【特論5】アフリカ社会とジェンダー(富永智津子)

2014.05.17掲載:富永智津子

【特論5】Ⅱー① 富永智津子「奴隷貿易廃止の世界史的意義を問う―西洋史とアフリカ史の接点を求めて」イギリス女性史研究会・成蹊大学文学部学会共催シンポジウム「奴隷貿易廃止と女性たち―200年目の記憶を継ぐために」レジュメ:於;成蹊大学2008年9月28日。 

はじめに

奴隷貿易に関する研究状況をみると、圧倒的に大西洋奴隷貿易に偏っている。しかも、奴隷貿易がヨーロッパや新大陸の経済や文化にもたらした影響が研究対象となっており、その他のサハラルートやインド洋ルートでの奴隷貿易を含めて、それらがアフリカ社会に与えた影響については研究が遅れている。これが、西洋史を中心とした世界史のアリーナにアフリカ史を組み込むことを阻んでいる。西洋史とアフリカ史の接点を探るには、共通の歴史的事象をアフリカの視点から見てゆく必要がある。そのひとつの事例として、昨年200年を迎えた奴隷貿易廃止を取り上げる。 

Ⅰ アフリカにおける奴隷貿易の展開

 【論点】アフリカに土着の「奴隷」が存在していたことは確かであるが、いわゆる「奴隷制」が存在していたかどうかについては疑問視されている。確かなことは、人的資源がきわめて重要だったアフリカ諸社会は、社会からはじきだされた人々をグループ間で移動させたり、略奪したり、捕虜を売買したりしてきた歴史を持っているということである。犯罪者の処遇、債務の決済、飢饉の際の口減らし、といった脈絡も考えられる。こうした慣行に継木されるように入ってきたのが、サハラ、インド洋、そして大西洋を介した奴隷貿易だった。これによって、当該社会の生産を支えるほどに奴隷制を展開させた地域も出現した。わたしの調査地であるザンジバルはその代表的な事例である。次第に、奴隷の獲得を目的とした戦闘も頻発し、内陸部の奴隷の供給地とヨーロッパ人やアラブの奴隷商人との仲介をするアフリカ人奴隷商人も台頭した。その際、注目すべきことが2点ある。ひとつは、農業などの労働を担っていたのがもっぱら女性だったアフリカ社会では、女性奴隷の需要が大きかったことである。一方、西欧列強が必要としたのはもっぱら労働力としての男性奴隷であった。このことは、家内奴隷や妾として、女性奴隷の需要も大きかった中東地域と競合していたアフリカ社会が、大西洋奴隷貿易にシフトしていった重要な要因となっている。もちろん、ヨーロッパ人がもたらす銃や弾薬が魅力的だったということもある。こうして、奴隷貿易、なかんずく大西洋奴隷貿易が展開したアフリカ社会では、女性人口が増大するという現象が出現した。これが、女性の社会的地位の低下と同時に女性間格差をもたらしたことは容易に想像できるだろう。 

Ⅱ 奴隷貿易禁止運動と東アフリカ分割

 【論点】1807年の奴隷貿易廃止令に基づき、イギリスはインド洋における奴隷貿易の禁止に乗り出すことになる。まず、その標的となったのは帝国イギリス東インド会社が統治するインドであった。インドへの奴隷の供給地は東アフリカであったから、イギリスは次第にその矛先を東アフリカ、なかんずく奴隷貿易最大の中継地であったザンジバルに向けていった。1822年を皮切りに、何度も禁止条約を押しつけ、ついに1873年にはザンジバル王にその全面廃止令を出させるに至り、その後の東アフリカ分割にあたっては有利な足場を築くことにも成功。一方、内陸部の奴隷商人によって沿岸部に運ばれた奴隷は、禁止によって行き場を失い、その結果、東アフリカ沿岸部での奴隷制の拡大を招くことになった。例外的にアメリカ型の奴隷制が展開した東アフリカ沿岸部での奴隷の男女比は、西アフリカに比して平等だという調査結果が出始めている。それでもなお、多様な労働に対応できる女性奴隷の需要が高かったことも検証されている。 

Ⅲ 東アフリカにおける奴隷制の廃止

 【論点】 植民地における奴隷制廃止のプロセスから明らかになるのは、宗主国が優先したのは奴隷の人権でも権利でもなく、いかに植民地支配のスケジュールに合わせて事を運ぶかという政策論だったことである。イギリス領では、その際、男性の奴隷は労働力確保のためにいち早く解放したが、女性奴隷、とりわけ妾の解放には、現地アフリカ人男性との結託もあって、消極的だった。イギリスと東アフリカ領を分け合ったドイツにいたっては、奴隷制を法的に廃止することもなかった。 

