アフリカにおけるLGBTの過去と研究の新展開

日本アフリカ学会第54回学術大会レジュメ(信州大学):2017年5月20日

掲載:2017-05-22 報告者・執筆者:富永智津子

「同性愛」という新研究領域の登場-論点の整理

長い間タブーとされ、研究対象とされてこなかったアフリカにおける同性愛研究の扉を開いたのは、Charles van Onselen,African Mine Labour in Southern Rhodesia, 1900-1933 (1976)とされている。本書は、植民地下のジンバブウェの鉱山会社が、売春と同性愛を会社の非人道的かつ抑圧的待遇の代償として解禁していた実態を明らかにし、植民地支配によるセクシュアリティ戦略の事例として注目された。彼がこじ開けた小さな窓は、1990年代以降に大きく開き、その後、同性愛研究は質量ともに着実に充実してきている。その背景には、セクシュアリティを歴史分析概念として取り上げたvan Onselenの視点とは別の新たなアプローチの展開を促す状況の変化があった。1980年代以降のHIV/エイズの大流行と、近年の国際的な人権意識の高まりの中での性的マイノリティ差別問題の浮上である。その結果、研究の焦点は、性的マイノリティの歴史や実態そのものに向けられるようになったのである。実際、国連もしくはアフリカ連合(AU)、あるいはその両方が承認しているアフリカ独立国55か国のうち、2016年の時点で、同性間の性交渉を容認している国は22か国、非合法化して違反者には刑罰(死刑・懲役刑・罰金など)を科している国は33か国となっている(Carroll 2016)。

なお、同性間の性交渉を違法としている33か国の中で、男性のみに罰則を科し、女性間の性交渉を容認している国は3分の1弱で(ガーナ、モーリシャス、ナミビア、セーシェル、シエラレオネ、スワジランド、チュニジア、ジンバブウェなど)、その他は男女両方の同性間の性的接触を禁じている(Carroll 2016)。

(1)「同性愛」(男性)研究の現状

ここでは、Marc Epprecht著の次の2冊 Hungochani : The History of a Dissident Sexuality in Southern Africa (2004)と、Hetero Sexual Africa? The History of an Idea from the Age of Exploration to the Age of AIDS (2008)を取り上げておく。著者はカナダのクイーンズ大学で鞭をとっており、ショナ語(ジェンバブウェの主要な民族の言語)で同性愛を意味するHungochaniを書名に冠したHungochaniは、ジョエル・グレゴリー賞(Joel Gregory Prize) を受賞している。この2冊の研究書では、以下のようなテーマが議論されている。

  • アフリカにおけるホモセクシュアリティの歴史と伝統
  • 資本主義、植民地主義、キリスト教教育の導入によって展開したジェンダー・アイデンティティとセクシュアリティの実態
  • アフリカにおけるホモフォビア(同性愛嫌悪)の起源
  • 1980年代以降のゲイの権利擁護運動

その結果、次のような新たな発見があった。

  • ホモセクシュアル行為は伝統的なアフリカの共同体では受け入れられていた。
  • にもかかわらず、アフリカ社会はヘテロセクシュアルな社会であるという認識は、人種差別主義者、自民族中心主義の文化人類学者、民族心理学、宣教師や反植民地主義者、あるいはHIV/エイズ治療従事者らによって作り上げられた「神話」であること。
  • 西欧がアフリカに移植したのはホモセクシュアル行為ではなくホモフォビアであり、ホモフォビアこそが、アフリカにとっての異文化だった。
  • そのことは、植民地当局が導入し、現在も多くのアフリカ諸国で継承されている反同性愛法や反ソドミー法が立証している。
  • しかし、現在、アフリカの政治家やキリスト教会の指導者たちは、ホモセクシュアルをアフリカの伝統を台無しにした西欧の退廃的な文化の事例として「敵視」している。
  • ゲイの権利擁護運動は、そうした誤った歴史認識を是正し、ホモセクシュアリティを人権と民主主義の問題として考える機会を提供している。

