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【法制史】ドイツ帝国憲法(1871年)(三成賢次)

*【特集8】法制史(西洋)

【法制史】ドイツ帝国憲法(1871年)(三成賢次)

2014.11.16三成賢次(初出『法制史入門』一部加筆修正)

(1)ドイツ帝国憲法

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ドイツ帝国成立の布告:男性的・軍事的国家であることが強調されている(ドイツ皇帝から宰相ビスマルクの70歳の誕生祝いに贈られた絵画、1885年): Proklamation des deutschen Kaiserreiches im Spiegelsaal von Schloss Versailles (idealisierendes Gemälde von Anton von Werner)

ドイツ帝国の成立 

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ドイツ帝国(1871-1918年)クリックすると拡大

プロイセン・オーストリア戦争ののち、プロイセンを中心に北ドイツ連邦が結成され、1867年7月1日に北ドイツ連邦憲法が公布された。さらに、1870年にスペイン王位継承問題をめぐりプロイセンは、フランスとの戦争に突入するが、開戦から1ヶ月でプロイセン軍は勝利する。その後パリ民衆の独立運動であるパリ・コミューンを弾圧を進めるなかで、1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿でプロイセン国王ヴィルヘルム一世はドイツ皇帝に即位し、4月16日にはドイツ帝国憲法が公布された。ここにドイツ帝国が成立し、いわゆる第二帝制がはじまるのである。ドイツ帝国憲法は、さきの北ドイツ連邦憲法をほぼ全面的に継承したものであり、連邦を帝国にあらため、連邦主席を皇帝と改称するなどの若干の語句訂正を行ったにすぎない。バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセンの南ドイツ諸邦は、すでに1870年11月の条約で北ドイツ連邦に加盟しており、帝国は22の君主国と三つの自由都市、計25の邦によって構成されていた。

連邦主義的構造 

帝国憲法では、プロイセン主導のもとに帝国が成立した経緯から、基本的にプロイセンの優位が保障されていた。しかし、ドイツ帝国は君主国家の連合体としての性格もあわせもっており、とくに連邦参議院(Bundesrat)は、帝国の連邦主義的性格を示す構造になっている。連邦参議院は、各邦政府が任命する代表者の使節会議であり、各邦ごとに異なる投票数をもち(第6条)、プロイセン17票、バイエルン6票、ヴュルテンベルク4票、バーデン、ヘッセン各3票等々となっていた。総計58票であり、それらの票は投票のさい各邦政府の訓令にもとづいて一括して投票すべきものとされていたのである(第6条、7条)。強制執行に際して連邦参議院の同意が必要なこと(第19条)、外交問題に関して連邦参議院に特別委員会として外交委員会がおかれていること(第8条)、そして憲法改正に関して、連邦参議院で14票の反対があれば否決できること(第78条)など、君主連合機関ともいえる連邦参議院にきわめて重要な権能が認めれているのである。
また、南ドイツ諸邦には憲法上一定の「留保権」が認められていた。バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンは、ビールとブランデーについて、独自に課税する権限を留保していた(第35条)。さらに、バイエルンとヴュルテンベルクには、郵便行政と軍事行政に関して特別な権限が明記されていた(第52条、第11章最終規定)。また、バイエルンには、鉄道に関して帝国の権限が一部及ばないことなどが規定されていたのである(第46条)。
帝国憲法には人権規定がない。帝国憲法は、統治構造とくに帝国の組織と帝国と各邦との関係を定めたものであり、人権保障については各邦の状況を尊重し、その内容はそれぞれの憲法規定にゆだねていたのである。

皇帝と宰相

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1871年のドイツ帝国国制(クリックすると拡大)

皇帝位は、プロイセン国王が世襲的に承継する。皇帝は、対外的には国際法上の代表権、宣戦布告権、条約締結権(第11条)を有し、内政に関しては連邦参議院と帝国議会の召集、開会、休会、閉会に関する権限(第12条)、帝国法律の認証、公布、執行監督の権限、ならびに命令・処分権(第17条)、帝国宰相の任命権(第15条)、帝国官吏の任免権(第18条)などの権限を保持していた。帝国のもう一つの側面、つまりプロイセンを中心とした中央集権主義がこれらの皇帝権限に現れている。
帝国宰相は、プロイセン首相が兼任することになっており、連邦参議院の議長をつとめ(第15条)、また皇帝の命令・処分が有効になるためには帝国宰相の副署が必要とされた(第17条)。憲法には帝国政府の規定はないが、帝国独自の行政事務が徐々に増大していくとともに、外務省、海軍省、植民省、郵政省、内務省、司法省、大蔵省、鉄道省が創設されていった。しかし、独自の行政組織をもっていたのはさきの4省だけであり、その他の省の事務は各邦官庁の協力をあおがなければならなかった。

帝国議会 

帝国議会は、帝国憲法において、立憲主義的要素を体現する存在であった。すでにみたように議会には法案の最終決定権は認めれておらず、自らの召集・解散などの権限ももたなかった。しかし、立法に関して議会は連邦参議院と同格であった(第5条)。立法には議会の同意が必要であり、連邦参議院も議会の意向を無視することはできなかったのである。連邦参議院とは異なり、議事が公開されたことによって(第22条)、政党は議会を通じて世論を操作することができるようになり、また法案提出権や請願権(第23条)あるいは質問権を利用することによって政府に対して圧力をかけることもできるようになった。
帝国議会議員の選挙は、普通・平等・直接・秘密で行われた(第20条)。25歳以上の男子すべてに選挙権が認められたのである。この選挙制度によって大衆の政治参加が実現し、労働者政党であるドイツ社会主義労働党(1890年にドイツ社会民主党と改称)が議会進出を果たした。大衆社会状況が生まれてくるなかで政党の組織化が行われ、選挙活動が強化されていった。政党は、この時期から名望家を基盤にした政党から大衆を対象にした近代的政党へと転換していくことになる。
しかし、397の選挙区でそれぞれ1名の議員を選出する小選挙区制がとられたことによって、またその後の各選挙区における人口変動を無視したため一票の重みに明らかな格差が生じていた。さらに、1878年には皇帝ヴィルヘルム一世に対する暗殺計画をきっかけに社会主義者鎮圧法が制定され、議会への影響力を徐々に強めつつあった社会主義運動の弾圧が行われた。この法律は時限立法であったがその後幾度か更新され、「帝国の敵」である社会主義者の政治運動を抑圧してきた。しかし、そのような弾圧にもかかわらず労働運動が高まるとともに1890年に同法は廃止され、それが一つの契機となってビスマルクの失脚へとつながっていくのである。

法の統一

憲法では、帝国の専属立法事項が定められていた(第4条)。 関税や通商、あるいは貨幣制度などの経済的統一に関する事項とともに、債権法、刑法、そして裁判制度などの法的統一が制限的に列挙されていた。しかし、憲法改正をしばしば行うことによって、帝国の立法権限は徐々に拡大され帝国法制の統一が進むのである。すでに北ドイツ連邦の時代に、手形法と一般ドイツ商法典が施行され、上級商事裁判所が設立されていた。帝制期にはいると1871年に帝国刑法典が公布され、1877年に民事訴訟法、刑事訴訟法、破産法が制定された。1879年には、裁判所構成法が成立し、また上級商事裁判所が帝国裁判所に改組された。そして、19世紀初頭の法典論争以降中断していた民法典(→ドイツ民法典の編纂)の編纂事業がようやく開始するのである。

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*【法制史】ドイツ民法典の編纂(1874-1896年)(三成賢次)

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