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【エッセイ】アフリカ事情雑感④ノーベル平和賞(富永智津子)

【エッセイ】アフリカ事情雑感④ノーベル平和賞    エッセイ&イラスト  富永智津子

ノーベル平和賞(1)

2011年度のノーベル平和賞は、平和構築や民主化のために闘っている3人の女性に授与された。リベリアのサーリーフ大統領と平和運動家のリーマ・ボウイーおよびイエメンのタワックル・カルマンである。
アフリカの女性・ジェンダー史に関わってきた私にとって、ふたりのリベリア女性、とりわけリーマ・ボウイーの受賞は嬉しかった。というのは、2009年に日本のテレビで放映されたアメリカのドキュメンタリー映像「リベリア―内戦を終わらせた女性たち」をとおして、彼女の行動力とリーダーシップに大きな感銘を受けていたからである。
平和賞は、まさに、このドキュメンタリーに記録されている政府軍と反政府勢力との戦闘を、非暴力の戦術によって終わらせることに貢献した彼女の平和回復運動に対して授与されたものである。彼女の自伝とドキュメンタリーから、リーマの生い立ちと運動を紹介するにあたり、まずはリベリアの歴史を簡単に振り返っておきたい。
リベリアは、日本の約3分の1の国土に人口400万ほどを擁する西アフリカの小さな共和国である。サハラ・アラブ民主共和国を入れて現在55カ国にのぼるアフリカ諸国の中で、エチオピアと並び西欧諸国によって植民地化されなかったもうひとつの国家として挙げられるのがこのリベリアである。しかし、建国の歴史的経緯はエチオピアとは異なる。1820年代から入植をはじめたアメリカからの解放奴隷によって創られた国家だからである。
このことは、この地が、アメリカの文化を身につけた少数の入植者によって「征服」されたことを意味する。こうして、リベリアの16を数える先住民族は、アメリコ=ライベリアンと呼ばれる入植者集団によって支配されるようになったのである。彼らによる統治は130年も続く。それを覆したのが、1980年に起きたひとりの先住民の軍曹によるクーデタだった。
ようやくアメリコ=ライベリアの支配に終止符が打たれたのだが、これが、先住民族間の権力をめぐる対立と抗争に道を開くことになろうとは・・・。こうして1989年、悲惨な内戦が勃発したのである。リーマ17歳の時のことであった。(『婦民新聞』2011年11月)

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ノーベル平和賞(2)

リーマ・ボウイーは1972年、キリスト教徒の先住民族の両親のもと、5人姉妹の4女として生をうけた。貧しい家庭に育った父親だったが、アメリコ=ライベリアンの政権に役人として登用されてからは生活が安定、リーマは首都モンロビアで何不自由ない高校生活を送った。
ところが、大学に入学し、順調な人生航路を歩み出した矢先、第一次内戦(1989~96年)が勃発したのだった。さらに、それに追い打ちをかけるように、つらい現実が待ち受けていた。それは、内戦の混乱の中で出会って一緒になった夫の家庭内暴力だった。それでも、二児を出産。しばらくは、生活も安定していたが、やがて役人だった夫が汚職で失職し、リーマ自身がケーキやパンを焼いて日銭を稼がざるを得ない日々が続く。
そのような絶望のさなか、リーマは、同時並行的に内戦で混乱していた隣国シエラレオネから逃れてきた難民女性たちと出会ったのである。彼女たちは、乳房を反乱兵に切り取られるというような言語に絶する傷を肉体と精神に負いながら、リベリアに避難してきていたのである。こうした女性たちをとおして、リーマはこの惨状が誰によってもたらされているのかを具体的に学んでゆく。その根源に男性による暴力があり、それが国家を暴力国家に仕立てている、ということを。
リーマは次第に自立の道を考えるようになる。ソーシャル・ワーカーの訓練を受け、準備を進めた。しかし、その最中にも、夫の暴力はエスカレートし、やがて望まない3度目の妊娠をする。リーマはその時の気持ちを「私の夢と可能性は、足元から崩れ落ちてしまいました」と自伝の中で記している。
その後、リベリア内戦の激化と拡大により、リーマ一家はガーナに逃れ、難民生活を余儀なくされる。ガーナから帰還したリーマは、再び第二次内戦(1999~2003年)に巻き込まれることになる。
リーマは立ちあがった。2001年、仲間の女性たちとともに「平和構築のための女性組織」(WIPNET)を立ち上げたのである。その間にも内戦は拡大し、反政府勢力がリーマの住む首都モンロビアに迫っていた。(『婦民新聞』2011年12月)

