Ⅴ:文明結婚―新聞告示とウェディングドレス

掲載:2016-09-25 出典:『中国女性の100年』第3章:大革命の時代ー1920年代(転載許可済み)

[1]「ぜいたくな婚礼の影響」(炎(えん)、1923年3月26日)

ちかごろの社会は競ってぜいたくを重んじ、婚姻の費用は数百万から千万金に達する。ゆえに中流以下の社会では、常に結婚を恐れ、結婚年齢に達した男女も、経済的理由で、夫婦の生活を享受できない。しかし、男女は性欲衝動のために、次のような危険を生じやすい。すなわち、「男は遊楽に耽(ふけ)って花柳病にかかるか、手淫して遺精する。女は不貞や駆け落ちをするか、弱々しく多病」である。この現象を減らそうとするなら、婚礼の改良からはじめなければならない。婚礼の改良のかぎは、①宴会をやめて茶話会にかえる、②むだな衣服・装飾を減らし、実用的な服装だけを用意する、ということである。婚礼は敬意を表すものであって、金持ちをほめたたえるためのものではない。婚礼の名で家財を見せびらかすのは、礼の本意を失うものである。ちがごろ維新の士のなかに、親友を集めて茶話会を開き、結婚を報告して、これを婚礼の代わりとするものがいる。この方法はじつによいが、惜しいことに実行者が少ない。私が思うには、もし社会の有望の士が広く男女を集め、婚姻制度改良の会を組織し、簡単な儀式を定めて、あらゆる陋習を一掃し、すべての会員がこれを守るとともに、広く宣伝すれば、奢侈(しゃし)の風俗を免れ、青年男女の罪を減らすことができるのではないだろうか。

[「婚礼奢侈之影響」『申法』1923年3月26日]

[2]「結婚には相応の儀式が必要か」(渭三(いさん)、1924年12月)

太古の時代、人々はただ母を知るのみで、父を知らなかった。当然「結婚」というものや、さらに「儀式」というものもなかった。のちに、人類の生活に適合するために、男女両性は共同生活を営みはじめ、それから、いわゆる「夫婦」ができ、「結婚」ができた。しかしこのような結婚は、完全に略奪式であった。(現代の半開化民族の風俗によってもこれを証明できる)。さらにのちになると、聖人が現れて、女性を男性の私有物と認めた、また、乱交を制限し、家計維持の重要性を示すため、種々の煩瑣な結婚儀式を作りだした。現在の結婚の意味は以前とはだいぶ異なり、儀式も簡素化してきたが、つきつめていうならば、どんなものであろうと、儀式の類いは存在する必要がない。

〔「結婚是否必需相当的儀式」『婦人雑誌』第10巻第12号〕

[3]「丹陽の王庚と呂淑安の婚約告示」(1928年2月22日)

庚と淑安は2月2日に、夏翔・胡伯玄両君の紹介で正式に婚約いたしました。親戚・友人の皆様には、個別にご通知しないことをお詫びいたします。

(「丹陽王庚呂淑安定婚約啓事」『申報』1928年2月22日)

解説

1920年代になると、五・四運動の洗礼を受けた青年たちは、「包辦(ほうべん)婚」(親の取り決めた婚姻)のみならず、煩瑣な婚姻儀式という習俗にも批判的になり、婚礼の簡素化あるいは婚礼のない結婚を主張した。その背景には、自由恋愛や、独立した人格を主張する青年たちには、親からの経済的援助がなかったり、もしくはそれを拒否したために、経済的に困窮していたという事情もある。だが最も大きな要因は、みずからの身をもって社会改革を推進し、旧い風俗を一新する志があったことだといえよう。「新人物の新式結婚」として知られる趙元任・楊歩偉夫妻は、その代表的な例である。

楊歩偉は生まれる前からすでに婚約者が決められていたが、成人後、みずから相手に手紙を書いて婚約を解消し、のちに著名な言語学者趙元任と自由恋愛をした。趙元任ももとの婚約を解消して、1921年6月1日に二人は結ばれた。趙・楊の結婚は煩瑣な儀式はもちろん、簡単な茶話会や正装した結婚写真撮影さえしなかった。北京大学の任永叔教授の忠告で、やむをえず「臨時通知書」を配ることにしたが、祝儀などはいっさい受け取らなかった。翌日、『晨報』特別号に「新人物の新式結婚」というタイトルでこのことが報じられ、青年たちの間で美談となった。

趙・楊の新式結婚に刺激され、また、中国を訪問中のバートランド・ラッセルと女弟子ドラの結婚問題もあいまって、結婚儀式の改革は当時の新聞・雑誌にさかんに取り上げられた。『申報』は史料(1)のほかに、「結婚費用を節約して貯蓄にあてる」(1923年3月16日)、「分類広告と結婚」(25年11月1日)などの文章や、名士の婚制の報道を数多く載せた。『婦女雑誌』も「結婚儀式」に関する大討論をおこなった(第10巻第12号)。新聞紙上の離婚生命や婚約者募集は20年代初頭から掲載されていたが、20年代後半になると「結婚告示」もしばしば登場した(史料[3])。つまり、結婚儀式などをいっさい省いて、告示をもって代えたのである。

史料[1]は結婚費用が高いため、経済力のない多くの適齢期青年が結婚できず、花柳病や不貞など社会の害悪を引き起こすことになると論じ、婚礼の改良を呼びかけている。史料〔2〕は「結婚儀式」の歴史をたどって私有制、家父長制の産物であることを論じ、結婚には儀式など必要がないと主張した。特に後者の論には、封建的家父長制批判や独立した人格の主張も含まれており、大家族を脱し、夫婦と子ども中心の家族形態を形成するうえでも、大きな役割を果たした。

青年たちにとって、結婚をどんな形式で表すか、どのように親戚・友人に知らせるか、それ自体が個性や「志」の格好な自己表現の場となる。したがって、このような簡素な、あるいは儀式なき「婚姻」は「文明結婚」と総称されたが、その様式はじつにさまざまだった。1920、30年代に一番はやった様式は、結婚する二人が洋服とウェディングドレスを着て、記念写真を撮ることだった。また、1935年には、上海市政府が新生活運動の趣旨の一つである「節約」を実行に移し、2回の「集団結婚」を催した。『良友画報』(第104、105期)などによって、その盛況ぶりが報道されている。

(訳・解説 姚毅)

参考文献

劉新平『婚姻中国』中国工人出版社、2002年

『中国女性の20世紀―近現代家父長制研究』(共通文献10)

張競『恋の中国文明史』筑摩書房、1993年