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【アフリカ史】植民地化に対するアジア・アフリカの抵抗運動(富永智津子)

*【特集9】アフリカの歴史と社会

植民地化に対するアジア・アフリカの抵抗運動      富永智津子

 ここでは、アイリス・バーガー&E.フランシス・ホワイト『アフリカ史再考ー女性・ジェンダーの視点から』(富永訳、未来社 2004)から、植民地化に対するアフリカ女性の抵抗の部分を紹介する。

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1.東部および南部アフリカの女性(82~85頁)

 植民地支配への抵抗が多岐にわたって展開した時期、女性たちは初期的なナショナリストの諸組織においてというよりむしろ、局地的な抵抗運動の中で大きな役割を演じた。とはいえ、女性が政治活動に参加していなかったわけではない。女性の政治活動はケニアと南アフリカにおいてきわだっており、しかも他の地域に比べてはるかに詳細に記録されている。さらに、長老や夫の権力から逃れて都市に移住した女性たちは、普通『政治的」とはみなされない個人的な闘いを行っていた。一方、母系制の社会では、女性の権力者に残されて僅かな権力もこの時期に消失した。

 英領ニヤサランド(マラウィ)の女性は、母系制の中で保持していた地位の低下に直面した。たとえば、マンガンジャ人の社会では、女性の長老が村落共同体を越えた政治指導者としての権威を失いつつあった。この喪失は女性の非農業活動(織布、鉄や塩の生産)の衰退と、世帯ベースの綿花生産の普及に対応していた。かつての侵略者コロロ人と同じく、女性に対する偏見を持っていたイギリス人は、残っていた数少ない女性の首長を廃し、その代わりに男性を任命した。しかし、それでもなお女性の長老たちは、商業化した農業のマイナス効果に対抗できる影響力を保持していた。一方、白人の所有者たちによって厳格に統制されていたすぐ近くのブルース農園では、村長の選出を追認する長老女性の権限が植民地権力者によって奪われた。

 歴史研究者は、南アフリカとケニアの女性がさまざまな形態の組織的抵抗運動に参加していたことを明らかにしている。たとえば、1920年代中葉、ケープのハーシェル県では、農村部のキリスト教徒の女性たちが地元の店や学校のボイコット運動を組織した。国家や地元の資本に対するこうした攻撃は、男性の高い出稼ぎ率や一夫多妻制の縮小が女性に与えた新たなプレッシャーや、課税や土地の登記に対する女性たちの抵抗を投影していた。女性たちは、はじめマニャノと呼ばれる祈祷グループなどを含む農村女性のネットワークを、のちにはアフリカ・メソディスト・エピスコパル教会(AME)によって育まれた反白人精霊「アフリカニスト」を抵抗の基盤とした。都市のタウンシップ(訳注ー黒人居住区)における下宿人許可制度への反対運動のような1920年代に見られたその他の抵抗運動も、かなりの女性たちの支持を集めた。抵抗運動はケニアでも広まり、たとえば、女性のコーヒー労働者は賃金の引き上げや肉体的・性的虐待の廃止を求めてストライキを組織した。彼女たちは、労働を通して新たに造られたネットワークのみならず、性的に相手を侮辱する伝統的な手段、つまり敵に向かって後ろを向きスカートをまくり上げるといった方法も駆使した。第二次大戦中、ナイロビの売春婦も戦時下という新しい状況を乗り切るために、一時的な集団行動をおこしている。

 公的な形の民族運動や労働運動における女性の立場は、明確ではなかった。南アフリカでは、1943年まで「アフリカ民族会議」(ANC)への参加を許可されなかった女性たちが「バントゥー女性連盟」(BWL)という補助的組織を形成し、主として、調理をしたり余興を組織したりした。1935年にこの女性連盟にとってかわった「アフリカ女性全国評議会」(NCAW)も、政治より福祉に関心が向いていた。ちなみに、その創設メンバーの中に、反パス運動の指導者シャルロッテ・マゼケがいた。(植民地征服直後の時代とおなじような)危機敵状況の中で、女性の従属的地位が変化する可能性もあった。たとえば、1930年にイースト・ロンドンで6ヶ月にわたるストライキを行う前の「商工労働者組合」(ICU)は、女性を主にお茶くみ、社会的な催しのオーガナイザー、労働者の妻としか認めていなかった。しかし、「商工労働者組合」の分派である「独立商工労働者組合」(IICU)によるストライキが始まるや、その第二週までに女性の地位は変化した。女性は労働者としてストライキに全面的に参加し、女性の家事労働者および洗濯婦の賃金引き上げを要求しはじめたのである。

