本記事は、アジアジェンダー研究・ウェビナーシリーズ第2回「近代国家形成と家名~タイと日本の比較から」(2022年3月8日)の坂田聡氏(中央大学教授)による講演の資料(レジュメ)です。講演の動画は改めて掲載予定です。
当日のプログラムは以下をご参照ください→*国際シンポジウム:アジアジェンダー研究ウェビナーシリーズ第2回:近代国家形成と家名ータイと日本の比較から(2022年3月8日:オンライン)
目次
「姓から苗字へ―日本の家制度と家名の成立過程―」
掲載:2022-03-13 執筆:坂田 聡
はじめに
★姓と苗字
…明治期以降混同され、今日では同義の言葉として用いられている姓と苗字だが(井戸田1986)、前近代、特に中世においてはまったく別のものであった。
★本報告の課題
① 姓・苗字の本質と各々の成立過程を明らかにする。
② 姓と苗字の違いを具体的に論ずる。
③ 中世においては民衆も姓と苗字を有していた事実を指摘する。
1.姓・苗字の本質と各々の成立過程
(1)姓
古代の支配階級は朝廷内で特定の職掌を担うために、氏(うじ)と呼ばれる組織を形成し、氏のメンバーにあたる氏人(うじびと)は、氏の名である氏(うじ)名(な)と、朝廷内での政治的地位を示す姓(かばね)の称号とを有したが(氏姓(しせい)制度(せいど))、律令制的な官位の制度が一般化すると姓(かばね)の称号はすたれ、氏名のことを姓(せい)と呼ぶようになる。平安時代に至ると、氏は父系的な出自集団としての色彩を強めるとともに、しだいに源氏・平氏・藤原氏・橘氏(いわゆる「源平(げんぺい)藤(とう)橘(きつ)」)の4氏に収斂されていく。
* 氏は支配階級のみの組織であり、本来的には父系あるいは母系の出自集団ではない点で、一般的な氏族(クラン)とは異なるが、そこにおける始祖からの系譜も父母双方の系譜をたどるものであり、個人が複数の氏に属することも稀ではなかった。
→のちに平安時代には父系出自集団化をとげる。
* 平安時代中期以降、武士が台頭するようになると、姓はしだいに地方武士の世界にも広まることとなる。
* 中世に至りしだいに苗字が一般化しはじめて以降も、なお公的な儀式の場や公的な重要書類においては、武士も姓を用いた。
(2)苗字
同名の別人と区別するために、個人名の上に所領の地名や官職名を付すことによって成立する。苗字の本質は、家産や家業などを先祖代々継承する、永続性を持った家の家名という点にあり、このような家が成立してはじめて、単なる地名や官職名が、世代を超えて永続する苗字と化したとみなせる。
→一般に、武士の場合、平安時代後半にはすでに苗字が用いられたと考えられているが、厳密にいえば、これはいまだ家名としての苗字ではなく、地名・官職名の付記のレベルであった可能性が高い(鎌倉幕府の執権北条氏の北条は、伊豆の北条という地名からとった名だが、北条の名は決して代々継承された訳ではなかった)。武士の苗字の最終的な確立期は、長男による単独相続が広まることによって、家産が成立した南北朝内乱期(14世紀)のことだと思われる。
2.姓と苗字の違い
(1)公的な名か私的な名か
① 姓
天皇が功臣に対して上から与えた公的な名(豊臣はその最後の実例)。
② 苗字
下から自然発生的に登場した私的な名。→地名や官職名の利用。
* 近世になると、支配階級の苗字は姓と同様に公的な色彩を帯びるようになり、権力者によって上から与えられるケースも登場してくる(秀吉による羽柴の苗字の付与、江戸幕府による松平の苗字の付与等)。
(2)氏の名か家の名か
① 姓
少なくとも平安時代以降は、父系血縁集団化した氏の名=氏名。
② 苗字
家制度の成立とともに、家の名=家名として確立する。
→家名は、決して血族名ではない(血縁関係にない者が同じ家名を名のる)。
(3)夫婦別姓か夫婦同苗字か
① 姓
