【特論5】Ⅰー②カサイ州レレ社会における一妻多夫制について(アフリカ社会とジェンダー:富永智津子)

2014.05.17掲載:富永智津子

【特論5】Ⅰー② メアリー・テウ 「カサイ州レレ社会における一妻多夫制について」『アフリカ』第21巻第1号、1951年
Mary Tew, " A Form of Polyandry among the Lele of the Kasai", AFRICA, Vol, 21,no.1, 1951.

p.1
本論文が扱う「一妻多夫制」は、ベルギー領コンゴ西部のKwiluとKasaiの間に住むレレ社会の事例である。Pende, Bunda, Dingaといった人びとの間にも同様の慣習が見られることが報告されている。この慣習の名称については、それを禁止する法令が植民地政府から出されており、その法令にならって、ここでも「一妻多夫制(polyandry)」という用語を使用することにする。他に適当な訳語がみつからないからである。レレ社会では、hohombe、もしくはngalababolaと呼ばれており、その意味は「村の妻」である。hohombe制度は村落の生活と政治に関連しているため、まず村落状況の概要を説明することから始める。

村落は常に移動する。レレ人は耐久性のある泥造りの家屋を建てない。小屋はヤシの葉で簡単に造られ、手入れが行き届かないと2年と持たない。10年ほど経過すると、それまでの小屋を修理するよりむしろ、村落すべての小屋が一新される。生業は焼き畑農耕なので、いずれにせよ10年か15年ごとに移動するのだが、しばしば儀礼上の理由でもっと頻繁に移動を繰り返している。小屋は持ち運べるので、新しい村が設置された時には、古い小屋がそこに移動されることもしばしばある。村落は小規模。北部では平均人口は男性100人、南部では40人ほど。

村落をまとめているのは、まぎれもなく儀礼である。レレ社会の主たる儀礼のサイクルは、新しい村落の建設のサイクルである。他には、邪術にやられたと思われる村落の刷新である。そんな時はよそ者の職能者が呼はれるのが一般的である。つまり、他の村落から呼んで儀礼をしてもらうのである。こうして村落同士がお互いに名のしれた達人を融通しあうことが普通に見られる。

村落間関係とはいっても、数か村に散らばっている親族間の交流を指しているのではない。村落と村落との関係のことであり、村落はそれぞれがひとつの統合体でありそれぞれがアイデンティティを主張する関係にあるのだ。白人支配が確立してから、そうした村落関係は安定しているが、1925年以前はそうではなかった。起源を同じくする4~6の村落が、攻撃を繰り返し、女性の奪い合いをしていたのだ。
p.2
同時に、外部からの攻撃に際しては共同戦線を張っていた。しかしこうした恒久的な同盟を別にすれば、2つの村落が敵対的な関係にあるのが常態だった。通常、お互いに戦闘をしている2つの村落の間で平和的な社会的行事があるとしたら、それは常にレスリングの競技と決まっていた。このことは重要である。というのは、共通の起源を持つ村落は闘うことだけでなく、レスリングをすることさえも禁じられているからである。

こうした村落間の平和的交流を別にすれば、通常は略奪とその仕返しの繰り返しだった。レレ人は、昔の闘いは常に女性を巡って起こったと誰もが証言している。彼らは、物品のために略奪をしたことはなく、女性以外に争いの種はなかったという。彼らには、男性がその他の理由で殺しあうなどということは考えられないのだ。大きな負債や犯罪は女性のやりとりを通して解決されるのであって、重要な争いには、必ず女性がまきこまれている。だから、村落間の政治が女性をめぐる争いの観点からしか考えられないのは充分理解できる。首長は、明らかにこうした敵対関係を制御出来る立場にはない。レレ社会においては、村落間の略奪の応酬や攻撃や同盟が、首長制自体よりも重要な政治システムだったと思われる。

ここでは、略奪や交換の事例を挙げ、捕虜となった女性に何が起こったかを説明することによって、1947年の法令によって禁止された一妻多夫制について説明することにしよう。

ひとりのレレ人男性が、camwood(染色用のアフリカの樹木)10本を求めてBuhongo村にやってきた。この樹木は非常に価値があり、今でも、必ず結婚の贈物に加えられる一品である。camwood10本は、かつての奴隷一人の値段と同じだった。この男性は、もしcamwood10本をくれれば、妹をhohombe、つまり「村の妻」として与えようとBuhongo村と交渉した。村人はこれを了承し、すでにKenge村のhohombeだった彼の妹をつれてこようとしたが断られ、戦闘になり、妹を略奪し、男性一人を殺害して引き上げた。Kenge村の男性たちは、今度はBuhongo村を攻撃したが、撃退されたので、他の7つの村の応援を得てBuhongo村を包囲し、4人の男性を殺害した。ひとりの女性が逃げ出し、助けを求めた。隣の村の男性たちが駆け付け、Buhongo村に火をはなとうとしていたKenge村の男性たちを追い払った。この物語の詳細は、おそらく正確ではない。というのはKenge村側からの情報は得られなかったからである。