 初期のナショナリスト諸組織が女性の問題を取り上げることもあった。たとえば、ケニアに本部を置いていた「東アフリカ協会」(EAA)は、1920年代初頭、コーヒー農園での暴行やセクシュアル・ハラスメントを対処すべき問題のひとつに取り上げている。また、1922年に「東アフリカ協会」が指導者ハリー・ズクの逮捕に抗議して集会を開いた時、群衆の中にいた女性たちは男性の弱腰をののしった。彼女たちは、伝統的な性的示威行為を行って嘲りと苛立ちを表現したのち、集合していた群衆を警察署へと導いた。警官が群衆に発砲しはじめ、近くのノーフォーク・ホテルのヴェランダで酒を飲んでいたヨーロッパ人がそれに加勢した。マリー・ムゾニ・ニャンジルという女性指導者がその最初の犠牲者となった。しかし、こうした勇気ある行動によっても、女性たちは政治問題に直接関わる居場所を勝ち取ることができなかった。「東アフリカ協会」の後身である「キクユ中央協会」(KCA)の会合から排除された女性たちは、1930年に「ムウビ中央協会」(MCA)を結成した。この組織は、3年後、女性が「キクユ中央協会」に参加する権利を獲得した時に解散している。

2.西部および中西部アフリカの女性(185~191頁)

 西部および中西部の女性たちは、植民地支配に対してあからさまな敵意を抱き、反乱すら組織して、交易人としての経済的権益を守ろうとした。政治権力を奪われたことに対して抗議した者もいる。また、植民地化以前のジェンダー関係を基盤とした団結を組織化の拠り所としたものも多かった。イボ人とイビビオ人の女性たちは、1929年、イギリス人が「アバの反乱」と名づけた「女の戦争」を起こして、植民地支配者とそのアフリカ人協力者に戦いを挑んだ。彼女たちは、女性のネットワークを利用して何千人もの女性を組織し、地域一帯の原住民行政に抵抗した。さらに、アフリカ人権力者を侮辱し、女性に対する課税だとされた計画に抵抗するために、「男性の家に押しかけて揶揄する」という手段を用いたりもした。女性の闘争心は、自分たちの土地と身体が豊穣性を失いつつあったことへの恐怖心によっても油を注がれた。しかも、この反乱は単なる象徴的行為ではなかった。女性は16もの原住民法廷を襲い、そのいくつかを破壊したからである。イギリス人は反乱に参加した何千人もの女性に対して武力で応戦し、50人以上を殺害し、少なくとも同数の女性を負傷させた。

同様の反乱が、1958~59年にカメルーンでも勃発した。1920年代初頭、カメルーンの女性は、女性たちを怒らせるようなことをした男性を罰するためのアンルという植民地化以前のやり方を制度化していた。それは、女性の権利を守るためのローカルな支部を持った階層組織に発展した。そのアンルが、1950年代末の一連の大衆デモで、延べ7千人にものぼるコム人の女性を動員することに成功したのだ。その背景には、イボ人の場合と同じく、自分たちの権益が脅かされているとのコム人女性たちの不安感があった。とりわけ彼女たちは、植民地政府が自分たちの土地をイボ人に与えるのではないかという恐怖心や、首長たちが牧畜民であるフラニ人の牛から作物を守ってくれようとしないことに対する不満を抱えていた。しかし、イボ人の「女の戦争」とは対照的に、植民地支配者が武力を用いなかったため負傷者はでなかった。

