【特論5】Ⅰ-⑤ ナイジェリアにおける交換婚-消滅しつつある制度by C.K.Meek

D.K.Meek,” Marriage by Exchange in Nigeria: A Disappearing Institution,” Africa, 1936,Vol.9,no.1: pp.64-74.

2014.10.30掲載:富永智津子

ナイジェリアでは、結婚契約の主なものとして、次の2つの方法がある。(a) 婚資(bride-price)の支払いによるもの、(b) 交換によるもの。

 ここでは、今はやりのbride-wealthではなく、すでに定着しているbride-priceの用語を使用する。その理由は、ナイジェリアで使われている多くの言語に相当するのが、まさにbride-priceだからであり、bride-priceが花嫁に支払われる標準的な価格を意味しているからである。一方、bride-wealthは、花嫁に支払われる品物や結婚の贈り物を示唆するあいまいな用語である。

 「婚資による結婚」(=婚資婚)と「交換による結婚」(=交換婚)は厳密に区別することはできない。というのは、婚資婚は見方を変えれば交換婚でもあり、交換婚が貨幣や現物の支払いを全く伴わないというわけではない。また、娘のために受け取る婚資は、女性を交換するための単なる媒体といえるかもしれない。一方、交換婚は、普通は二人の男性が姉妹もしくは従姉妹をお互いに交換するシステムだが、これは必ずしも守らねばならない規則ではない。というのは、姉妹のいない男性は貨幣、もしくは結婚によってもうけた子供のひとりを差し出すことで代替ができるからである。このように結婚のすべての形態は、何らかの交換の要素を含んでいる。さらに、いわゆる交換婚の中には、本来の形態である姉妹の交換を伴わないものもある。しかし、本稿では、通常使用されている意味で婚資婚marriage by bride-priceと交換婚marriage by exchangeの用語を使用することにする。

  婚資婚はナイジェリアのどの民族(tribe)でも行われている。中には、交換婚や農業サーヴィス(訳注:未来の夫となる男性が花嫁側の農業労働を一定期間行うこと)のシステムを併存させている場合もある。しかし、交換婚は非ムスリムの民族の幾つかでのみ見られる。本稿の目的は、交換婚が行われる原理の概容を説明し、この社会制度を消滅させつつある要因について考えることにある。

 1921年に行われた10年に一度のセンサスによれば、次の民族が交換婚をしていたと記されている。Afo, Kona, Kudawa, Lala, Makangara, Munshi, Ngwoi, Rebinawa, Sangawa, Seiyawa, Wurkum, Zumperである。このリストのWurkumは、ひとつの民族ではなく、今は7つの民族の集合体となっている。以前には交換婚を実施していたこうした集団のほとんどは、植民地政府が1921年にこの地域の交換婚を禁止して以来、交換婚をやめてしまった。Galambe, Lau, Kwinini,といった数多くの他の民族集団もこの交換婚を行っていたが、1921年以前にすでにやめてしまっている。一方、上記のリストに含まれないAdamawa

州のNyam 民族や委任統治領のMambila, Batu, Kentuと言った民族は交換婚を2~3年前まで行っていた。この中のNyam人はまだこの慣習を維持している。

 Kona人の間では、かつて交換婚が主流を占めていたが、現在ではAdamawa Emirateに住み、仲間の集団から孤立したKona人の小さな集団(Jukun)によってのみ実施されている。Kona人のシステムを統括している規範はほとんど知られていないので、本稿でその記録を残しておくことは意味があるだろう。まず注目すべきは、交換婚は、花婿側がフィアンセの両親へ婚資を支払わなくて良いとされているのだが、実際にはそうはなっていないということである。一種の貨幣である鉄棒が、まず、贈られるのだ。そして、少女の胸が膨らみ始めると、彼女の父親へヤギ1頭が贈られる。その後3年毎にマットや貨幣の棒が彼女の母親へ贈られる。少女が夫と晴れて一緒に暮らすようになる前に、さらに6本の鉄棒と魚、beniseed、布が彼女の母親に贈られる。こうした贈り物のほとんどが父親ではなく、母親へ贈られる理由は、父親の家族は娘を失った代償として妻を受け取るからである。母親への支払いは、Kona人の間で最近まで行われていた母系制の痕跡としてみなされるべきではない。それらは、子供を産み育てた母親の労苦に対する単なる御礼、あるいは代償なのである。