しかし、私は、hohombe制度を成立させている女性の暴力的な略奪という行為を誇張すべきではないと考えている。現在では、平和的な勧誘が力づくの略奪に取って代わっているからであるが、まだこうした行為を行っている人びともいる。例えば、South Hombの村長が隣村のBuhongoに対して何らかの犯罪的行為を犯したので、Buhongo側はSouth Hombの村長の妻を略奪した。村長は、当時まだ子どもだった妹の子どもを人質にして妻を取り戻した。その子は、その村で育てられた。ある時、South Homb村の人質が椰子の木に登るよう命じられて、木から落ちて死んだ。Buhongo村は妖術を仕掛けられていたので男が椰子の木から落ちたのだと宣託によって告げられた。そこで、South Hombのの男たちは、弁償を求めた。かれらは、くだんの人質の少女を略奪して、自分たちの「村の妻」にする権利を主張した。

レレ社会の女性は、10人に1人ほどの割合で「村の妻」となっている。9割ほどの女性は通常一夫多妻を行っている男性の妻である。女性が、ひとりの男性もしくは他の村の男性の妻となった後に「村の妻」になるほぼすべての事例において、女性の側にそうした変化を望む理由があり、実際に交渉もしていたことがわかっている。
p.3
夫から逃亡した妻が、夫になんの賠償も支払わずに、安全な場所をもとめてある村に逃げ込んだ場合、彼女はその村の妻として引き受けられるという慣習がある。この場合、夫は妻が逃亡するほどの虐待をしたことによって平和を乱したという罪を犯したと見なされる。したがって、妻を失ったことに対して夫は賠償を要求することはできない。通常、くだんの夫は、自分の名誉を大事にするならば、逃亡した妻を追いかけ、妻をかくまった村の男性に矢を放ち、こうして自分の村を戦闘にまきこむことになる。

力づくで略奪されたにしろ、誘惑されたにしろ、保護を求めて逃げ込んだにしろ、はたまた幼い時にそのように運命づけられていたにしろ、「村の妻」はきわめて丁重な扱いをされている。6ヶ月ほど続く新婚期間は、彼女たちは重労働をしなくてよい。鉄のアンクレットつけ、もっぱら夫たちの接待に時間を割く。午前中は、一日中座って編んだり紡いだりする小屋を掃除する。掃除し終えると小屋のひとつに座り、籠を編んだり、糸を紡ぐ女性の手伝いをしたりする。もし、夫のために紡いだとしたら、出来上がった布を自分のものにすることができる。彼女が木炭で印をつけた布は、出来上がると彼女のものとなるが、そのことを冗談めかして揶揄するひとはいるが、誰も拒めない。camwoodのペーストをつくり、夫たちに塗ることも彼女の仕事である。調理や水汲みや薪を切ったりするような通常の女性の仕事はしない。彼女が水くみに泉に行きたい時には、夫たちが同行して手伝う。このことは、いかに通常の性別分業が彼女に有利に逆転しているかを示している。通常、妻が病気であっても、妻に代わる子どもや女性の親族がいない限り、夫が自分で水を汲みに行くことはない。さらに、「村の妻」は男性と一緒に狩りにいくことさえある。これは、普通の女性では考えられないことである。それにはそれ相当の理由がある。略奪されてきた女性は、元の村によって取り返される危険があるからである。村の健康な男性がすべて参加する狩りは、そうした危険性が増す。そこで、新参の「村の妻」を狩りに連れて行き、射止めた獲物と一緒に男性がエスコートして村に帰るのである。一番美味しいアンテロープの肝臓は、彼女に与えられる。私のインフォーマントは、「村の妻」が新婚の間、野菜などは口にしなかったことを嬉々として話してくれた。献身的な夫たちが、リスや鳥を取ってきて、一緒に食べた。「村の妻」は調理しないため、夫の母親や他の妻たちが「村の妻」に食べ物を運んだのだという。

通常、男女は別々に食事をする。例外的に夫と妻は食事を共にすることがあるが、通常は女性が男性のために調理し、一皿を夫に、もう一皿を息子に、そしてもし弟がいれば彼のために一皿を用意する。彼らは、同じ年齢集団で食事をシェアする。女性は子供たちとシェアして食べるが、義母や妹、あるいは女性の友達も同席する。織物小屋で男性と食事をとる女性はいない。妻は、顔を合わせることを避けなければならない親族と夫が一緒にいる時には、夫に話しかけることが難しいということもしばしばある。
p.4
新参の「村の妻」にはこうした制約はない。新婚生活の間中、彼女は夫たちと食事をすることができる。