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ノーベル平和賞(3)

 二〇〇二年初頭のことであった。リーマは夢のなかで「教会に行って、内戦を終わらせるために立ち上がるよう、女性たちに呼びかけなさい」というお告げを聞いたのである。夢から覚めると、彼女はすぐにそのお告げを実行に移した。そのリーマの呼び掛けを聞いていたひとりのイスラーム教徒の女性警官が「私たちは同じ神を信じています。モスクに集う女性たちにも呼びかけます」と約束したのだった。こうして、キリスト教徒とイスラーム教徒の女性たちの反内戦運動が幕を開けたのである。宗教を異にする女性たちがともに行動を起こしたのはリベリア史上初めてのことだったという。リーマたちは、ラジオをとおして座り込みによるデモを呼び掛けた。それに応えて、女性たちは、平和を象徴する白いシャツを身につけ、続々と集まってきた。集合場所は、大統領が毎朝通勤に使う道路筋の空き地。目的は、大統領に反政府勢力との和平交渉に応じるよう圧力をかけることだった。その間にも戦闘はエスカレートし、朝、少年を満載して戦闘に繰り出したトラックが、夕方には空っぽで戻ってくるという状況が続いていた。女性たちが編み出したもうひとつの戦術があった。それは、夫たちの反戦意識を高めるためのセックスストライキだった。まるで、古代ギリシアの喜劇作家アリスとパネスが『女の平和』の中で描いた女性の戦術を思い起こさせる行動である。このリーマたちの行動は、広い支持を集めてゆく。無視できなくなった大統領は、官邸にリーマたちを呼び出した。リーマは大統領に訴えた。「ただちに和平交渉を始めてください。母親たちは疲れ切っています。娘たちはレイプされて傷ついています。いつか子どもたちは尋ねるでしょう。あの危機的状況の中、ママたちはいったい何をしていたの、と・・。」大統領と閣僚たちが和平交渉の席についたのは、それから間もなくのことだった。しかし、リーマたちの運動は、それで終わったわけではなかった。和平交渉の行方を見届けるために、バスを仕立てて、ガーナの首都アクラに向かったのである。(『婦民新聞』2012年1月)

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ノーベル平和賞(4)

ガーナで始まった内戦終結のための和平交渉は、リーマたちが案じたとおり空転していた。1カ月半が経過しても状況は変わらなかった。男たちの関心は、和平後、誰がどのポストに就くかという話ばかり・・・。リーマたちは、しびれを切らし、閣僚たちを宿泊所に訪ねて説得を繰り返した。
そうこうする中、リベリアのアメリカ大使館にミサイルが着弾し、避難していた女性や子どもたちが大勢犠牲になったというニュースが飛び込んできた。もはや猶予はできない。リーマたちは、廊下に座り込み、会議場を封鎖した。和平協定が調印されるまで、誰ひとりドアの外には出さない、そう決意しての実力行使だった。
この状況を何とかしようと、保安官がやってきて、リーマに言い渡した。「正義に反する座りこみはゆるさない。あなたを逮捕する。」これを聞いたリーマの怒りは頂点に達した。「正義に反するですって!逮捕するならしなさい。裸になるわよ!」そう言うと、リーマはスカーフをかなぐり捨て、服を脱ぎ始めた。アフリカには、母の裸をみたものには禍が降りかかるという言い伝えがある。保安官は、あわてて制止した。
これを機に、リーマたちは、次のような声明を出した。「私たちは疲れ切っています。殺し合いはもううんざりです。必要なら、何度でも会議場を封鎖します。今度は千人どころではありません。ガーナの難民キャンプには2万5千人、ここアクラには1万以上のリベリア女性がいるのです。」
このリーマたちの声明のあと、和平会議のムードは一変し、「大統領の追放」、「国連平和維持軍のモンロビア駐留」、「暫定政府による民主選挙の実施」などの内戦の終結にむけての政治決定を確認する文書が調印されたのである。2003年のことだった。
キリスト教とイスラーム教という異なる宗教の女性たちが連帯して闘った非暴力の平和回復運動は、ひとまずこうしてその幕を閉じた。リーマは現在、「アフリカに平和と安全をもたらすための女性ネットワーク」(WISPEN-Africa、2006~、本部ガーナ)の事務局長として、西アフリカ一帯に運動を広げるべく活動を行っている。(『婦民新聞」2012年2月)

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