ラゴス(ナイジェリア)では、8千~1万人の女性がアリモトゥ・ペレウラに率いられた「ラゴス・マーケット女性協会」に加盟した。その多くは読み書きの出来ない女性たちだった。彼女たちは女性への課税に抗議し、第二次大戦中に導入された価格統制計画に反対した。この組織は、1945年に招集されたゼネストに参加することによって、反植民地的立場を明確にした。同じ頃、中間層の女性たちを組織化し始めたのがオインカン・アバミヨである。「ナイジェリア青年運動」の指導者と結婚したアバミヨは、1927年、後に「女性進歩クラブ」となる「英領西アフリカ・ガールズ・クラブ」を創設した。この組織は、西欧化したキリスト教徒の中間層という限定された女性メンバーから構成されていた。メンバー数は、500人から2000人だったと推定されている。

スーザン・ガイガーとジェーン・トゥリティンは、女性が反植民地闘争に与えた影響を分析している。ガイガーは、「(アフリカ人ナショナリスト指導者)の関心は、女性の完全な政治的権利を含む西欧的民主主義と平等の開明的擁護者の役を演じることだった」と指摘している。しかし、トゥリティンは、近代化のプロセスを歩んでいた男性エリートは女性性を後進性と結びつけて見ていたため、彼らが二重に抑圧されていた女性の状況に対応することは難しかったと述べている。

こうした中で、多くの文献がさまざまな抵抗活動、とくに「辱め」や「下品」な行動といった女性特有の抵抗形態に焦点を当て始めた。また、個々の女性活動家に関する文献が増えてきたことも、ナショナリスト運動に対する歴史研究者の見解を変え始めている。

フンミラヨ・ランサム=クティ(訳注ー1900~78:海外に輸送されずにアフリカ域内で解放された元奴隷集団サロ人)によって創設された「アベオクタ女性同盟」は、おそらくもっとも成功した脱階層的組織のひとつである。1920~30年代、彼女はマーケット(露天市場)で働く女性を対象とする読字教育を熱心に推進した。彼女の活動は、マーケットで働く女性たちとともに課税に反対し、普通選挙権と被選挙権を要求する闘争に加わることによって、40年代に過激化した。のちに「アベオクタ女学校」の校長に就任したランサム=クティは、ミーティングに出る時にはヨルバ人の衣服を身につけ、ヨルバ語をはなすように気を遣った。それによって、支配層のイギリス人の仲間ではなく、女性同盟の仲間であることをアピールしようとしたのである。このように、女性同盟は間接統治に反対し、明確に親ナショナリストの立場と女性の経済的権益を擁護する立場を打ち出していった。(訳注ーランサム=クティについては、井野瀬久美恵「女たちの脱植民地化ーフンミラヨ・ランサムークティの場合」北川勝彦編『脱植民地化とイギリス帝国』ミネルヴァ書房を参照のこと)

ウスマン・センベーヌは、第二次大戦後にセネガルで行われた鉄道ストライキを題材に『神の木の刃』という小説を書いている。そこでは、低賃金で働く男性を支えた女性の重要な役割が明らかにされている。つまり、女性が自給自足部門を担っていたために、フランス人は労働者に最低賃金にも満たない給与しか支払わないで済んだのである。この本のハイライトは、女性たちがストライキ参加者の要求を支持して、ティーズからダカールに行進する場面である。セネガルの女性たちと同様に、カタンガ(現在のコンゴ民主共和国南部)の女性たちも、1941年のマノノ炭鉱夫のストライキを支えたウォッチ・タワー(訳注ー「ものみの塔」、あるいは「エホバの証人」として知られるキリスト教の一派)運動において重要な役割を演じた。