新婚期間、「村の妻」は2日おきに別の男性と寝なければならない。日中、彼女が森に入る時には、村のだれでもが彼女と関係を持つことができる。この新婚期間は2~3ヶ月、あるいは一年続くが、それは女性の気分次第だという。決められた日に、彼女は「社交界デビュー」する。儀式が行われ、女性がすべての男性のために食事の用意をする。それは彼女が彼らの共同の妻であることを象徴する儀式なのだ。彼らは村の中心で食事をし、男性たちは100枚の布を彼女の父母に贈り、それによって彼女の夫としての地位を確立する。もちろん、女性が他の村から略奪されてきた場合には、その村との関係が良好になるまでこの贈物は支払われないが、おそらく、最終的には支払われる。というのは彼女が両親のために贈物を強く希望するからである。村落間の敵対関係が恒久的な状態にあるということについては額面通りに受け取らないほうがよいとインフォーマントは言う。一般に、それは、通常の社会的交流、通婚、姻戚間の義務、ならびに儀礼の職能者の貸し借りやレスリングの試合の開催などと併存しているというのである。

新婚期間が終了する日に、「村の妻」は何人かの夫を割り当てられる。夫たちは彼女の小屋で関係を持ち、食事を定期的に調理してもらえる。私は、かれらを「家の夫」と呼ぶことにする。彼女は最初、5人ほどの夫を割り当てられる。これら「家の夫」は、認定されていない男性が彼女の小屋で関係を持った場合に、損害を受けたと主張し、不満を表明することができる。しかし、森の中で関係を持つことはすべての村の男性に許されている。しかし他の村の男性は、場所がどこであろうと、捕まえられれば賠償を支払わねばならない。「村の妻」は時を経るに連れ、夫の人数を2~3人に減らしてゆく。彼女が減らしてゆくのではなく、夫同士のけんかや嫉妬、あるいは結婚した妻の嫉妬などの理由から、夫が自分の所有物を彼女の小屋から持ち去るのである。そうすることによって、彼は再び「村の妻」の小屋に入る権利を捨てるのである。「村の妻」が中年に達するころ、彼女は1人の夫とだけ家で暮らすようになり、彼にだけ食事を用意する。しかし、彼女は、常に決められた領域外であれば、村の他の男性に提供されている。

「村の妻」の子どもはmwanababolaと呼ばれる。その意味は「村の子ども」である。もし村の男たちに父親は誰かと尋ねると、「村のすべての男性」と答える。もしその子に直接尋ねると、通常その子は彼にとっての社会的父親であるひとりかふたりの男性の名前を上げる。以下では、この一妻多夫家族が他のタイプの婚姻の慣行といかに調和しているかを示すことにしよう。しかし、まずは村落間の政治におけるhohombe制度の位置づけについて議論したいと思う。

「村の妻」の子どもは、「村の子ども」である。だから理論上は、彼が結婚する時、村のすべての男性に婚資を出してくれるよう頼むことができる。しかし実際には、頼んでも出してもらえないのが現状のようである。さまざまな部族出身の警官に聞いたところでは、「村の子ども」が犯罪を犯した時に彼を投獄することは不可能なのだという。村全体が彼の保釈に手を貸すからである。これは、レレ社会が考えるこの制度の真髄なのだ。「村の妻」の息子が父親たちから離れて他所で暮らすことも難しい。いかなる息子も父親が生存していて、息子の援助を必要としているうちは父親の村を離れることは難しい。しかし「村の息子」の義務は、1人の男性の死をもっては終わらない。そこで彼は父親のひとりが死んでも、母方に居を移すことができず、年をとるまで生まれ故郷の村にとどまっている。これは、母方のおじから離れて生まれた男性にとっては普通ではない状況なのである。しかし、例外も生じる。「村の息子」が父親たちの元を去ってどこか他所で暮らすこともあり、もし彼が死んだとしたら、村のすべての人が彼の喪に服すことが慣例となっている。
p.5
村の外で死亡した「村の息子」の死が、きわめて特異なやり方告知される。その伝令は、首長職の表象である鷹のはねと豹の皮の一部を身につける。この知らせを最初に受け取った父親たちの村の近親者は、彼の葬儀に参加する。それから2~3ヶ月後、父親たちが彼が死んだ村にやってくる。一般に、それは彼の母方の親族の村である場合が多い。父親たちは太鼓を打ち鳴らし、葬儀用の贈物を携えて大挙して現れる。彼らはまずパレードをし、歌を歌い、泣く。それから踊り、レスリングの試合をし、死んだ息子のクランの男たちに葬儀用の贈物をする。その後、お返しの贈物を携えて村に戻るのである。

