【特論5】アフリカ社会とジェンダー

2014.10.17掲載:富永智津子

【特論5】Ⅰ―④ アフリカ人の道徳性 by Godfrey Wilson

Godfrey Wilson, “An African Morality,” Africa, 1936, Vol.9, No.1

 本稿は、道徳性というテーマを科学的に議論しようとする試みである。そのきっかけとなったのは、未開社会の法に関するマリノフスキー教授の業績である。教授はそれを著書Crime and Custom in Savage Societyで展開し、Dr. Ian HogbinのLaw and Order in Polynesiaの序文や、最近のLondon School of Economicsでの講義でも紹介している。マリノフスキー教授は、慣習の全体像と、人びとを社会的伝統に基づいた正しい行動に導くさまざまな誘因や衝動のすべてを明らかにしようとしたが、ここでは、宗教が認めている正しい慣習の一部である道徳性に研究対象を限定する。

 慣習は宗教によってのみならず、共同体による判断や互酬的関係に固有のバランス感覚や、法的強制や罰則によっても守られている。道徳性、もしくは宗教的に容認された慣習は、抽象的なものではなく、その実践を具体化する他の規範や社会制度との関連においてのみ命を吹き込まれるものである。

 主な慣習は、次の4種類に分類できる。
 (i)  行儀manners―共同体が良し悪しを認定するもの
 (ii)   道徳性morality―宗教が良し悪しを認定するもの
 (iii)  公共政策common policy―個々人もしくは集団間の互酬的関係に埋め込まれた報酬や罰則によって良し悪しが判断され、「正直」(例えば、伝統的に正しい行動と一致)に最大の価値を置くもの。すべての社会制度の機能は このような互酬的関係を内包し ている。
 (iv) 法law―制度的な審問によって規制されるもので、強制力もしくは罰則をともなう。

 こうした分類は、生活と切り離せない。良い行いは良い道徳であり、良い法律であり、良いポリシーでもある。しかし、時にはそれらの間で対立が生じることもある。いずれにせよ、それらが生活の中でいかに統合されているかを理解するために、まずそれぞれについて見ていこう。
 ここで紹介するアフリカ人の道徳性は、タンガニーカ南部のルングウェ県のニャキューサ人の事例である。同じ文化圏に属する人びとはニヤサランドにもおり、かれらはヨーロッパ人の言語学者や民俗学者の間でKondeとして知られている人びとである。すべての資料収集はタンガニーカで行った。

 ニャキューサ人口は約15万。およそ60の伝統的な首長(avanyafyale)の支配のもとでそれぞれ独立した首長国(efisu)を形成している。1926年に間接統治を導入たイギリス植民地当局は、これらの首長のうち11人を、行政上の便宜から、上級首長の地位に据えた。首長国の成人男性の人口はそれぞれ30人~3千人、1893年にドイツ人が侵略する前の首長国同士は、恒常的に敵対関係にあり、戦争も頻繁に行っていた。

 首長国は、年齢がほぼ同じ男性によって構成されているいくつかの年齢村(age-village=efepanga、以下単に「村」と表記)から構成されており、そこに妻と子供たちとともに暮らしている。各村には村長がおり、その称号olifumuの意味は「偉い平民great commoner」。村長は村の裁判を取り仕切り、他の村の村長とともに、裁判所で首長の補佐を務める。かつては部下を率いて戦場で闘うこともあった。彼は首長の祖先崇拝と妖術の統制との関連で、重要な宗教的義務も負っている。

 年齢は、とりわけ家族の中では尊重される。しかし、それは、年齢村のシステムを通して、年長の親族が若者に要求する尊敬と義務とリンクしており、それが政治システムにも及んでいる。若い男性は、村に住む父親と同世代の隣人すべてを「私の村の父たち」と呼び、父親への尊敬と義務を彼らにも示さねばならない。同様に、同じ村に住む兄と同世代の隣人たちは「私の村の兄たち」であり、尊敬の対象となる。このように、子供の頃に家族の中で学んだ態度が、親族とは関係のない人びとに対しても要求される。

 クランは存在しない。親族は主に父系であるが、母方の親族も重視される。家系に関しては、常に父系が語られる。しかし母親の父、同じ母親から生まれた兄弟姉妹とその子供たちも、生涯にわたって重要な存在である。相続は父系で、年長者から年下の同腹の弟に渡り、それから本来の所有者(死者)の年長の息子に戻される(Inheritance is patrilineal from elder to younger full brother, and thence back to the senior son of the original owner.)

 経済活動は、農業と牧畜に依存している。主たる栽培植物はバナナ、豆、とうもろこし、じゃがいも、雑穀、米、落花生である。もっとも好まれる食料は、凝乳と肉であり、それが家畜に高い価値を付与している。さらに、4~30頭の家畜がやりとりされる結婚のみならず、親族の絆にも家畜のやりとりが直接的に関わっている。また、重要な儀礼には常に雌牛か雄牛の屠殺がつきものであり、家畜の病気や死も、人間の病気や死と同じ不幸であり、同じ原因に帰せられる。

 一夫多妻は広く行われており、成人や年配者の特権のひとつである。税金登録記録tax-registersは、70%の女性と28%の男性が一夫多妻の家族に属していることを示している。しかし、われわれの調査によれば、若い村はほとんどが独身者か一夫一婦で構成されている。一方2~10人の妻を持つ男性は古い村の住人であり、そこでは、おそらく90%以上の男性が一夫多妻を実践している。

  結婚の時期は男女で異なる。大方の少女は初潮を迎えるとただちに結婚するのだが、その多くは結婚前の数年間にわたって夫のもとを訪れ、一緒に寝る(sleep)時期を過ごす。一方、婚資の家畜を父親に提供してもらう男の子は、結婚前に父親の畑を耕して過ごす。父親は長男(第一夫人の長男)が18歳ころになると、最初の結婚に必要な家畜のすべてを与えるが、他の息子たちは長い間待たされる。30年間も待たされる場合もある。このように、独身者すべての労働と女性の70%ほどの労働が成人や老人へのサーヴィスに当てられる社会システムとなっている。男性は畑を耕し(耕作労働は一年中必要)、女性は種まき、除草、調理、薪集めと水汲みの仕事である。

 一夫多妻の実践者は、一軒以上の竹の小屋を建てる―年長の妻たちのための丸い小屋かもしくは長方形の小さな小屋と、内部がいくつかに仕切られた少し長めの長方形の小屋で、そこには家長と雌牛と若い妻たちが住む。

 8家族から12家族の10歳くらいまでの少年たちは、集団にわかれて家畜の世話をする。その後、家畜は年少の兄弟にまかせて、農耕生活に移る。ちょうどその頃、彼らは父親の家を出て、仲間たちと寝起きをするようになり、2~3年後には若者村に自分たち自身の家を建てる。こうして結婚までは、仲間と寝食を共にするのである。結婚すると彼らは主に自分の小屋に隣接した土地を耕し始めるのだが、何年かは父親のために何枚かの畑を耕し続けるのが正しい作法だと考えられている。