 1960年代と70年代初頭のキニア・ビサウでの女性の抵抗は、もっともドラマチックナ事例のひとつに数えることができる。アンゴラをのぞく西部および中西部アフリカのすべての国家が独立を達成する中で、ギニア・ビサウの人びとはポルトガル支配を終焉させるべく武装闘争に立ち上がらねばならなかった。一方、「ギニア・カボヴェルデ独立アフリカ人党」(PAIGC)は、ポルトガルからの独立を社会主義社会への移行の一段階と位置づけていた。闘争に欠かせないのは、ジェンダー関係を含む国内の社会関係の変革だったからである。党の指導部は、この目標を達成するためには、女性が男性支配を終わらせるべく主導権を取らねばならないと主張した。党の指導部が表明したように、女性たちは「ポルトガルの植民地主義と男性の植民地主義というふたつの植民地主義と闘わねば」ならなかったのである。この両面闘争が多くの女性を独立闘争に惹きつけた。女性たちは、そこに、女性への抑圧を終焉させる可能性を見出したのである。
「キニア・カボヴェルデ独立アフリカ人党」は、女性が独立闘争に貢献できると考えていた。実際、女性は攻撃的な戦闘にこそ参加しなかったが、防御的な部署での任務を遂行し、党組織においては確実に重要な政治的役割を演じるようになっていった。しかし、もっとも重要だったのは、党のメンバーによって表明されたフェミニズムであり、それが解放闘争に深みを与えた。英語圏の西欧に「ふたつの植民地主義との闘い」というイデオロギーを紹介したステファン・アーダングは、指導的な女性党員のひとりが革命の中で生まれた新しい女性像について語った次のような一節を引用している。

「解放された女性とは、社会における責任を明確に意識し、経済的に自立した女性であると私は思う。解放された女性とは、差別をうけること無く社会的なすべての仕事を遂行できる女性であり、学校教育を受け、指導者になることのできる女性であると私は思う。現在、女性が解放闘争をたたかっている一方で、新しいシステムが出現し、それが次世代の若者の誕生を準備している。そして、この新しいシステムは自由や解放、あるいは家族や社会の構成員間の共存についての考え方を変えようとしている・・・・。
われわれが、搾取なき社会の建設をめざすとすれば、もちろん、その社会において女性は解放されねばならない。民族解放の闘いは、女性を解放するひとつの方法である。なぜなら、男性と同じ仕事に従事し、国土の解放に携わることによって、女性は男性と同じ仕事ができることを確信するからである。そのプロセスで、女性は自分たちにも多くのことを成し遂げる能力があるということを学ぶだろう。それは、以前には考えられないことだった。また、われわれの党には最高の指導的地位に就いている女性がいること、女性はさまざまな生活領域で働いていることも学ぶだろう。自分たちには能力があるということを女性が確信し、その能力を男性に示すことが重要である。」

明確に打ち出されたこのような目標は、解放闘争をたたかっている世界中の女性に勇気を与えた。おそらく、植民地時代における最大の皮肉は、ヨーロッパ人が植民地支配を正当化する一助として、アフリカ人女性の生活改善という戦略を用いたことだった。植民地支配と資本家の参入は、実際には、多くの女性を貧困に陥れたからである。たとえば、バウレ人の女性は、商品化の進行によって、象牙海岸(コートジボワール)の居住地に持っていた綿布市場の支配権を失った。新しい植民地都市に住む多くの女性は、エメチェタ(作家)のンヌ・エゴのように、資金も資源もなしに一族のメンバーとしての義務を果たさねばならない状況に直面した。さらに、植民地支配者たちはリネージ(共同体の最小単位)の長老と結託して、女性の自立や自主性を制限しようとした。女性たちが、自給部門を縮小することによって、植民地経済に打撃を与えるのではないかと恐れたからである。また、ヨーロッパ人入植者は、女性の政治権力への伝統的な回路を支持するどころか、しばしばエリート女性の政治権力を意図的に低下させた。こうしたヨーロッパ人の態度や政策にもかかわらず、経済的・社会的自立を勝ち得た女性もいた。ナイジェリアのイボ人やギニア・ビサウの事例のように、それが反乱にまで展開したこともあった。しかし、一般的には、家族の了解なしに都市に移住し、可能ならば経済の商品化の波にうまく乗って自立への第一歩を踏み出そうとした女性が多かった。

(関連記事)⇒【年表】アフリカ史(4)ーアフリカ分割と民族解放運動

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