「村の娘」の重要度は、息子の場合より高い。自分のクランを支えることができる頑強な男性のみが「村の娘」との婚約が可能であり、通常はその娘と同じ村の出身者ではない。婚約するということは、骨の折れるビジネスである。というのは、娘の両親は手続きにこだわるからである。小屋を建てたり、寝具のマットをつくったりと、決められたサーヴィスが息子となる男性に期待される。こうした労働の他に、娘の母親には40枚のラフィア椰子の布を、父親には50枚のラフィア椰子の布とcamwoodの木材や斧、その後さらに母親に10枚のラフィア椰子の布を贈らねばならない。村の義理の息子となりたいと思う男性は、母親に通常の贈り物をするほかに、約100枚の布を父親となる村に贈らねばならない。100枚の布は村で分配されたり、新しい「村の妻」のための婚資として使用するためにとっておかれる。彼は自分のクランメンバーを2~3人連れてやってきて、2~3か月村に滞在することになっている。この滞在中は、女性たちがcamwoodのペーストを彼の身体に塗り、男性たちは食物や飲物をふんだんにふるまう。しかし、彼には、村の男性たちによってさまざまな要求がなされる。まだ結婚には早い若い男性たちは、ラフィア椰子の茎を渡して、それで布を織るよう要求したり、椰子酒をとりに雨の中を森に行くよう要求したりする。彼は、これらの仕事を生産的にこなす。余暇を利用して、村への贈り物である100枚の布を織る。こうした仕事を滞りなく終えると、花嫁を連れ去ることができるのだが、連れ去る日に労働のお返しとして100枚の布を贈られる。この日には、こうして村の義理の息子となった男性は、勝利のパレードを行い、鷹のはねと豹皮の帽子を贈られる。それらは、この男性が死ぬ時に一緒に埋葬される。

村の義理の息子に与えられるこうした首長職の象徴は、この制度全体の意味を解明する大きな鍵となる。こうした象徴を身につけることができる人物は2種類。ひとつは首長とその代理、もうひとつは村落間戦闘で殺された戦士である。鷹と豹は獰猛さ、および首長職と表裏一体となっている。村の義理の息子にこうした象徴が賦与されるということは、いかに村落の自律性がレレ社会の政治の原則としての首長職と競合しているかを示している。中央集権的な政治体制を持つレレの隣人ブションゴが住むカサイ川の向こう側でも、鷹の羽と豹の皮は首長職の象徴である。ところで、ブションゴ社会にはhohombe制度がないことを明記しておくことは重要だろう。

p.6
村の義理の息子となった男性は、生涯にわたり村の義理の息子であり続ける。もし、彼の妻が彼への義務を怠るようなことがあれば、村全体で彼女に圧力をかけることになる。このような結婚は、夫と妻の両方に、よほどの困難な事態が生じない限り、破綻することはない。

私はすでに、「村の妻」すべてが他の村から略奪されたり誘拐されたりしているわけではないと述べた。きわめて平和裏に「村の妻」になる事例も多いのだ。めだった美しさゆえに「村の妻」として契約させられる女性もいれば、2つの村落間の取り決めによって「村の妻」となる女性もいる。しかし、有力な特定クランの妻となるべく生まれる多くの女兒がいるように、生まれながらにして「村の妻」となる少女もいる。一般のクランには、父親が自分の娘の娘(訳者注ーつまり孫娘)の結婚を取り仕切るという慣行があり、自分が若ければ自分のものにすることもできるが、たいていは甥や兄弟や孫世代の甥と結婚させるという権利を持っている。婚姻を通じて孫娘を同じクランの中に保持するこの慣習は、hohombe制度における孫娘による継承のモデルとなっている。「村の娘」(訳者注ー「村の妻」の娘)が女の子を出産すると、そのひとりは自分自身の祖母の跡継ぎとして「村の妻」となる運命を背負うのだ。結婚によって生まれた少女を母親の出身クランにひとり差し出すという義務がクランには存在するのだが、それと同じように、孫の1人を村に差し出す慣習はいまなお遵守されている。さらに、ある「村の娘」と結婚することによって、その村の義理の息子となった男性は、自分自身の娘を「村の妻」とすることを承諾するかわりに、孫娘のひとりを自分のものとしたり、近親者の男性に与える権利を持つ。このようにして、次世代の男性は村の義理の息子となり、自分自身の母方の大叔父が、自分より前に、同じ村の義理の息子となり、実際に彼が求婚した妻の祖母と結婚したという事実を継承するということが起きているのである。これが、村落間を結びつける絆となっていることは明らかである。

この制度の政治的側面については、その制度と首長職との関係によって説明できる。レレ社会の領域は、3つの首長領に分かれている。話をわかりやすくするために、西側の首長領の事例のみを取り上げる。首長は2~3の小さな首長の家系から選出される。首長の役割は、理論上、村落間の調停者以上のものではない。しかし、実際には、その調停でさえ、村人から尊重されているわけではない。例えば、ケンゲ村がブホンゴ村を焼き討ちした事例では、首長の家系のひとつがブホンゴ村に住み、支配権を行使している首長は30マイルほど離れたところに住んでいたのだが、その両者ともこの闘いにあえて介入しようとはしなかった。というのはケンゲ村の男性はすでに過去2回、介入という無謀なことをしようとしたブホンゴ村の首長を殺害していたからである。レレ社会の首長職はカサイ川対岸のブションゴ村をモデルとしているが、レレの首長はブションゴの首長より権力の集中度は高くない。その結果、ケンゲ村の首長は、ブションゴ村の首長が権威や闘争力によって維持している権威を、通婚や大盤振る舞いの贈物によって保持しようとしているのである。