もう1点、アフリカ社会のホモフォビアを、宗教との関連で考察している最新の文献を紹介しておこう。Adriaan van Klinken, Ezra Chitando (eds.), Public Religion and the Politics of Homosexuality in Africa 2016である。本書は、これまで漠然と関連づけられてきた宗教とホモフォビアとの決定的かつ複雑な関連を、初めて学際的に、しかもアフリカ大陸各地の事例を紹介しながら追求した画期的な文献である。キリスト教だけでなく、イスラームやラスタファリニズムも視野に入れている。収録されている14本の論文は、ホモセクシュアリティの政治化における宗教の役割を宗教の言説から説き起こし、それに対抗する言説の台頭に照準を合わせている。暴き出されたのは、アフリカにおけるセクシュアリティ、社会正義、人権といった領域における宗教の両義的な役割である。

こうしたアプローチを共有しつつ、対象をザンビアのペンテコステ派のキリスト教に限定した研究がAdriaan van Klinlen(2014)である。

いずれも、アフリカ社会に深く浸透しているホモフォビアを歴史的に抉り出し、抑圧されているLGBTの現状を変えようとしているという点で、研究の目的を共有している。

(2)「同性愛」(女性)研究の現状

男性の同性愛が、ある程度、歴史をさかのぼることができるのに対し、女性同性愛の歴史史料は少ない。その中で、アフリカにおける女性のセクシュアリティ研究の突破口を開いたのが、Ruth Morgan and Saskia Wierenga (eds.), Tommy Boys, Lesbian Men, and Ancestral Wives: Female Same-Sex Practices in Africa 2005である。本書の編者は、南部および東部アフリカ周辺の7人のアフリカ人女性に調査への参加を呼びかけて調査の方法を伝授し、彼女たちはそれぞれの故郷でのインタヴューに臨んだ。自身が「レズビアン」もしくは「バイセクシュアル」である彼女たちは、女性との性的交渉を持っている女性たちを探し出してインタヴューを行ったのである。編者ふたりが手分けして、インタヴュー資料を紹介し、分析を加えたのが本書である。対象国は、スワジランド、ウガンダ、ケニア、タンザニア、ナミビア、そして南アフリカのタウンシップ(アフリカ人居住区)。語られているのは、同性愛の経験、カミングアウト、ジェンダー・アイデンティティと性役割、男性への態度、結婚と子供、両親やその他の家族との関係、HIV/エイズ、LGBTI権利擁護運動への参加・不参加、そして実際の性行為などについてである。そうした個別具体的な事例を通して、アフリカ人女性のセクシュアリティの実態に迫ったという意味で、本書は歴史的史料集でもある。

もうひとつ南アフリカの事例研究であるHenriette Gunkel. The Cultural Politics of Female Sexuality in South Africa. 2010を紹介しておく。本書が明らかにしたのは、女性間の「性的」関係には3つのパターンがあるということ。つまり、ホモソーシャリティの関係性、同性間のいたって親密な関係、および性交渉をともなう関係である。これまで「同性愛」なのか、それとも性的関係のない社会的制度なのかについてあいまいなままだった「女性婚」(woman to woman marriage、南アフリカやケニアやナイジェリアなどの各地で報告されている)についても、研究史の紹介を含めて、詳細な考察がなされている。編者が女性のセクシュアリティの問題に取り組んでいる背景には、殺害を含む過酷な暴力にさらされている南アフリカの女性同性愛者の現状がある。家父長制の中での女性同性愛者に対するホモフォビアは、男性同性愛者が経験しないような抑圧と性的暴力(とりわけ、性的指向を矯正する目的での男性によるレイプ=corrective rape)にさらされているのだ。憲法で性的指向の自由を謳い、法律で同性婚を認めているアフリカ唯一の国である南アフリカのこうした現状を知れば知るほど、セクシュアリティをめぐる状況の変革の難しさが浮き彫りになる。

[参考文献]

Aldrich, Robert. 2003. Colonialism and Homosexuality. London and New York: Routledge.

Carroll, A. 2016. State Sponsored Homophobia 2016: A world Survey of Sexual Oientation Laws: Criminalisation, Protection and Recognition. ILGA: Geneva.

