13-10.ナチズムとジェンダー

掲載:2016-02-06 作成:三成美保

年表

1918 ワイマール共和国成立
1919-25 エーベルト大統領
1919 ワイマール憲法成立
1920 国民社会主義ドイツ労働者等(ナチ党)綱領採択
1923 ミュンヘン一揆→ヒトラーによるクーデター失敗・選挙戦術に転換。
1925 ヒトラー『我が闘争』
1925-34  ヒンデンブルク大統領
1928 ナチ党として初の国政選挙。12議席を獲得。
1929 世界恐慌
1930 この年の選挙でナチ党は第2党の地位を獲得。

1932

  • アドルフ・ヒトラー(1938年)

    3月~4月 大統領選挙にヒトラーが出馬したが次点となる。

  • 7月31日 国会議員選挙。230議席を獲得し第1党となる。
  • 11月6日 国会議員選挙。34議席を失ったが、196議席を確保し第1党の地位を保持する。

1933

  • 1月30日 ヒンデンブルク大統領は、アドルフ・ヒトラーを首相に任命。ナチ党、国家人民党など保守・右翼勢力の連立によるヒトラー内閣が成立。
  • 2月1日 新政府は大統領に要請して国会を解散。選挙戦に突入。
  • 2月6日 大統領令により、プロイセン州内閣の権限が国家弁務官に譲渡されることとなる。この措置は2月中旬までにほとんどの州で行われ、地方行政が国家の監督を強く受けることとなる。「強制的同質化」(Gleichschaltung)の開始
    ヘルマン・ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に就任。プロイセン州の警察権力をナチ党が掌握。
  • 2月27日 国会議事堂放火事件発生
  • 2月28日 ヒトラーは緊急大統領令を布告させ、ワイマール共和国憲法によって成立した基本的人権のほとんどは停止され、ドイツ共産党員、ドイツ社会民主党員らが大量に逮捕される。
  • 3月5日 国会議員選挙執行。ナチ党は43.9%の票を獲得、288議席を得た。同日行われたプロイセン州議会選挙でもナチ党が躍進。
  • 3月10日 バイエルン州の国家弁務官にフランツ・フォン・エップが就任し、州政府を解体。この時点ですべての州が国家弁務官の支配を受けることになる。
  • 3月12日 大統領令により、新国旗を制定するまで黒・白・赤の旧ドイツ帝国国旗とナチ党旗であるハーケンクロイツ旗の両方を掲げる事を定めた。
  • 3月20日 最初の強制収容所、 ダッハウ強制収容所が設立される。
  • 3月21日 新国会の開会式。ヒトラーはヴァイマル共和国の伝統を否定し、ドイツ帝国からの権威継承を表明する。国民高揚の日と名付けられ祝日となる。(ポツダムの日)
  • 3月23日 議会において授権法(全権委任法)が成立。立法権を政府が掌握し、独裁体制が憲法的にも確立された。
    ※ナチスは大量の法令を作って「合法的」に統治したが、それらの法令はすべて政府・総統によって発布されたものである。ワイマール憲法が保障した議会制民主主義は完全に否定された。
    【史料】全権委任法(1933年)
  • 3月31日 ラントとライヒの均制化(Gleichschaltung)に関する暫定法律公布。各州議会の議席が国会の議席配分に従って決められるようになり、地方自治権はほぼ停止する。4月7日には『ラントとライヒの均制化に関する暫定法律の第二法律』が公布。国家弁務官に代わってライヒ代官(または国家代理官、州総督Reichsstatthalter)が中央政府から各州政府に派遣される。
  • 4月26日 プロイセン州警察政治部門がプロイセン州秘密警察局(ゲシュタポ)と改名。
  • 7月14日「政党新設禁止法」公布。ナチ党以外の政党の存続・結成が禁止される。
  • 10月21日 ジュネーブ軍縮会議の決裂を理由として国際連盟脱退。
  • 12月1日「党と国家の統一を保障するための法律」公布。ナチ党と国家の一体化が定められる。