レレの首長と闘争ばかりしていた村落との主なリンクのひとつが、hohombe制度だったといえるだろう。首長とhohonbe制度の共存という状況は、おかしな状況だといえる。というのは、hohombe制度は本来、村落間の競合関係と戦闘を基盤としており、それゆえ中央集権的な政治権威とは相容れないからである。すでにそのような権威の存在するブションゴ村がhohombe制度をもっていないことについてはすでに触れた。
p.7
しかし、レレの首長はこの制度をつぎのような方法で利用していた。つまり、首長は村を訪れ、村を去る時に貢納品を受け取る慣例があり、その額はひとりの少女の婚資と完全に同額となるように設定されていた。その後、村民は首長の住まいまで同行し、貢納の返礼として女性をひとり与える義務を果たすよう首長に進言する。首長は相当の年齢に達した自分の娘か孫娘を指名し、その村の妻に据える。このような方法で村落は全体として首長の義理の息子となり、首長と村落との間の脆弱な政治的絆が、義理の親族関係を通して強化されるのである。やがて首長は彼女の娘が、すでに述べた慣習にしたがって彼のもとに戻されてくることを期待するのである。このようにして首長の孫は小さい時に首長の妻となるべく運命づけられていたのである。それによって首長は村落の義理の息子となるのである。

母系制社会において、首長の娘は、もちろん、首長のクランには属さない。しかし、彼の姉妹の子どもはすべて首長のクランに属し、順番に支配者となる。首長の姉妹は、自由度は高いが、あたかも「村の妻」のように振る舞う。しかし「村の妻」は村の男性に縛られているが、首長の姉妹はどの村の男性とも付き合える。彼女は行きたいところに行き、男性はすべて彼女の夫である。彼女が妊娠すると、子どもを出産するために首長のいる住居に戻る。その後、再び自由に出歩くのである。彼女はひとりの男性を名目上の夫に指名し、子どもの社会的父親とする。夫となった男性は、それを拒むことはできない。彼は「子どもの父親」という意味のibocilabakumuというタイトルを与えられる。彼は死ぬまで他の女性と性関係を持たないが、彼女はその点に関し、自由である。このようにして、レレ人は首長について次のように言う。「われわれは民間人であるが、われわれは首長たちの父親となった。」首長の姉妹はhohombeではないが、このふたつの制度はきわめてよく似た制度であり、レレ人はその類似性を強調したがる。父親を意味するibociと同じ言葉が「村の妻」の夫にも用いられる。かれらがibociという言葉を、まさにその文字通りの意味とは反対の意味で用いているのは奇妙である。つまり、他の男性の子の社会的父親を意味する言葉として。だが、私はこの用法を正確に説明できるほど理解してはいない。

さて、ここからこの制度のもっとも入り組んだ局面に入ることにしよう。つまり、通常の概念でいうところの近親相姦、不倫関係、そして婚姻の義務についてである。レレ社会のクランは外婚制であり、クラン内での性関係、つまり父親のクランのメンバー間の性関係は禁じられている。したがって、クラン内の性関係は「村の妻」には厳格に禁じられている。クランメンバーにとって、彼女は姉妹とみなされ、性関係はもとより妻と呼ぶこともタブーなのだ。しかし、彼女の子どもは、父親のクランのメンバーと結婚することもありうる。村の男性すべてが「村の息子」の父親ではあるが、「村の息子」は、彼の社会的父親のクランメンバーとの結婚だけは避けねばならない。社会的父親とは、彼が生まれた時に、彼の母親の小屋に住んでいた男性であり、彼と遊び、彼に肉を食べさせ、病気の時は薬を探してやり、弓矢の使い方を教え、仕事を教えていた男性である。村の女性の多くが彼の父方の伯母であると主張するかもしれないが、この社会的父親の姉妹のみがその特権を主張できることになっている。

夫に対する妻の義務は、食事の準備と子どもの出産育児である。「村の妻」にとっては、村の男性すべてが夫である。そのすべての男性に食事の用意をすることは不可能である。それが、彼女が新婚期間に調理をしない理由となっている。
p.8
しかし、夫が数名に絞られると、調理は彼女の重要な仕事の一部となる。男性が独身でいる間は、いつも腹ペコ状態であり、そんな状態は自分の妻を持てる30歳から40歳になるまで続くのである。

そう昔に遡らなくとも、妻を持つことはきわめて難しかったことは誰もが認めているところである。この状況は、ミッションが、若い女性に年取った夫からの逃亡を可能にし、洗礼を受けさせ、妻への税金が複数(通常3~4人)の妻を持つことを年配の男性に断念させてから改善された。レレ社会は大規模な一夫多妻制には移行しなかったが、男女の人口比が均衡がとれている状態の時に年配の男性が3~4人の妻を持つとしたら、当然若い男性の中には妻を持てない者が出てくる。これが、一妻多夫の制度が、村落間政治や首長政治のみならず、村落内の生活の不可分の一部として構築された理由だと思われる。村落内の組織は北部と南部では異なり、それに伴い一妻多夫の制度も異なるので、ここでは両地域に共通の村落生活と年齢集団の制度との関連で考察したい。男性は、さまざまな理由から、叔父の寡婦を相続するか、20歳か25歳のころに幼い女の子と婚約して彼女が結婚年齢に達するまで待つ以外に、妻を娶ることな出来なかった。この長期にわたる独身の時期は社会的に未熟な時期とされる。自分の妻を持ってはじめて男性は客を食事に招くことができるし、誰もが尊敬するようなホスピタリテイを提供できるのだ。その結果、「村の妻」が提供する数名の夫への調理義務は、名目的なものではなかったのだ。「村の妻」の小屋での生活は、男性が自分の妻を持つことができるまでのギャップを埋めてくれたのである。

