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【エッセイ2】アフリカとの出会い(富永智津子)

*【特集9】アフリカの歴史と社会

アフリカとわたしーアフリカとの出会い

    エッセイ&イラスト                     富永智津子

 14歳ごろに出会った漫画や映画、その舞台となっていたアフリカに地を踏むことになろうとは・・・人生って面白いものです。ここでは、『婦民新聞』に連載した「アフリカとわたし」の中から、私が出会ったさまざまなアフリカの風景を転載します。

「少年ケニア」

  • 私が最初に出会ったアフリカは、『おもしろブック』の山川惣冶作の劇画「少年王者」の中だったような気がする。密林や豹、象や奇怪な老婆が登場する空想マンガである。13歳のころだった。戦後の田舎暮らしで、月に1回配送されてくるこの『おもしろブック』が唯一の楽しみだった。その山川惣冶が同じころ「少年ケニア」を新聞に連載していたことは、もっと後になって知った。
  • 舞台はケニア時代は、太平洋戦争勃発時。話は、日本の少年ワタル一家が、戦争の勃発とともに、敵国イギリスの官憲に追い詰められていくスリリングな状況から始まる。一家は離散。母親は抑留、父親とは生き別れ。こうした中で、ワタル少年の父親探しの旅が始まる。
  • 脇役には、マサイの大首長ゼガと白人の美少女ケート。それに大蛇ダーナと巨象ナンターという頼もしい味方が加わる。ワタル少年は、次々に襲ってくる猛獣や怪物、悪い白人や黒人と闘い、ついに父親との感激の再会を果たす。
  • 話の筋はいたって単純だが、ケニアを舞台に展開される冒険と苦境からの脱出を通してたくましく成長してゆくワタル少年の姿に、アフリカの現実も歴史も知らない私でさえ、一喜一憂したものである。
  • 今、改めて読みなおしてみると、ケニアの状況がかなり正確に描かれていることに驚く。自然、気候、服装、人物、地名はもとより、首都ナイロビの景観やモンバサ港の風景やウガンダ鉄道の情景も上出来である。
  • さらに、白人用と黒人用に分けられた列車や、黒人を一歩も入れないホテルの人種差別も、さりげなく読者に伝えているのだ。それ以上に驚いたのは、「マウマウ団」が登場することである。
  • 「マウマウ」とは、まさに「少年ケニア」の連載が始まった一九五二年に勃発したケニア独立闘争である。しかも、宗主国イギリスが国際社会に垂れ流した恐ろしい無法集団としての「マウマウ」イメージに抗して、「独立を闘う正義の集団」という作者の視点に感銘を受けた。念のため、私は当時の新聞記事を図書館で探した。探し当てた記事はいずれもこの集団を「残虐」な「テロ集団」と表現していた。(『婦民新聞』2009年3月)

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「キッチン・トト」

  • 1988年、「キッチン・トト」というタイトルの映画を観た。第2回東京国際映画祭ヤングシネマ部門グランプリを受賞したイギリス映画だ。舞台は、独立闘争期のケニア。
  • ある夜、突然、ゲコヨ(ケニア最大民族のひとつ。英語表記はキクユ)人村落の黒人神父一家を、独立闘争の過激派「マウマウ」の一団が襲う。物語はそこから始まる。逃げ惑い、泣き叫ぶ子供たち、神父は殺害され、母親は森の中で半死半生の状態で逆さづりにされているところを発見される。
  • 暴力の使用を最後まで拒否し続けた神父に対する報復だった。危うく一命をとりとめたものの、暮らしに困った母親は、息子のムアンギを白人警察署長の家に住み込ませた。台所の下働きが仕事だった。スワヒリ語で子供のことを「ムトト」という(「トト」はその方言)。映画のタイトル「キッチン・トト」の由来である。
  • 映画は、ムアンギ少年がたどるその後の運命―それは悲惨な殺害をもって閉じるのだが―にスポットをあてている。映し出されるのはムアンギと白人署長の息子との膚の色を超えた友情と、民族運動という激動の歴史である。そのはざまで揺れ動くムアンギ少年の苦悩がひとつの主題となっている。
  • 弱冠二七歳の監督は、少年時代をケニアで過ごした経験があり、撮影はすべてケニアで行われ、ムアンギ役も五千人以上のケニア人候補の中から選んだという。今、改めて映画を思い返して心に浮かぶのは、「マウマウ」をテーマとした映画の撮影をよくぞケニア政府が許可したものだ、という感慨だ。
  • この映画が撮影された1980年代のケニアは、まだ「マウマウ」は語ることさえタブーだった。「マウマウの真実」に触れるような研究を行うと、逮捕拘禁されたり、国外追放に遭ったりしていた時代だ。そういう政治状況を考えると、許可の背景には、「マウマウ」を獰猛なテロ集団として記憶させておきたいというケニア政府の立場をこの映画が代弁していた、という構図が見て取れる。
  • この構図が物語っているもの、それは、ケニア政府と「マウマウの真実」を封印してきたイギリス政府との共犯関係の歴史ではなかったか。(『婦民新聞』2009年4月)

