Ⅶ「売春」問題―廃絶をめざす論議と活動

掲載:2016-09-25 出典:『中国女性の100年』第3章(転載許可済み)

「上海の遊郭」(執筆者不明、1923年9月)

次の文章は、道徳促進会(Moral Welfare League)が、詳細な調査にもとづき出版したパンフレットの要旨である。中国人によって書かれたこの報告は、工部局が風俗営業店から営業許可証を取り上げ、漸進的な閉鎖政策をおこなう前の、1920年当時の上海の下層社会について教えてくれる。この情報をここに記すのは、おそらく中国のどの大都市でも同程度の売春がおこなわれているであろうし、ミッション系病院や診療所に診察に来る患者たちの多くが性病にかかっているため、そんな病気にかかったであろう状況をある程度知っておくことは、有用であると思われるからである。この哀れな商売によって、中国人の女性と少女は人間の不幸のどん底にまで落ちてしまっているように見える。彼女たちに憐みをかけ、救済の手を差しのべるべきである。彼女たちの多くがみずからの意志に反してそのような生活に追いやられているだけに、あるいはそうでなくても、彼女たちの無知と愚かしさのためにだまされて連れ込まれているだけに、なおのことそうすべきであろう。キリスト教伝道師がいるかぎり、そこがどこであれ、道徳促進会、および浄化運動、衛生運動、救済院設立によって、このひどい悪徳をなくすための、あるいは少なくとも減らすための努力がたえず一致協力しておこなわれるべきである。(中略)

「賭博、飲酒、アヘン吸引、浪費は売春と結びついており、このような問題について改革をおこなうのは容易ではない。事態を改善するために、さまざまな試みがなされてきた。救済事業をおこなうための施設も存在する。なかでも済良所(The Door of Hope)は有名であり、高く評価されている。副委員会の報告を聞いた後すぐに、外国人納税者たちは、年次会議で、共同租界から徐々に売春宿を廃止する方針を採択した。我々がこのような善意にもとづく運動を援助するのは、すばらしいことである」。

(The Demi-Monde of Shanghai, The China Medical,no.37. September,1923)

解説

近代期の中国の都市において「売春」は大きな社会問題の一つであった。各地の大・中都市では女性の就業機会の相対的少なさ、男性の性的放縦さへの寛容、妻子を売買する風潮などの複合的な理由により、売買春が盛んにおこなわれており、売春問題をめぐってさまざまな議論、施策が展開されていた。大・中都市で売春をおこなう女性は、他省、他地域出身の教育程度が低い若い女性であることが多く(表1)、主に人身売買業者をとおして都市へ供給されていた。1927年国民政府が成立して以降、年によっては廃娼・禁娼政策がおこなわれたが、買収宿からの収税が政府財源の一つであったこともあり、徹底的に実施されることはなかった。

内外の交通の要所であった上海は、共同租界を中心に売買春が最も盛んであった都市の一つである。上海では顧客の社会的階層、需要に応じてさまざまなランクの売春宿、売春婦が存在した(表2)。こうした売春宿で働く女性・少女は、貧困のため家族によって売られた者、誘拐され売春宿に売られた者、他の就業機会がないか、あるいはその他の理由のためみずから売春婦となることを選択した者などさまざまであった。

上海の共同租界では、1869年より、イギリス本国での性病対策=管理売春を定めた伝染病法にならい、外国人を顧客とする売春婦(鹹(シェン)水(シュイ)妹(メイ))の監督および性病検査・治療がおこなわれていた。しかし1910年代後半、このような外国人男性を性病から保護することを目的に売春を公認する売春管理政策に対して、批判の声があがった。1918年、宗教界、医学界、女性運動家、慈善家の連合である風俗改良会(のちに道徳促進会と改称)は、売春を法的に認めないこと、すなわち廃娼をおこなうことにより、売買春という「不道徳な習慣」をなくし、キリスト教的博愛精神によって、売春という不道徳な行為をおこなわざるをえない女性を救済することを提案した。史料は、この道徳促進会が上海の売春世界を調査し、紹介した文章の一部である。こうした主張の背景には、キリスト教者の宗教的使命感もさることながら、19世紀末イギリスで展開された社会浄化運動、より直接的には20世紀はじめにアメリカで展開された廃娼運動の影響をうかがうことができる。

道徳促進会は、共同租界の施政機関である工部局に対し、廃娼政策の準備委員会の設立を提案。1919年、納税者会議での決議を経て淫業調査委員会(史料中の副委員会)が組織された。淫業調査委員会は「妓院領照章程」を定め、まず各売春宿に登記を義務付け、営業許可証を交付したのち、毎年抽選会をおこない、これに当たった売春宿を漸次閉鎖していった。1920年4月、この章程は納税者会議を通過し、同五月に公布、施行された。

20年12月から24年まで毎年1回抽選会がおこなわれ、24年末の時点で共同租界内には「売春宿」として公認される施設はなくなった(表3)。しかし、当然ながらこれは名目上の消滅であり、閉鎖された売春宿は地下に潜伏したり、フランス租界や中国人居住区へ移動し、売買春の取り締まりがかえって困難になったといわれる。共同租界と同様の廃娼政策は、その後のフランス租界や、抗日戦争終結後の上海でも計画されたが実効性に乏しく、結局、本格的な廃娼の実現は、中華人民共和国の成立を待たねばならなかった(第6章「売買春」参照)。

共同租界で廃娼運動が展開されていた1920年代は、五・四新文化運動以来、女性・家庭問題に強い関心を示してきた中国知識界でも、売買春問題をめぐりさまざまな議論が提起されていた。『婦女雑誌』は第九巻第三号(1923年3月)で「廃娼運動特集」を組み、第10巻第8号(1924年8月)でも「私娼と廃娼の利弊」という誌上討論会がおこなわれた。たとえば、「廃娼運動特集」に論説を寄せている瑟蘆(しつろ)(本名陳友琴、上海務本女子中学教員)は、売春制度は男女平等を実現することで撲滅されうると論じ、李大釗(りたいしょう)は人道や恋愛を尊重することによって、売春制度そのものをなくすことを提案した(「廃娼問題」『毎周評論』第19号)。また、胡懐琛(こかいしん)は貧困と無知の克服、男性の道徳的向上を提案している(「廃娼問題」『婦女雑誌』第6巻第6号)。こうした論議によれば、当時の知識人たちは、社会自体を改良することにより売春もまた消滅すると認識しており、売買春それ自体に対して具体的な行動や運動を起こすことはなかった。しかし、彼らの議論からは、社会の根本的問題である男女関係の問題、男女間の性の問題をどのようにとらえるか、そのように変革していくか、という課題に対する当時の知識人層の問題意識を読み取ることができる。(訳・解説 福士由紀)

参考文献 

Christian, Henriot, Prostitution and Sexuality in Shanghai :A Social History 1849-1949,Cambridge University Press,2001.