 男女は別々に食事をする。年配の男性は少年とは別に食事をする。食事には隣人を招待する慣習があるが、女性が隣人を招待して一緒に食べるのは、あまり一般的ではない。男性や未成年の少年たちは、村の友人たちと一緒に、お互いの妻や母親のところを順繰りに回って食事をするのが一般的である。雄牛を屠殺したり、ビールを醸造した男性は、隣人を招待するよう期待されている。

 以上が、これから道徳性についての調査をしようとしている人びとの社会システムのアウトラインである。

 道徳性は宗教によって認められている正しい慣習の一部として認識されている。

 ニャキュサ人の宗教は、次の3つの部分から成り立っている。(i) 死亡した親族を崇めること(祖先崇拝)、(ii)ウィッチクラフト(妖術)信仰、(iii) 「薬」の使用(magic=呪術)である。

 祖先崇拝は、親族間のみの道徳的行為に対する規範を提供しているが、親族間の道徳的行為の規範のすべてを提供しているわけではない。妖術と魔術も、親族間の道徳的行為に影響力を持っている。しかし、この中でもっとも特徴的なのが妖術信仰であり、これがローカルな集団と政治的集団(村と首長国)のメンバー間の慣習を統制している。一方、呪術のみが、首長国の親族でもメンバーでもない人びとの悪行を罰する力を持っていると信じられている。

 慣習の統制には、次の3つの様式がある。報酬、罰則、個々人の矯正である。報酬は、ある理想的な行い(behavior)をする人に共同体から与えられる。すべての共同体には良いとされる理想的な行いがあり、こうした理想は常に積極的に推奨されたり(これをしなさい!)、ほのめかされたり、忠告されたり(父母を敬いなさい!)する。理想の行いは、魅力的な報酬(―あなたは長生きする―)を伴うと信じられている。一方、罰則は行動規範への侵犯に対して共同体から与えられる。すべての共同体は、ある種の行動違反に対しては、忠告や罰則を課すことはないという伝統を持っている。しかし、良い行い、道徳性、常識、法の規則を言葉で表現することによって、その寛容度には、多かれ少なかれ、厳しい限界を設けている。それらを越えると、「紳士でない」とか「罪人」とか「馬鹿」とか「法の侵犯者」と見なされ、仲間や神(gods)によって罰せられる。規範はマイナスにもプラスにも解釈されるが、それらは誰もが理解しなければならない事になっている。というのは、侵犯者はただちに罰せられるということが重要だからである。

 すべての共同体は、構成メンバーの性格を形成したり変えたりすることによって、慣習を守る仕掛を持っている。その目的は、正しい行いをする力を人びとに新たに獲得させたり、そういう方向に導いたりすることにある。このような仕掛は罰則や報酬によって機能する事が多いが、必ずしもいつもそうであるとは限らない。たとえば、子供を教育したり、信仰心を植え付けたり、法の違反者を保護観察したりすることは、報酬や罰則にいつも依存しているわけではないことを示している。

 本稿は子供の教育は扱わず、成人の道徳性のみを考察の対象とする。

 ニャキュサ人は、理想的な行いと宗教とを結びつけて考えることはしない。寛大さ、ホスピタリティ、穏やかさ、礼儀、友達への忠誠、年長者への尊敬、年長者や病人や障害者や痴呆の人たちへのケア―これらすべては賞賛されている。こうした徳を持つ人びとは社会からの尊敬を受ける。しかし、彼らの行為が超自然的な報酬を伴うとは信じられていない。

 ところが、共同体のメンバーがこうした理想的な行いをしない場合には、その道徳性が宗教によってチェックされる。もし、ある男性があるレヴェルを越えていやしく、親切心がなく、粗野で忠誠心がなく、年長者を敬わない場合、先祖や妖術や呪術によって罰せられると信じられている。しかし、こうした理想的な徳のあり方が宗教用語で表現されることはない。彼らの理想は、われわれの概念によれば、良いマナーの理想であって、道徳の理想ではない。それらに伴う報酬は、他の人びとからの尊敬や友情なのである。

 ヨーロッパ社会においては、同様の理想が超自然的な報酬をともなう道徳的理想として宗教的に語られる。理想のマナーも同じである。そして、宗教的改心によって、それを実行させるようなある特別なパワーが与えられると信じられている。しかし、ニャキュサの宗教は、いくつかの例外はあるが、理想のマナーを所与のものと考えており、それを行うには超自然的なものの助けがいるとか、それを行うことによって超自然的な報酬が与えられるという考え方はしない。とりわけ、慣習についての宗教的、あるいは道徳的断罪は罰であると信じられている。

 こうした罰は、人びとが信じている道筋に照らして言えば、罪によって引き起こされたと解釈された現実の不幸なのである。 

 男性やその妻や子供や動物が病気になったり死んだりした時や、作物が不作だったり雌牛が乳をださなくなったりした時はいつも、占い師(diviner=ondagosi)のところに行って、記憶している罪をすべて告白し、そのうちの何が不幸の原因となっているかを占ってもらう。占い師は、多くの場合同時に呪医(onganga)を兼ねているが、いつもそうであるとは限らない。占いと呪医とは機能がまったく別だからである。占い(obolagosi)の最も普遍的な方法は、(i)カップとボードによるものである。実際にわたしもその占いが行われているところを見たことがある。占い師は地面に座り、平な板の上で、ひっくり返した木製のカップをこすりながら、不幸に見舞われた犠牲者、もしくは彼の代理人が自分の責任かもしれないと思われるすべての罪を告白するのを聞く。もし、カップが板の上をスムーズに移動すれば、彼の占いは拒否され、カップが何かに引っかかって止まれば、彼の占いは受け入れられる。占いは罪の告白に全面的に依存しているわけではなく、病気は時には両親からの遺伝かもしれないし、隣人との口論が超自然の力で災難を引き起こしているかもしれない。しかし、病気の原因は、多くの場合罪に帰せられる。この方法においては、占い師の力は他の占い師―彼の父親もしくは兄で、この場合は無料;もしくは親族以外の占い師の場合で、この場合は有料―によって彼の手のひらに仕込まれた薬のせいであると信じられている。疑い深い参加者なら、占い師の手がカップを突く時に震えるが、その他の時にはだらりとしていることに気づくはずだ。