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 ケニア暴動                                  

  • 2007年末の大統領選挙に端を発した東アフリカ・ケニアの暴動が、野火のごとく拡大している。毎日、現地の友人が綴っているブログから目が離せない。死者は千人を越え、避難民は30万とも。その中には、女性も子供も含まれる。
  • 友人は、ナイロビ最大のスラムでストリートチルドレンやエイズ孤児などのためのインフォーマルな学校を支援している。映画「ナイロビの蜂」の舞台ともなったスラムだ。
  • 沿岸部から内陸に通じる唯一の鉄道が、すぐ脇を走っている。たまにしか列車が来ないから、人々は線路を道路がわりに利用している。わたしも、その学校を訪れる時には線路を歩く。線路は少し高台にあり、そこからスラムのほぼ全貌を望ことができる。
  • 錆びたトタン屋根が見渡す限り連なる。ガスも水道もない。トイレもない。雨が降れば、細い曲がりくねった道はドロンコ状態。もちろん、政府の許可を受けて住んでいるのではない。いつ何時、追いだされるかわからない不法な住居群だ。そんなスラムの中に学校はある。
  • 最初数人だった生徒が、今や百人を越えている。聞けば、どの子も、想像を絶する辛い経験をしている。暴動が始まると、この学校も標的になった。生徒たちは、行き場を失い逃げ惑った。行方不明者もでた。友人は、そんな生徒たちを探し出して安全な場所に避難させた。しかし、多くの生徒たちが成人男性の暴力と殺人を目の当たりにしてしまった。友人はそれを一番憂いている。
  • 暴動は、誰もが勝つと思っていた野党の大統領候補が敗れたことに起因する。確かに不正があった。そして、メディアが報じているように、暴動はケニアの二大「部族」間抗争の様相を呈している。だが、単なる「部族」対立だけで、これほどの暴動の連鎖はおこらない。背後には、どうしようもない「貧困」と日常的に蓄積されてきた欲求不満がある、と友人は言う。
  • もうひとつの原因は、1992年の複数政党制への移行である。以来「部族」間の抗争が一挙に増加した。権力の分散は民主化の一歩だ。しかし、それは、アフリカでは、往々にしてパンドラの箱を開けることにもなりかねない。(『婦民新聞』2008年2月)