一般化するには事例が足りないが、若い「村の妻」は若い男性を小屋に囲うが、年配になっても一緒に住んでいる男性は、自分の妻を見つけることができなかった男性だったと思われる。「村の妻」以外の妻を持てない男性は多少蔑まれていた。夫が「村の妻」の家を離れたり、死んだりした時には、誰がその空白を埋めるかは評議会が決定した。もちろん「村の妻」の好みに対するいくばくかの配慮はなされたが、妻のいない男性の要望も聞き入れられた。「村の妻」は、一般女性が夫に期待する肉や椰子酒やラフィア布という3つの商品を、彼女の歓心を買おうとする村の男性から常に入手できるために、彼女が小屋に囲う夫がいかに力が強いかとか仕事ができるかといったことを気にする必要はなかった。自分の親族から離れて暮らす年配の「村の妻」は、もし子どもがいない場合には辛い立場に置かれることになるが、いずれにせよ、子どものいない寡婦の状況は同じようなものではある。

「村の妻」の子供たちに関して言えば、彼らの地位は、成長するにつれてまさしく他の家族の子どもと同じになる。彼らの母方の親族は彼らに強い関心をもっており、レレ社会は母系なので、彼らのクランにおける地位は他の子供たちと同じである。もし母親が逃亡したり、他の村によって略奪されたりしたら、子供たちは、年齢に応じて、彼女と行動を共にするか、もしくは父親たちのもとにとどまるかを選ぶことができる。

一妻多夫的状況へのもっとも興味深い対処がみられる領域は不倫である。一夫多妻の世帯において、相手が誰だかわからない不倫は、もし妻のひとりに子どもがいる場合にのみ危険だと考えられている。この場合、もし男性の2人の妻のうちの1人に子どもがいて、彼女、もしくは彼、もしくは彼女の僚妻が不倫を犯した場合、難産の原因となり、不倫を犯した者が告白し、それなりの呪薬が与えられない場合には、おそらく母子ともに死ぬと思われている。
p.9
母親の安全への責任が僚妻にかかっていることは、とりわけ興味深い。このことは、一夫多妻家族の妻たちと夫が運命共同体であることを明示している。それでは、僚妻のひとりが「村の妻」の場合にはどうなのか?その回答ははっきりしている。ふたりの妻と「村の妻」を持つ男性の場合、もし妻のひとりが妊娠したら、夫は母子が安全であることがわかるまで「村の妻」のもとを離れ、性交渉はしてはならない。それは、母親の出産までではなく、不倫に由来する災いを取り除く特別の薬を与えられるまでの禁止事項となっている。それでは「村の妻」の方はどうなのか?彼女自身は、夫たちやその僚妻たちの不倫の災からどうやって保護されるのか?彼女は災いを受けないのか?もしそうならなぜなのか?明らかに、彼女は別格だと考えられており、彼女自身が妊娠した時以外は災が及ばない。彼女が妊娠した時、すでに性交渉と持った男性が20人ほどいたとする。その他に30人ほどの性交渉を持ったことがない男性がいる可能性がある。彼女が子どもを身ごもったことを知った時、かつて性交渉をもったことのある男性との性交渉は続行できるが、そうでない男性と性交渉を持った場合には、他の女性と同じように出産時に危険な状態に置かれることになる。「村の妻」が予防薬を服用する前に、他の村からやってきた見知らぬ男性と性交渉を持った場合、母子が死んだ責任はこの見知らぬ男性が負うことになる。彼は賠償として女性をひとり村に、そしてもうひとりを彼女のクランの男性に贈らねばならない。首長の娘も「村の妻」と同じように妊娠期間中の不倫がもたらす危険にさらされている。

ここで年齢集団についての話に入ろう。この話を先延ばしにしてきたのは、北部と南部とでは違いがあるからである。「村の妻」が関わった不倫の解釈に違いがあるのである。首長の娘は完全に自由で、誰と性交渉を持とうと非難されることはない。しかし、「村の妻」にとって、不倫は意味があり、それがhohombeの翻訳として「一妻多夫」を採用し、「村の売春婦」もしくは「共同妻」(femme commune)の用語を採用しなかった理由でもある。

