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アジアにおける女医の誕生と日本の女医の現状
掲載:2015.10.25 執筆:小川 眞里子; 三浦 有紀子
要旨科学・ 技術分野における 女性の人材育成は 、一昨年あたりから熱心に取り組まれつつある。男女の教育機会の公平は認めるにしても、多くのポスドクを抱える中で、さらなる積極策については異論なしとはしない。しかし、医学だけは例外である。いかなる科学・技術分野に も先駆けて、女性は医師を目指してきたし、深刻な医師不足の中で、女性医師に期待されるものは少なくない。まだ踏み出したばかりの研究であるが、いずれはアジア地域全体へと広げて行くべきテーマである。(初出2008年) |
アジアにおける女医の誕生と日本の女医の現状
少子高齢化で世を挙げて出産が奨励されているというのに、医師不足で妊婦や産婦が病院をタライ回しされ、その挙句に命を落とすという痛ま しい事件が頻発している。一時に2 人分の命がかかっているのであるから、もう少し何とかならないものかと考えるのだが、単に医師不足、ベッド数不足というだけではなく、周産期医療の高度化に伴う問題もあるようだ。そうした現実の一方で、近年、近代女医のパイオニアの物語がアジアで注目されている。 女医と称するにはちょっと抵抗があるが、韓国のチャングムは大変な人気であるし、台湾の蔡阿信については長編の伝記が書かれ 、それに基づくテレビドラマが人気を博している 。韓国においては、女性の科学技術分野へのサポートを行なう政府機関NIS-WIST が 2005 年に設立されて 、積極的な活動が始められたが、NIS-WIST の出版物にアイドル的存在としてよく登場するのが、女性医師エスター・キム・パク ( Esther Kim Pak 1877-1910) である。 彼女は韓国人として西洋医学を修めた最初の医師であった。
近年わが国も 含めようやくアジア全般で、理系の女子学生、女性研究者育成への取り組みが進められているが、アメリカではすでに20 年、欧州連合でも 10 年余の歴史を刻み、科学における女性の歴史や女性科学者の現状を示す統計が整備されてきている。なかでも欧州連合の統計冊子She Figures 2003, She Figures 2006 は、世界の模範である。そうした欧米の先進的取り組みの中で待たれているのが、アジアからの情報である(1)。
以下は、いずれ欧米に向けて発信すべきアジアにおける情報収集の手始めに、アジアにおける女性医師と日本の女性医師の現状を簡単にまとめようとしたものである。アジア地域の「 科学における女性」 プログラムは、アジア学術会議、アジア太平洋経済協力会議 ( APEC)、 またユネスコが関係する RESGEST などで取り組みがはじまり、まとまりのある情報収集が望まれているところである。
乏しいアジアからの情報発信
2000 年に出版さ れた 『 科学に携わる 女性の伝記事典』 ( 以下 『 伝記事典』) は、総頁 1,499 頁、収録人数 2,500 名に達する 画期的な大型二巻本であ る。 たしかに欧米の女性科学者技術者についてはよく網羅さ れて いる。 しかし、アジアの視点からその事典を見直してみる と、情報源が極めて限定的であることに驚きを禁じえない(2)。 アジアの国々からエントリーされている女性を一覧( 表 1) にまとめてみると ( 7 カ国そ れぞれ 1 から 7 名で総数 26)、まず目に付くのは、出典の乏しさである。 中国の女性については別途に情報が入手されている が、他の国々については出典をほとんどヘルステッドの『世界の女医:医療パイオニアの自伝』 に頼っている(3)。 したがってエントリーさ れた人物の大半は 、医師として活躍した人である。 しかも同書は 1978 年の出版に際し 、 自伝を寄稿できなければならないから 、その時に亡くなっている人は落ちている。 2000 年出版の事典の編纂に当たって、1978 年出版の書籍に全面的に依拠しているということは、それだけで情報は20年遅れてしまうし、他分野やそれ以前に没した人物は含まれない。