 他の占いの方法としては、(ii)雑穀の粥のお椀を、両手にはさんで回転させたあとで念入りに調べる方法、(iii)先が丸くなったスティックで地面をこする方法―これは、使っている道具が違うだけで、第一の方法とまったく同じ、(iv)矢尻をノックする方法、(v)ひょうたんに話しかける方法―腹話術の形態をとっており、これを行えるのはひとりの呪医のみである。これらはすべて、(iv)を除いて、詳しい説明を聞いただけであり、実際には見ていない。原理はすべてに共通している。患者はさまざまなヒントとなる示唆を占い師に話し、占い師はその中から自分の占い方法に合致するひとつを選ぶのである。聞き取り調査をしたすべてのインフォーマントは、これに同意している。「もし不幸の原因がひとつであることがわかっているなら、占い師のところにはいかない。原因が複数考えられ、自分で特定できない時に自分で占い師のところへ行くか、あるいは息子をやる。」このようにして、不幸の原因を占うにあたって、占い師が下した決定は、必ず受け入れられることになっている。しかし、迷子になった雌牛がさまよっている場所を占いによって突き止めることができるとか、盗まれた財産や紛失した財産に何が起きたかを当てることができるとする占い師もいる。しかし、今日では、多くの若者はこうした占いを信じていない。中には、故意に失った財産について尋ねることによって、占い師を試し、彼が間違っていることを突き止めるものもいる。こした話はいたるところで聞くことができる。

 以上のようにニャキュサ人は、不幸の大部分は罪が原因だと信じている。残る問題は、罪のせいにするということはどういうことかという疑問を論じ、罪の概念を明らかにすることである。

祖先崇拝は親族の死者崇拝(avasyoka)と夢への信仰(enjcsi)を基盤としている。死亡した親族の夢をみる人は多く、人びとはそれを恐れている。ニャキュサの葬儀はきわめて盛大に行われる。その目的を人びとは「死者を送り出す」ためだという。「はじめに死者のために泣き、それから送り出す、そしてこう言う『私達が一緒に行くなどと望まないでくれ、夢に現れないでくれ』と。」死者が送り出される場所は空想の場所である。そこで死者は眠り、目覚め、そして生き続ける。

 限られた紙幅で、すべての死者を送り出す葬儀を紹介することはできないので、ここではひとつの事例だけに留める。葬儀の中心課題は、死の原因の究明と占いである。これは、実際、私が古老の首長の葬儀で見聞きしたことである。占い師は、多くの死の原因と思われる事象から、原因は病気であって罪を犯したことではないと決定づけ、そばに座っている男性にそう告げた。するとひとりの男性が立ち上がって、男性とは別のところに座っていて、占い師の決定が聞こえなかった女性たちに向かって「聞きなさい、占いがなされた。われわれが隠し事をしたとは思わないように。ムアンガカ(死亡した首長)の死について噂したり疑問には思わないように!彼は病気で死んだ。だれも彼とはけんかをしていないし、彼に対して黒魔術(sorcery)を使った者もいない。彼は雌牛を盗んだこともないし、彼の家族の誰かが他の人を矢で刺したわけでもない。彼が親族をロープで縛り上げたこともない。彼は死んだ。われわれは恐怖を感じる。しかし彼を殺したのは病気であることをわれわれは知っている。われわれすべてを殺す病気が原因なのだ」と話しかけた。この占いは、「彼を送り出す」ためになされたものであることを私に示している。

 多くのニャキュサ人は、夢のお告げを信じている。「朝、目が覚めた時に覚えている夢は、すべてわれわれに何かを告げている。覚えていない夢の時には『夢を見たけど理解できない』と言う。」理解可能な夢は単純で、明らかな予言を含んでいる。旅に出て、トラブルに遭遇し、友達に会い、金鉱から戻ってきた親類の者から1シリングもらい、ヨーロッパ人に仕事をもらい・・・といった夢の話を聞かされたことがある。伝統的なシンボリズムで解釈できるものもあれば、理解不能のものもある。男性の行動は、しばしば夢に導かれる。だから、旅先でトラブルに出会う夢を見ると、旅行を取りやめたりする。にもかかわらず、正夢はほんの一部であることを知っている。見た夢は、その日の朝に夫や妻、あるいは友人に聞かせる。2~3日うちにその夢が現実になると、人びとは「夢が現実になった」という。正夢を見ることの多い人は、その人の夢が他の人の行動を左右することがある。

 死んだ親族が現れる夢は単なる予言的なもので、たびたび現れないならば、怖がるには及ばない。友人のひとりが新しい家を建てていた時、夢に死んだ父親と兄が現れ、彼に「雌牛のためのたくさんの部屋がある長い家を建てなさい」と言った。この夢を見て、友人は大変喜び、吉凶だとして、そのとおりの家を建てた。しかし、頻繁に死んだ親族の夢を見る場合には、死んでしまうのではないかと恐怖にとらわれる。「死者が連れて行ってしまう」というのである。そういう時には呪医のところに行き、「精霊を追い払う」呪術を受ける。精霊が現れる夢は象徴的に解釈される。たとえば、人はよく死んだ父、もしくは母が夢に現れて、食べ物を与えてくれる夢を見る―もし夢の中でその食べ物を食べると死に、食べないと死なない、と言った風に。

 以上のように、人びとは夢で死んだ親族に会っただけで、恐怖にとらわれることがしばしばある。そして、精霊がやってきて、罪を犯したとして非難し、罰すると脅かすのだ。それは道徳性の断罪にあたる現実の不幸のみならず、自分が悪いことをした時に死んだ父親の声が夢の中で話しかけてくることから引き起こされる罰への恐怖でもある。こうした特殊な方法でニャキュサ人の意識を扇動し、先祖の怒りが原因である可能性を占い師が示唆する罪は、親族としての義務に違反することに起因している―とりわけ家長が、相続した財産を家族のメンバーのために使わなかったり、年少者が年長者を敬わなかったり従わなかったりする場合が多い。「もしも私が父の雌牛を相続し、未婚の異母兄弟に婚資を提供してやらなかったとしたら、もし私が遺された小さい子供たちに食べ物を与えてやらなかったとしたら、死んだ父は夢に出てきて私を非難する。私は恐怖にとらわれて目を覚まし、妻にそのことを話すと、妻も父親が怒っているから子供たちは病気になって死ぬに違いないと恐怖にとらわれる。だから、私は兄弟に雌牛を与え、食べ物を子供たちに与えるのだ。もしそれも怠ると、兄弟たちが私を首長の前に呼び出し、雌牛を差し出すよう強要する」。(そして放置された子供たちの母親も首長の前で私を告訴し、食べ物を要求することができる)。

 この最後の首長への告訴は、道徳的な断罪が常に正しい行いを確保するには十分でないことを示している。良心に耳を傾けない人や、不幸からの教訓を受け入れない人は法的に断罪されるのである。

