【エッセイ】アフリカ事情雑感①「女性フォーラム」    エッセイ&イラスト  富永智津子

TICAD(アフリカ開発会議)雑感」        

2008年5月末、横浜でTICADⅣが開催された。5年毎に開かれてきた日本政府肝入りの国際会議である。img107アフリカ54ケ国中40ヶ国以上の首脳が来日した。しかし、10億円ともいわれる血税がつぎこまれたわりには、今回も一般の認知度は低い。だが、それよりもっと知られていないのは、この会議を実りあるものにするために4年にわたって活動を続けてきたNGОの存在である。わたしも末端に連なっていた「市民社会フォーラム」はそのひとつ。
このフォーラムは、アフリカのNGОと連携し、この会議で出される宣言に、アフリカ市民レヴェルの声を反映させようと活動してきた。会議は、政府が、ОDAと民間投資額の倍増、食料増産などのイニシアティヴをとることを宣言して終了し、アフリカの首脳はこぞって、日本政府の決断を高く評価した。
しかし、NGОが求める草の根の開発がどのように盛り込まれたかは、いまひとつ不透明だ。それもそのはず、政府の本音が、アフリカの埋蔵資源の獲得と国連常任理事国入り対策にあることは隠しようがない事実だからである。このふたつは、政府首脳間の事案なのだ。アフリカ諸国の独立後、どれだけのОDAや援助金がアフリカに注ぎ込まれてきたことか。何回、国際会議や首脳会議が開催されてきたことか。いくつ宣言やメッセージが読み上げられてきたことか。
にもかかわらず、アフリカ社会の格差は拡大し、貧困層は増えるばかり。その理由を、アフリカの一般市民は熟知している。一部の特権階級―そのトップには多くの場合大統領がいる―が、賄賂と汚職によって援助金を横領しているからだ。横領されたお金は、先進国の銀行に預金されたり、高級車が購入されたりして、結局は先進国に還元される仕組みになっている。それを知っていながら、放置してきた援助国や国際機関。こうした構図を前にNGОはあまりにも無力だ。賄賂と汚職が一掃されないかぎりアフリカに未来はない。
わたしたちは、埋蔵資源がもたらす富がどのように使われ、誰を潤し、アフリカの貧困をどのように削減していくかを、納税者として注意深く見守ってゆく責任がある。(『婦民新聞』2008年6月)

 

アフリカ学会

img108毎年5月末の土・日に、日本アフリカ学会(会員約800名)の学術大会が開催される。アフリカ研究者が在籍している大学が持ち回りで主催している。47回目にあたる今年の大会は、奈良の近畿大学。参加者は、350名ほど。口頭報告者80名がそれに含まれる。
報告は、3教室に分かれて行われた。同時並行の報告だから、いくらがんばっても3分の1しか聞けない。しかも報告者の持ち時間は15分。これに質疑応答の時間が含まれる。報告者も質問やコメントをする側も消化不良気味にならざるを得ない。その結果、学術大会とはいうものの、若手研究者(大学院生)にとっては緊張度の高い顔見世の舞台、中堅(30~50歳)にとっては研究の進捗状況を報告する場、古参(60歳以上)にとっては報告者への質問やコメントで頭脳が老化していなことを確認する場、といったところか。
まだまだ若手・・・と思っていた私は、いつのまにか古参の部類に入ってしまった。振り返って見ると、私がこの学会に積極的に関わるようになったのは、アフリカ研究に見られる男性中心の「体質」を変えようと立ち上がった12年前からのことになる。それは、私が研究の軸足を女性史やジェンダー史にシフトしはじめた時期と重なっている。大学を舞台としたキャンパスセクハラの被害者が、裁判に訴え始めた時期とも一致している。
そうした研究や現実を通して、私は、アフリカ学会の評議員や理事、あるいは学術大会の座長(報告3~4本にひとり)に女性が指名されてこなかったこと、託児所が設置されていないこと、そして、何より、領域を問わず、すべての研究報告にジェンダーの視点が欠如していることに気付かされたからだった。アクションは、唐突だった。1998年度の学術大会でのことだった。「ザンジバルの女性と労働」について報告していた私は、突如、報告を打ち切って、有志ともども「女性フォーラム」を立ちあげるとの宣言を行い、メンバーを募ったのである。自分でも予想もしていなかった行動だった。数時間後、指定した集合場所には、10名を越える賛同者が集まった。(『婦民新聞』2010年6月)

[女性フォーラム」(1)