おそらくこれほどの女性科学者伝記事典が全面改訂されることは当分ありえないだろうことを考えると、1990 年代後半の時点で広く情報が収集されなかったことはきわめて遺憾である。 しかしおそらく責任の大半は私たちアジアの女性の側にあると言わなければならないだろう。欧米から見ると、あまりに情報発信が少なすぎるのである。個別の論文は多少書かれてきているにしても、ある程度まとまって参照できる英語の文献はきわめて乏しい 。『 伝記事典』 の巻頭に記された寄稿者の中に日本人の名前はもちろん、東洋人の名前を見出すことは出来ない。2001 年には、 日本を代表する女性科学者が自らを英文で綴った 『 マイ・ライフ』 (My Life) が出版された。 また 「アジア太平洋物理学会J は最新号で 「 女性物理学者」 を特集している が、 マリー・キュリーや呉健雄はあまりに有名でとくにこの地域に限定した発掘、再発見という ものではない。拙稿の狙いは個別の科学者・ 技術者の紹介ではないが、グローパルな情報に乗り遅れないために、アジアからの発信の不足を少しでも補っていくことが重要であることを指摘しておきたい(4)。
しかし、とりあえずこの一覧表からアジアにおける女性医師については多くの情報を得ることができるのである。 これを検討し、誤りは訂正し ながら 女性医師の概略を辿る のが本稿前半の目標である。
女性医師のネットワークは世界的なレベルで早くから整備されているし、どの国においても女性の科学者・技術者となると、まずは女性医師が挙がってくることは十分に理解できる。 しかし女性が正規の医学教育を受けて医師の資格を得ることは、西洋においてもけっして容易なことではなく19 世紀後半のことである。アメリカでは エリザベス・ブラックウェル Elizabeth Blackwell (1821ー1910)、 エミリ・ブラックウェル Emily Blackwell (1826ー1910)、 アン・プレストン Ann Preston ( 1813-1872)、マリー・ツァケルツェウスカ Marie Zakrzewska (1829ー1902)、 メアリー・パトナム・ジャコービ Mary Putnam Jacobi (1842-1906) らの名を初期の功労者として挙げなければならな いだろう 。英語圏で最初の正規の医師になったのはエリザベス・ブラックウェルで、19 世紀半ばのこととされている 。彼女は1866 年に女性のために医科大学をニューヨークに開設した。その彼女に鼓舞される形で、英国最初の女性医師となったのはエリザベス・ギャレット・アンダスン Elizabeth Garrett Anderson ( 1836-1917)である 。彼女は 1866 年 「 女性のための聖母マリア施療院」を開設し、1874 年にはソフィア・ジュクス=ブレイク Sophia Jex-Blake (1840-1912) によってロンドン女子医学校が設立され、恒常的に女性医師が巣立っていくことになった(5)。
アジアの女性医師パイオニア
西洋での女性医師の活躍の時期をおよそ掴んだ上で、私たちにとってある程度事情がわかる日本の女性についてまずは見てみよう。荻野吟子 ( 1851-1913) がエントリーされていることに異存はない。しかし、吟子は G というイニシャルだけであるし、生没年は不明で 1880 年代 という活躍の時期のみが記されている。荻野が最初の女性医師とされるなら、次いで名前が挙げられてしかるべき人物は吉岡弥生 ( 1871-1959)である。エント リーされた 「 ミヤジクニエ」 「 テツオタマヨ 」 「 タケウチシゲヨ ( 竹内茂代) 」 の三人がともに東京女子医大の卒業生であることから、そろって吉岡に言及しているにもかかわらず、彼女はエント リーされていない(6)。 『 伝記事典』 のエントリーの原則は 1910 年までの誕生、あるいはそれ以降に誕生してもすでに没した人ということである。それならば女医として吉岡弥生のほかにも 、ペンシルヴェニア女子医科大学に学んだ岡見京子や日本女医会の創設に尽力した前田園子らがあげられるべきである。さらにそれ自体一般的な女性科学者の伝記事典であることを考慮するなら、当然化学者の黒田チ力、物理学者の湯浅年子といった多くの人選の可能性が考えられる (7)。
日本における女性医師の誕生は 、荻野が医師開業試験に合格したのが 1885 年、吉岡が東京女医学校を設立し たのは 1900 年であることを、先の欧米の状況と比較すると、35 年ほどの遅れが見られるが、他の科学分野に比してこの遅れは小さいものと評価できる。それこそが医療という分野における女性の活躍に対する期待が、あまねく存在することの証でもあろう 。