 父親の地位は、事実上「つぶやき」(okwibonesya)の力によって支えられている。占い師によって、子供たちや弟たち、異母兄弟や同腹の兄弟や異母姉妹の不幸の原因が罪にあると突き止められると、父親は亡父に祈りを捧げ、精霊の声を聞き、トラブルを沈静化する。それができるのは父親だけだと信じられている。しばしば精霊は独自の動きをする。「なぜなら精霊はわれわれがすることすべてを見通しているから」である。そうニャキュサ人は考えている。しかし、もし父親が子供や年少の兄弟姉妹から侮辱されたとしたら、「父親は怒りに燃えて、侮辱した者を見ないで、つぶやきを発しながら火の上に座る。そのつぶやきは誰にも聞こえない。父親のつぶやきは怒りで支離滅裂になっているが、精霊には聞こえている。もし彼が病気にかかっていたなら、その病気を罪人にうつす。」この力は発揮しようとしても発揮できない。道徳的な制裁としてのみ発揮できる。「もし父親が何の理由もなく怒ってつぶやいたとしても精霊には聞こえないし、何も起こらない、決して起こらない。」

 私が収集した親族と関連する罪の事例の多くは、行いを正すことと祈祷もしくは精霊への供物のふたつが不幸を取り除くために最も重要であると見なされていた。その他の事例としては、日常の道徳性に違反した罪ではなく、死者への宗教的義務を怠った罪が多く、その贖罪としては精霊への供物が必要とされていた。祈祷は、口から水を雲のように吹き出し、そのあとで、精霊に語りかけるという方法でおこなわれる。一般人ではなく、その地区の首長によって行われたある事例では、祈祷が20分も続いたことがある。供物として、平民の場合は雄牛・雄鶏・地酒、首長の場合は雌牛が捧げられた。平民による雄牛の屠殺は少なくとも第一次世界大戦以降は行われたことはない。首長による近々の先祖祭祀では、雌牛が供物として要求される。というのは、首長国の食料や人びとの健康がこの供物に依存しているからである。女性や雌牛の豊饒性も、この供物によって約束されると信じられている。しかし、死亡した首長の祭祀と日常の道徳性とは関係ない;飢饉も精霊に捧げるべき雌牛を殺さなかったことへの罰であり、道徳的退廃とは関係がない;健康と豊作とは宗教的義務を果たしたことへの報酬である。首長の遠い先祖への供犠もなされる;それを怠ると、子孫が暮らす土地で、飢饉や病気や死が蔓延すると信じられている。その他にも、もっと昔の祖先の供犠も、隣接している複数の首長国が共同で所有している神聖な場所で、雨や健康や豊饒や食料の確保を願って行われる。しかし、ここでも日常の道徳性は無関係である。

妖術(witchcraft)もしくは「夜の戦い」(war by night=Obwite pa kilc):ニャキュサ人の道徳に最も大きな影響力を発揮しているのが、「首を締めたり」「踏みつけたり」「内蔵を食い荒らしたり」して病気や死をもたらす超自然的な力を持つ人物がいるという信仰である。こうした信仰に驚く読者もいるかもしれない。もちろん、それが、道徳性を断罪するためのニャキュサ文化の最良の方法を意味しているわけではないが、事実は事実なのである。妖術に関するアフリカ人の信仰にみられるパラドックスは、ヨーロッパ人のアフリカの言語への知識が不十分なことと相まって、少なくともこの文化に関しては、かなりの誤解の原因となっているようである。

 ニャキュサ人は「攻撃的妖術」を意味するovalcsiという言葉を持っている。それは悪い妖術である。しかし、「防御的妖術」を意味するamangaという用語もあり、それは良い妖術なのである。さらに、「人びとの息」(embepo syavandu)というフレーズもあり、それは世論との関連で用いられる妖術の力を意味しており、その効力は「呪い」(ekegune)である。パラドックスはここにある。つまり、「人びとの息」は最も一般的な道徳性の断罪である一方、この「息」は攻撃的な妖術の力以外の何ものでもないとも見なされている。しかし、攻撃的妖術師と名指された個々人は嫌われ、かつては殺されたり、追放されたり、首長によって牛を没収されたりし、首長は没収した牛を攻撃的妖術の犠牲者に与えたりしていた。

 このパラドックスを解くヒントは、「人びとの息」が村や首長国といった共同体全体の意見であり、それが、たまたまそういう攻撃的妖術を持ち合わせた人物を通して超自然的にあるひとりの人物に対して働きかけるとされることにあるようだ。その一方、妖術師とされた個々人は村や首長国の世論に反して、あるいはそうした世論の支持なく、独自に働きかけると信じられている。両方とも、攻撃的妖術のアクションは常に教訓であり、規律違反の行いに先行すると信じられている。しかし、前者の場合、世論は演じられる道徳的断罪を受け入れるのに対し、後者の場合、世論は演じられる方法を認めない。つまり妖術は道徳性への断罪とされるが、妖術を使う男女は犯罪者として嫌われる。道徳的には正当化されるが、妖術師はマナーや法のルールを破っているとされるのだ。

 妖術は特定の人物の腹に悪霊の形で住み着いており、代々引き継がれると信じられている。まだ情報の収集過程であり、薬によって妖術を発揮すると人びとが信じているのかどうか確信はない。異なる情報が対立しているからだ。父親か母親のどちらかから引き継がれるのかもしれないし、mixed marriageの子供が妖術師になるのかもしれない。妖術を使える子供とあそぶことによって、妖術を身につける場合もあるとも信じられている。子供の時には休眠しており、大人になると活性化して、防護的な妖術師になったり攻撃的な妖術師になったりする。その形態は、妖術を使う人の意思にかかっている。攻撃的な妖術は、寝ている間に身体を離れ、単独か仲間と一緒に恨みを抱いている人の家に飛んでいき、彼が寝ている間に家に入り込んで、「首を締めたり」「踏みつけたり」内蔵を「食べたり」する。犠牲者は朝か夜に、自分に起きたことを理解できない状態で目覚める。何度もこうした妖術の襲われると、対抗措置を取らない場合には、病気になって死ぬこともある。防御的な妖術師は、攻撃的な妖術師を特定することができ、2つの方法で対抗する。ひとつは、夜、攻撃的な妖術師に背中を向けてこう言う「君はどこに行くのか、友達の首を締めに行くのか?戻りなさい!」と。ふたつ目は、目撃した攻撃的な妖術師の名前を翌日隣人や政治家に報告する方法。普通の人は、自分が「首を締められている」ことには気づくが、決して妖術師を見つけることはできない。

 こうした夜間の事件は夢に中で起きる。「攻撃的な妖術は夢から出て人の首を締める」というのである。夢には、伝統的なシンボリズムによれば、妖術にとりつかれた印と解釈される夢がある。たとえば「だれかが私に戦いを挑んできた夢を見る。おそらく彼は棒で私を打ちのめし、地面にねじふせ、げんこつで殴る。目が覚めると『昨夜、奴らが首を締めにやってきた』と人びとに言う」;「夢の中で私に戦いを挑んできた人を私が認識する場合には、私自身が防護的妖術の力を持っていることを意味する。もし、認識できない時には、私にはそうした力はない。」「ひとりで空高く飛んでいる夢を見るのは、妖術師が首を締めにやってきたことを意味する。」「突然夜中に恐怖で目が覚め、汗をかく。どんな夢かを思い出せないが、妖術師が首を締めにやってきたことを知る。」ニャキュサ人にとっての夢は宗教的な現実なのである。

