【史料】2015年安倍談話・有識者懇報告書

掲載 2015.08.15 執筆(解説):三成美保

(1)安倍談話の特徴

【解説】2015年8月14日、安倍首相は公式談話を発表した。「痛切な反省」「おわび」「侵略」「植民地支配」という4つのキーワードがどのように盛り込まれるかが注目された。これら4つのキーワードはすべて談話に盛り込まれたが、主語(主体)は曖昧にされ、首相としての「反省・お詫び」も、日本による「侵略・植民地支配」も明示されなかった。これに比し、2015年天皇談話(→【史料】2015年8月15日天皇談話(全文))は「深い反省」にあえて言及した。また、談話を作成するために招集された有識者懇談会の報告書では、日本による「侵略」と「植民地支配」が明記されている。安倍談話は、1995年村山談話(→【史料】1995年村山談話・1994年村山談話)の3倍の分量を費やし、歴史に多くの文言を当てている。しかし、記述には日本の問題と世界史の問題が入り乱れており、談話全体が不明瞭なものとなっている。

○全文はこちら(官邸発表)→*http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html

○全文(PDF)はこちら(官邸発表)→*http://www.kantei.go.jp/jp/topics/2015/150814danwa.pdf

(2)安倍首相談話(2015年8月14日)(解説と談話全文)

【解説ー1995年村山談話と2015年安倍談話の比較から】

○女性・「慰安婦」
安倍談話において、女性への言及があるのは2カ所である(下記資料の赤字)。「慰安婦」という表現は用いられていない。
安倍談話では、「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。」「戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く 傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そう した女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。」と いう形で、「名誉と尊厳を傷つけられた女性」という表現になっている。
1995年村山談話は、女性にとくに言及はしておらず、「慰安婦」という表現も用いていない。しかし、1994年8月の村山談話で、慰安婦問題に対する「深い反省とお詫び」に言及している。「いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて、心から深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います。」(1994年村山談話)
○「お詫び」
安倍談話には「お詫び」の文言は1カ所あるが、歴代内閣の行為として位置づけており、安倍首相自身としての「お詫び」という形はとっていない(比較Aおよび下記資料青字参照)。
○「植民地支配」
安倍談話には「植民地支配」が3カ所用いられている。しかし、その文脈は、日本によるアジア諸国に対する「植民地支配」ではなく、世界史の一般的文脈で用いられている。また、むしろアジアに対する欧米の植民地支配からの「解放者」としての日本を位置づけている。
これに対し、村山談話では、「我が国は、…植民地支配と侵略によって」として、日本による植民地支配に言及している(比較Bおよび下記資料緑文字参照)。

【比較(史料)】
(A)「お詫び」

(2015年安倍談話)
「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。」

(1995年村山談話)
「私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」

(B)「植民地支配」

(2015年安倍談話)
「圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、 アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」
「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。」

(1995年村山談話)
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」

※村山談話全文(1994年・1995年)はこちら→*https://ch-gender.jp/wp/?page_id=1226

 

○(資料:全文)平成27年8月14日内閣総理大臣談話(閣議決定)

終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、 アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者 を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流 が生まれました。

当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大 きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、 その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

そして七十年前。日本は、敗戦しました。

戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼 熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによっ て、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみな らず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりま せん。

何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれ の人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。

二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。

事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまい りました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、 インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その 平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。

ですから、私たちは、心に留めなければなりません。

戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本 人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、 互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。

そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。

寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代 へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの 国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重 し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国とし て、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そう した女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。

私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由 で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床とも なる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。

私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を 揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいり ます。

終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

平成二十七年八月十四日
内閣総理大臣  安倍 晋三

(赤字・青字・緑字等は解説者による)

(3)有識者懇談会報告書(2015年8月6日)「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」

(3)-① 報告書と安倍談話の関係

本報告書は、安倍談話の参考としてまとめられたものである(下記「はじめに」末尾を参照)。争点とされた「侵略」「植民地支配」(②)と、慰安婦問題(③)に関して該当箇所を引用し、若干の解説をつけておく。