植民地時代のインドにおいても 、女性医師を幾人か挙げることができ る(8)。インドの女性医師第一号と目されるのは、カダンビニ・ガングリ- Kadambini Ganguly ( 旧姓パス Basu) (1861-1923) で 1883 年にベスューン大学を卒業し 、同年医科大学に入学し 、1886 年ベン ガル医科大学卒業の資格を得て 1888 年から レディ・ダフリン婦人病院に奉職し、後にはインドの 国会議員にもなった。 またマラータ族の女性アナンディパイ・ジョシ Anandibai Joshi (1865-87) は、アメリカのペンシルヴェニア女子医科大学に学んだ才媛で、帰国後インド西部 のコルハプルの新設病院に婦人科の医師として奉職したが翌年没した(9)。 天折したジョシは致し方な いとしても、『 英国人名辞典』にもエントリーされている ガングリーの名前が落ちているのは訂正されるべきことである(10)。インドのクリスチャンの女性医師として挙げられる のはヒルダ・ラザラス Hilda Lazarus で、彼女の名前は先に述べた 『 伝記事典』 に見出すことが出来る 。
日本の植民地時代の台湾には ( 1920-1942) 、女性に医学教育を行なう機関がなく 、医学を志す女性はほとんどが日本で教育を受けた。 その時期に日本に留学し た台湾籍の女性は 、東京女子医大に 101 名、帝国女子医専 ( 現 東邦大学医学部) に 76 名、東洋女子歯科専門学校に 50 名で、 この三校で 227 名に上るが、 これらの留学生に関する研究はほとんど手付かずの状況である(11)。このうちの最初期の一人が蔡阿信 ( 1899-1990)で、彼女は西洋医学を修めた台湾初の産婦人科医として活躍した。 2005 年には東方白によって彼女をモデルにした長大な小説 『 浪淘沙』 ( Sand in the Wave) が 12 年の歳月を経て完成され、テレビドラマ化されて好評を博した。 2006 年 3 月の台湾の 「 婦女節」 に陳水扇総統は、台湾最初の女子専門学校である淡江中学を訪れて、台湾を男女平等の理想国家へと向けて発展させる意気込みを語り、同中学出身の蔡阿信の功績を褒め称えたという(12)。科学技術分野を専攻する女子学生が少なくない台湾については、今後が大いに期待されるところである。
タイにおいては、『伝記事典』 にエントリーされていないピエヌ・ホン・ウェチャブン Pierra Hoon Vejjabul (1910ー )が女性医師の最初と目される。彼女はパリ大学医学部に学び、1932年に卒業して 1937 年にタイに戻り、公衆衛生省に勤務して女性の性病撲滅のために闘った。 彼女は婦人と子供のための病院を設立し、35人もの子供を彼女自身の養子として迎え成人させたという(13)。
最初に触れた韓国では 1887 年にシカゴ女子医科大学出身のメータ・ハワード Meta Howard と リリアン・ホ一トン Lillian Horton の二人が、メソディスト教会の女性海外布教団によってソウルに派遣された。ハワードは2 年ほどで健康を損ない帰国を余儀なくされたが、ホ一トン 医師は官立病院の婦人科を担当した。アメリカから多くの女性医師が医療伝道師として朝鮮を訪れたが、国内には女性医師を養成できる機関がなく、エスター・キム・パクは渡米し、1900 年にボルティモアの女子医科大学を卒業して、医業を開始した(14)。
フィリピンに関しては『 伝記事典』の記載通り、 オノリア・アコスタ・シソン Honoria Acosta-Sison が女性医師の最初とされている。フィリピンは他のアジアの国々と様相を異にしている。現在でも、理系の女子学生や女性研究者が比較的多く存在しているが、医学に限って見ても早くから女性の医師としての自立がサポートされてきたことを知ることができる。1908年にフィリピン大学医学部、1930 年以降にはサント・トマス Santo Tomas 大学の医学部が女子を受け入れ、1931 年にはマニラ中央大学が女性医師をめざす学生の入学を認めた。 1952 年の時点で毎年千名もの女医が登録するということで、ある意味アメリカのリベラルな風土の良い影響が醸されていることを伺うことができる。しかし、ここに紹介するアコスタ・シソン が医師をめざすときには国内に女子を受け入れる医学部はなく、彼女は同僚のオリヴィア・サラマンカ Olivia Salamanca とともに、ペンシルヴェニア女子医科大学に学び、それぞれ 1909 年、 1910 年に学位を取得した。 