 (ヨーロッパ人と現地の女性の観点からすると)交換婚に対する主な反対理由のひとつは、女性が兄弟の間で単なる動産として扱われ、好きでもなく尊敬もできない男性との結婚を強いられることにある。男性は自由に女性を選べるのに、女性は選べないのだ。交換婚が廃れた理由は、女性が好きな人と結婚する権利を主張し始めたことにある。しかし、交換婚は女性の側の選択権が全くないことを必ずしも意味していないというのがKona人の長老たちの意見だった。兄弟たちは姉妹たちの感情をできるだけ考慮したし、男性が結婚したい女性の愛情を確保することは夫にとっても大切だったからである。実際、男性は交換婚をする前に何年も少女と付き合っているし、少女は多くの愛人の中からひとりを選んでいる。とはいえ、女性の意思より男性の意思が優先されているのは明らかだし、はじめから失敗に終わることがわかって婚約したケースも多かったに違いない。

 Kona人の娘が夫の家族と同居する前に少なくともひとりの子供を産むことは一般的だったし、実際には普通のことだった。子供の父親が、いずれ結婚する男性だとは限らなかった。このようにして子供を身ごもった少女は、実家で出産し、実家に引き取られた。出産時に少女が死ぬと(よくあることだった)、彼女の兄弟が子供の父親の姉妹を妻とする権利があった。Konaには、もし、婚資も女性の交換もなされない場合には、彼女の家族が生まれたすべての女児を引き取る権利をもつという規則があった。それが、交換と同じ意味を持ったのである。ヨーロッパ人からすると、ひとり以上の子供を差し出すということは、ひとりの娘を失ったことへの埋め合わせとしては平等ではないと思われるかもしれない。しかし、現地の人にとっては、出産できる女性と出産できない女性との違いはとてつもなく大きいのだ。そして女性の生産性は、事前に結婚契約をしていない限り、実家に所有権がある。二人の女性が交換された場合、よりたくさん子供を産む女性の集団は、他の不妊女性の非生産性を補う数の子供を充当する権利をあたえられる。しかし、権利はいつも行使されるとはかぎらなかったし、姉妹のすべての子供に対する権利を主張する資格を与えられている男性が、ひとりだけで満足するということもあり得る。

 植民地政府がいち早く一部の地区で交換婚を禁止した理由のひとつは、この制度が負債を帳消しにしてもらう目的で、負債を負った者が姉妹を交換婚に差し出すことが頻繁に行われていたからである。Kona人の長老は、この慣行は嫌われており、奴隷制と同じに見られていたと述べている。しかし、負債者の姉妹や娘が債権者によって捕らえられ、第三者に交換婚の妻として、負債が解消されるまで抵当にいれられるのは、それほど珍しいことではなかった。この種の乱用は交換婚に劣らす、婚資婚でもおこっている。

 結婚が解消された時の子供の養育権に関して、Kona人は次のような決まりを持っている。もし、交換婚をした姉妹に子供がいる場合、その数が違っていても、子供たちはそれぞれの父親のもとに留め置かれる。しかし、もし姉妹の片方に子供がいない場合、子供は母親が実家に連れて帰る。寛大な処置として、息子をひとり父親の元に残すことがある。その他の息子は母方の伯父の庇護下に置かれ、その伯父が育て、可能ならばその息子の姉妹と交換に妻を娶ってやる責任を負うことになる。

 妻の不妊によって、夫が結婚を解消したり、自分の姉妹を呼び戻したりする権利はないし、他の民族に見られるように、好ましくない妻を第三者に渡し、別な女性を妻に迎えることもない。妻に不満がある時には、夫はそれを家長に申し出る。家長は妻を呼び出し、事情を調査する。もし妻に落ち度があるとわかった時には、それを夫に伝え、とりあえず妻を夫のもとに送り返す。もし、妻が素行を改めない場合には、彼女を実家に送り返し、姉妹のひとりを要求する。子供は父親のもとにとどまる。しかし妻たちの誰かが子供を産んでいる場合には、子供は妻の実家に養育権がある。このように、妻の兄弟や実家の影響力は、妻と夫の関係を良好に保たせ、妻たちは自分たちの兄弟の幸せを考えて、早まった行動をとらないような方向に働いていた。しかし、婚資婚の場合、男性は、必要とされる婚資を支払う事ができれば、何ら咎められることなく他の妻を得る事ができた。