 自分が防御的な妖術の力を持っていると、安易に認める者はいない。認めることは自慢することであって、良いマナーではないのだ。私が直接質問した「偉大なる平民」(great commoner)のひとりは、そうした力を持っていると信じられていたが、次のように答えた。「私自身は自慢するつもりはないが、私の村の他の人だってそういう力を持っているよ。」年配の者の住む村の「偉大なる平民」は、そうした力を持っており、その人の名前を知っている人もいる。それと並び、そのような村には、特定はできないが、そうした力を持つ者がいると信じられている。若い「偉大なる平民」は年配の「偉大なる平民」によって選ばれるのだが、防護的妖術師である年配の者がそうした妖術師になるとわかっている者を選ぶのかどうか、あるいは、年配の者が若いものにそうした力を引き出す薬を与えるのかどうか、その辺のところはまだわからない。

 しかし、明らかなことは、「人びとの息」が人びとや雌牛を病気にすることによって不道徳を罰するときには常に、その「息」はその村の妖術師すべての力であると信じられている。また、通常、防護的な妖術師である人が、一時的に攻撃的な妖術師になることもあるとも信じられている。そうすることによって彼らは法の中で活動するのである。

 私がよく知っている男性で、長い間病気がちの者がいた。最近、彼は自分の病気の原因を突き止めようと、遠くの占い師を尋ねた。彼自身は病気が「人びとの息」に関わる妖術のせいだと信じていた。だが特定の原因は確かではなかったし、罰に値するとみなされている罪も特定できなかった。彼は第一夫人を愛しており、そのことを隠すことはなかった。考えられる原因として彼が占い師に示唆した原因のひとつが、第二夫人と第三夫人をないがしろにしたからではないかというものだった。彼はこのことを次のように説明した。「第二夫人は攻撃的妖術師の家の出であり、第三夫人は品行はよろしくはないが攻撃的妖術師の家の出ではない。この二人は私が十分な食べ物を与えないと近所に言いふらしている。第二夫人も夜に見る夢の中で攻撃的妖術師に耳打ちし、私を食べるよう、私が寝ている場所を教えているんだ。」(私は彼に「彼女は防御的妖術師も呼んだのか」と尋ねると)「そうなのだ!彼女が説得できれば、彼らはやってきて、村全体の「息」が私の身体にのしかかって、私を病気にするのだ。」と答えた。

「人びとの息」は一般に合法的であると説明してきたのだが、ここにいたって、犠牲者が怒りにまかせて「攻撃的妖術師」という言葉を使っていることは注目に値する。それも、「防御的妖術師」も参加していないのかどうかを直接尋ねられるまで、である。「攻撃的妖術師」という言葉は、話者が妖術を認めていない時に使われる。その時には妖術師は彼の敵なのである。「防御的妖術師」という用語は、妖術師が味方で、敵から守ってくれる時に使用される。その時には妖術師は敵から彼を守るか、もしくは彼が認めた理由で「誰か」の首を絞めることがある。ここでの話者は、防御的妖術との関連で行った私の質問を受け入れている。というのは、「偉大なる平民」や共同体の中心的人物は、敵対する妖術師が当該裁判の正当性を説得できないならば、それを説得できるまで、自分たちの力を浪費せず、常に人びとを敵対する妖術師から守るものと信じられている。たとえば、われわれは友達が「初め、私は、攻撃的妖術師[彼はあいかわらず犠牲者として話をしており、彼の敵についてこの用語を使用している]が彼女を拒否し、彼女が私の首を締めるのを防いでくれたが、あとで彼女はこころを入れ替えて自分についてくるよう攻撃的妖術師を説得した。」

  攻撃的妖術師と呼ばれる唯一の妖術師は、防御的妖術師、つまり村の責任者の承認を得ることなしに人びとや雌牛の首を締めようとすることによって自分の力を無益に使用すると信じられている人びとである。ヨーロッパ人の統治が始まる前には、そのような人びとは、「偉大なる平民」によって首長に報告され、毒薬の試練による最終的な裁判にかけられる。その薬についての知識を持っているomwafiと呼ばれる呪医が呼ばれ、、訴えられた者はそれを飲まされる。彼がそれを吐けば無実が証明され、吐かなければ有罪となる。このようにして有罪となったものは、殺されるか追放される。そして、彼の雌牛や財産は首長と攻撃的妖術師の犠牲者によって取り上げられる。攻撃的妖術師の告発が私的な個人によってなされた場合、両者が裁判にかけられる。両方ともに吐いた場合、告発した者は中傷罪で相手に二頭の雌牛を支払わねばならない。どちらかが吐かなかった場合、追放か死罪が適用され、牛や財産すべてを失う。どちらも吐かなかった場合、両方ともが罰せられる。この薬を飲んだ結果、死ぬ場合もある。こうした裁判は今は禁じられている。3年前に行われた裁判事例をしっているが、今ではごくまれにしか行われない。おそらくもう見聞きすることはないだろう。しかし、まだ村全体によって攻撃的妖術師として告発される者がいるが、その場合は、他の首長国に逃げるのがベストである。そうした事例を、今、まさに調査中である。

攻撃的妖術師は、時には、夢の中で防御的妖術師をやり過ごし、防御者の承認や協力を得ることなしに、恨みを抱いた人もしくは雌牛の「首を締める」ことができると信じられている。「防御者は、毎晩毎晩、夢の中で攻撃者と闘うわけにはゆかない。」攻撃者は、しかし、毎晩現れて、「首を締めようとする」。「最近、かつてより状況は悪化している。というのは、われわれが報告したりやめさせたりしようとするのを、ヨーロッパ人が妨害するからである。防御者は一生懸命に働くが、ぐっすり眠ってしまい、攻撃者をやり過ごすことがある。」

私の情報提供者は、攻撃的妖術者は共同体の支持なしに活動するが、挑発されることなく動くことはめったにないと口をそろえて言う。彼らは、単に自分たちが持っている力へのプライドから人びとの「首を締める」のだという人がいるが、そうしたケースを私に語ってくれた人はいない。よく聞くケースは、性格的にひとりでいることを好む人、人付き合いが悪い人、隣人を軽蔑するようなプライドの高い人、ひとがいるところでいつも黙っている隠遁者、である。そうした人に対する近所の人の態度は、やさしさやホスピタリティに欠ける。「おそらく私たちは、彼を酒席や食事には誘わないだろうし、雌牛がミルクを出さなくなると『彼が首を絞めたにちがいない』と考える。」攻撃的妖術師についてよく語られる性格はプライドが高いということである。