アコスタ・シソンはさらに研績を積んだ後に祖国に戻り、フィリピン大学の医学部産科婦人科の教授となり 、同科の科長にもなった。 彼女は同じ大学の医学部長でありフィリ ピン総合病院の院長でもあるアントニオ・G・シソン Antonio G. Sison と結婚して、40 年にわたって祖国の医学的進歩のために尽力した。フィリピン国内で教育を受けて女性医師になった、いわゆる第二世代の第一号は、 マリー・パズ・メンドーザMarie Paz Mendoza である。 彼女は 1908 年にフィリピン大学医学部に入学し 、1912 年に卒業して同国で医学の学位を得た最初の女性となった。彼女はフィリピン 総合病院の外科部長ガウゾン Gauzon と結婚し、長年病理学者として奉職し、のちに同大学最初の女性学部長になり、大学女性研究者フィリ ピン協会の会長にもなった。
『 伝記事典』には彼女のほかに医療伝道師として 1906 年にマニラに到着した レベッカ・パリシ Rebeeca Parrish を挙げている。パリシはインディアナ出身であるが、どこで学位を得たのかは不明である。彼女はメアリー・ジョンストン病院および看護婦の訓練学校を設立し、1933 年まで当地で活躍した。 アジアにはパリシのような医療伝道師が数多く訪れているが、もっともそれが盛んであったのが、おそらく中国であっ たろう(15)。
中国最初の医療伝道師は、Lucinda Coombs とされる。 中国には概して多くの女性医師宣教団が訪れている が、なかなか中国生え抜きの女性医師は誕生しない。中国人女性として初めて医学の学位をとったのは Ya Mei Kin で、 1885 年にアメリカで学位を得た。 引き続きアメリ カで、顕微鏡写真の分野で活躍したのち、天津で女性と子供のための病院を開設した。Marion Yang は広範囲な公衆衛生活動で知られている が、詳細についてはわからない。 あらゆる分野で女性の活躍を見出すことのできる中国であるが、医学分野に限っては女性医師の養成が遅れたようである(16)。
以上、情報はきわめて限られているが、アジアにおける学術交流の機会が増えつつある今日、互いに情報をもちよって内容を充実させていくこ とはけっして難しくはないはずである 。
わが国における女性医師
これまでは、アジアにおける女医の創成期に活躍した女性医師について述べてきたが、現在わが国における女性医師養成の現状を医師養成課程入学前から考えていきたい。
大学生の専門分野分布状況は 、彼らの高校在学時点で 、既にある程度予測可能である。大抵の場合高等学校には、将来受験する大学や学部の受験科目を効率よく履修できるようなコースが設定されており、概ね1年生の段階で、文系か理系かの選択をすることになっている。医師養成課程への進学を目指す女子学生は、受験科目の少ない私立大学医学部を受験する場合でも、英語と数学 ( II・B あるいはⅢ・C まで)の他理科 ( 物理、化学、生物) のうち1科目ないしは 2 科目の I および Ⅱについて準備が必要になるので、文理選択時に理系を選んだ女子の中から養成されることになる。
表 2 には、平成 17 年度大学卒業者の分野別人数を示した。大学卒業者に占める女子比率は 42% であり、理系 ( 理学、工学、農学およ び保健分野) に限定する と、30% を下回る。株式会社ベネッセコーポレーションが経済産業省の委託を受けて平成 17 年に実施した「 進路に対する振返り調査一大学生を対象として-」(→http://berd.benesse.jp/koutou/research/detail1.php?id=3170)では、高校時代の教科の好き嫌いに性差があり、数学が好きな男子、国語や英語が好きな女子という 傾向がはっきりと出ている(17)。たとえ、医師になりたいという希望があっても目の前の受験に大きな壁を感じてしまい断念するケースは、得意科目ということのみを考えると、男子より女子に多いことが推察される 。