平均して30人から40人の男性人口を持つ南部の村は、100人以上の男性人口を擁する北部の村より規模が小さい。南部では村落内の結束は固く、村落間の結束も北部より固い。この違いが、これから述べるhohombeと年齢集団における南部と北部の違いをもたらしているのかもしれない。

すでに述べたように、共通の祖先をもつ村落間では、戦闘やレスリングや女性の略奪は行わない。彼らはその理由を「われわれはもともと一つの村だったし、今でもそうだから」という。しかし、焼き畑耕作にともなう移動の過程で遠くに離れてしまい、共通の慣行が見られない場合もある。例えばわたしが一時期住み込んでいたSouth Homb村は、Hombと呼ばれる3つの村(North,Middle,South Homb)の最南端に位置している。それらはかつてはひとつの村落だった。SouthとMiddle Hombはお互いに徒歩で20分以内の距離にあるが、North Hombは遠くはなれている。もしSouth、もしくはMiddle Hombが攻撃されたとしても、他の村が戦闘に参加して援助することはできないが、North Hombはその事自体を知るのに時間がかかる。
p.10
もしもある男性がHombのある村で死んだ場合、理論上では服喪はすべての村で3ヶ月間にわたり行われる。しかし、実際にはNorth Hombは遠く離れているので、それにわずらわされることはない。占いギルドの新しいメンバーがSouth HombかもしくはMiddle Hombで入団式を行うことになった時、両方の村の占い師は踊りと饗宴を共同で行う。そして、双子が生まれた時には2つの村のどちらかで祝宴が開かれる。しかし、North Hombはこうした祝いの席に出席するには遠すぎる。つまり、距離のせいで、通常なら3つの村の団結を促進するための仕掛けの多くが行われなくなってしまっている。しかし、本来の団結はhohombe制度の存在によって今なお認められる。North Hombを訪れた
South Homb出身の男性は、そこの「村の妻」と性関係を持つ権利がある。なぜなら、彼らが言うには、「われわれはHombというひとつの村に属しているから」だというのである。この寛大さによる恩恵は、South HombとMiddle Hombの男性によって、近隣の人びとや同盟者であるBushongoの男性にまで及んでいる。彼らの間では通婚が多く行われており、彼らの言葉を借りれば、「われわれはひとつの村ではないが、われわれは彼らの子供たちの父親であり、彼らはわれわれの子供たちの父親である」。「村の妻」と性関係を持ってはならないのは、唯一戦闘状態にある村のメンバーと決められている。South Hombに近いもうひとつの村はHangaである。この村は、4つの村から構成されるHanga村に属している。これらの村はHombの天敵であり、現在でも仲が悪い。もし、Hangaの男性がHomb村の「村の妻」と一緒にいるところを見られたら、おそらく戦闘になり、賠償が要求されるだろう。南部で「村の妻」との性交渉権を持つ集団を識別するもうひとつの方法は、レスリングの試合である。レスリングの試合をする関係にある村同士は「村の妻」を共有することができないのである。

年齢集団のシステムは、hohombe制度とは違い、その目的や意義が明確ではないようだ。若者が成長するにつれ、同じ年齢のもの同士で集団を作る。これは突然始まったわけではない。同じ日に生まれたり、同じ週に生まれた少年の間には常に特別な仲間意識がある。これがさまざまな慣行によって形式化され、年齢集団が親族組織とはかかわりなくすべての友情のモデルを提供することとなった。レレ人は、年齢に大きな価値を置く。実際、年齢集団は社会的に人を識別する基盤のひとつとなっている。年長者への尊敬は社会生活のすみずみにまで浸透しているが、しかし、これと全く矛盾することなく、祖父母と孫の関係や年齢集団のような、長幼の序列とは無関係な制度が併存しているのだ。

このような同年輩の人びとの間の僚友関係の伝統は、hohombe制度の重要な前提となっている。世界中のだれもが、僚妻同士がけんかをすることを知っている。レレ社会は僚妻を引き離しておく努力を惜しまない。僚妻は一緒に食事をしないし、一緒に仕事をしない。世帯の団結は、不倫についての考え方を通して強調されるが、夫と各僚妻の個別的関係もまた認識されている。例えば、もし妻が自分の小屋でではなく、僚妻の小屋で夫と性交渉に及んだとしたら、妻も僚妻も道徳的な危険を犯したことで病気になると考えられている。

「村の妻」とその数人の夫との関係については、このような考えは適用されない。彼女の夫たちはとっかえひっかえ彼女の小屋で寝る。彼らが僚妻のようなやり方でけんかをすることはない。これは年齢集団の伝統と同じである。真の年齢集団の構成員同士は決してけんかをしないのである。
p.11
彼らは、兄弟にもまして親密な関係なのだ。というのは年齢が同じだから、長幼の序による気兼ねがないからである。「村の妻」の小屋を共有するのはこの年令集団メンバーなのである。だから、彼らがけんかしたり、やきもちを焼く理由はないのだ。それが一般的な感情なのである。しかし、実際には「村の妻」を共有する夫たちは嫉妬とけんかに悩みぬいている。それは僚妻以上である。もし、彼らが年齢集団の伝統によって制御されなかったとしたら、状況はもっと悲惨なものになっていたはずだ。

