Ⅻ 新女性と職業―経済的自立を目指して

掲載:2016-09-25 出典:『中国女性の100年』(転載許可済み)

「上海の職業婦人」(洪明、1939年11月)

ここで紹介する職業婦人とは、経済機関、文化機関および政府機関で非単純労働に従事している女性である。彼女たちのステータスと待遇は、一般の女工と比べればいくらか良いが、「職員」階層全体からみると、中下層に位置することがわかる。下層の女性職員の収入は熟練技術をもった女工に及ばない。彼女たちの仕事の性質はまた、男性職員と同等ではなく、とても狭い範囲に限られる。その主なものは、タイプライティング、速記、会計、文書作成、翻訳、看護、接待、販売など簡単な技術労働である。このため、いくら生産に寄与していても、彼女たちのステータスと影響力はどちらかといえば従属的で、副次的なものとなっているのである。〔中略〕

〈女性店員〉

商店で働く女性は、上海全体で約600~700人程度であり、多くても1000人に満たない。その大部分は、南京路一帯にある百貨店や新しいスタイルの商店に集中している。

女性店員の給料は一般的に低く、二度の食事付きで、一三元から三,四〇元とまちまちである。最低賃金では六元というところさえあるが、一般的には二〇元前後であろう。

〔中略〕

彼女たちの大半はまずまずの家の出身であるが、経済的余裕は十分ではなく、勉強はあまりしていない。ほとんどが高等小学校卒業程度で、なかには初級中学を出ている者もいる。年齢はみなとても若く(歳がいってる者は不要なのである!)16歳から25歳が一番多い。みな未婚である。職務の関係から、服装は流行にあったものを着なければならない。たとえ本人はおしゃれに関心がなくても、雇い主は飾りたてることを強要し、時がたつうちに見栄っ張りにされていくのである。じつをいえば、彼女たちの限られた収入では生活もぎりぎりなのに、そのなかからさらにお金を工面して服や靴、化粧クリームやおしろいを買い、髪にパーマをかけたりしなければならない。それもみな、食い扶持にありつくためである。

彼女たちの労働時間は朝九時から夜八時まで、一日およそ11時間労働である。多くは実家に住んでおり、仕事が終わると家に帰る。人によっては母親の家事を手伝わなければならない。したがって一般的にいえば、生活にゆとりはない。仕事が休みの日には、女同士で公園に行って遊んだり、繁華街を歩き回ったり、おやつを食べたり、芝居や映画を見たりする者もいる。

〔「上海的職業婦女」『職業生活』第2巻第5~6期〕

解説

民国期、とりわけ第一次大戦期の中国民族産業の「黄金期」以降の都市では、工業・商業・金融保険業・運輸通信業などの近代セクターが急速な発展を示し、さまざまな新しい職種が登場した。そうした新職業で働く人々のなかには、女性の姿も見られた。

中国の代表的な近代都市上海を例にとると、工場労働者として働く女性のほか、「職員」と呼ばれるホワイトカラー層にも少なからぬ女性が進出していた。たとえば、1935年の上海共同租界の統計では、中国人女性の職業別人数として、「商業」に4150人、銀行金融保険業に102人、医師・弁護士・新聞記者・会計士などの専門職に1467人、政府および市政機関職員に81人、書記・速記者などに58人、といった数が見える。上海全体、さらには中国全体ではもっと多くの女性がこれらの仕事に就いていたはずである。また、近代教育を受けた助産婦は32年末に278人が上海市に登録されていたし、看護婦としてキリスト教会の作った病院などで働いていた女性はもっと多かった。さらに、教員として働く女性も少なくなかった。とはいえ女性教師の多くは小学校で教えており、学歴は男性と遜色がなくても、中高校・大学で教える女性はたいへん少なかった。

こうした近代セクターで働く女性の多くは、やや裕福な家庭の出身で、小学校ないし中学校までの教育を受けていた。彼女たちの収入は、平均すると工場で働く女工をやや上回っているが、そんなに余裕のある暮らしができたわけではなく、職場でも男性の同僚たちより低い職階・収入に甘んじなければならなかった。そもそも働く女性の絶対人数が、

まだまだ男性より少なく、「花瓶」(職場の花)として扱われることも多かった。また、上海の税関は早くからタイピストや速記者として女性職員を採用していたが、未婚者に限り、結婚すると働き続けられなかった。1930年代末、郵便局も既婚女性を排除しようとして、大きな社会問題となった。

制約の多い職場であっても、近代的な職業女性の登場は、中国女性の人生に新たな可能性を提示するものであった。若干の金と暇をもち、教育もある彼女たちは、民国期の商業文化を享受する都市中間層のスタイルをもっていた。また仕事をつうじてそれまでの女性とは異なった経験を積み、自立して生活する糧を得るようになった彼女たちは、主体的に行動する中国社会の主人公となっていく。

こうした職業女性が存在したのは、民国期にはほとんど都市、とりわけ沿岸部の大都市に限られており、地方では近代教育を受けた女性がそれを活かして働き生活できる場は、まだあまりなかった。

都市の職業女性の頂点に位置したのが、医師・弁護士などの専門職の女性たちだろう。張竹君(第2章コラム参照)は、みずから医師として活躍するだけでなく、女医学校の設立にも努力した。民国期にはこうした学校を卒業した女医が活躍するようになっていた。また、アメリカに留学してシカゴ大学医学を学んだ伍(ご)智(ち)梅(ばい)(1898~1956年)は、国民党中央執行委員・国民参政会参政員などにも選ばれ、医学界だけでなく政治的にも活躍した。

女性が弁護士として活動することを認められたのはやや遅く、南京国民政府の成立した1927年からである。上海法政大学の第一期生として働きながら法律を学んだ史良(1900~85年)は、31年に弁護士資格を取得し、女性の人権確立のために献身する。彼女は抗日救国運動の指導者としても活躍するが(第4章「抗日救国運動」参照)、36年11月、他の救国会幹部とともに逮捕され(抗日七君子事件)、翌年7月にようやく釈放される。史良は人民共和国成立後、初代の司法部長(法務大臣にあたる)もつとめている。

(訳 大橋史惠、解説 小浜正子)

参考文献

高橋孝助・古厩忠夫編『上海史―巨大都市の形成と人々の営み』東方書店、1995年

菊池敏夫・日本上海史研究会編『上海職業さまざま』勉誠出版、2002年

熊月之主編『上海通史』第9巻、上海人民出版社、1999年

『女性与近代中国社会』(共通文献43)

〔映画〕『新女性』1935年