報告書全文はこちら(官邸発表)→*http://www.kantei.go.jp/jp/singi/21c_koso/pdf/report.pdf

報告書より「はじめに」
本懇談会は、平成27年2月25日に開催された第1回会合にて、安倍総理より、懇談会で議論する論点として、以下の5点の提示を受けた。
1 20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか。私たちが20世紀の経験から汲むべき教訓は何か。
2 日本は、戦後70年間、20世紀の教訓をふまえて、どのような道を歩んできたのか。特に、戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献をどのように評価するか。
3 日本は、戦後70年、米国、豪州、欧州の国々と、また、特に中国、韓国をはじめとするアジアの国々等と、どのような和解の道を歩んできたか。
4 20世紀の教訓をふまえて、21世紀のアジアと世界のビジョンをどう描くか。日本はどのような貢献をするべきか。
5 戦後70周年に当たって我が国が取るべき具体的施策はどのようなものか。
懇談会では、総理から提示があった各論点につき、7回にわたり会合を実施してきた。今般、これら会合における議論を、総理から提示があった論点に沿って本報告書としてとりまとめた。本報告書が戦後70年を機に出される談話の参考となることを期待するものである。
報告書【目次】
懇談会のメンバーとこれまでの開催経緯
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
1 20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか。私たちが20世紀の経験から汲むべき教訓は何か。
(1)20世紀の世界と日本の歩み・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
ア 帝国主義から国際協調へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
イ 大恐慌から第二次世界大戦へ・・・・・・・・・・・・・・・・・3
ウ 第二次世界大戦後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
エ 20世紀における国際法の発展・・・・・・・・・・・・・・・・5
(2)20世紀から汲むべき教訓・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
2 日本は、戦後70年間、20世紀の教訓をふまえて、どのような道を歩んできたのか。特に、戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献をどのように評価するか。
(1)戦後70年の日本の歩み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7
ア 敗戦から高度経済成長へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7
イ 経済大国としての日本・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
ウ 経済低迷と国際的役割の模索・・・・・・・・・・・・・・・・・9
エ 安全保障分野における日本の歩み・・・・・・・・・・・・・・10
(2)戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献への評価・・・・・・・11
3 日本は、戦後70年、米国、豪州、欧州の国々とどのような和解の道を歩んできたか。
(1)米国との和解の70年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13
ア 占領期・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13
イ 同盟関係の深化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
ウ 緊張する日米関係・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
エ グローバルな協力関係に進化する日米同盟・・・・・・・・・・16
(2)豪州、欧州との和解の70年・・・・・・・・・・・・・・・・・17
ア 根深く残った反日感情・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
イ 政府、民間が一体となった和解への歩み・・・・・・・・・・・18
(3)米国、豪州、欧州との和解の70年への評価・・・・・・・・・・184
4 日本は戦後70年、中国、韓国をはじめとするアジアの国々とどのような和解の道を歩んできたか。
(1)中国との和解の70年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
ア 終戦から国交正常化まで・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
イ 国交正常化から現在まで・・・・・・・・・・・・・・・・・・21
ウ 中国との和解の70年への評価・・・・・・・・・・・・・・・23
(2)韓国との和解の70年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
ア 終戦から国交正常化まで・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
イ 国交正常化から現在まで・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
ウ 韓国との和解の70年への評価・・・・・・・・・・・・・・・26
(3)東南アジアとの和解の70年・・・・・・・・・・・・・・・・・27
ア 東南アジアとの和解の70年・・・・・・・・・・・・・・・・27
イ 東南アジアとの和解の70年への評価・・・・・・・・・・・・29
5 20世紀の教訓をふまえて21世紀のアジアと世界のビジョンをどう描くか。日本はどのような貢献をするべきか。
(1)20世紀の世界が経験した二つの普遍化・・・・・・・・・・・31
(2)21世紀における新たな潮流・・・・・・・・・・・・・・・・32
(3)世界とアジアの繁栄のために日本は何をすべきか・・・・・・・33
6 戦後70周年に当たって我が国が取るべき具体的施策はどのようなものか

(3)-② 報告書における「侵略」「植民地支配」の認識

【解説】報告書は、日本による「侵略」と「植民地支配」を明記し、政府・軍の責任は重いと断定した。また、日本の戦争がアジア解放のためであったと正当化することもできないとした。安部談話は、報告書の内容を踏まえているが、日本による「侵略」「植民地支配」を曖昧にしており、政府や軍の責任も明記していない。下記本文引用の赤字部分が、安部談話に反映されていない箇所である。

「こうして日本は、満州事変以後、大陸への侵略(注1)を拡大し、第一次大戦後の民族自決、戦争違法化、民主化、経済的発展主義という流れから逸脱して、世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた。特に中国では広範な地域で多数の犠牲者を出すことになった。また、軍部は兵士を最小限度の補給も武器もなしに戦場に送り出したうえ、捕虜にとられることを許さず、死に至らしめたことも少なくなかった。広島・長崎・東京大空襲ばかりではなく、日本全国の多数の都市が焼夷弾による空襲で焼け野原と化した。特に、沖縄は、全住民の3分の1が死亡するという凄惨な戦場となった。植民地についても、民族自決の大勢に逆行し、特に1930年代後半から、植民地支配が過酷化した。1930年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重いと言わざるを得ない。なお、日本の1930年代から1945年にかけての戦争の結果、多くのアジアの国々が独立した。多くの意思決定は、自存自衛の名の下に行われた(もちろん、その自存自衛の内容、方向は間違っていた。)のであって、アジア解放のために、決断をしたことはほとんどない。アジア解放のために戦った人は勿論いたし、結果としてアジアにおける植民地の独立は進んだが、国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない。