日本アフリカ学会は、年2回、会誌『アフリカ研究』を出版している。私は、その56号(2000年3月)に、img121「女性フォーラム―設立の主旨と女性研究の地平」と題した一文を寄せた。そこで論じたことは、会員を女性に限ったことと深く関係している。もちろん、設立に際して、男性も入れたらどうか、という意見はあった。
しかし、当面、メンバーを女性に限定することへの賛成意見が圧倒的に多かった。アフリカの女性をめぐるさまざまな問題に対し、まず同性である私たちがもっと認識を深めてゆくべきであるということを、誰もが感じていたからである。その背景には、そもそも、私たち自身が、日本における女性の問題に自覚的であったかどうか、という問いかけと反省があった。
女性の問題は、環境や開発の問題と同じく、国境や民族を越えて存在する。1975年に始まった国連の取り組みによって、女性の問題は国際的な舞台にも引き出された。しかし、「女性研究」が市民権を持ち始めたといわれる今日でさえ、こうしたテーマは一般に何となく扱いにくいと思われているのも確かだ。それは、一時期の“過激”と言われたウーマンリブ運動やエリート女性を中心に展開されたフェミニズム運動のせいばかりではない。男性中心の学問体系や社会構造を内面化し、問題の所在すら意識してこなかった私たち女性にも責任はある。
しかも、この問題は掘り下げれば掘り下げるほど、私的な場へとシフトせざるを得ない。これも、男性に限らず、女性にも“女性問題”に対して何となく距離をおいておきたい気持ちにさせてしまう要因となっている。別の言い方をすれば、女性の問題は、女性も男性も、自分の身近な人間関係を再点検させられることによって、それまでの価値観をゆさぶられるような不安にさらされるからである。
しかし、今、私たちに求められているのは、そうした個人レヴェルの問題を相対化し、それを社会の問題や政治の問題として研究の対象にきちんと位置づけることなのではないか。こうして、10年にわたるアフリカ学会での女性フォーラムの活動が始まった。(『婦民新聞』2010年7月)

 

 「女性フォーラム」(2)

女性フォーラムのプレ・セッション(1999年)で語られたアフリカの女性たちの語りをいくつか紹介しよう。まずは、客員教授として大阪外国語大学に赴任していたBさん(50歳台)。
「私は、タンザニア北部のキリマンジャロの麓で生まれました。豊かな自然に囲まれた高原地帯です。当時、私どもが住んでいた地域で女子が通える公立学校はありませんでした。女子に近代教育は必要ない、という当時の社会通念に疑問を抱いた父は、学校の共学化を当局に訴えたのです。父は首長でしたから、政府に対してもある程度の圧力をかける権限を持っていました。粘り強く、八方手を尽くして交渉し、父はようやくすべての子弟に学校を開放することを政府に約束させたのでした。こうして、私たち姉妹や従姉妹は、教育を受けられたのです。私の生い立ちはそのくらいにして、タンザニア女性が置かれている状況を少し紹介しましょう。ある時、私は、タンザニア南部のある村で女性の自殺者が相次いでいるとの情報を入手しました。そして、同僚と調査に出かけたのです。そこは、自給農業のかたわら換金作物であるコーヒー栽培を生業としている農村でした。自殺者が相次いだことで、村の長老たちは、話し合いの末、ひとつの解決策を講じたのです。それは、過重な労働を強いたり、暴力をふるったりして妻を自殺に追い込んだり、自殺未遂を起こさせたりした場合、夫は、裁判にかけられ、場合によっては投獄される、というものでした。一方、妻は、村長から土地を付与され、そこに家を建てて自活の道を保証されることになりました。1980年代のことです。この事例は、タンザニアの女性が、伝統的な性別役割分担を拒否し、自殺という大きな代償を払って抵抗した結果実現した変革だったと言えます。その他にも、多くの女性たちが、自分たちの人生を問い直し、主体的に生きる道を模索しながら新しい未来を切り拓こうとしています。」
Bさんは、最後に、未来を切り拓こうとしているタンザニアの女性たちの経験を、女性フォーラムの皆さんと分かち合いたいと言って、話を終えた。(『婦民新聞』2010年8月)

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「女性フォーラム」(3)

次は、南アフリカ共和国(以下南アと略記)出身で、京都精華大学客員教授のNさん(50歳台)。
「私は、南アの白人中産階級の家庭に生まれ、教育面でも恵まれた環境で育ちました。ケープタウン大学で経済学を学び、女性は結婚して専業主婦になるべきだと考えられていた社会では珍しくアカデミズムの世界に飛び込むことを選択しました。私が南アを離れ、政治学を学ぶためにアメリカの大学に留学したのは1970年代のことでした。男女平等の教育を受け、一度もジェンダーの問題など考えたことのなかった私は、そこで初めてアカデミック・ハラスメントや性差別を経験しました。たとえば、2人の男性の指導教授に私の論文の一部を無断で盗用されたり、結婚して子供もいるのになぜ研究者としての仕事が必要なんだ、と言われたりしたのです。その冷やかな態度やセクシズムを通して見えてきた男性中心の権力構造を目の当たりにして、やり場のない怒りを覚えたことを昨日のように思い出します。また、ジンバブウェのゲリラ闘争に関するフィールドを行っていた時には南アの白人であることをひた隠しにせざるを得ないという経験もしました。同じ白人でも、アメリカの白人なら差別されないのです。女性であり、かつ南アの白人であるという二重のハンディを背負って、私は半生を過ごしてきたわけです。アフリカ出身者は、白人だからといって差別から免れているわけではありません。南アの白人は、さらに、アパルトヘイト体制に浴びせられる批難をも一様に引き受けることになるのです。多民族、多人種社会に生きる女性研究者として、今、私にできることは何か、それをこれからも問い続けてゆきたいと思っています。」
Nさんの話は、参加者に強い衝撃を与えた。ひとつは、アフリカ出身のNさんが初めて経験した性差別の舞台がアメリカだったということ、そして、もうひとつは、経済的には優遇された立場にある南アの白人系アフリカ人の抱える苦悩である。アパルトヘイトという人種隔離体制によって不利益を被ってきたのは、黒人系アフリカ人だけではなかったのだ。(『婦民新聞』2010年9月)