Epprecht, Marc. 2004. Hungochani : The History of a Dissident Sexuality in Southern Africa. Montreal & Kingston・London・Ithaca: McGill-Queen’s University Press.

Epprecht, Marc. 2008. Hetero Sexual Africa? The History of an Idea from the Age of Exploration to the Age of AIDS.  Athens, Ohio : Ohio University Press .

Gunkel, Henriette. 2010. The Cultural Politics of Female Sexuality in South Africa. New York, London: Routledge.

Morgan, Ruth and Saskia Wierenga(eds.). 2005. Tommy Boys, Lesbian Men, and Ancestral Wives: Female Same-Sex Practices in Africa. Johannesburg: Jacana Press, SA.

van Klinken, Adriaan, Ezra Chitando (eds.). 2016.Public Religion and the Politics of Homosexuality in Africa. Routledge.

van Onselen, Charles . 1976. African Mine Labour in Southern Rhodesia, 1900-1933. London.

【詳細は、ジェンダー史学会『ジェンダー史学』2017年度に「海外の新潮流」として掲載予定】

 歴史の中のトランスジェンダー/ゲイ―「異性装」からの眺め

(1)スワヒリ社会の事例(タンザニア・ケニア)

まずは筆者のフィールドであるスワヒリ社会の事例を紹介する。スワヒリ社会とはスワヒリ語を母語とする人びとが住む文化圏に属する社会を指す。その多くにはイスラームが浸透している。現在のソマリア南部からモザンビーク北部の沿岸部一帯がそれに該当する。ケニアのモンバサ島や筆者が長年フィールドとしてきたタンザニアのザンジバル島は、その中心部に位置している。長い歴史過程の中で、アフリカ系の人びととアラブ系の人びと、そしてその両者の通婚から生まれた混血の人びとやインド系やコモロ系の人びとなどが共存してきた社会である。15世紀末以降、ポルトガル、オマーン、イギリスという外来勢力の支配を受け、1960年代に独立を果たしている。

性的指向や異性装に関しても、こうした支配勢力やさまざまな民族の渡来や交流によって影響を受け、歴史的変化を経験してきた地域である。その実態については、歴史的な文献や民俗学的調査記録が残っている。

ザンジバル島の「異性装」に関しては、19世紀末のオーストリア人の記録を紹介しておこう。トランスジェンダー(性同一性障害)の事例と、ゲイの事例である。前者はきわめて稀な存在であるが、後者はアラブ系やコモロ系移民、そしてスワヒリ系(アフリカ人とアラブ人との混血)の男性に多いとし、つぎのような報告を行っている。

「生まれつきの性同一性障害の者と生後に獲得した同性愛指向の者との両方がいる。そもそも、こうした性的指向、とりわけ生後に獲得した同性愛指向は、アラブ系、コモロ系、スワヒリ系の人びとの間では珍しくはなかった。比較的早くから性的経験をした少年の中で、長じて同性愛行為に傾倒していくものが出てくる。その際に相手となっているのが奴隷である。貧しいアラブ系の男性が相手となる場合もあるが、めったに見られない。そうした奴隷は、通常の労働を免除され、女性化することを期待される。こうしたアラブ系の人びとの慣行と並行して、黒人男性の売春行為が展開した。その中にはアラブ人相手の稚児的役割をしていた奴隷も見られた。多くが女装しており、女性のダンスの集会には、必ずひとりはそうした男性が混じっていた。男性の衣服を身に着けているものもいるが、そうした男性はムスリム帽のかわりに布を頭に巻いている。普通の衣服を着用し、稚児であることを隠す者も多い。多くが直腸の問題を抱えている。生まれつきの性同一性障害者は、男性にも女性にも見られる。男性の場合、幼いときから料理や茣蓙つくりなどの女性の仕事を好み、女装し、編み込みのヘアスタイルをしている。性行為の際は、女性のパートを演じる。よそ者が、外見で性同一性障害者であるか生後の性癖であるかを識別するのは難しいが、現地の人びとはこの両者をはっきり見分けている。生まれつきの障害者は、「神の御意志」であるとして容認されているが、生後の性癖は蔑視されている。」1