 かつては、いや実際にはつい最近まで、Kona社会には、交換婚に代わるシステムがあった。つまり少額の婚資による契約である。このシステムのもとでは、生まれた子供のほとんどを養育する権利が妻の実家に与えられた。これは、婚資が「買う」という用語と関連付けられる危険性を示唆している。Kona人にとって、交換婚の方が婚資婚より「買う」というイメージに近いのだ。実際、Kona人は交換婚と婚資婚との違いを次のように説明する。交換婚のもとでは、妻は彼女の実家から「買われる」もしくは実家によって「売られる」、一方、婚資婚の場合には、妻は実質的に自分の集団のメンバーにとどまる、と。しかし、この説明をしてくれた情報提供者は、少額の婚資の場合を言っているのであって、他の民族に見られるような、一年分の収入を必要とするような婚資について語っているわけではないことに留意しておかねばならない。

 Kona人のふたつの婚姻システムのうち、交換婚は父系、婚資婚は母系という二重の親族組織に起因していることは明らかである。とすると、交換婚の消滅は完全母系制への移行が見られるはずだったが、少額の婚資による結婚も消滅し、婚資の額が大きくなった結果、すべての子供の養育権が夫に独占されつつある。換言すれば、Kona社会では母系的な親族組織の特徴が消え、父系に移行しつつあるということである。このプロセスは、他のナイジェリアの民族でも進行中のように思われる。

 最後に、Kona王室の婚姻について触れておく。王室は交換婚を行わなかった。もしそれを行うと、一般人と社会的に同じ地位になることになっていた。交換婚をして王女の子供はすべて王室に所属した。こうして王室は権力を維持したのである。王室は多額の婚資をやりとりする新しいタイプの結婚を受け入れることを躊躇してきた。しかし、徐々に、経済的環境の圧力もあって、婚資婚に移行するだろう。その際、息子に妻を迎える時には多額の婚資を支払うが、娘の結婚時にはほんの少額の婚資を受け取るか、全く受け取らない。

 Kona人の結婚システムは、カメルーン北部のはるかかなたの高地に住むMambilaという民族の結婚システムと近い関係にある。そこでも、交換婚と少額の婚資婚という二重のシステムが存在した。交換婚の場合子供は父親の家族集団に所属し、妻は夫と家族の「財産」とみなされた。婚資婚の場合は、子供は母方の集団に所属し、妻は妻の家族から夫に「貸し出されている」とみなされた。交換婚の妻の社会的地位は奴隷の妻の地位とほとんど変わらなかった。彼女の自由は限定されていたので、結婚の解消はほとんど不可能だった。彼女は親族との交流を失い、子供に関する発言権もなく、自分の財産を自由に処分できず、彼女が死ぬとその財産は夫が相続した。しかし、少額の婚資婚では、妻は好きな時に夫のもとを去ることができ、子供も連れて出ることができた。常に実家との関係を維持し、実際、父方の伯父か母方の伯父の家で過ごすことが多かった。そこには彼女自身の農地を所有していることさえあったのである。