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「女性フォーラム」(4)

3番目に登場したのは、客員教授として立命館大学で教鞭をとっていたジンバブウェの女性Pさん(50歳台)である。
「私は、ジンバブウェの農村の貧しい家庭で育ちました。女性は父親、もしくは夫の庇護のもとに置かれていることがごく当たり前な環境でした。夫が死ねば、夫の親戚の男性か、息子の世話になることになっていました。そういう状況でしたから、女の子に教育を受けさせるのは、お金と時間の無駄と誰もが考えていたのです。ですから、祖母や母の強い勧めで、私が学校に通うことができたのは、本当に幸運でした。私は、宣教師の家で子守りや家事の手伝いをして学費を稼ぎながら、ミッション系の学校を卒業し、看護婦養成学校に進学しました。奨学金を得て、タンザニアに2年間留学もしました。その延長上に今の私がいるのです。ジンバブウェの現況は、女性にとって、当時とそれほど違いません。女性に教育が不要だという社会意識は、相変わらずです。独立後、教育の機会は男女を問わずすべての子弟に開かれました。しかし、無料ではないので、子どもがたくさんいれば、親は男の子を優先します。ところで、皆さん、良く聞いてください。そして、びっくりしないで下さい。昨日(1999年5月)、ジンバブウェの最高裁判所で“女性には男性と同等の権利はない”という判決が出ました。この裁判は、ある女性が、夫の父親の家に放火した事件がきっかけでした。放火は、夫の父親による性的関係の強要に耐えきれなくなったこの女性の犯行だったからです。その背景には、未成年の息子やその嫁は、父親の支配下に置かれ、父親の所有物として扱われることを容認してきた伝統的な慣習があるのです。裁判所は、この慣習を重んじ、女性の従属的地位を再確認する判決を出したのです。」
Pさんは、このような男性優位の社会を変えてゆくにはどうしたらよいのか、一緒に考えてください、と訴えた。このセッションには、インターネットで知ってフランスから駆け付けたという著名なアフリカ研究者のコクリー・ヴィドロヴィッチの姿があり、私たちを勇気づけてくれた。(『婦民新聞』2010年10月)

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「女性フォーラム」(5)

女性フォーラムは、日本アフリカ学会学術大会を舞台にさまざまな問題提起を行い、2008年の第10回を最後に、ひとまず幕を閉じた。メンバーを女性だけに限定したため、一部の男性から「怖いグループ」と見なされていたことも確かだ。それほどインパクトがあったということにもなる。
良識ある男性は、今まで気づかなかったことを素直に反省し、理事や評議員の選出にあたっては「ジェンダーバランスに配慮すること」という文言を学会規約に取り入れる提案に賛成してくれた。学術大会会場での託児所の開設も定着した。一方、女性フォーラムが目標に掲げたアフリカ研究へのジェンダー視点の導入は、この10年でどの程度進んだか。
フォーラムでは、国家、家族、エイズ、レイプ、暴力、女性性器切除(FGM)、宗教といったテーマを取り上げ、報告者やコメンテーターには男性も加わってもらった。アフリカを研究する最大の意義は、ヨーロッパ的価値観の相対化にある。そのために、私たちは、さまざまな工夫をしている。そのひとつは、アフリカ発の情報を大切にすることである。だからアフリカ研究者はアフリカの大地を歩き・見て・聞いて・考えてきたのだ。しかし、描かれてきたのは、性別のないのっぺりした「農民」・「漁民」・「狩猟採集民」・「牧畜民」・「都市民」社会の肖像であった。
この数年、女性フォーラムの問題提起は、女性研究者が増えたこともあり、確実に根付いてきている。アンケートを取る場合にも、男女別が当たり前になってきている。ただし、女性の問題がゲットー化しないためにも、方法論を含め、まだまだ残された課題は多い。そう考えると、女性フォーラムが役割を終えたというわけにはゆかない。
経験から言えば、女性フォーラムの設定には、広い視野の中から問題を発掘し、さまざまな領域の研究者の協力を得て、それを学際的にコーディネートする手腕が問われる。それは、翻って、自身の研究を豊かにしてくれる作業でもある。こうした労を厭わない新たな担い手が出てくることを、私はひそかに期待している。(富永智津子 元宮城学院女子大学教授)

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