その一方で、「 医師になりたいから、理系を選択し、医学部に合格した」 という女子も多いと思われる。 前述のベネッセの調査では 、「職業を意識した時期」 について質問し 、その結果を本人の在籍学部系統別に示している。教育学や医歯薬看護学系統では他の系統に比べて 、小中学校時代で既に意識している比率が高くなっているが、その要因としては、学校の先生や医師、看護師等、子どもにとって身近な職業であり 、なおかつ資格取得と大学の選択が非常に強く関連していることが考えられる。いずれの学系統でも女子の方が職業意識の芽生えが早い傾向が示唆されるが、医歯薬看護学系統では明らかな性差が報告されている。これらの学系統に進学した女子大学生の半数近くが、既に小中学校時代に職業を意識していた一方、男子では 2 3% に留まっている 。こういった報告を参考にすると、「 医師になりたかったから理系コースを選択し、医学部に合格した」 という学生は、男子より女子に多いことが推察される。逆にいうと、女子は早い段階で職業を意識し、その時のかなり 制約された情報源をもとに職業人としての成功イメージを抱いてしまうために、医歯薬看護学系に流れやすいともいえるかもしれない。
将来非常に有望な職業であることを期待し、またその崇高な職業目的に憤れて医師を目指す女性は、数年前まで順調に増加 していたが ( 図1 ) 、近年では女子比率が 30% を超えたあたりでその伸びが止まってしまっている。既に述べたように、大卒者に占める 女子比率が約 4 割、 理系に限定すると 3 割弱であることを考えると、医学部入学者が男子か女子かという段階での均衡状態に達したといえなくもない。しかし 、それ以外の要因も否定はできまい。医師という職業人としての社会的地位が、国家資格を取得することで約束されるということは大変魅力的なことであるに違いないが、過酷な労働環境に関する情報がにわかにメディアを賑わせていることから、医師のワーク・ライフ・バランスの厳しい現状を知ることになり、特に女子が二の足を踏むようになったということも考えられるのである。たとえば、独立行政法人労働政策研究・研修機構がメールマガジンにより提供する情報を検索しただけでも、2007年上半期だけで、医師の過労死、過労による自殺に対する労災認定 、賠償訴訟が 5 例、勤務医の過酷な労働条件の改善等を訴える日本医労連の提言が発見できた(18)。も し、諸外国に比し、我が国の女医育成状況が芳しくないのであれば、こういった医師のワーク・ライフ・バランスの現状が影響していると考えざるを得ない。
大学医学部 ( 医師養成課程) 卒業者に占める 女子比率が 1992 年には 20% を、2000 年には 30% を越えたにも かかわらず、医療施設に従事する医師に占める 女性比率は 、16.4% (2004 年) でしかない(表3)。経済的にも社会的にも優遇さ れると思われる医師という職業においても 、男女で離職傾向が異なることが示唆される。さらに、女性医師が自らの生活設計を考慮に入れて自分の診療科を選択している傾向は、既に指摘されており(19)、医療施設に従事する女性医師比率を診療科別にみると、皮膚科で 38.0%、眼科では 36.8% となっている。その一方で、女性医師比率が低いところでは数%、たとえば外科で 4.6% 、整形外科で 3.6% であるから、女性医師の分布状況にはかなりの偏りがあることがわかる 。先に述べた医師の過労死、過労による自殺の労災認定やその訴訟の例や一連のニュース等でもわかるように、医師不足が懸念されている 「 小児科 ( 女性医師比率 31 .2%) 」 、「 産婦人科 ( 同 21.8%) 」 、「 麻酔科 ( 同 29.1%) 」 等でも女性医師比率は比較的高い。
「 小児科」 「 産科」 は緊急性の高い診療科であ り、医師不足という事態が社会に与える影響は他の診療科よりも大きいと考えられる。さらに、安心して産み育てられる環境の実現には、これら診療科における医療の充実が不可欠であるし、少子化が世界でも他に例を見ないほど早い速度で進行しているわが国においては一層強く望まれるところである。医師の離職傾向については充分な観察と分析をし、そして適切な対策がとられてしかるべきであろう 。
医師として一人前に育った戦力を出産や育児といったライフイベントで失うことにならないよう、いくつかの試みが始まっている (20)。ここでは特に、麻酔科の例を挙げてみた。先に引用した長瀬の報告も日本臨床麻酔学会からのものであったが、麻酔科関連学会では、近年女性医師に関するシンポジウム等がいくつか企画されている(21)。新たな臨床研修医制度導入などで、新人医師の獲得競争が激化し、 しかもそれ以前から麻酔科では慢性的なマンパワー不足が起こっており、所属医師に占める女性比率が高い医局では、何とか女性に仕事を続けて欲しいと望まずにはいられないという。「 麻酔科」 は他の診療科と事情が違い、医師の標楊科変更の際には流出のみが目立ち、流入がほとんど見込めないといった背景もある(22)。