 Manbila人の交換婚の儀礼は次のように進行する。ふたりの男性が妻として親族の女性二人を交換することに同意する。男性は、それぞれ女性を自分の家に招待し、お見合いをする。友好的な関係が成立すると、結婚の日が設定されると、男性は自分の親族の娘をそれぞれの家族が所有している聖地に連れて行く。そこで(ドリルによって)火を起こし、草の束に火をつけ、その火を家族の始祖とされる大きな石の上に置く。そして、「先祖の父たちよ、古の慣習をおこなうためにここに来ました。私たちを祝福してください。私の親族の娘が嫁ごうとしています。彼女が夫のところで幸せになるよう、妖術や他の悪魔から守ってください。」と話しかける。ふたりは目を閉じ、手をくすぶっている火の上に置いて、火を消す。男性がアンテロープの角笛を吹き、「グッドラック」(Kaukau,Kaukau)と言う。火を起こすのは先祖に暖かさを送るため、角笛を吹くのは彼女が祖先の霊を新しい家に連れて行くためであるとされる。その後で男性は鶏のくちばしをナイフで切り取り、石に血を注ぎ、先ほどと同じ祈りを捧げる。それから鶏のくちばしを少女の口につけ、少女はすこしばかりの血を舐める。男性は彼女の額とこめかみにも触れ、鶏の頭の羽毛を3本抜いて、血のついた少女の顔に貼り付ける。その後、鶏は殺され、ドリルによっておこされた火で調理される。男性は目を閉じ、「西に去った先祖よ、この少女の結婚生活を見守ってあげてください」と言いながら、男性が目を閉じるのは、先祖が供え物を持ち去るのを見ないようにするためである。この儀式は、男性が少女の足にふたつの鉄のアンクレットをつけて終了する。少女は、その後、年配の女性親族に付き添われて夫の家に向かい、夫から鶏と鍬を渡されて、屋敷にいざなわれる。夫の小屋に入る前にもう一本鍬を渡され、食事をする前にもう一本、そして性交する前にもう二本の鍬を渡される。そして、一ヶ月間は毎朝、夫の親族の女性たちによって、赤土と油を塗られ、日常の労働は免除されて安逸な日々を過ごす。こうした慣習は部分的には宗教的であり、悪霊の危機にさらされる期間、少女をそれから守ることを目的としていたことは明らかである。しかし、現地の人びとは、少女が新しい環境になれるために、注意深く扱われていたのだと説明している。

 Mambila やKonaのように、二重の結婚のシステムを持つ民族では、少女の母親が交換婚の妻だった場合には母方の親族によって、彼女の母親が婚資婚だった場合には父方の親族によって、それぞれ少女を交換婚の対象としては利用できなかった。また、Mambila民族の間では、男性は交換婚で結婚した女性と駆け落ちはしてはならない規則があった。しかし、婚資婚の妻との駆け落ちはよくあり、実際、社会的に公認された慣行となっていた。その他Mambilaの規則としては、交換婚の子供でなければ、首長になることはできなかった。また、父親が娘を自分の妻を入手するために利用するのはMambilaの慣習に反することだったが、この慣習は交換婚を行っていた他のすべての民族では行われていた。しかし、男性が、婚資婚から生まれた姉妹の娘を主人に差し出すことによって奴隷の地位から脱出することに対する反対はなかった。もし、姉妹の娘が婚資婚で結婚し、その夫が自分の女性親族のひとりを妻として提供するとしたら、妻の地位は交換婚の地位へと変化する。つまり彼女は第二の結婚契約をすることができず、生まれた子供は夫の集団に所属することになる。

 Mambila社会では、植民地政府の圧力がなくとも、交換婚は次第に消滅しつつあった。その理由は、交換婚を続けていると、トラブルが絶えないからである。しかし、少額の婚資婚はまだ続いている。それゆえ、母系制の社会組織が強化されるだろうと予想され得た。しかし、実際には、婚資婚の子供が父親の集団に残るか、母親の集団に統合されるかは、今や、選択の問題となっている。その多くは、婚資の額や、両家による要望や、子供たちの個人的な好み、といった結婚が成立した時になされた契約に依存している。Mambila人の親族体系は、父系に傾きつつあるが、概ね、双系性だということができる。相続に関しても、交換婚によって断ち切られ、相続は女系の親族に限定されている。しかし、相続の問題は居住の問題と結びついている。もし、彼が一生涯父の家に住み、母方の伯父に何のサーヴィスも提供しないとしたら、母方の伯父の屋敷の相続人になることは、男性にとって非合理的であることがまもなく認識されたのである。

 Mambila人の結婚システムに関する最近の変化についての本稿の短い叙述から、ヨーロッパ人との接触を通して社会生活に複雑な影響を受けたにもかかわらず、人びとは実務的かつ合理的な方法でそれに適応していることがわかった。

 交換婚の事例として、最後にBa-Kulu, Walc, BandawaというAdamawa ProvinceのWurkun Districtの小さな民族をとりあげる。