ナチスの支配領域(水色~青)出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Nazi_Germany

1934

  • 1月30日 「ドイツ国再建に関する法」成立。各州の主権がドイツ国に移譲され、州議会が解散される。
  • 6月30日 「長いナイフの夜」事件(レーム事件)。突撃隊幹部や前首相シュライヒャーなどが処刑される。
  • 8月1日 「国家元首に関する法律」が閣議で定められる。
  • 8月2日 ヒンデンブルク大統領が死去。「国家元首に関する法律」が発効し、首相職に大統領職が統合されるとともに、「指導者およびドイツ国首相(Führer und Reichskanzler))アドルフ・ヒトラー」個人に大統領の権能が委譲される。以後、ドイツ国の最高指導者となったヒトラーの地位を日本では「総統」と呼ぶ。
  • 8月19日 国家元首に関する法律の措置に対する国民投票。投票率95.7%、うち89.9%が賛成票を投じる。

【解説】女性映画監督レニ・リーフェンシュタール

レニ・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)、本名ベルタ・ヘレーネ・アマーリエ・リーフェンシュタール(Berta Helene Amalie Riefenstahl、1902年8月22日 – 2003年9月8日)
ドイツの映画監督、写真家。リーフェンシュタールは、ナチ党員にはならなかったが、ヒトラーに気に入られ、ナチスの全面支援を受けて映画制作を行った。とくに『意思の勝利』は、ナチス宣伝映画として使われた。他方、彼女の映画の撮影技術や映像美は高く評価されている。戦後は、ナチス協力者とみなされ、映画制作活動はほとんどできなかったが、アフリカの写真集『ヌバ』を出して評価を得た。
○『意志の勝利』(Triumph des Willens):記録映画。1934年に行われた国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチ党)の第6回全国党大会の様子が記録されている。
○『オリンピア(Olympia)』(『民族の祭典』と『美の祭典』の2部作):1936年に行われたベルリン・オリンピックの記録映画。

1935

  • 1月13日 ザール地方が住民投票によりドイツ領に復帰。
  • 5月16日 ドイツ再軍備宣言。
  • 9月15日 「ニュルンベルク法」制定→【史料・解説】ニュルンベルク諸法(1935年)
    ※ユダヤ人の家庭が45歳以下のドイツ人女性をメイドとして使うことを禁止する法案を可決。

1936年

  • 3月7日 ラインラント進駐。
  • 8月1日 ベルリンオリンピック開幕

1937

  • 11月5日 ヒトラーが軍幹部と外相ノイラートを集めた会議で戦争計画を語る。(ホスバッハ覚書)

1938

  • 1月26日 ブロンベルク国防相を罷免。28日にはフリッチュ陸軍総司令官も罷免され、ナチ党による国防軍支配が強固になる(ブロンベルク罷免事件)
  • 3月13日 オーストリアを併合
  • 9月29日 ミュンヘン会談でチェコスロバキアのズデーテン地方を獲得。
  • 11月9日 水晶の夜事件(ユダヤ人商店への襲撃)→ユダヤ人商店の営業停止・ユダヤ人セクシュアリティイットをドイツの学校から追放する。
  • 記録映画『オリンピア(Olympia)』(『民族の祭典』と『美の祭典』の2部作):ベルリン・オリンピックの記録映画。監督はレニ・リーフェンシュタール

1939年

  • 3月14日 チェコスロバキア内のスロバキア民族派に働きかけ、スロバキア共和国をチェコスロバキアから独立させる。
  • 3月15日 チェコスロバキアのボヘミア・モラビアをベーメン・メーレン保護領として保護領とする(チェコスロバキア併合)。
  • 3月22日 リトアニアのメーメルを住民投票で併合。
  • 8月23日 独ソ不可侵条約締結。
  • 9月1日 スロバキアと共同してポーランドに侵攻。
  • 9月3日にイギリス、4日にフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦勃発。
  • 10月1日までにポーランド全土を制圧。ポーランド総督府を設置。

1940

  • 4月9日 ノルウェー、デンマークに侵攻(ヴェーザー演習作戦・ノルウェーの戦い)。デンマークは降伏し、保護国下に置かれる。
  • 5月にはほぼノルウェー全土を占領。ヴィドクン・クヴィスリングによる傀儡政権が設置される。
  • 5月10日 フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻を開始(ナチス・ドイツのフランス侵攻、オランダにおける戦い (1940年))。ルクセンブルクは占領、併合される。
  • 5月17日 ヨーロッパのオランダ軍がドイツ軍に降伏。
  • 5月28日 ベルギー降伏。
  • 6月21日 フィリップ・ペタンを首相とするフランス政府、ドイツに休戦申し入れ、翌22日に独仏休戦協定締結。北部をドイツの占領下に置き、南部はヴィシー政権としてドイツの強い影響下に置かれる。
  • 9月20日 日独伊三国軍事同盟締結。

