補論3:近代市民社会における男性同性愛者排除の論理

掲載 2018-06-16 執筆 三成美保

「異性愛/同性愛」の対比の登場

19世紀半ばのヨーロッパで、「同性愛」という新語が生み出され❶、「同性愛」は「生得的」であるため処罰はなじまないという主張が登場した❷。「同性愛」との差異化をはかる形で「異性愛」のカテゴリーもまた成立していく。しかし、両者の関係は対等ではなかった。「異性愛(正常・自然)/同性愛(異常・反自然)」(性愛二元論)の非対称な二項対立モデルに立脚する近代的異性愛主義は、社会における公私分離と「私的な情愛共同体」としての近代家族の成立と平行しつつ確立・浸透していく。

ホモソーシャル社会に対する脅威 

近代西洋市民社会は、「ホモソーシャル(兄弟愛)」社会を目指した(→『世界史』1-6)。男性市民は「自由・平等」であり、互いに「対等」であることによって「男らしさ(男性性)」を誇示できた。この「ホモソーシャル」社会を支えたのが、性別役割分担にもとづく公私二元的なジェンダー秩序(公的領域[政治・経済]=男性/私的領域[家族]=女性)である。

現実の市民社会では一握りの男性に権力が集中し、多くの男性が差別された。「男らしさ」は男性間差別を正当化するわかりやすい表現であった。その尺度とされたのは、財産・教養・健康・品行などである。男性同士の親密な関係は、病気あるいは不品行・犯罪とみなされた❸。他方、公的領域が私的関係によって浸食されることは、公私分離を旨とする「ホモソーシャル」な市民社会への脅威に他ならず、深刻な逸脱として排除された❹。男性同性愛のみが禁圧され、女性同性愛が放置されたのは、近代市民社会の本質に根ざしていたのである。

集団カテゴリーとしての「(男性)同性愛者」

こうした抑圧に対して、19世紀末以降、男性同性愛者の解放運動もまた各地で展開した。集団カテゴリーとしての「同性愛者」が問題にされはじめたのである。たとえば、ヒルシュフェルトは、同性愛を「第三の性」と呼んで、「性科学」を打ち立てた。20世紀初頭のアメリカではホモファイル団体(同性愛差別撤廃団体)が登場し、「精神異常者」たる少数者としての同性愛者の権利を守ろうとした。また、同性に親密感情を表現するふるまいが風紀紊乱罪・猥褻罪・徘徊罪などの軽犯罪に問われるようになった❺。性愛二元論が確立した20世紀前半には、(男性)同性愛者の表現の自由・親密関係を築く権利を含む市民権は完全に奪われていたと言えよう。(三成)

資料

「同性愛」という言葉の誕生

1869年、ドイツ系ハンガリー人のカール・マリア・ベンケルト(1824~82)が「同性愛(Homosexualität)」という語を考案した。彼は、ドイツ帝国刑法典草案175条(ソドミー法)に対して抗議し、同性愛は生得的であるため刑法の対象にすべきでないと主張したのである。その後、「同性愛」は、ドイツの精神医学者クラフト=エビング(1840~1902)が『性的精神病理(第二版)』(1887)で「精神病理(変態性欲)」の一つとして用いて以降、病理用語として普及した。この本は日本でも1913年に翻訳され、「変態性欲」概念が広まった。同書初版の翻訳者C・G・チャドックは、1892年、「ホモセクシュアリティ(homosexuality)」という語を英語に導入した。ドイツの著名な性科学者マグヌス・ヒルシュフェルト(1868~1935)は、「科学的人道主義委員会」を立ち上げ(1897年)、「ベルリン性科学研究所」を設立した(1919年)。また、「異性装(Transvestite)」は、1910年に彼が考案した新語である。

❷ドイツ法曹会議(ミュンヘン)におけるウルリクスの発言(1867年)

「法曹会議は、公正な法律の制定が必要だと宣言すべきである。つまり、生来男性から男性へ愛情をもつ者が罰せられるのは、男性から女性へ愛情をもつ者が罰せられるのと、要件において同じでなければならない。つまり、法律を犯さない限り、また公の憤怒がかきたてられない限り、その人物は無罪である。」

【解説】ドイツ初の同性愛擁護論者となったカール・ハインリヒ・ウルリクス(1825~95)は、フランス法の影響下にあったハノーファー出身の法律家である。三月革命(1848年)が挫折し、プロイセン中心の小ドイツ主義が優勢になると、ハノーファーにもプロイセン刑法が導入される恐れが強まった。同刑法第143条は、プロイセン一般ラント法を継承し、男性同性愛を「自然に反する淫行」として処罰する規定を有していた。1867年8月29日、ドイツ法曹会議でウルリクスは同性愛者を「ウルニング」と呼び、非処罰化を訴えたが、ヤジがあまりに大きくなり、途中で降壇せざるをえなくなった。

「自然に反する淫行」――ドイツ帝国刑法典(1871年)

「第175条 自然に反する淫行は、男性間でなされた場合でも、男性と獣との間でなされた場合でも、禁固刑に処せられる。また、それに加えて、公民権の剥奪を言い渡すこともできる 。」

【解説】19世紀以降の欧米刑法は、ソドミーを脱犯罪化するタイプ(フランスなど)と、罰は軽減するが犯罪として存続させるタイプ(ドイツなど)に分かれた。ドイツ帝国刑法175条は、男性同性愛行為と獣姦を「自然に反する淫行」として処罰することを定めた。1969年に成人男性間性交が非犯罪化され、1994年に同性間性交規定が削除されるまでの120年間で処罰された者は14万人に達する。処罰者が多かったのはナチス期と戦後であり、1871~1918年の有罪判決数は年間500件以下にとどまった。

オイレンブルク事件(1906~08年)

ドイツ史上、同性愛事件としてよく知られるのは、オイレンブルク事件とナチス期のレーム事件(1935)である。皇帝ヴィルヘルム二世は、ビスマルクを追い出して親政をはじめたさい、オイレンブルク伯とその友人たちを側近として取り立てた。ナショナリストのハルデンは、皇帝を政治に不適な弱々しい「女性」メタファーで語り、オイレンブルクを長とする側近グループ(リーベンベルク円卓)を「男色家の奸臣房」と非難した。男性同性愛は、「男性同盟」国家ドイツの国益を損なうとみなされたのである 。

❺20世紀初頭における男性同性愛者の処遇例

1923年、ニューヨーク州議会は州法を改正し、「自然に反する罪やその他の猥褻行為に関わる目的で他の男性を誘惑するために男性が公共の場に頻繁に出入りし、徘徊する」行為をすべて「風紀紊乱行為」として処罰できると定めた。あるいは、同性愛者を精神異常者として「治癒」するまで精神病院に拘禁することを認めたり、「性犯罪者」として断種対象とした 。

参考文献

三成美保編『同性愛をめぐる歴史と法――尊厳としてのセクシュアリティ』明石書店、2015。