その後のスワヒリ社会の異性装については、およそ100年後の1970年代と1980年代のモンバサの調査報告がある。どちらも、結婚式で女性の衣装を身に着け、化粧をし、かつらをつけたりして、女性たちの間に座って太鼓をたたいたり、踊ったりしている女性役の男性同性愛者の姿を目撃している。両報告の相違点としては、1970年代には見られなかった同性愛者への軽蔑と偏見が、1980年代にはまん延し、異性装の男性が結婚式などの祝祭に次第に姿をみせなくなりつつあったことである。

以上の事例は、トランスジェンダーとゲイとの差異を認識しつつ、人びとは異性装による祝祭での余興の演者であることに彼らの社会的存在意義を見出していたこと、それも1980年代以降、そうした社会的機能は次第に低下しつつあったことが見て取れる。2

(2)アムハラ社会の事例(エチオピア)

トランスジェンダーの存在は他の地域でも報告例があり、スワヒリ社会と同じく彼らは「神の失敗」の事例として特別な扱いを受けていた。たとえば、エチオピアのコプト教徒のアムハラ人の農民の中にもうひとつのジェンダー・アイデンティティを持った男性に関する1950年代の報告がある。彼らは女装し、ひねもす女性と過ごし、社会からは寛大に受け入れられていた。女性たちは異性装をした男性を「弟のように」扱い、男性たちは彼らが女性たちと四六時中時間を共有しても嫉妬することはなかったが、親族にとっては恥ずべき存在だったという。3

同じくエチオピア南部のコンソという民族にも、ごくまれにスカートをはき、女性の仕事をする男性がおり、彼らは声も動作も女性的で、男性の同性愛者の女性役をすることもあるとの報告がある。4著者は明示していないが、トランスジェンダーの男性であることに間違いはないだろう。

(3)イテソ社会の事例(ウガンダ)

東アフリカ内陸部のウガンダ中部に住むイテソと呼ばれる民族の半世紀にわたる歴史的変化をたどった研究書には、次のような記述がある。

「両性具有的な性的指向を持つ者がいるとの1920年代の報告がある。統計的な資料はないが、私自身もそうした人物に会ったことがあるし、耳にすることも珍しくはない。そうした男性は不能かつ女性的な本能を持ち、声も女性的で歩き方や話し方も女性的。そして女性の装身具や衣服を身に着けており、女性の仕事をし、名前も女性名に変えている。ただし、そうした男性が男性を妻として迎えている事例には遭遇したことはない。刑務所に収容された場合には、女性の牢屋に入れられ、完全に女性として扱われているという・・・」。5

社会的にどのように受容され認知されていたかについての言及はないが、これも明らかにトランスジェンダーの事例である。

(4)ギス社会の事例(ウガンダ)

ケニアとの国境近くのウガンダ領に住むギス人の「異性装」については、1950年代の次のような記録がある。

「ギスランドにはかつて異性装の慣習があり、現在でもしばしば目にすることができる。かつては今より異性装が頻繁に見られたということも、今より少なかったということはなさそうだ。ただ、今日、異性装はホモセクシュアリティと関連づけて見られているが、以前はそんなことはなかった。・・・・異性装をするものは男性に多く、女性には少ない。1953年から1955年に滞在していた時、わたしは女装した男性に3回遭遇した。また、男性のように装った女性については、1回耳にしたことがある。この3人の男性は精神的な疾患を抱えているわけではなく、ギス人たちも彼らが精神的な病を患っているとは考えていない。ギス人たちは、かれらが異なるセックスをしたいというおかしな欲望を持っており、それは悪霊か妖術のせいであると考えている。そういう傾向のある者は、年齢を問わず異性装をするようになるが、一般には割礼前が多い。彼らは自分とは異なる性の衣服やマナーを身に着け、それ以外の性であることを認めない。さもない場合、彼らは怒りを爆発させるとギス人は語る。以前は、異性装の男性は通常の葬儀を執り行ってもらえず、名前を引き継ぐ子供もいなかったし、ましてや宗教的な義務もしくは権力を与えられることはなかった。」6

