本の指で私が求めているものを得ることができるでしょうか。私は広い空間を求め、解放された自分を求めているのに」と答えます。こうした家庭性、結婚、生殖という牢獄に対する異議申し立てを長老尼偈経の詩文のなかにみることができるのです。

同様に19世紀にも、多くの人々がカースト制度に挑戦しようとしました。名だたる社会改革者たちが、社会における区分の根拠としてのカーストを否定し、廃絶を試みました。そのなかにジョティバ・フレー[5]がいます。彼は当時の女性は学んではならないという慣習に抗して女子のための学校を開きます。その生徒の一人である14歳の少女は重要な作文を書き残しています。彼女はバラモン主義やバラモン的国家の権力に異議を唱えより良い時代が来ることを切望していると書きました。

このようにカースト制度や、カースト制度に基づく家父長制に対して、多くの異議が唱えられ、今日も多く人々が挑戦しています。それはまた別の講義のテーマとしなければならないでしょう。ここでは、これが私たちの持つシステムであるということをお伝えするだけにとどめたいと思います。このシステムには多くの異議申し立てと批判がありましたが、残念ながら、家父長的家族と伝統的な国家がその不平等な構造を強制したため、システムは、少なくとも部分的には生き残りました。先ほども申し上げましたように、結婚が厳しく管理されているために配偶者の選択による変化はほとんどありません。したがってカーストを再生産し続けることになるのです。そして、多くの研究者や民主的主義的な個人が、先ほど言及したアンベードカル博士を含めて、この課題に関わってきました。にもかかわらず、構造はいまだに生き残り、多くの対立を引き起こしています。ありがとうございました。

訳注(押川文子)

[1] Bhimrao Ramji Ambedkar (1891-1956)。 不可触民解放運動の指導者。インド西部の現マハーラーシュトラ州の「不可触」カーストであるマハールに生まれ、イギリス、アメリカで教育を受け法学博士号取得。帰国後の1920年代から、ときにガンディーと鋭く対立しながら不可触民解放運動を主導。独立後には憲法起草委員会委員長を務め、ヒンドゥー民法の制定にも尽力。1950年代に入り、ヒンドゥーの枠内での解放運動に限界を感じ、多くの「不可触」民を率いて仏教に集団改宗。没後この新仏教徒運動は西部だけでなく北部インドにも拡大した。こうした経緯から、「ドクター」の尊称を付けて言及されることが多い。

[2] 深沢宏(1931―1986)一橋大学教授。主要著著に『インド社会経済誌研究』東洋経済新報社、1972年、The Medieval Deccan: Peasants, Social Systems and States, Sixteenth to Eighteenth Century, Oxford University Press, 1998 など。深沢宏氏の研究は、その後小谷汪之氏らによってさらに進められた。

[3] ヒンドゥーイズムにおいて人格神に信愛を捧げ絶対的帰依を重視する概念は古代から存在したが、とくに中世以降、インド各地で「バクティ(信愛)」を掲げる宗派が多数生まれた。その中には、バラモン的ヒンドゥーイズムでは否定されてきた「不可触」民や女性の参加を認めたものも多数存在する。

[4] 紀元前6世紀頃から口承で伝えられた詩文を起源前後にパーリ語で編纂されたと伝えられる。下記などいくつかの原文からの翻訳がある。中村元『尼僧の告白 テーリー・ガーター』岩波文庫、1982

[5] Jyotirao Govindrao Phule (1827-1890)インド西部の現マハーラーシュトラ州で活動した先駆的な社会改革活動家。執筆・言論活動とともに、すべてのカーストに開かれた学校の開設や女子教育の推進、社会改革団体「真理探究協会」の創設など、インド西部の社会改革運動において大きな足跡を残した。

参考

当日のプログラム

国際シンポジウム:アジアジェンダー研究・ウェビナーシリーズ第1回:家父長制についてー南アジアのジェンダー研究から(2022年1月28日:オンライン)

チャクラヴァルティ氏の講演動画

【動画】チャクラバルティ先生講演(2022年1月28日)の動画を配信します

講演に対するコメント

【コメント】チャクラヴァルティ氏の講演に対するインド史からのコメント(押川文子)

【コメント】チャクラヴァルティ氏の講演に対してーイスラーム法との比較から(小野仁美)

【コメント】ウマー・チャクラヴァルティ氏の講演に寄せて(粟屋利江)