このような状況下、大阪大学麻酔科による「 ママ麻酔医制度」 等の取組みがなされるようになった(→http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/anes/www/html/masui-kouza/info_mama.html)。 これは、①子どもの保育所の保育時間にあわせての勤務 、②当直免除 、③子どもの急病時の急な欠勤は不問 ( バックアップスタッフの用意)という条件の下に出産後の女性麻酔科医の復職を支援しようというものである(23)。実際にこの制度を利用して復職した女性医師の声を聞くと、一定の成果が現れているように思えるが、こういった取組みは、限界に近いマンパワー不足に達した状態ではもう既に時遅し、制度を実現するために必要なバックアップスタッフがどこにも見当たらないという状況では実施できないということをよく理解すべきである。また、このような制度が一方的な育児世代の女性の支援とその他の世代および男性の負担増加という形で実現されるべきではないということも論を待たない。 育児世代の女性医師を支援することから始まった検討が、医師のワーク・ライフ・バランスの向上やそれによって医療の質の向上や充分な医師数の確保にまで発展することを多くの人が願っているだろう 。
東京女子医科大学の前身 、東京女医学校の創立者である吉岡弥生は、当時いかにも低かった婦人の社会的地位を向上せしめようとしたのが創立の動機であると述べている。彼女は、女性の社会的地位向上には 、経済的能力が不可欠であり、その能力獲得手段のひとつとして、医師になる ことが有効であるから 、女子に対して医学教育を施そうと考えたわけである。現在、 医師になることが女性に経済的能力を与えていることは確かであるが、それは医師として仕事を続けることが前提であろう。ある年代にさしかかった女性医師が 「 仕事か家庭生活か」 の選択を迫ら れていることは、他の職業と何ら変わりはない。今後、この問題に対していかなるアクションがとられていくのかは、社会における医師の不足感と無関係ではないことだけはいえそうである。
より広い枠組みの中で
現状については 、わが国における女性医師について述べるにとどまったが、さらにめざすべきはアジア各国における女性医師の状況である。歴史的にはどの国においても欧米への留学によって、あるいは正規の医師養成課程のない中で、女性たちは苦労して医師資格を取得して、あたらしい道が拓かれてきたのである。そうした先輩女医たちの働きがいかに発展的に継承されているのかは、ぜひ検証しておくべき事柄であろう 。
そして、次に見ておくべきは女性医療の充実である。わが国では、女性医師を現場につなぎとめることだけでも困難でその先へと展望が語られないのであるが、冒頭で述べたような妊婦や産婦が置かれている切迫した状況は早急に解決が望まれ、女性が安心して子供を産むことができる体制は整えられなければならない。さらにその先において手本とすべきは、1990 年前後にアメリカで急速にすすめられた女性のための医療改革である(24)。 医学が男性中心に進められてきた弊害を見据えて 、真に女性の利益となる医療制度の確立を成し遂げた運動は、わが国においても早急な実現が望まれるものである。先進国の中にあって、著しく貧しかったわが国の乳がん検診がようやく平均的レベルになったのはつい最近のことであったことを忘れてはならない。
注
(1) 筆者の一人小川は 、2005 年 10 月から 2 年間トヨタ財団の助成を受け 、また 2006 年度には単年度の科研費の助成を受けて 「 アジアにおける女性科学者・技術者のネットワークの構築」に取り組んだ。 直接的・間接的に各国の参加メンバーに負っていることを記して感謝した い。She Figures 2003 には、比較のために掲載されるデータは合衆国と日本だけであったが、Key Figures 2005 になって少数ながら中国の データが含められ、EU のアジアへの関心の一端を垣間見ることができ る。
