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【解説】啓蒙主義の比較(英・仏・独)(三成美保)

啓蒙主義の比較(英・仏・独)

三成 美保(出典:三成美保『ジェンダーの法史学』勁草書房、2005年)

[1]イギリスとフランス

啓蒙主義は、1680年代から18世紀末のほぼ1世紀にわたり、全ヨーロッパ規模で展開した知的運動であり、社会運動であった。しかし、その性格は一様ではない。批判の対象とされた政治体制や宗派のあり方が、国により異なっていたからである。

イギリスでは、啓蒙主義は、比較的穏健な政治運動として展開した。1688年の名誉革命は、宗教戦争と絶対主義の終焉を意味した。こののち、自由主義プロテスタンティズムとむすびついたイギリスの啓蒙主義勢力は、既存勢力と妥協しながら、けっして急進化することなく、議会制の拡充をもとめていくことになる。

フランスでは、王権が文芸を積極的に保護した17世紀にすでに、デカルトの科学的精神に触発された反権威主義的な批判的精神もまた芽生えはじめていた。ナント王令の廃止(1685年)は、この批判的精神が、王権やカトリック教会にたいする攻撃へと転ずる直接的なきっかけとなる。フランス啓蒙主義は、反絶対主義、反教権主義という性格を色濃く帯びていたのである。

[2]ドイツ

これにたいして、ドイツ啓蒙主義には、つぎのような固有の特徴がみとめられる。①イギリス・フランスから継受された啓蒙主義、②宗派分裂と政治的分裂の影響、③啓蒙絶対主義との親近性、④「学術的」akademisch性格である。

①啓蒙主義がイギリスやフランスからの継受としてドイツに移入された結果、ドイツの啓蒙主義者たちは、啓蒙先進国としてのイギリス・フランスの出版物や政治的事件につねに注意をはらいつづけた。しかし同時にそれは、宮廷を支配したフランス文化に対抗して、ドイツ語の洗練化をはじめとするドイツ独自の文化を樹立する運動をも促進した。

②宗派分裂と政治的分裂は、二つの特徴をはぐくんだ。まず、宗派分裂を反映して、ドイツ啓蒙主義の最大の関心は、政治・社会問題にではなく、宗教問題におかれた。当初から、啓蒙主義は、プロテスタントや敬虔主義と密接なつながりをもって展開する。一方、政治的分裂は、啓蒙主義の文化的中心が分散するという結果をもたらした。ロンドンやパリのような情報や人が集中する拠点を欠くドイツでは、各地の都市に在住する知識人のあいだを媒介する文字情報がいっそうの重みをもったのである。

③ドイツ啓蒙主義は、啓蒙絶対主義と妥協しながら展開した。一部は「政治化」Politisierungしたが、それは秘密結社を母胎に強まったにすぎない。全体として、ドイツ啓蒙主義は、君主制の転覆はめざさず、むしろ、啓蒙精神を政治にとりいれ、啓蒙主義者を国政に参加させることを要求した。そのかぎりで、君主による「上からの啓蒙化」に積極的に貢献したのである。

④ドイツの啓蒙主義は、フランスやイギリスとくらべて、対話よりも読書を重視する傾向が強く、その意味で「学術的」性格が強かった。学術的文字情報の媒体が、新高ドイツ語である。17世紀半ば以降、官房ドイツ語とルター・ドイツ語がまざりあって生まれた新高ドイツ語は、そもそも、民間の口語からは意識的に距離をおく荘重華麗な文章用語であることをめざした。啓蒙期には、この高尚な文語的共通言語が、印刷物の標準言語とされ、啓蒙人の討論・談話・書簡用語となる。農民にとって、新高ドイツ語は、「ハレ」の言葉としてまったく無縁ではなかったとはいえ、日常言語にはなりえなかった。農民は、啓蒙主義の担い手たりえず、「民衆啓蒙」の対象にとどまる。啓蒙主義の学術化に対応できたのは、書籍・雑誌の媒体となった新高ドイツ語を自在にあやつれる階層、すなわち、一部の貴族と、都市在住の学識層・官僚、上層市民に限られていた。ドイツ啓蒙主義は、「インテリ啓蒙主義」Gelehrtenaufkla”rungnにほかならなかったのである。

世界史Ⅱ

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