Ⅳ 奴隷貿易廃止運動と欧米社会

 【論点】廃止運動への参加者は、「奴隷貿易」や「奴隷制」が自分たちの社会が犯した犯罪であったという認識を持ちえなかったのではないか。彼ら/彼女たちにとって奴隷は「慈善」の対象であり、運動は「社会活動」の場であったからである。確かなことは、奴隷貿易廃止運動を通して欧米社会が成熟していったということ。とりわけ、人権・差別・自由といった思想の深化や女性の社会的活動の場の広がりなどが注目されている。 

Ⅴ 世界史の中の奴隷制廃止運動の意義

 【論点】奴隷貿易を通して経済的にアフリカを搾取し続けた西欧社会は、その内部で、人道主義的・博愛主義的奴隷貿易廃止運動を生み出すことによって、人権や差別への認識を鍛え上げ、自己のイメージを高めることに成功。しかも、そのイメージを際立たせるためには、あくまでも黒人の劣等性を際立たせておくことが必要だった。その結果、アフリカの植民地化は、アフリカを文明化する手段として容認され続けることになった。奴隷貿易に反対した人道主義者たちが、植民地化を「侵略」として捉える視点を持ち得なかったゆえんである。南アのアパルトヘイト体制を作り出し、それを支え続けた欧米社会は、まさにこの精神構造を象徴している。こうして見てくると、奴隷貿易廃止運動が蒔いた種を刈り取り続けてきたのは欧米諸国であり、それが、植民地という支配・被支配の政治学が終焉してもなお残るアフリカへの差別と偏見を温存する要因のひとつとなっている。

 一方、アフリカ社会は、外部からの奴隷貿易廃止とそれに続く植民地化の中で、主体的に奴隷貿易や奴隷制を廃止するチャンスを失い、独立後も続く旧宗主国の新植民地的支配の下で、旧宗主国と結託した支配層は「階層差別」という名の同朋差別という形で、旧宗主国のメンタリティーを共有してしまった。今なお残る奴隷制や人身売買といったアフリカ社会の人権問題は、こうした歴史過程の中で置き去りにされてきた領域なのである。その中で、女性はさらに劣位にとどめられ、男性優位の家父長社会の中で生きることを余儀なくされている。 

おわりに -奴隷貿易をどう記憶するか

 最後に、中央アジアやインドや西アジアでも奴隷貿易が広く展開していたにもかかわらず、大西洋奴隷貿易ほど批判も議論もされていないのはなぜか、という問題を提起しておきたい。たとえば、アフリカからアラビア半島にもたらされた奴隷数は大西洋奴隷貿易に匹敵するほど多い。にもかかわらず、批判や議論の対象となってこなかったのはなぜかということである。確かなことは、廃止運動を展開させたのは唯一欧米社会のみであったということであり、それは、世界史的にみるときわめて特異な現象でもあったことである。ここで重要なことは、欧米社会が、それによって奴隷貿易を「犯罪」と認識し、その後のアフリカとの関係を再構築するかわりに、それを巧妙に換骨奪胎して世界戦略へと展開させていったことである。奴隷貿易廃止運動は、その意味で、非ヨーロッパ支配を正当化するヨーロッパの「特権」的行為だったといえるのではないか。

 昨年、奴隷貿易廃止200年を記念してイギリスでさまざまな催しがなされた。それらは、確かに奴隷貿易を「罪」と認め、謝罪しながらも、それを街起こしに利用している。その精神構造は、19世紀の博愛主義者のものとどれほどの違いがあるのか?

 一方、わたしのフィールドであるザンジバルでは(ゴレ島でも)奴隷貿易の悲惨さを観光の売り物にしている。歴史の改ざんも起こっている。この流れは、奴隷貿易の被害者でも加害者でもあったアフリカ社会が、責任を他者に押し付けることによって、加害者としての罪を免責し続けてきた精神構造の延長に思われてならない。

〈参考文献〉

富永智津子 1986 「ザンジバル社会とクローヴ生産―アラブ支配からイギリス支配へ」山田秀雄(編著)『イギリス帝国経済の構造』新評論、353-403.
富永智津子 1994 「東アフリカ奴隷貿易とインド人移民―承認カーストを中心に」『叢書カースト制度と被差別民4 暮らしと経済』明石書店、413-449.
富永智津子 2001 『ザンジバルの笛―東アフリカ・スワヒリ世界の歴史と文化』未來社.
富永智津子 2002 「イニシエーション儀礼とドレイ制―アフリカ(1)」「ドレイ制廃止を都市化の進展―アフリカ(2)」「女性の労働と慣習法―アフリカ(3)」原ひろこ(編)『比較文化研究―ジェンダーの視点から』放送大学教育振興会、166-185.

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