この記録もトランスジェンダーに関する事例といってよい。社会的に排除はされていないが、「ノーマル」な性的指向の人びとが辿るライフコースや権力へのアクセスは否定されていたようである。

(5)ンドンゴ=マタンバ王国の事例(アンゴラ)

16~17世紀の南西部のアフリカで、コンゴ王国がポルトガル勢力に浸食されていく中、ポルトガル勢力に抗いながらも、外交手段を発揮して強大な王国を率いた女王がいる。現在のアンゴラ北部に位置した17世紀のンドンゴとマタンバ両王国の女王ンジンガ(在位1624~1663年)である。この女王については、「女王ではなく王の称号であるンゴラを使用、男装し、女装した若い男性たちを妻としてハーレムに住まわせていた」とのオランダ人の報告が残っている7

いろいろ調べてみると、ンジンガは、どうやら世界史の中の「悪女列伝」のひとりに数えられている女性のようである。何百人もの男性を殺して食べたとか、とりわけ少年の肉が好みだったとか・・・。一方で、現在描かれている肖像画はまさしく女性の姿をしたンジンガであり、アンゴラの首都ルアンダにはポルトガルに抵抗した英雄として銅像まで建てられている。「悪女」像は、ヨーロッパ人が創りだした虚像だったのだろうか・・・その真偽はさておくとして、同時代のイエズス会のポルトガル人宣教師が残した記録には、ンジンガ女王の君臨した王国には、女性のような恰好をし、女性のような振る舞いをし、男性と結婚しているチバディ(Chibadi)と呼ばれる男性が登場する。8

この地域で女装した男性に遭遇したポルトガル人は他にもいる。コンゴ王国にはそのような男性が宗教儀礼に参加していたことから、その風習が近隣にも広まったのではないかともいわれている(次項参照)。なお、20世紀初頭のフィンランド人宣教師は、女性を装う男性は、同時にシャーマンでもあったと報告しており(9)、1930年代の民族学者も、アンゴラ中西部に住むオビブンドゥOvimbundu人(ンジンガもこの民族の出自)の社会には、男性とも女性ともつかない呪医や、女性の衣装を身に着け、女性の仕事をする少年がいたと報告している。10

これらの事例からは、どの程度、性的指向や異性装と社会的地位とが関連していたかを確認することはできないが、少なくとも、他の男性とは異なる性的指向を持つ男性が、ある種の社会的役割を与えられていたことを類推させる報告であるといってよい。

(6)ジアグエスの事例(コンゴ王国)

コンゴ川河口地域に栄えた母系社会コンゴ王国に関する18世紀のあるフランス人イエズス会員は、コンゴ王国内のジアグエス(Giagues)という集団の最高司祭が女性の衣服を身に着け、「祖母」と呼ばれていたという記録を残している。この最高司祭のタイトル「チバンダ」(Chibanda)は、バントゥー系の諸語を母語とする民族の間では、チバディ、チバド、キバンダなどと同じく、コンゴ王国の周辺の地域一帯でも一種のシャーマン的な存在を意味し、男色を常としていたとの記述もある。11

(7)メル社会の事例(ケニア)

大湖地方に住むバントゥー系の農耕牧畜民メル社会には、ムグウェ(Mugweと呼ばれる宗教的指導者がおり、彼の権威は女性性と深く関係しているとイギリスの社会人類学者ニーダムは報告している。1950年代のことである。彼が女装していたかどうかは確認できないが、宗教的権威と女性性との関連については、世界各地で事例が報告されている。ゲルマン社会や古代ローマなどにも、一時的に女性の霊力を身につけるために、女性の服装をまとう慣行があったことが知られており、ボルネオ南部の社会では、ホモセクシュアルかつ性的に不能な男性が女装することによって宗教的権威を獲得する事例が見られたという。アフリカ社会も例外ではなく、女性は男性にない霊力や呪力を持つとされ、伝統的な宗教において重要な役職を担ってきた歴史がある。こうして見てくると、宗教領域において、男性が女性の霊力を獲得するために女性性を身に着ける手段として異性装を行うことは、かなり普遍的な慣行であったといえよう。12