【解説】アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所(強制収容所・絶滅収容所)

ビルケナウの航空写真

1940年5月20日 に、 「アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)」が親衛隊(SS)全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの指示により、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物を利用して開所した。初代所長は、SS中佐ルドルフ・フェルディナント・ヘス。ザクセンハウゼン強制収容所から移送された犯罪常習者30人が、最初の被収容者となった。6月14日には、 ポーランドの政治犯728人が到着。
1941年 、最初のガス室を備えた複合施設「クレマトリウム1」が第一強制収容所に完成した。10月 に、収容者増加のため、近くの村に大規模な「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」が建設された。
1942年1月20日、ベルリンのヴァンゼー(ヴァン湖)にある別荘でのヴァンゼー会議で、「ユダヤ人問題の最終的解決」が決定された。1月25日、 ヒトラーは、ドイツ国内のユダヤ人強制労働者(男性10万人・女性5万人)のアウシュヴィッツ移送を命令した。
1943年1~3月には、アウシュヴィッツに105,000人を超えるユダヤ人が到着。5月30日、SS医師ヨーゼフ・メンゲレが着任。
1944年4~11月 には、585,000人を超えるユダヤ人が到着。8月2日   第二強制収容所の家族練に収容されていたシンティ・ロマ(いわゆる「ジプシー」)に対して最後の処刑が行われる。この日、約3,000人が殺害され、アウシュヴィッツからジプシーは一掃された。殺害された総数は推定で2万人とされる。
1945年1月27日 ソ連軍により解放された。

【解説】強制収容所と絶滅収容所

ナチスの絶滅収容所( Vernichtungslager)は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ヘウムノ強制収容所、ベウゼツ強制収容所、ルブリン強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所などの強制収容所をさす。おもにポーランドに作られた。絶滅収容所は、強制収容所とは異なり、殺害を目的とする収容所である。ホロコーストの初期の段階では、ユダヤ人も主に強制収容所に送られていたが、1942年以降はそのほとんどが絶滅収容所に送られた。
強制収容所(Konzentrationslager)は、さまざまな「国家の敵」(ナチスが好ましくないとレッテルを貼った者)を投獄して強制労働を行わせる場所であり、絶滅そのものを主な目的とするものではない。しかし、やがて、一部の強制収容所は、絶滅収容所に改変されていった。

絶滅収容所()・強制収容所(■)の場所とヨーロッパからのユダヤ人移送経路(紫線) https://de.wikipedia.org/wiki/Holocaust#/media/File:WW2_Holocaust_Europe_map-de.png

1941

  • 4月6日 ユーゴスラビア侵攻開始。
  • 4月17日 ユーゴスラビア制圧。セルビアを占領下に置き、クロアチアにはクロアチア独立国を建国し、保護国とする。
  • 4月10日 ギリシャ・イタリア戦争にイタリア側として介入(バルカン半島の戦い)。
  • 6月22日 バルバロッサ作戦を発動し、ソビエト連邦に侵攻(独ソ戦)。
  • 12月11日 12月7日に日本が真珠湾攻撃を行い、アメリカ・イギリスに宣戦布告したことを受け、ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告。

1942

  • 1月 ヴァンゼー会議「ユダヤ人問題の最終的解決」
  • 10月 ドイツ国内の強制収容所の全ユダヤ人をアウシュヴィッツに移送。
  • 11月10日 連合軍のトーチ作戦に対抗するため、ヴィシー政権統治下のフランス南部の占領を開始(アントン作戦)

1943

  • 2月2日 スターリングラードで、パウルス元帥率いる第6軍がソ連軍に降伏(スターリングラードの戦い)
  • 2月22日 「白いバラ」グループ(ショル兄妹とプロープスト)の裁判(民族裁判所)・処刑
  • 6月24日 公用文書で「大ドイツ国」(Großdeutsches Reich)の国号が用いられ始める。
  • 7月25日 イタリア王国においてムッソリーニが首相を解任、逮捕される。
  • 9月8日 イタリアが連合国に降伏。
  • 9月15日 グラン・サッソ襲撃により救出したムッソリーニを首班としてイタリア社会共和国をイタリア北部に成立させる。