 Ba-Kulu人の間では、交換婚は婚資婚に完全に移行しており、婚資は少額だが、子供たちは父方の集団に属し、もはや母方の集団には属さない。私の手元には、婚資婚から生まれたBa-Kulu人の子供たちが、以前は母方の集団に組み入れられたことを示す証拠はない。しかし、もし、母親が父親の結婚した姉妹より多くの子供を生んでいた場合や、(ある状況のもとで)結婚が解消されたり、父親が姉妹を交換に差し出さなかった場合には、交換婚の子供たちでさえ、母方の集団に組み入れられていた。

 Wurkun地区一帯における交換婚はもうだいぶ前に植民地政府によって禁止されている。Ba-Kuluの長老たちは最近、交換婚は非常に安定しているので、よい結婚形態だと語っている。一方、長老たちは、最近の新しい形態に満足しているようでもある。そして、昔は夫に棄てられた姉妹が奴隷に売られることもなきにしもあらずだったことを認めている。

 Ba-Kulu人と同様に、Walc人も、以前は交換婚を行っており、子供の数の少ない場合、夫が、交換婚を行った姉妹の子供を要求するということも結構見られた。その報復として、もう一方の夫は、彼の姉妹を奴隷商人に売り飛ばしたりすることもあったという。にもかかわらず、Walcは、ほんのわずかな挑発で夫を代えるような女性のいる昨今と比べ、昔の結婚システムは、安定度はあったと主張する。そして、子供のいない場合、夫は老後の面倒を見てくれる誰か(例えば姉妹の子供)を手に入れるのだという。長老たちは、昔のシステムへの回帰は好ましいことであり、かつてのように交換婚に関連して起きていた虐待はもはや起きないとも述べている。一方、長老たちは、女性たちはおそらく、女性を完全に夫もしくは兄弟の権力の下に置くような昔のシステムに戻ることには反対することを認めている。

 Bandawa集団の間では、男性は(他と同様)姉妹と交換することなく妻を入手できるかもしれないが、そのような場合、妻の兄弟がその結婚から生まれた子供のほとんどを供給できることになっている。しかし、姉妹がかなりの数の子供を産まない限り、兄弟はいつもこの権利を行使するわけではなった。姉妹が子沢山の場合には、男の子がひとり彼の老後の面倒を見ることがあり得るし、女の子がひとり彼自身もしくは彼の息子のために交換婚に出されることもあり得た。また、姉妹の息子を、負債の帳消しのために債権者に渡すこともあった。この集団の長老たちは昔のシステムを褒め称えているが、もう新しいシステムに慣れたので、それに戻ることは願っていないと語っている。

 交換婚の事例は、すでに交換婚を止めてしまったか、止めようとしている民族の事例である。しかし、植民地政府の介入がなく、まだ交換婚を維持している民族がたくさんある。交換婚がある地域で禁止され、他の地域では禁止されていないのはなぜか?答えは、交換婚が行われていることを知らされたその地域のイギリス植民地当局の官吏が、廃止による重大な社会的影響について考えることなく、交換婚を禁止したというものである。

 奴隷制と人質がまだ合法的に行われていた時、交換婚は最大級の虐待だったことは明らかである。夫のもとを逃亡した姉妹を奴隷として売り飛ばす事件は頻繁に起きていたし、女性の意思に反して、負債を帳消しにするために結婚させることもあった。また、妻に不満な夫が、贈り物を添えて他の男性の妻と交換することもあった。女性がその夫から逃げると、状況はさらに複雑になった。

しかし、こうした虐待のほとんどは、奴隷制、人質、負債を帳消しにするための姉妹の交換、あるいは女性の同意なしに自分の妻や兄弟の妻を交換することなどが禁止されると自然に消滅していった。結婚のもっとも長く続いてきた形態の交換婚の全システムを禁止するのは必ずしも適切ではない。それは、かつても、今も、最上のものだと思われているからである。それは、多額の婚資が必要とされる結婚とは違い、貧しい男性にも富める男性と同じチャンスを与える結婚の形態なのである。

一方、女性は自己決定権のないこの交換婚に反対している。さらに、ハウサ人やフラニ人といったムスリムとの通婚が、婚資婚への移行を促しており、交換婚の慣行を劣った文化とみなす傾向がでてきている。にもかかわらず、Munshi(Tiv)のような異教徒(pagan)の民族にとっては、交換婚が社会生活に欠かせたい一部となっており、疑いなく、これからも長く存続すると思われる。(翻訳:富永智津子)