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(続)ケニア暴動              

  • 2007年末からの暴動ですっかり予定が狂ってしまった仲間が2人いる。NGОのスタッフとしてケニア入りが決定していたわたしのゼミ卒業生と、10年前、仙台を拠点にNGОを立ち上げ、この春から新たに職業訓練施設のプロジェクトを発足させようとしていた女性だ。
  • 元ゼミ生はルオ人の、女性はゲコヨ(キクユ)人の地域に入る予定になっていた。しかし、この暴動によって「予定」どころか人生そのものが狂ってしまったのは、家族や親族を殺されたり家を追い出されたりして避難民になったケニアの一般市民である。
  • 最新情報によれば、その数、死者1500人、避難民35万人。暴動の推移をネットで追う中で、見えてきたことがある。それは、一般市民が、「権力者」の覇権争いの代理闘争をさせられているという構図だ。この代理闘争を引き起こす仕掛けとして使われるのが「部族」の集団心理なのではないのか。
  • 複数政党制に移行してから、ケニアではこうした暴動が急増した。なぜか。政党の数だけ、代理闘争を煽る「権力者」が増えたからだ。今回の暴動では、その双璧がゲコヨ人のキバキとルオ人のオディンガだったというわけである。この2月末、元国連事務総長アナンの仲介もあって、与党率いるキバキ大統領と野党の党首オディンガが連立政権の樹立と首相職の新設で合意し、事態の収束に向けて舵が切られた。首相職にはオディンガが就任することは確実だ。これによって与党議員43名に対する野党議員99名という議会のネジレが解消され、オディンガはキバキ大統領と権力を分有することになる。これでは、結局、一党制と変わらないではないか、との声も議員の中からでている(ちなみにケニアは一院制)。
  • 「民主主義」のルールにのっとった「公正」な選挙のやり直しを、とのオディンガの要求を支持して命を落とした人たちはこの「妥協」に納得するだろうか。
  • 今後の推移は、権力の一端に連なったオディンガが、民主化の推進役を担うことができるかどうかにかかっている。もう、一般民衆を裏切らないでほしい。さもなければ、命を賭けて闘った人々は救われない。(『婦民新聞』2008年3月)
バオバブの果実

バオバブの果実

「マウマウ」の現在

  • ケニアは、アフリカ大陸東部に位置する共和国である。国土面積は、日本の約1.5倍。赤道をはさんで東西南北に広がり、東端はインド洋に、西端はヴィクトリア湖に接している。
  • 歴史をたどると、19世紀末にイギリスの支配下に組み込まれ、徹底した植民地収奪を経て、1963年に独立を達成した。現在の人口は約3千万。40を超える民族集団で構成されている。独立闘争は1940年代から始まった。「マウマウ」とイギリス当局が呼んだ「テロ組織」の出現である。
  • 次第に勢力を増し、過激化する独立闘争に手を焼いた当局は、1952年に非常事態を宣言する。それが解除される59年までに、独立派に多くの犠牲者が出たが、正確な人数は不明のままだ。闘争の根っこは、アフリカ人が白人入植者に肥沃な土地を奪われたことにあった。それが、我慢の限界に達したのだ。
  • 1998年、私はマウマウ闘争の跡地を訪ねた。闘争の主な舞台となったセントラル州のハイランドは、小農経営のサトウキビやバナナの畑が点在する一方で、広大な紅茶やコーヒーのプランテーションが延々と続く。植民地だったころの名残だ。マウマウ闘争中、女性を含む多くの犠牲者を出した悪名高いカミティ刑務所の門の前にも立った。立ち寄った小さな村で、かつてマウマウの闘士だったという老人が、心の内を語ってくれた。
  • 「半世紀以上にわたる支配の中で、イギリス人はいったい何をしたのか。わしらは、決して忘れない。その清算は、まだ終わっていない。わしらは、大統領に、何度も、何度も謝罪と賠償を要求した。イギリス人からのね。今も要求は続けている。だが、何の返事もない。返事がなくても、わしらは続ける。生きている限り、続ける。」
  • 今、イギリス人が行った様々な人権侵害が次々に明るみに出てきている。婦女暴行、捕虜の虐殺、不当逮捕・・・・。「マウマウ」の残虐さを国際社会に吹聴することによって、イギリス人は自分たちが犯した罪を糊塗しようとしてきた。独立を担ったケニア政府は、その共犯者となった。
  • 今、研究者は、ようやくそうした共犯関係にメスを入れ始めている。(『婦民新聞』2009年5月)

 