(2) Marilyn Ogilvie and Joy Harvey eds. The Biographical Dictionary of Women in Science ( New York & London: Routledge, 2000) Vols. 1 & 2. もう一冊女性科学者の情報が乏しい例を挙げておこう。 ジェニファー・アグロウ編纂マクミラン版『世界女性人名大辞典』竹村和子監訳 国書刊行会 2005 年に、東洋からの科学者として挙げられているのは中国の物理学者謝希徳 Xie Xide (1921-2000 )ただ一人である。
(3) Leone McGregor Hellstedt, Women Physicians of the World:Autobiographies of Medical Pioneers (Washington & London: Hemisphere Publishing Corporation, 1978) すべてが 3 から 4 頁の自伝の寄稿で編集されており、出典となる文献は一切なし。出版年は Hellstedt のものより1 年古いが、以下の文献の方がはるかに科学史的に優れている。 Sandra L. Chaff, Ruth Haimbach, Carol Fenichel, & Nina B. Woodside eds., Women in Medicine: A Bibliography of the Literature on Women Physicians (Metuchen, N. J. & London: The Scarecrow Press, 1977) . アジアの女性についてもよく網羅されている。『 伝記事典』にエントリーされたアジアの女性に関するもう一つの出典は 、Esther Pohl Lovejoy, Women Doctors of the World ( New York: The Macmillan Company, 1957) であり 、これも女医を扱っている。アジアの国々についても、英米の女性医師が伝道の一環としてアジアで医療に当たった時期から、インド、中国、日本、朝鮮、フィリピン 、タイでそれぞれ最初の女性医師が誕生してくるまでを描いている。 なお単行本ながらも、『伝記事典』 の欠を補うものとして、 Laura Lynn Windsor, Women in Medicine. An Encyclopedia (Calif.: abc-clio, 2002).
(4) Yoshihide Kozai et al. eds.,My Life: Twenty Japanese Women Scientists (Tokyo: Uchida Rokakuho, 2001).
(5) Lovejoy ( 注 2) のも のを参照のこと。英米の女医に関する記述は数多くあるが、主なものを紹介しておく。ジーン・アクターバーグ 『 癒し の女性史』 長井英子訳 春秋社 1994 年 第 15 章; レイチェル・ベイカー 『 世界最初の女性医師 』大原武夫・大原一枝訳 日本女医会 2002 年。
(6) エントリーされた3人の人物のうち竹内茂代は東京女医学校最初の卒業生で産婦人科医 、のちに医学博士となる。 また戦後初の総選挙で衆議院議員に当選して女性代議士としても活躍。残りの2 名についてはほとんど情報がなく、エントリーされることに疑問がある。
(7) 日本の女医については Mara Patessio and Mariko Ogawa,”To become a woman doctor in early Meiji Japan (1868-1890): Women’s struggles and ambitions," Historia Scientiarum, Vol. 15-2 (2005) pp. 159-176;湯浅年子については 、Kenji Ito,”Gender and Physics in Early 20'h Century Japan: Yuasa Toshiko's Case", Historia Scientiarum, Vol. 14-2 (2004) pp. 118-136. 都河明子・嘉ノ海暁子『 拓く』ドメス出版。 小川眞里子『 フェミニズムと科学/技術』岩波書店 2001 年 第 3 章。
(8) Geraldine Forbes, The New Cambridge History of India: Women in Modern India (Cambridge: Cambridge University Press, 1996) chap. 6.
