目次
Ⅸ YMCAと社会活動―排外主義に抗して
掲載:2016-09-25 出典:『中国女性の100年』第3章(転載許可済み)
[1]「全国大会で討論すべき問題」(抜粋)(中華基督教女青年会、1923年10月)
婚姻問題
(四)多妻制に対してどのような態度をとるべきか?
(五)方法を講じて、女性が妾になるのに反対すべきか?
(六)妾である者がYMCAの会員になるのを拒絶すること、あるいは彼女たちがYMCAの集会に参加するのを許可しないことは、建設的な政策であるか否か?
(七)重婚は、女性が卑しいということの表れか否か?
(一〇)離婚に対しどのような態度をとるべきか?
(一一)新しい形の婚約に賛成すべきか?
(一二)嫁入り道具および結納金等についてどのような態度をとるべきか?現在の男性のなかには、教育はあるが嫁入り道具は持たないとする女性を娶りたいと思う者がいる。それでは、女性も男性に対してそのようであるべきか?
宗教問題
YMCAは教会の一部であるべきか?現在、YMCAは教会に対していかなる貢献をすべきか?YMCAはキリスト教徒でない者に対しどのような言動の基礎を打ちたてるべきか?キリスト教徒は迷信的な意識と態度をどのようにしてなくすことができるか?女性たちの愛と奉仕の精神、および協力の習慣をどのようにして啓発することができるか?YMCAはどのような社会奉仕をすべきか?YMCAは社会の女性たちの中にある階級構造に対し、どのような態度をとるべきか?貧者と富者が共同して事業をおこない、そうすることによって、女性たちの公共の利益を図ることはできるか?
(「全国大会中央討論的問題」『女青年』第二巻第五号)
[2]「YMCAはいかなる主義を信じるか」(杜愛倫[ヘレン・ソバーン]、1928年5月)
YMCAのある幹事が数名の学生と話し合いをしたとき、このように言った学生がいました。「私はYMCAには加入できません。なぜなら、YMCAは国際主義のものというふうに聞いてますが、私はむしろ、中国が今必要としているものは国家(ナショナリ)主義(ズム)だと思うからです」。その幹事の方は学生の返答を聞くととても感動しました。彼女がその学生に大いに感服したのは、彼女もやはり、中国は一刻も早く全国を統一する必要があると信じていたからです。それにもかかわらず、彼女は、ひとりの人間が国家主義と国際主義の両方を同時に信じることは可能であり、この二つの主義は互いに補い合うもので、決してぶつかり合うものではないと信じていたのです。(中略)
今日、中国には国家主義と国際主義という二つの大きな主義が並存しており、どちらも人々が生涯を捧げる価値のあるものだと、多くの中国の友人たちは感じています。
私は、この二つの主義は互いに補いあえるものであると思います。すなわち、一人の人間が個人主義を信奉しつつも同時に、家庭のなかの立派な一員でもあることが差し支えないように。YMCAの運動は、これら二つの主義を最もよく融和させることができる運動であり、中国YMCAは、純粋に中国女性の運動ではありますが、YMCAに加入した人々は同時にまた、世界各国の女性たちとも繋がりをもたねばならないのです。[中略]
はじめはYMCAの副産物であると思っていた国際的な女性たちの繋がりが、今では、世界に対する私たちの最大の貢献になろうとしています。ひょっとしたら、これこそがYMCAを生んだ力だったのかもしれません。そのときになれば、もはや人々がYMCAをモデルファミリー運動あるいはサマーキャンプ、寄附の大募集等々であると誤解することもなくなるでしょう。YMCAは世界の女性をつぎ目のない神の衣のごとく繋ぎ合わせ、地上に天国を作り上げ、全世界を一つの家族にするのです。
[杜愛倫「女青年会相信什麼主義」『女青年』第7巻第4号]
解説
中国YMCA(中華基督教女青年会 Young Women’s Christian Association of China)は清朝末期の1890年、杭州弘道女子中学にアメリカ人宣教師によってつくられた学校YMCAから始まり、その活動は現在も続いている。清末、中華民国、人民共和国という時代を経てきたその歴史の長さは、他の社会団体の中にも類をみないものである。国際主義を標榜し、キリスト教信仰にもとづく組織化を進めていたYMCAは、都市中間層女性たちが結集してできた社会団体であり、その活動は近代中国の女性史において、国際主義とナショナリズム、そしてジェンダーの問題を考えるうえで、貴重な材料を提供してくれる。
その初期の歴史をたどると、1905年にはYMCA協会(全国)委員会が成立、翌年には世界YMCAにも加盟している。1908年には、最初の都市YMCAとして上海YMCAが誕生し、1920年の段階で広州、北京、天津など12の都市にも設立されるに至った。さらに、23年の第1回全国大会後には全国協会(上海に設置)が成立して、組織の体制もしだいに整っていった。また、当初のYMCAの運営は、欧米のYMCAから派遣された外国人幹事によって担われていたが、中国人幹事の養成が進むと、26年には丁淑(ていしゅく)静(せい)が中国人として初の全国協会総幹事に就任した。会員も20年の6414人が、28年の第二回全国大会開催時には、1万1000人を数えた。
YMCAはキリスト教団体ではあるものの、そもそも布教活動そのものよりも。社会活動にその主眼が置かれている。当初から、その活動対象も主婦・女子職員・学生・労働者など、ノンクリスチャンも含めた多様な会相の女性たちを想定していた。その結果、20年代には中国YMCA全国協会にも学生部、宗教教育部、編集部、幹事訓練部、郷村部、職工事業部などが設けられており、女工夜間学校の開設や、職業女性のための託児所設置にも、その活動の特色をみることができる。史料[1]は、23年の第1回全国大会のテーマの一部で、婚姻にまつわる諸問題、キリスト教信仰にもとづく奉仕活動のあり方などが挙げられており、当時のYMCAが関心を寄せていた事柄を知ることができる。
また、その国際性も、中国YMCAの特質の一つとして指摘することができる。世界YMCAの一部として、中国YMCAはおのずから国際的性格を備えていたが、さらに、高学歴で英語が堪能という幹事たちの特色、世界YMCAやアメリカをはじめとする各国YMCAとの活発な交流、中国YMCAのメンバー自身の国際性からも、それはみてとれる。
史料〔2〕は、1928年に機関誌『女青年』に掲載された文章である。当時は、国民革命が終焉して国民党と共産党は内戦状態で、中国の独立と統一の実現にはまだほど遠い状況にあった。そのなかでナショナリズムの問題は引き続き重要な課題としてあったが、YMCAは、ナショナリズムと国際主義とが両立しえるという立場を表明している。こうした国際主義を重視する姿勢は、31年の9.18事変(満州事変)後に日本の侵略へ抗議を表明する一方で、交流のあった日本YMCAに対しては連帯を保とうとしたなかにも表れていたのである。1949年の革命後は、YMCAは「自主・自立・自営」の原則にもとづいて中国人自身が運営しており、外国人幹事はもはや存在していない。(訳 塙 治子、解説 石川 照子)
参考文献
末次玲子「『女青年報』・『女青年』解題―中国YMCAの機関紙が語る民国前期」中央大学人文科学研究所編『民国前期中国と東アジアの変動』中央大学出版部、1999年
石川照子「上海のYMCA―その組織と人のネットワーク」日本上海市研究会編『上海―重層するネットワーク』汲古書院、2000年
山本澄子『中国キリスト教史研究―プロテスタントの「土着化」を中心として』近代中国研究委員会、1972年