(8)マーレ社会の事例(エチオピア)

アメリカの歴史人類学者ドナムは、1990年に、エチオピア南部のマーレ(Maale)社会についての詳細なモノグラフを発表している。それによると、マーレ社会は厳格にジェンダー化されており、そのジェンダー秩序は性別分業によって維持されているが、ごく少数、女性の役割をしている男性がいると報告している。彼らはアシュティメ(ashtime)と呼ばれ、生物学的には男性だが、女装し、女性の仕事を行い、家事をこなす。そして、明らかに同性と性交渉を行っているという。ドナムはひとりのアシュティメから話を聞いている。彼は、明らかに、ジェンダー概念を使って、自分のセクシュアリティを次のように説明したという。

「神は私をウォボ(wobo、「異常」の意味)に創られた。もし男性だったら、妻を娶って子供を作っただろうし、もし女性だったら結婚して子供をもうけただろう。しかし、わたしはウォボなのだ。だから、そのどちらもできない」と。13) 

ドナムは、マーレ社会のジェンダー秩序を理解する鍵はこのアシュティメにあるとし、次のように分析している。

厳格にジェンダー化されているマーレ社会ではあるが、男性というジェンダーはひとつの固定したジェンダーカテゴリーではない。つまり、もっとも男性性を体現している儀礼上の王とそれより男性性の低いチーフやサブチーフ、そして兄弟でも兄より男性性に劣る弟、といった具合に男性性のグラデーションが認識されている。そのグラデーションは、女性性のグラデーションで象徴されている。つまり、男性性の強弱は女性性の強弱と相関関係にある。王が最強の男性性を維持するために、王の屋敷には、出産可能な年齢の女性は入れないというのも、そうした認識の上に成り立っている。そこで、王の屋敷の家事労働は、女装したアシュティメが行うことになる。したがって、王はアシュティメの保護者として、アシュティメを屋敷に住まわせている。王族の儀礼が行われる前夜には、参加者は王の屋敷で寝ることになっている。というのは、女性との性交渉はタブーとなっているからである。しかし、「アシュティメと寝ることは禁止されていない」。これも、男性性の維持と深く関連している。

以上のことからドナムは、「アシュティメは、マーレ社会における男性性の生成過程の一部」を構成していると結論づけている。つまり、もっとも男性性が低く女性性が勝っているアシュティメは、女性が入れない空間で、女性の役割を代替する存在として社会的に位置づけられているのである。

(9)ヌバ社会の事例(スーダン)

オーストリア生まれのイギリス人民族学者ナーデルは、1940年代のヌバ民族のヘイバン(Heiban)とオトロ(Otoro)という2つの集団の宗教を調査する中で、この2集団の男性の中にはホモセクシュアリティの者がいるが、その社会的な受容のされ方には違いがあることを報告している。ヘイバンのホモセクシュアリティは異常だとされて社会的な居場所を与えられていないが、オトロの場合は、女装をして女性としての生活を容認され、特別な役割を与えられているとしている。その役割についての説明はなされていないが、論文のテーマから推察すると、宗教的な役割だったと考えられる。14

 以上「異性装」を手掛かりに「トランスジェンダー・ゲイ」の諸事例を紹介してきた。事例の多くが、ヨーロッパ人による参与観察にもとづく知見である。そこに、アフリカ社会に対するバイヤスがないとは言い切れない。しかし、それを確認する手段は筆者にはない。それを前提としたうえで、最大公約数的に見えてきたのは、トランスジェンダーや同性愛者の異性装は圧倒的に男性に多く女性には少ないこと、女性の霊力を取り込むために女装をする呪術師や司祭の事例もあり、その際、限りなく女性に近いトランスジェンダーの男性がその役割を社会から期待されていたことも見えてきた。異性装は、そうした人びとの存在を可視化し、共同体内に位置づける機能を果たしていたといえよう。