父系血縁集団としての氏のメンバーが名のる名前(血族名)。姓が一般的に用いられていた平安・鎌倉時代においては、夫婦はお互いに、結婚後もそれまで用いていた姓をそのまま使い続けた(夫婦別姓が原則)。
→源頼朝と平政子の例(鎌倉幕府の執権北条一族の姓は平であったが、頼朝と結婚後も決して源政子にはならなかった)。
* 日本では太古の昔から夫婦同姓だったとの保守派の見解は誤り。
② 苗字
同じ家のメンバー(血縁関係の有無は問わない)が名のる名前(家名)。
→室町・戦国時代に姓があまり使われなくなり、かわって苗字が一般化すると、夫婦は同じ苗字を名のるようになる(夫婦同苗字の起源は16世紀)。
* 今日の「夫婦別姓」(正確には夫婦別苗字)の問題は、家制度が崩壊して苗字が家名としての意味を失い、すでに個人名の一部(単なる上の名前)と化した段階において、なお国家が夫婦に同苗字を強制することの是非を問う問題としてとらえることができる。
(4)実名(じつみょう)とセットか仮名(けみょう)とセットか
① 姓
実名と呼ばれる正式な名前とセットで用いられる(源頼朝の頼朝、平清盛の清盛などが実名にあたる。漢字2字訓読)。
② 苗字
本来的には仮名・字(あざな)と呼ばれる通称とセットで用いられる(北条時政ではなく、北条四郎。北条義時ではなく、北条小四郎)。
→時代が経ち、苗字が家名として固定化されるようになると、苗字+実名の表記が徐々に増加する。
3.民衆も名のった姓と苗字
(1)民衆にとっての姓と苗字
① 姓
古代律令体制化の民衆は無姓ではなく、戸籍制度の施行とも相まって、天皇に奉仕する民=公民として疑似的な氏名を名のった。
→平安時代以降、民衆の疑似的な氏名は、父系出自集団の名称と化しつつあった姓に発展することなく消滅したが、のちに中世になると、古代公民の系譜をひく中世の百姓身分は、文字通り「諸々の姓」の持ち主として、貴族的な姓を僭称するようになる(当然のことながら夫婦別姓)。
② 苗字
14世紀の南北朝内乱期頃に武士の苗字使用が一般化すると、その影響を受けて民衆レベルでもしだいに家名としての苗字を用いるケースが見受けられるようになり、例えば丹波国山国荘地域の場合、16世紀の戦国時代には民衆の苗字使用が一般化する(坂田2006)。
(2)近世における民衆の苗字
一般に、近世江戸時代には民衆の苗字・帯刀が禁止されていたと言われているが、それはあくまでも武士の面前や公的な重要書類上でのことであり、実際には多くの百姓が村内で私的に苗字を用いていた(洞1966、豊田1971、坂田2006)。
→村内での苗字私称については、武士も半ば黙認していた。
* 坂田が長年にわたり古文書調査を続けている丹波国山国荘地域(現京都市右京区京北の山国・黒田地区)においては、江戸時代はおろか、室町時代の史料にその家名が見える家々が、今日においても多数存続する。
* 明治維新のおりの「苗字必唱令」(1875年)によって、江戸時代に苗字を持てなかった民衆が、慌てて苗字を作ったという逸話は、一部の下層民のケースを除くと誤りであり、多くの場合はそれまで私的に用いていた苗字を届け出て、堂々と公称するようになったに過ぎなかった。
おわりに
★近代国民国家の形成と家名…近代国民国家を構築する際、国民統合の核として、明治政府は家制度を活用する。→近代に至ってもなお、苗字は個人名の一部(単なる上の名前)とはならず、家名としての役割を負わされ続ける(夫婦同苗字の強制)。
参考文献
・坂田 聡 『苗字と名前の歴史』(吉川弘文館、2006年)
・大藤 修 『日本人の姓・苗字・名前』(吉川弘文館、2012年)
・豊田 武 『苗字の歴史』(中公新書、中央公論新社、1971年)
・洞 富雄 『庶民家族の歴史像』(校倉書房、1966年)
・井戸田博史『「家」に探る苗字と名前』(雄山閣出版、1986年)