数名からなる少年のグループが社会的成熟期に達すると、年齢集団を形成する権利を要求する。レレ社会では、無からはなにも生まれない。したがって彼らは年齢集団のメンバーになるための料金を支払うために財を貯めなければならない。ラフィア椰子の繊維で編んだ布を出し合うのだ。一般には叔父や父親たちも協力する。集めた財はひとつ上の年齢集団に支払われる。この行為は、「場所を買う」と呼ばれる。年齢集団は村の一部に自分たちの場所(quarter)を確保し、小屋を建て、織物をするシェルターを持つ。quarterというのはなかなかうまいネーミングだ。というのは村の中にはちょうど4つの年齢集団があるからである。支払った「料金」は、「村の妻」と性関係を持つ権利を彼らに保障する。「料金」を支払っていない男性は村の正式メンバーとはみなされない。年齢集団は自分たちの名前を持っており、新しい年齢集団は15年毎に形成される。新しい集団の最初の4人のメンバーは、集団形成の前線にあって、ひとつ上の年齢集団に料金を支払う。すぐ上の年齢集団は、自分たちの集団内の年長者に料金を支払う。年長者はその料金で必要なものを賄うのみならず、そこから利益を生み出すことに使う。そのようにしてそれぞれが新しい申請者にジュニアセクションを作る権利を与える。最終的に年齢集団は拡大し、広い年齢層の男性を擁するようになり、年齢集団の元来の理念と矛盾するようになると、新しい年齢集団が新しい名前のもとにスタートすることになる。他の村の年齢集団と連携するような試みはなされない。新たに形成された年齢集団は、ただちに自分たちの妻を探し求める。相続によって、誘拐によって、あるいは略奪によって、彼らは多くの妻を入手する。そうした女性は、形式的には「村の妻」であるが、彼女の小屋に住んでいる夫たちはある年齢集団のあるセクションの同年齢の男性ということになる。彼女の子どもはしばしばその年齢集団の子どもと呼ばれる。

この事例は、南部の村にみられるシステムについての、きわめて単純化されたアウトラインにすぎない。もっと大きな北部の村では、より洗練されたものが見られる。例えば、年齢集団は村のそれぞれの陣地を占拠している。一方に、もっとも若い集団とその次の集団が陣取れば、もう一方にもっとも年長の集団とその次の集団が陣取るという具合にである。北部の「村の妻」は村の境界を越えてはならない。彼女は彼女の村に陣取っている2つの年齢集団に属しているからである。最年長の年齢集団は彼らより若い年齢集団の妻と性交渉を持ってはならないが、その逆は可である。村の同じ陣地に位置する2つの年配の集団の男性は、彼らより若いふたつの集団の祖父母の関係にあると考えられている。若い集団は年配の集団に妻の提供を頼むことができる。年配の集団の孫たちは若い集団の妻になるべく運命づけられている。年配の集団は、村落評議会が新しい「村の妻」の配属を決める時に、若い集団のために動いてやることもある。ある特定の年齢集団による「村の妻」の独占は、南部より北部のほうがずっと厳しく守られているため、村民以外のものが「村の妻」に近づいてはいけないなどと言う必要がないほどである。親密な村であっても南部のように妻を共有するなどというのは論外なのである。村に永住するためにやってきたよそ者は、年齢集団の料金を払っていない場合には、たとえ出身村で払っていたとしても、新たに払わねばならない。
p.12
もし料金を支払わずに「村の妻」と話をしているところを見られたら、嫉妬した彼女の夫たちによって攻撃されることもある。しかし南部では、もっと寛大である。もしよそ者がやってきて村に住み、狩りの集団や儀礼に参加する場合、彼は村の社会的地位を獲得し、出身村で料金を支払っていれば、「村の妻」に近づく権利を与えられる。

これ以上の詳細はここでは述べないが、制度としての「村の妻」が話の中でシンボルとして用いられる状況を2点挙げておきたいと思う。hohombeとして語られる2人の公のサーヴァント(外部に対して村を代表する役職を担っている男性)がいる。ひとりは村の公的な占い師である。すべての他の占い師はフリーランスの占い師であり、あらゆる事例を引き受けなければならない義務はない。しかし村人によって選ばれ、村によって任命された公的な占い師は、村の大きな儀礼を執り行わねばならない。もうひとりは村の財務担当のサーヴァントである。彼は村に代わって罰金を徴集し、けんかを調停し、村の貴重品を管理するために選ばれている。彼は外交特権を与えられており、彼を傷つけた者は村に女性を罰金として支払わねばならない。彼と占い師はそれとなく「村の妻」になぞらえられている。村人のこの考え方が明らかにしているのは、村と一妻多夫の形式との関係であり、それこそ私が本論において強調したかったことなのである。(翻訳:富永智津子)

タンザニア・サヴァンナ風景©富永

タンザニア・サヴァンナ風景©富永