難題だったパラドックスは解けた。われわれは道徳性を、宗教によって認められた正しい行いの規範(もしくは理想)と定義した。ということは、正しい行いの規範に違反した人びとや雌牛を病気にすると信じられている妖術師は、罪人を罰するために機能する宗教的制裁者なのだ。しかし、この場合の宗教的な力は共同体のメンバーの身体に潜んでいる。だから、妖術師はその力を、他の行いと同じく、伝統的な正しい行いの規範にのっとって使わねばならない。その力が、村の合意を得ることなしに恣意的に使われるなら、たとえその力が宗教的に正しいと信じられていても、非合法であり、悪しき使用方法になる。妖術師自身が虐待されれば、かれらはある程度正当化され、彼らの力は道徳性を断罪できるが、もし妖術師を虐待した隣人の合意を得ることができない場合には、ひとりで妖術を使うと追放される。しかし、妖術を引き受ける個人がおらず、すべての人がある人が罪を犯したと認めるなら、彼に振りかかる不幸や、「人びとの息」が行ったとされる不幸は、完全に正しく合法なのである。

 宗教的もしくは超自然的な力(この場合は妖術)は、個々人の意思にもとづく行動に依拠していると信じられている。その結果、力そのものが攻撃的な形態をとり、悪しきものとして語られる。ただし、法律や秩序の守護者(「偉大なる平民」great commoners)によって承認された共同体の利益のために使われるのは正しいことであり、必要なことだとされている。苦痛を罰として与えるという非宗教的な力は、われわれ自身の社会においても普通にみられることである。苦痛を悪意をもって与えることは悪いが、法に違反した者を法にのっとって苦しめるのは正しいことである。超自然的に敵に危害を加える個人の力への信仰の効果についてのさらなる分析は、邪術sorcery―破壊的な薬の使用―の議論の中で行うこととする。

すでに述べたように、「人びとの息」は、妻たちを平等に扱うための道徳的な圧力になっていると信じられている。牛が殺され、ビールが醸造される儀礼の執行を強制するのも「人びとの息」である。もし、慣習通りに牛の屠殺やビールの醸造をしなかったとしたら、それらにありつけるはずだった近隣の人びとの「息」が、怠った人の子供や雌牛を病気にするとされている。共食の慣習もこのようにして義務化されている。食料を一杯所有している人が、近隣の人びとを食事に招待しなかったり、雄牛を殺した時に親族しか呼ばなかったりすると、村の「息」が彼を病気にするのである。

 妖術の力は決して親戚間では機能しないとされている。ただし、夫と妻の間では機能する。病気の原因が、虐待されたことに同情して怒った村の「息」に支持された親族の男性にあるとされた事例をあげることができるが、彼自身は「首を締める」ことに加担したとは思われていない。一方、妖術の力は首長国の外部の者に危害を与えることができるとは信じられていない。親族集団や首長国の領域を越えて宗教的な断罪が及ぶことはないが、邪術の場合は違う。

 精霊の力や「人びとの息」の力は親族に道徳的規範を遵守させるという点で、かなり重なり合っている―つまり同じ罪がある時は精霊によって、ある時は「息」によって罰を受けるのである。すでに見たように、若い男女は父親や兄たちへの尊敬を同じ村の隣近所の人びとにも示す。一方、「村の父親」や「兄たち」は、友人と子供、あるいは友人と若い者の間で成り立っている権利と義務を超自然的に大切にすべきだと信じられている。両者がそれぞれの権利と義務を怠ったり、無礼な態度をとったりすると、「息」によって罰せられると考えられている。

 配下の者への首長の道徳性は、人びとの「息」によって担保されている。この事実は首長の権力へのチェック機能に現れている。もし首長が、何人かの村人に恨まれるような権力の乱用を行った場合、首長は、友好的な村に移動して攻撃的な人から守ってもらい、病気にかからないようにすることができるが、すべての村人の恨みを買った場合には、死ぬと言われている。

 村人の恨みを買うことは、戦闘がさかんに行われていた時にはもっと深刻だった。というのは、当時は、その村の妖術師が他の首長国に夢の中で飛んでいき「雌牛を奪いに来てください。私たちの首長は私たちに恨まれるようなことをしました。私たちは闘いが始まったらただちに逃げます。だから、あなたは必ず勝利します」と言うと信じられている。首長は、この事を弟から聞き、二頭の雌牛を捧げて村人と和解することになっている。弟は共同体を守る役割を担っているのである。雌牛を食べた村人は、もう一度、夢で敵と会い、こう言う「戻りなさい、われわれは首長に教訓を授けた。もしやってきたなら、われわれは戦う」と。

 「人びとの息」によって病気になったとされる病気からの完治は、行いを改めたり、道徳的改心がなされることによって可能となる。例えば放ったらかしにしている妻にちゃんと食事を与える;のびのびになっている儀礼を滞りなく行う;服従の印に侮辱した父親に雌牛を支払う;金持ちのくせに不親切な人は自分や子供の病気が治る前に友人にごちそうする、など。その際、罪を犯した人あるいは(それが息子のばあいには)父親がすべての村人に食べ物と飲み物をふるまうことが求められる。そのふるまいの席には、薬を携えた呪医が同席し、病気の原因となった罪が公に議論される。罪を犯した人がそれを認め、隣人がつぎのように言う「本当に、病気と呪い(ekigune)は、今一緒に食事をし、この薬を処方することによって完治するよう願う」と。

 妖術の力に対抗する「薬」はあるし、用いられるが、妖術の攻撃を永久に排除できるわけではない。薬は一時的に病気を治したり、予防したりするが、それが永久に持続するわけではないのだ。本当に治そうとするなら、攻撃する者を裁判にかけたり、呪いを送り付けてくる村人と和解するしかない。

 近親相姦と非合法的な不倫に関する道徳的規範は、「人びとの息」への信仰によって統制されている。しかし、一般的に言って、不倫に対する道徳的制裁は、寝取られた夫の意思で、呪術によって行われる。

呪術(magic):「薬」(emekcta)の使用:ニャキュサ人の呪術では、葉や根やその他の物質から作られた「薬」が使用される。それらは、熟練した呪医(onganga)が収集し処理した時にはじめて、クライアントの特定の願望を叶えることができるようになると信じられている。これらの「薬」の中には、たとえばヒマシ油のように、化学的に効果が実証されているものもあるが、大部分は心理的効果が期待されている。私の知識では、化学的に実証されるものと心理的効果を期待するものとを明確に区別できないので、ニャキュサ人の呪医が使用し、彼らの用語でemekctaと呼ばれるものすべてをカヴァーする用語として「呪術」と「薬」を使用することにする。決まった呪文はないようである。そして、ほとんどの呪術儀礼においては、言葉は本質的な要素ではない。しかし、たとえば、黒魔術の中には、敵の名前を呼ぶことが必要とされるものがあるように、いくつか重要なものはある。