(9) Lovejoy ( 注 8) では Joshi がJoshee と綴られている 。 彼女は子ども 時代に結婚し、13 歳で出産したが子どもは死に、それから学問を修め、22 歳を迎える前に亡くなっ た。
(10) Dictionary of National Biography, vol.21 pp. 385-386. ニューデリーの国立科学技術開発研究所 (NISTADS)のニーラム・クマール氏からの情報でも 、Ganguly をインド女医の第一号とする認識は一般的である。 また Wikipedia にも項目あり。 また Malavika Karlekar, Voices from Within (Oxford University Press, 1991) は、Ganguly の伝記的記述に多くの頁を割いている 。
(11) Chien-ming Yu,”The Colonial System, Female Medical Personnel and Their Social Status : Some Observations on the japanese Colonial Period in Taiwan," Wei-hung Lin and Hsiao-chin Hsieh eds., Gender, Culture and Society: Women’s Studies in Taiwan (Seoul: Ewha Womans University Press, 2005), pp. 339-388. 同じ著者の論文として以下も参照。游鑑明「植民地期の台湾籍女医について」『 歴史評論』1994 年 8 月、 57-74 頁。
(12) Taipei Times, Jun 12, 2005, page 18. 『台湾週報』 2006 年 3 月 8 日。
(13) Lovejoy ( 注 2) pp. 245-247.
(14) Rhoda Kim Pak,"Medical Women in Korea," Journal of the American Medical Women's Association, vol. 5, no. 3, 1950, pp.116-117; Rosetta Sherwood Hall,”Foreign Medical Women in Korea ",J . A. M. W. A., vol.5, no. 10, 1950, pp. 404-405.
(15) Lovejoy ( 注 2) pp. 241-245.
(16) 山田辰雄 『近代中国人名辞典』財団法人霞山会 1995 年。 および Howard L. Boorman & Richard C. Howard, Biographical Dictionary of Republican China (New York : Columbia University Press, 1979) 4 vols. 相当数の女性医師の名を検索してみたが、いずれからも見出すことができなかった。
(17) 平成 17 年度経済産業省委託調査報告書 「 進路選択に関する振返り調査一大学生を対象として 一」 ( 平成17年10月株式会社ベネッセコーポレーション )
(18) http://www.jil.go.jp/kokunai/mm/bn/index.htm
(19) 長瀬啓介 「 医師とくに麻酔科医の年齢階層別標榜科変更における性差」 『日臨麻医会誌』Vol.25 No.5, 487-493 (2005).
(20) 日本家庭医療学会編 『 がんばれ! 女性医師・ 医学生』プリメド社 2003 年。
(21)平川直美 「 女性医師の生産性」 『 日臨麻医会誌』 Vol.25 No.5, 482-486 (2005)
(22)http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/anes/www/html/masui-kouza/info_mama.html
(23) 東京女子医科大学公式サイ ト ( www.twmu.ac.jp)
(24) ロンダ・シービンガー『 ジェンダーは科学を変える!?』 小川眞里子・東川佐枝美・外山浩明訳、工作舎、2002年、第 6 章 医学。 M. H. カサマユウ『 乳がんの政治学』久塚純一監訳、早稲田大学出版部、2003 年。
初出:(Departmental Bulletin Paper / 紀要論文)
「アジアにおける女医の誕生と日本の女医の 現状」Origin of female doctors in Asia and tha present condition of Japanese female doctors、小川, 眞里子; 三浦, 有紀子Ogawa, Mariko; Miura, Yukiko
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要. 2008, 25, p. 181-191. http://hdl.handle.net/10076/9733【お願い】本記事は、女性人名を赤字にし、関係図版を追加するとともに、各種リンクをはっています。また、内容に関連する新規情報を【参考追加】として掲載するなど、加工を施しています。論文として引用する場合には、原本のPDFをご利用ください。
○PDF全文はこちら→小川眞里子・三浦有紀子「アジアにおける女医の誕生と日本の女医の現状」(三重大学人文論叢25号、2008年)
【参考】
○厚労省「女性医師のさらなる活躍を応援する懇談会 報告書」(平成27年1月23日)http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi2/0000071857.html
○【参考追加】として利用した厚労省資料のURLは右の通り→http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10801000-Iseikyoku-Soumuka/0000069214.pdf(資料は右をスクロールすると全文を見ることができます)→本図表は上記報告書のなかにも掲載されています。