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解放闘争と女性

  • 1999年8月、わたしはケニアの独立闘争(マウマウ)に深く関わったひとりの女性をケニアのナイロビ郊外に訪ねていた。名前はワンボイ・ワイヤキ・オティエノ。外出中とのことで、しばらく居間で待たされる。
  • 1936年生まれということは分かっていたが、いったいどんな女性なのか、期待と不安が交差する。やがて、孫を病院に連れていっていたので・・・、と詫びながらワンボイさんが姿を現した。背丈は155センチほど。日本からの訪問客ということで、にこやかに握手を交わしてくれたが、目は笑ってはいなかった。目は、この訪問者は信用に値するかどうかを鋭く問いかけていた。
  • ワンボイさんの自伝『マウマウの娘』を翻訳中だったわたしは、闘争の中で彼女が担った役割や遭遇したさまざまな事件についての予備知識は多少あったものの、何から切り出してよいか、しばし逡巡していた。すると、ワンボイさんは、ちょっと待っていて・・・と言って、隣室に行き、一枚の古い写真を持ってきた。
  • マウマウ闘争での女性の役割は、都市部と農村部では違いもあったが、武装闘争を行う男性の「後方支援」である点はおなじだった。ワンボイさんは、もっぱら都市部でイギリス植民地政府の秘密文書のコピーを入手したり、重要人物の動静を探ったり、マウマウ戦士が攻撃する標的の事前調査を行ったりしていた。たとえば、女性であることを利用し、敵の男性に最も近づきやすい売春婦の間にネットワークを構築しりした。
  • 流刑中にイギリス人官憲にレイプされ、子供も産んでいる。ワンボイさんのすごいところは、釈放された後、レイプ犯を見つけ出して告訴したことだ。犯人はイギリス当局の手引きで本国に逃亡してしまったが・・・。ワンボイさんの鋭いまなざしは、インタヴュー中変わることはなかった。
  • わたしは、いつか再訪を果たしたいと心に決めて、ひとまずワンボイさん宅を辞した。(『婦民新聞』2009年6月)

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(続)解放闘争と女性

  • 2006年8月、わたしはワンボイさんに会うため、再びナイロビ空港に降り立った。前回の訪問から7年も経っていた。目的は、ワンボイさんの自伝『マウマウの娘』の翻訳出版を前に、いくつかの了解を得ることだった。
  • その日のナイロビは1600メートルという標高の割に気温が高く、照りつける太陽が膚に痛かった。この空港で、かつてワンボイさんたちが要人を出迎え、デモをし、解放歌を歌ったのだと思うと、わたしは重々しい感慨にとらわれた。
  • ワンボイさんは、杖なしには歩けないようになっていた。イギリス植民地主義者を相手に果敢に戦っていた頃のワンボイさんの写真が脳裏に浮かんでは消えた。心なしか、鋭かった眼光も和らいでいるように思えた。わたしのことは覚えておられた。部分翻訳の了解、写真の使用権の問題、版権の問題などについての事務的な話が終わると、ワンボイさんは、いわゆる「ケマージ・ペーパーズ」について触れられた。これは、マウマウ闘争の最高司令官だったケマージ将軍が部下に保管させていた文書で、1955年にイギリス軍によって没収され、2013年まで非公開となっているものである。
  • ワンボイさんは、この文書が公開されなければ、マウマウの真実はわからない、と強い口調で話された。身体は衰えても、過去の真実を明らかにしようとする熱意は変わらなかった。別れ際、わたしは思い切って、これからS・M・オティエノさんのお墓に行ってみようと思っている、と告げた。ワンボイさんの夫であったオティエノさんは、ナイロビから何百キロも離れた内陸の生まれ故郷に眠っている。
  • ワンボイさんは「わたしは一生、行くつもりはない」と笑っておられる。気分を害されるのではと心配していたわたしは、その笑顔を見て胸をなでおろした。と同時に、20年という歳月を経てなお、ワンボイさんの心が癒されていないことを知り、その傷の深さを改めて実感した。この傷というのは、夫であったオティエノさんの死後、遺体をめぐる裁判で敗訴した傷である。遺体は夫の遺族に引き渡された。「埋葬論争」として今も語り継がれている事件である。(『婦民新聞』2009年7月)