 「薬」の中には、すべての人が知っているものもあるが、ほとんどは男女の呪医だけが知っている。しかし、ひとりひとりの呪医が知っている薬の数は多くはない。呪医はそうした知識を無料で親族から受け継ぐか、もしくは親族ではない呪医から対価をしはらって教えてもらう。呪医は治療代を取る。無料で治療するのは親族のみである。

 ニャキュサ人の使う薬は、その機能に応じて次の5つに分類される。(i)儀礼的呪術、(ii)私的な野心の呪術、(iii)黒魔術、もしくは破壊的呪術とその解毒剤、(iv)病気やトラブルを治療するための「薬」、(v)哀願の呪術。

 儀礼的呪術Ceremonial Magic:社会的儀礼は必ず薬を儀礼の一部として使用する。たとえば、葬式、少女の成人式、首長の就任式、双子の誕生後の儀礼、最初の子供の誕生後の儀礼、戦いの際に矢で射抜かれて死亡した後の儀礼、初生りの果物を食べた時の儀礼など。そして、こうした儀礼に使用される薬は、正しい行いを確認するという役割を担っている。その役割というのは、報酬とか罰というものではなく、心を入れ替えさせる(conversion)ことにある。首長は、就任時に威厳を高めるための薬を与えられる。その薬は量が多すぎると、配下の人びとを殺したりするし、あまりに少なすぎると威厳がなくなり、人びとの尊敬を得られず、人びとが言うことを聞かない。薬は彼に、その地位にふさわしい行動をする首長になれるよう、超自然的な力を与えると思われている。成人儀礼の時に少女に与えられる薬の中には、夫の両親とその世代の隣人たちに「親切で従順」な女性にするものが含まれていると、私の情報提供者は言う。しかし、その証拠はまだ確定的ではない。

私的な野心の呪術Magic of Private Ambition:この呪術は道徳性とは全く関係がないようだ。人の心を入れ替えたり、良いことをしたことの報酬のために用いたり、罪を犯した人を罰したりするために用いられることはない。紛れもなく、よこしまな目的のために用いられる。例えば、自分の畑の豊作を願ったり、妻が夫に大切にされるよう望んだり、原告が裁判で勝訴しようとしたり、ヨーロッパ人の雇用主に賃金を上げてもらおうとしたり、娘が求婚者を得ようとしたり、はては浮気者や泥棒によっても利用される。呪術全体を非道徳なものと考える立場からすると、ほとんども場合、目的がなんであれ、男性の願望がリストアップされるように思われる。呪術によって、普通であれば達成できない願望の成就が約束されるのだ。正しい行いと呪術とは関係がなく、あったとしても、たまたまであり特別な場合だけに限られる。

邪術、攻撃と防御の破壊的呪術、Sorcery, Destructive Magic of Aggression and Defence

(a)攻撃的邪術、もしくは「人を罠にかける」Aggressive sorcery or ‘the snaring of men’(ovotege)
 喧嘩が法的に正しいものであろうとなかろうと、あるいは不当に扱われたと人びとが認めるか否かにかかわらず、破壊的な薬を呪医から購入することによって、喧嘩相手を痛めつけることができると信じられている。こうした薬の使用は、かつては違法であり、首長によって処罰された。というのは、妖術と異なり、人びとが事前に超自然的な統制をすることができないと考えられているからである。喧嘩をしている当の男性に法的に擁護さるべき理由があるとしても、裁判所を侮辱したとして罰せられるのだというのだ。「われわれは彼を首長のところに連行し、彼がそういうことをしようとしていることが証明されれば、首長は「隣の人とのトラブルを、私のところで解決しにこないで、邪術を使うなんて、何を考えているのか」と言って、彼を罰した。こうした薬の効果を信じないヨーロッパ人は邪術を禁じたが、教育を受けた人でもキリスト教徒のアフリカ人でも心の中にはこうした昔の恐怖が残っている。

 攻撃的な邪術は、最近、かつてないほどさかんに行われているようだ。首長が罰することを許されなくなったことと、人びとが旅行をすることによって、外来の邪術の薬の量が増大していることがその理由である。病気の原因を見つけ、素早くそれに対処しない限り、攻撃的な邪術によって殺されてしまうと信じられている。薬を盛る時には、標的となる敵の名前を唱え、食べ物や飲み物に入れたりする。

 私には、こうした行為が実際にどの程度行われているのか、どの程度が想像上の事なのかはっきりはわからない。宣教師や植民地政府の影響力が及ぶ前には、こうした薬を売っている呪医への風当たりは強くはなかった。というのは、彼も解毒剤を持っていたし、喧嘩に巻き込まれることもなかったからである。実際、攻撃的な邪術を証明するかどうかは、呪医次第なのだった。「もし家族の誰かが死に、占い師のところに行く。占い師が『彼を殺したのは誰それの攻撃的邪術だ』と言ったとすると、裁判にはならない。というのは、もし、首長のところに行って話をしたとしても、彼はこういうだろう。『その呪医はどこにいるのか?』。そして、われわれが名前を上げた男を罰することを拒否する。しかし、薬を売った呪医をわれわれが見つけ、首長に告げてもいいと他の呪医が同意したなら、その男は罰せられる。彼が強くそれを否定しても、首長はその呪医の言葉を証拠に、彼を罰する。罰として彼は、生きたまま、頭を下にして穴に埋められる。」「そう、呪医たちは首長に告げることにしばしば同意する。というのは、あとで、われわれは呪医に雌牛を支払わねばならず、彼は儲かるからである。」

 攻撃的な邪術は他の首長国の敵にたいしても効力を発すると信じられている。だから、かつては罰することが出来なかったのだ。というのは、「他の首長国の人を裁くことは難しいし、邪術の事件を裁くのはまずもって不可能なのだ。」首長が共同で裁判を行うことはなかったし、首長国の境界を越えて、いかなる世論も宗教も法も正しい行為を行わしむることはなかったからである。さらに、世論や法は、自分たちに有利なバイヤスがかかっていたし、邪術という形態の宗教は、自分の関わる事件に対する個々人の判断に大きく依存していたからである。自分の首長国を越えた道徳性は、マナーや法も含めて、恒常的には存在しないのである。

 攻撃的邪術のせいで引き起こされた病気や死の原因として、占い師が選んだ係争には、少女が愛人を拒んだという事例から、一方の側が首長によって不当に裁かれたと主張している多くの雌牛を巻き込んだ係争まで、さまざまなタイプのものがあげられる。多くの係争事件のほとんどで、正しい慣習を踏襲することに首長が失敗したのは、誰かが首長に対する攻撃的邪術を駆使する原因をつくったのだと、不幸の犠牲者によって信じられている。そのような時には、攻撃的邪術の効力への信仰は、それが嫌われていようと、違法な力であろうと、道徳性への制裁を意味している。邪術師の犯罪は、彼の犠牲となった人の罪より重いと一般の人びとは考える。にもかかわらず、邪術師は、違法な仕方ではあるが、罪を罰したのだと信じられているのだ。

