コラム◇張挹蘭(ちょう・ゆうらん)(1893-1927)

掲載:2016-09-25 執筆:前山加奈子 出典:『中国女性の100年』第3章

張挹蘭は1893年に、湖南省醴陵近くの没落した知識人の家庭に生まれた。祖父が私塾を開いていたため文字をおぼえようとしたが、祖母や母親は女の子が勉強するのを好まず、慣習どおり纏足をさせられた。「父母の命」で見知らぬ自作農の龍と結婚し、一子を設けた。このころの彼女は夫を助け育児に専念する良妻賢母の一人だったが、息子が病死したのちは、小学校に入学し、さらに龍一族の男子が受ける奨学金を支給されて、五・四運動直後の若い熱気が充満している北京に出た。そこで親戚の李欣淑(りきんしゅく)(父母に強制された結婚に抵抗して新聞に投稿し、話題を呼んだ)や繆(ばく)伯(はく)英(えい)(長沙から来て中国共産党創設時に入党した)などの女性たちと交友し、新しい世界を知った。

1922年北京大学に通いながら、父の死後は母や妹の生活も支えた。折からの口語運動に賛同し、龍家の功労の誕生祝に口語詩を送った。ところが長老は口語反対論者で、その怒りを買い学費を絶たれてしまった。挹蘭は新文化運動のなかで、新しい愛にもとづく結婚を知り、みずから離婚声明を書いて郷里の新聞に載せ、旧い婚姻関係に決別した。

24年1月、中国国民党は国共合作を決定したが、孫文の死去を契機に右派は大々的な反共運動を始め、各地の革命運動を弾圧した。この時期に張挹蘭は国民党に入党し、北京特別市党部の女性運動を発展させるために『婦女の友』の刊行を担当することになった。この雑誌は26年9月に創刊され、ここに張挹蘭は「婦人運動術略」と「新しい婦人の使命」を書いて、「国家の解放を求めながら、自分自身の解放を求める努力をする」ことを主張した。婦人部長の劉清楊が武漢の国民政府に行った後を受けて、大学の授業に出るかたわら『婦女の友』の編集と革命活動に力を注いだが、地下活動の経験もなく、たやすく周囲に知られ、逮捕されてしまった。これにより『婦女の友』も停刊となった。27年4月28日、北京西交民巷の京師拘置所で、中国共産党の指導者李大釗(りたいしょう)など18名ともに絞首刑に処された。34歳。  (前山加奈子)