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「埋葬論争」

  • ワンボイさんの夫であり、著名な辣腕弁護士だったオティエノさんは、1986年12月に心臓発作で突然この世を去った。55歳だった。二人の結婚は、当初から波乱含みだった。ワンボイさんがゲコヨ(英語読みはキクユ)人、オティエノさんがルオ人(オバマ米大統領の父親と同じ民族)という敵対関係にあるケニアの二大民族間の結婚だったからである。
  • このことが、政治活動に携わるワンボイさんを苦境に陥れた。総選挙の折、夫がルオ人であることを理由に所属政党からの候補者公認を取り消されそうになったり、それをクリアして臨んだ選挙で、選挙区の投票箱が燃やされたりしたこともあった。ワンボイさんの闘いは、夫の死後まで続いた。
  • ルオの慣習によれば、遺体は先祖の地に埋葬されることになっている。そこは、遠くはなれたヴィクトリア湖畔だ。ナイロビに埋葬されることを望んでいた夫の遺志を守るべく、ワンボイさんは栽判を起こしたのである。これは、ルオの伝統への挑戦でもあった。
  • 女性がこのような主張をすることは、ルオ社会ならずともケニアでは前代未聞だった。裁判は、ワンボイさん個人の問題を越えて、家父長的慣習対女性の権利の闘いへと展開した。
  • ケニア中の人々が、固唾をのんでその行方に注目した。国際社会のフェミニストも、ワンボイさんの支援にまわった。のちにノーベル平和賞を受賞することになるワンガレ・マーザイ(英語読みではワンガリ・マータイ)さんは、ケニアで起こっている女性への人権侵害としてこの裁判を世界に知らしめるために立ち上がったひとりだった。
  • わたしはナイロビから空路ヴィクトリア湖畔に飛び、そこからオティエノさんのお墓のある「実家」に向かった。遺体をめぐってワンボイさんとまさに死闘を繰り広げたオティエノさんの弟夫婦に迎えられ、花束をお墓に供えた。その際、「兄のお墓は未完成なのです。ワンボイが来てくれたら、このお墓に兄の名前の入った碑を建て、盛大な式典をしたいと思っているのです」という弟さんの言葉があった。
  • 意外な言葉だった。わたしはその真意を測りかねながら、別れを告げたのだった。(『婦民新聞』2009年8月)

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マサイの恋人(その1)

  • 8年ほど前に読み、今なお、気になっている本がある。スイス人女性コリンヌ・ホフマンの『マサイの恋人』である。「文化や言葉の壁を越えて育まれた奇跡の恋愛」とのうたい文句で各国語に翻訳され、300万部を越えるベストセラーとなった。邦訳は2002年。1998年に出版されたドイツ語のタイトルは『白いマサイ』。
  • 物語は、1986年、ケニア最大の港町モンバサから始まる。バカンスを楽しんでいたコリンヌが船着き場で見かけたひとりの青年・・・濡れたような黒い瞳、褐色の肌、すらりと伸びた躯・・・赤い腰布だけの裸身にまとったさまざま飾り・・・内陸部の村から観光客が多いモンバサに出稼ぎにきている牧畜民マサイのひとりである。
  • コリンヌは全身がしびれたようになり、動けなくなった。いったん帰国したが、どうしても忘れられず、ケニアに舞い戻る。再会し、電気も水道もガスもトイレもない僻地の村で結婚。マラリアで死にそうになり、肝炎にも罹患・・・言葉は通じないが、恋する青年と一緒にいられるという幸せだけを支えに、牛フンを固めた家での生活に耐えた。
  • しかし、子供が生まれたことによって事態は一転する。夫が、自分の子供ではないのでは、と疑ったのだ。夫の嫉妬心は果てしなく深まるばかり・・・理由はわからない・・・いさかいが絶えない日々・・・監獄のような日常・・・コリンヌは夫に憎しみの感情さえ抱くようになる。ついに、離婚を決意。
  • しかし、マサイ社会の慣習法では、離婚の際の子供の養育権は父親にある。そのため、コリンヌは里帰りを装って子供と一緒にスイスに帰国することで、4年にわたるケニアでの暮らしに決着をつけた。経営していたブティックも車も売り払ってケニアにやってきたコリンヌは財産のほとんどを使い果たし、「白いマサイ」から再び「白いスイス人」にもどったのだった。
  • ていねいに描かれたマサイ村での生活は、コリンヌの意図とは別に、文化人類学的に見てそれなりに興味深い。しかし、この本が私に残した読後感は、必ずしも胸にストンと落ちるものではなかった。(『婦民新聞』2010年12月)

 

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マサイの恋人(その2)