 しかし、邪術の機能は、それに恐怖を感じる人びとに理想のマナーを実践させ、争いを避けさせることにある。私の情報提供者は、理想のマナーを実践する人は邪術を恐れる必要はなく、彼は誰とも争いを起こさないのだという。このことは、攻撃的な妖術の恐怖も同じである。このような方法でのみ、理想のマナーはニャキュサの宗教と結びついているのである。

 しかし、この攻撃的邪術と良いマナーとの結びつきはよくあることだが、結局、偶発的なものであり、普遍性はないということがわかった。普遍的なものは、私的な関係と邪術の結びつきなのである。通常、いさかいは悪しき行いが原因である。しかし、常にそうであるとは限らない。人より優れたものを持っていると、他人の嫉妬を誘発することがあるし、愛人の要求を拒否したことが怒りを誘発するかもしれない。怒りと嫉妬は、時に、攻撃的邪術を通して表現されると信じられているが、それを正当化するものは何もない。

(b)防御的邪術、所有権者の薬 Defensive Sorcery, Medicines of Ownership(efelembekc)
  多くの薬が貞操と財産をまもるために使用される。この薬は、病気を引き起こすとされるが、完全に合法なのである。この薬が効力を発揮するのは、不倫・泥棒・盗品の食料を食べた人に対してであると信じられている。

 夫が妻にひそかに薬を飲ませると、妻と寝た恋人は病気になる、しかし妻は病気にはならない、というのである。さらに、不倫相手の男性は、彼の妻を含め、その後で寝た女性に病気をうつすのだという。(その病気にはEketego, ovosinge, elifumbeという3種類あり、いずれも性器の病気である。二番目の病気はいわゆる淋病である)薬は家や畑にまかれ、泥棒や食料を食べた男に皮膚病(emenyago)や性器の腫れ(elifumbe―同じ薬が女性に作用するとvede supra)や膝蓋骨や股関節が外れたりする病気をもたらす。畑の作物を盗んむ泥棒を回避できる薬を持っていると私に自慢していた呪医がいた。その薬は、見つけた泥棒に与えると一晩中ぐるぐる回って寝られないのだという。

 防御的邪術によって引き起こされるこうした病気(efelembekc)を探っていくと、それらが直接道徳性の統制となっていることがわかる。そして、ひとつ例外はあるが、薬は法に違反した者もしくはその友人たちに対してのみ効果を発揮するとされている。その例外というのは、akavembaといい、人や雌牛が、何の罪も犯していないにもかかわらず畑を横切ると、膝や大腿部の関節をはずすと言われている。畑を横切ることに対しては、マナー的にも法的にも何ら規制はないため、こうした薬の使用は違法である。Efelembekcは病気を引き起こすが、死に至らしむることはない。

防護Protection(elipengc)
  すでに述べたように、攻撃的邪術のそれぞれには解毒剤(elipengc)がある。解毒剤は、すぐに服用すれば、命が救われると言われている。さらに、攻撃的な邪術は、家族全員を襲うことがある。家族のメンバーが次々に殺されるのだ。その際、最初の家族が死んだのち、すぐに解毒剤を飲めば、他のメンバーは死なずに済む。また、解毒剤をくれた呪医への割増し料金は、邪術師に邪術を送り返す追加的な薬を確保できる。その薬によって邪術師はまもなく死ぬと信じられている。そのような効果的な解毒剤は合法的だったし、それを使用しても罰せられなかった。これは、宗教的な力を非合法に使用することに対する道徳的な制裁の事例なのである。この特殊な道徳的制裁は首長国の領域を越えて作用するとされている。

病気やトラブルを解決するための呪術Magic for Cure of Sickness and Trouble
   宗教とは無関係に負った傷や病気を治療する薬や、出てきてほしくない親戚の死者が夢の中に現れるといったトラブルを解決する薬がある。こうした薬には何ら道徳的な意味合いはない。しかし、すでに述べたように、精霊や妖術師によってもたらされたと信じられている病気の治療を補助するような薬もある。こうした薬は病状を軽くすると信じられているが、道徳的な矯正や精霊への祈祷や供犠、村との和解や攻撃的な妖術師の追放といった他の手段が採用されない限り、完治できないとされている。

訴えの呪術Magic of Appeal
 妖術の場合には、毒を用いた責苦(Poison-Ordeal=omwaei)に訴えがなされる一方、法で裁かれるすべての事件では、証拠がない場合には法的な裁可は不可能となる。他にも呪術的な方法が用いられる場合がある。たとえば、角(horn=olopembe)である。これは、法的な判決に不満を持った側が、この角に訴えるのである。もし、この不満が正当なものだったとしたら、裁きの相手の家族が次々に死ぬことになる。毒を用いた裁きも角の場合も、無実なものに害を与えることはなく、法的に証明できない罪のみをつきとめるとされている。

 本稿の読者はもっと詳しい情報を望んでおられると思うが、紙幅に関係で詳述できなかった。また、現在の私の資料不足もそれを余儀なくさせている。マナー、ポリシー、法といったコンテキストから分析した道徳システムに関する本稿のようなアウトラインは、いずれにせよ、満足のゆくものではない。現象を完全に理解するためには、定義が重要である。以下、定義について付記しておく。

 私は一貫して「宗教」「宗教的」「超自然」という用語を、それらと密接に関連した祖先崇拝、妖術、呪術を含めて、定義することなしに使用した。すべてを包摂するような「宗教」の定義はない。どの定義からも、こうした現象のどれかが除外されてしまう。つまるところ、宗教的現象がニャキュサ人の思考や行動に与える効果は、他の宗教がその社会のメンバーの思考や行動に与える影響とまったく同じなのである。

 一方、こうした信仰はニャキュサ人に、自分の努力や能力が確保できる以上の満足感や、この世におけるいかなる信仰においても想像上のものでしかないようなある種の幸福感を約束する。このような幸福感をわれわれは超自然的なものと呼び、そうした幸福感を与えると信じられている力が宗教の力なのである。一方、こうした信仰は、不幸や不運を、罪との関連において捉える。つまり、不幸や不運が、通常の行動の結果であるとは納得ができず、しかも、最大の努力をしても最良の技術をもってしても避ける事ができない不幸や不運を、人びとは、道徳的な領域で作用する超自然的原因の結果であると説明するのである。このように、ニャキュサの宗教は、病気、死、飢餓、不幸を所属する共同体内での正しい行いができるようにする教育手段として用いている。これは、不運を超自然的に罪とむすびつける他の信仰と全く同じなのである。宗教の学徒にとって、無実の人にさえ隣人との喧嘩を恐れさせるようなニャキュサの信仰や、時に正しい行いへと人びとを導く超自然的な力を約束する宗教は、決してユニークなものではないのである。(翻訳:富永智津子)