現在、同性愛行為を禁じる近代法の浸透によって、次第にそうしたアフリカ的寛容かつ柔軟な慣行は消滅しつつある。一方、近代的な「人権」を性的マイノリティに保障する法的整備は、一部の国家を除きいまだ実現していない。男性の同性愛を禁じていたヨーロッパが一転して性的指向の多様性の容認に向かっている今日、植民地化下で同性愛禁止を押し付けられた多くのアフリカ諸国が、いまなお、その法令を堅持し、同性愛者や異性装への偏見を助長し続けている現状は、まさにアフリカ文化の植民地的状況(ポストコロニアル)と言ってよい。

[注]

(1)Haberlandt (translated by Bradley Rose), “Occurrences of Contrary-Sex among the Negro Population of Zanzibar,” in: Stephen O. Murray and Will Roscoe, eds., Boy-wives and Female-husbands: Studies of African Homosexualities, MacMillan,1998: pp63-65

(2)Gill Shephaerd, “Rank, gender and homosexuality: Mombasa as a key to understanding sexual options,” in: Pat Caplan ed., The Cultural Construction of Sexuality, Routledge, London & New York, 1987, pp.241-270

(3)Simon D. Messing, “The highland-plateau Amhara of Ethiopia,” PH.D. dissertation, University of Pennsylvania, 1957,p. 550; cited in: Stephen O. Murray and Will Roscoe, eds., Boy-wives and Female-husbands: Studies of African Homosexualities, MacMillan,1998,p.22)

(4)R.Hallpike, The Konso of Ethiopia: a study of the values of a Chshitic people, Osford, Clarendon Press, 1972,p.151

(5)Jeremy C. Laurance, The Iteso: Fifty years of change in a Nilo-Hamitic tribe of Uganda, Oxford: Oxford University Press, 1957, p. 107

(6)Jean La Fontaine, The Gisu of Uganda, London: International African Institute, 1959, pp.60-61

(7)Olfert Dapper, Umbstandliche und eigentliche Beschreibung von Agrika, Amsterdam: von Meurs, 1670, p.238; cited in: Stephen O. Murray and Will Roscoe, eds., Boy-wives and Female-husbands: Studies of African Homosexualities, MacMillan, 1998, p. 1

(8)Samuel Purchas, Purchas, his Pilgrimes, London, William Stansby,1625, Vol 2 :cited in: Stephen O. Murray and Will Roscoe, eds., Boy-wives and Female-husbands: Studies of African Homosexualities, MacMillan, 1998, p.147

(9)Rautanen, “Die Ondonga,” in: Rechtsverhanltnisse vonEingeborenen Volkern in Afrika und Ozeanian, comp. S. R. Steinmets, Berlin: Julius Springer Steinmets, cited in: Stephen O. Murray and Will Roscoe, eds., Boy-wives and Female-husbands: Studies of African Homosexualities, MacMillan, 1998, p.147

(10)Wilfred D. Hambly, The Ovimbundu of Angola, Chicago, Field Museum 1934, p.181 citen in: Stephen O. Murray and Will Roscoe, eds., Boy-wives and Female-husbands: Studies of African Homosexualities, MacMillan, 1998, p.147

(11)Father J.B.Labat, Relation historique de l’Ethiope occidentale 1732: cited in: Stephen O. Murray and Will Roscoe, eds., Boy-wives and Female-husbands: Studies of African Homosexualities, MacMillan, 1998: 9-10

(12)Rodney Needham, “The left hand of the Mugwe: An analytical note on the structure of Meru symbolism,” Africa: Journal of the International African Institute, Vol 30,no.1,Jan,1960:,pp.20~33

(13)Donald L. Donham, History, power, ideology: Central issues in Marxism and anthropology, New York: Cambridge University Press, 1990: pp.92, 106,112,113

(14)Siegfried Nadel, “Two Nuba religions : An Essay in Comparison,” American Anthropologist 57, 1955 p.677

【詳細は『歴史のなかの異性装』(「アジア遊学」特集号)勉誠出版2017年に掲載予定】