  • img0722008年3月、私は、オランダの国際空港の書店にいた。どこかで見たような・・・それは平積みになったコリンヌの『白いマサイ』(邦訳『マサイの恋人』)だった。隣接して、混血の娘とともに元夫とその家族に再会した旅を描いた続編と、映像化のために撮影隊を引き連れて現地入りした時の記録が並んでいた。
  • 『マサイの恋人』の中でコリンヌは、「ケニアに戻るつもりはない」と述べていたが、やっぱり戻っていたのだ。しかも、映画化の話まで持ち上がっている。コリンヌは、すっかり「時の人」になっていた。
  • 頁を繰って拾い読みする。過去のことは問わず、快く迎え入れてくれた元夫は再婚し娘がひとり。暮らしぶりは当時と大差なさそうだ。ふと、私の目は一枚の写真の説明文にくぎ付けになった。そこには、元夫は「サンブル」の出身者と書かれていたのだ。同じ近縁の牧畜民であるが、マサイではない。あわてて『白いマサイ』を手に取る。たしかに「夫の出身はサンブル」と書かれている箇所がある。なぜ、コリンヌは、本のタイトルをマサイにしたのか。理由は単純だ。「サンブル」という民族は世界に知られていない。知られているのは「マサイ」・・・マサイなら、説明抜きに読者はアフリカの原風景の中で生活している民族をイメージできるからだ。
  • 『マサイの恋人』を読んだ後、何かすっきりしない気持を持ち続けてきた私は、ここに至って、その背景が見えてきた。それは、民族名の一件に象徴されているように、コリンヌの恋の物語は相手の感情や文化の理解とは無関係に一方的に展開されているという一点に集中している。夫は読み書きができない。心を通わせるための共通の言語もない。そのため、村でのコリンヌの生活を実質的に支えたのは、四輪駆動の車と売店・・・つまり彼女の経済力だった。
  • こうして、夫や村人は、次第にコリンヌへの経済的依存度を高めていった。それに反比例するかのように、コリンヌが期待する暖かい人間関係は失われていった。
  • 私は考える・・・もしかしたら、この物語の悲劇の主人公は、コリンヌではなく「夫」だったのかもしれない、と。(『婦民新聞』2011年1月)

 

マサイの恋人(その3)

  • コリンヌと同じく、その美しさ、りりしさに魅かれて、マサイの戦士と結婚した日本人がいる。永松真紀さんである。2005年のことだった。その戦士には、すでに妻も子供もいた。つまり、永松さんはマサイの男性の第二夫人となったのである。
  • 本人が語るその理由は、単純明快だ。素敵な男性をふたりの女性で支える・・・なんて素晴らしい・・・というわけだ。とはいえ、プロポーズされてOKしたものの、生活への不安はぬぐえない。そんな永松さんの背中を押してくれたのも第一夫人の「自分のできることをすればいい」という一言だったのだという。
  • 詳細は永松さんの著書『私の夫はマサイ戦士』にゆずるが、先日、直接お話を伺う機会があった。永松さんは、第一夫人と同じ生活をしているわけではない。ナイロビでプロの添乗員をしながら、その一環として、スタディーツアーを組織し、マサイ文化の紹介と保存に日夜奮闘している。
  • 日本での講演旅行には、夫も同伴し、自然と共生しているマサイの素晴らしい知恵を伝えている。永松さんの活動は、多岐にわたるが、私が感動したのは、マサイが放牧地として利用している国有地のことである。売却に付され、開発の危機に瀕しているそんな国有地を、永松さんが購入しているのだという。
  • マサイの生活と文化を守るためだ。現在、東京ドーム二個分を入手したが、とてもとても追いつかない状況だという。永松さんも、コリンヌと同様「マサイの美しさ」に魅かれたひとりである。しかし、その後の展開には、大きな違いがある。
  • 永松さんは、マサイは住む世界が異なっている、という前提から出発した。だから、理解し合うことがお互いの責任であり、義務となったのだ。その中で、「信頼関係」が生まれた。
  • 理解し合っていることを前提としたそれまでの恋愛や結婚とは、その点が全く違っていた、と永松さんは言う。物質文化に汚染され、とらえどころのない「文明人」に疲れ果てていた永松さんは、夫とその仲間たちのピュアで温かいまなざしに応援されて、マサイと日本との架け橋になろうとしている。(『婦民新聞』2011年2月)

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アフリカ史

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