(注1)複数の委員より、「侵略」と言う言葉を使用することに異議がある旨表明があった。理由は、1)国際法上「侵略」の定義が定まっていないこと、2)歴史的に考察しても、満州事変以後を「侵略」と断定する事に異論があること、3)他国が同様の行為を実施していた中、日本の行為だけを「侵略」と断定することに抵抗があるからである。」(報告書3~4頁)(赤字は解説者による)

(3)ー③ 「報告書」における「慰安婦」問題への言及(全3カ所)

【解説】報告書のなかで「慰安婦」に明示的に言及されているのは3か所である。3件の言及のうち、オランダと東南アジアについては、アジア女性基金(→*【史料】アジア女性基金)の取り組みが評価されたとしている。以下に、3つの言及個所を引用する(赤字・青字は解説者による)。

(1)オランダ

「戦争捕虜の問題に加えて、慰安婦の問題が存在したオランダに対しては、アジア女性基金の事業により、政府予算からの医療・福祉支援事業と総理大臣のお詫びの手紙が被害者の方々に支給された。慰安婦問題の存在もあり、オランダは英国に増して厳しい対日感情が存在する国であったが、歴代総理からの真摯なお詫びの手紙と元被害者への支援事業は、オランダ政府からの理解を得、同国内で肯定的な評価を得た。」(報告書18頁)

(2)東南アジア

「日本との間で第二次大戦中の慰安婦問題が存在したフィリピン、インドネシアとの間では、1990年代のアジア女性基金の活動により、同問題に関する和解は大きく進んだ。このうちフィリピンでは、アジア女性基金から償い金が支払われ、日本政府による医療福祉支援事業が実施され、そして首相からのお詫びの手紙が被害者の方々へ渡され、インドネシアでは高齢者社会福祉推進事業が実施されたことにより、慰安婦問題に起因する反日感情は大きく和らぐこととなった。」(報告書28頁)

(3)韓国

「1987年に民主化を達成した韓国は、1988年のソウル五輪を成功させ、経済成長と共に国際的な地位を高めていく。民主化され、強権的な政治体制ではなくなったことにより、韓国国内において理性ではなく心情により日本との関係を再考するための障害はなくなった。この時期、慰安婦問題に関心が集まるようになった。日本は1990年代前半から半ばにかけて河野談話、村山談話を発表し、韓国人元慰安婦に対して女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)による事業を行うなど、日韓間の距離を縮める努力を進めた。その後、1998年に大統領に就任した金大中は同年、小渕恵三首相との間で日韓パートナーシップ宣言を発表し、日韓両国が未来志向に基づき、より高い次元に二国間関係を高めていくことが合意された。日韓パートナーシップ宣言において、小渕総理は、「今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べ」、金大統領は、「かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である」旨表明した。
しかし、この良好な日韓関係は金大中の後の盧武鉉政権において変化する。(中略)2008年に10年ぶりの保守系政権として李明博政権が誕生すると、日本は同大統領が理性に基づいた対日政策を選択し、盧武鉉政権で傷ついた二国間関係が改善することを期待した。李明博大統領は、日米との関係強化を推進し、未来志向に基づいた日韓歴史共同研究(第二期(第一期は2002年-2005年))を始める等、就任当初は理性に基づき日本との関係を管理するかに思われた。しかし、2011年8月に韓国憲法裁判所が、韓国政府が慰安婦問題について日本と交渉を行わないことは憲法違反であるとの判決を出すと、同大統領の対日政策は変化し、国民感情を前面に押し出して日本に接するようになる。同年12月に行われた日韓首脳会談において、李明博大統領は慰安婦問題につき日本が誠意を示すよう求め、また、2012年8月には竹島に上陸し、李明博政権末期には日韓関係はこれまでで最悪の状態に陥った。(中略)朴槿惠大統領は、李明博政権下で傷ついた日韓関係の修復に取り組むどころか、政権発足当初から心情に基づいた対日外交を推し進め、歴史認識において日本からの歩みよりがなければ二国間関係を前進させない考えを明確にしている。盧武鉉、李明博という過去2代の大統領が就任当初は理性に基づいて日本との協力関係を推進したのに対し、朴槿惠大統領は、就任当初から心情を前面に出しており、これまでになく厳しい対日姿勢を持つ大統領である。この背景には、朴大統領の慰安婦問題に対する個人的思い入れや、韓国挺身隊問題対策協議会のような反日的な団体が国内で影響力があるということもあるが、それに加えて、韓国の中で中国の重要性が高まり、国際政治における日本との協力の重要性が低下していることが挙げられる。(以下略)」(報告書24-26頁)