【映画評】『さよならアドルフ』とその背景 (姫岡とし子)

2014.03.25掲載(初出:2014年公開映画『さよなら、アドルフ』劇場パンフレット)執筆:姫岡とし子

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監督: ケイト・ショートランド、販売元: KADOKAWA / 角川書店、2014年

かつての強制収容所の敷地内には、囚人たちが収容されていたバラックとともに、SS幹部など、収容所の運営・管理者用の住居も建てられていた。殺戮や人体実験など、ナチの特殊任務を遂行する人物が、ここに家族とともに住んで、家族には優しい父親の顔を見せていた。家族の存在は、自分は道徳的な普通の人間だと言い聞かせ、正気を保つために非常に重要だった。父親とは遠く離れて暮らしていたり、厳しい教育を受けたりしたナチの子どもたちも多かったが、少なくとも彼らは、終戦まで父親のおかした恐ろしい犯罪については知らなかった。

敗戦がせまると、ナチ幹部の多くが逃亡と証拠隠滅を計っている。しかし、結局は逃げ切れず、父親が自殺したり逮捕されたりして残された家族の生活は、激変する。敗戦直後、ホロコーストについては占領軍が撮影したり、押収したりした写真は公になっていたが、まだうわさレベルでしか広まっておらず、実態を把握している人はそれほど多くなかった。それよりも、約束されていたはずの勝利から一転して戦争で家族を奪われ、空襲や戦争末期の混乱に苦しめられた人たちは、ナチに裏切られたという気持ちを抱き、やるせない憤りを感じていた。その怒りの鉾先はナチ幹部の家族にも向けられる。信念をまげないローレが孤立するのも当然だ。

ナチの子どもたちの戦後に関しては、マルティン・ボルマンの息子のように、寄宿舎生活をしていたために家族と離れ、戦争孤児をよそおって偽名で農家の世話になっていた例もあるが、多くは母親や兄弟姉妹とひっそりと暮らしていた。逮捕・起訴されたナチの戦犯たちはニュルンベルク裁判で無罪を主張し、責任をヒトラー一人に負わせようとしたが、その思いは妻も同じだった。戦時中の任務について夫は妻にもほとんど語らず、彼女たちは詳しくは知らなかったが、裁判などを通じて夫の犯罪に関する情報を得ても、「夫は命令に服従せざるをえなかった」と自分に言い聞かせ、夫の主体的な犯罪への関与を否定した。そして家族内でも、ユダヤ人に関するテーマはタブーとなった。

反ユダヤ主義は、終戦まで広く社会に浸透していた。大量虐殺については曖昧な形でしか知らなかったとしても、ナチ政権下でのあからさまなユダヤ人排斥は、市民たちの幅広い支持や加担なしには不可能だった。子どもたちに低年齢からナチの世界観をたたき込み、根強い教会の影響力から切り離すには、学校教育はもちろん、家庭・学校とならぶ第三の教育機関となったヒトラー・ユーゲントの力が大きかった。10歳から18歳(女性は21歳)までの少年・少女は、この組織に加盟してナチに監視・統制されながら、男子は将来の兵士、女子は母となるための教育を受け、身体鍛錬に励んだ。週末のキャンプや遠方への合宿といった魅力的なプログラムも用意され、子どもたちは年長のリーダーに指導され、仲間と楽しく交流しながら、実践のなかでゲルマン民族の優越性、偉大な戦うドイツの賛美、総統への忠誠、敵の排除、そして規律や秩序の遵守といったナチの世界観を身につけ、強化していった。

ナチの子どもたちの過去や家族との向き合い方は、さまざまだ。まず、父親の過去についてあえて知ろうとはせず、過去に向き合うことを避けてきた人たち。なかには父親への幻想を抱き続けた人すらいる。たとえばヒムラーの娘は周囲の批判に対してかえって意固地になり、ネオナチに救いを求めようとした。宗教に生きようとした人たちもいて、ボルマンの息子は魂の救済を求めて修道士になった。ユダヤ教に改宗してラビになった人もいる。そして、親の沈黙の壁をなんとか破り、事実をつきとめようとした子どもたち。思い悩んだ末に親との対話を模索しても、親の説明は事実とかけ離れて歪曲されていることに気づかされ、消耗感にかられ、葛藤をくり返さざるを得なかった。そんな子どもたちの多くが、結局、両親と距離をおくようになった。

真実と向き合おうとした子どもたちも、過去を抑圧しようとする子どもたちも、いずれにせよ彼らは大きなジレンマを抱えることになった。家族や周囲の人たちへの対処の仕方に悩み、罪悪感をもち、あるいはもたなくてもすむよう正当化の論理を模索するなど、「心の闇」に束縛されながら生きてきた。当初、自分の正体がいつばれるかと怯えていたボルマンの息子は、他方で偽りの人間を演じることに悩み苦しみ、その重荷に耐えられなくなって、世話になっていた農家の主人に真実を打ち明けている。

ローレは、南ドイツのシュヴァルツヴァルトから祖母のいる北のハンブルクまで900キロもの旅をしたため、途中でいろいろな事実を知らされ、大きなショックを受けるとともに、信じてきたことに疑いをもつようになる。避難所で見つけたユダヤ人虐殺現場での父の写真。おそらく1941年か42年に撮影されたものだろう。当時、ナチ幹部たちは後に犯罪の証拠になるとは夢にも思わず、自分の仕事の成果を示し、誇るために写真を撮らせたのだ。連合軍の進撃にあわてふためいて逃げたドイツ側に、すべての書類を焼きはらう時間はなく、皮肉にも証拠物件として押収されることになってしまう。

ナチ幹部の娘として反ユダヤ主義を深く内面化し、ユダヤ人を忌み嫌っていたローレ。その彼女がユダヤ人に助けられ、やがて頼るようになるまでには、どれだけ心の葛藤があったことだろう。それは同時に、彼女が過去の自分の信念と向き合い、それを疑い、否定していく過程でもあった。祖母の住む北ドイツはプロテスタント地域で、カトリックが多くて陽気な南ドイツよりも規律を重んじ、躾も厳格だった。規律や統制は、過去に自分が受けてきたナチの教育と重なる。ナチを思い起こさせる祖母の言葉は、ローレには耐えがたいものになっていた。母の大事にしていた陶器の動物の置物を砕き、父の2枚の写真を埋めるシーンは、まさに「さよならアドルフ」を象徴している。

【関連】

*13-10.ナチズムとジェンダー