【解説】ナチスへの非暴力抵抗グループ「白いバラDie Weiße Rose)」

ゾフィー・ショル

第二次世界大戦中のドイツにおける非暴力主義の反ナチ運動グループ。ミュンヘンの大学生を中心に組織され、1942年から1943年にかけて6種類のビラを作成した。その後グループはゲシュタポにより逮捕され、首謀者とされるハンス・ショルと妹ゾフィー・ショルたち5名がギロチンで処刑された。彼らの活動を描いた映画が戦後何度かドイツで作られ、反ナチ抵抗運動として、国際的に知られている。

商品の詳細◎おすすめDVD『白バラの祈り -ゾフィー・ショル、最期の日々』2006年)
販売元: TCエンタテインメント、発売日 2006/09/22、時間: 121 分
主演ユリア・イェンチ
※ナチスの暴力性と民族裁判所の様子がよくわかる。歴史映画として優れており、必見(三成)。

【解説】民族裁判所(Volksgerichtshof (VGH))

民族裁判所(1944年)

1934年4月24日、政治犯(国家反逆罪・ラント反逆罪)を裁く特別裁判所としてベルリンに設置された。1936年に、通常裁判所となる。「人民法廷」とも言う。
裁判所は1名の長官、数名の部長、顧問で構成された。裁判官には、終身の職業裁判官のほか、司法大臣の推薦で総統ヒトラーが任命する任期5年の名誉職裁判官(法曹資格をもたない:ehrenamtliche Richter)が任じられた。
裁判は一審制であり、控訴は許されなかった。
弁護人はつけることができたが、長官の許可が必要な上に、その許可を取り消す ことも出来た。
判決は職業裁判官2名と名誉職裁判官3名で構成される合議体の多数決によることとされた。
裁判長は職業裁判官が務めた。
1942年以降、被告人の2人に1人が死刑判決を受けるようになった。非暴力抵抗グループ「白いバラ」もこの民族裁判所で裁かれ、死刑判決を受けた。

民族裁判所の判決の推移(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/人民法廷)
年度 被告人数 死刑 終身刑 重懲役
15~20年
重懲役
10~15年
重懲役
5年以下
軽懲役 無罪
1937年 618 32 31 76 115 101 99 52
1938年 614 17 29 56 111 91 105 54
1939年 470 36 22 46 100 89 131 40
1940年 1091 53 50 69 233 416 188 80
1941年 1237 102 74 187 388 266 143 70
1942年 2572 1192 79 363 405 191 183 107
1943年 3338 1662 24 266 586 300 259 181
1944年 4379 2097 15 114 756 504 331 489

1944

  • 3月8日 マルガレーテI作戦によりハンガリー王国を占領下に置く。
  • 6月6日 ノルマンディー上陸作戦。連合国軍がフランス北部に上陸し、橋頭堡を築く。
  • 7月20日 反ヒトラー派グループ(黒いオーケストラ)により、ヒトラー暗殺計画とクーデターが行われるが失敗に終わる。
  • 8月25日 パリの解放。枢軸国であったルーマニアが連合国につき、ドイツに宣戦布告(ルーマニア革命 (1944年))。
  • 9月 西部戦線において連合軍がドイツ国境を越えて侵攻。占領地に連合軍による地方政府が樹立されはじめる。
  • アンネ・フランク(『アンネの日記』で有名)(1929-1944)がベルゲン=ベルゼン収容所で死亡。
Großdeutsches Reich 1944

1944年5月時点のナチス・ドイツ 出典:https://de.wikipedia.org/wiki/Deutsches_Reich_1933_bis_1945

1945

  • 4月16日 ベルリンの戦い始まる。
  • 4月30日 ヒトラー自殺。後継大統領にカール・デーニッツ、首相にヨーゼフ・ゲッベルスを指名。
  • 5月1日 ゲッベルスが地下壕において自殺し、政府機能が崩壊。デーニッツのフレンスブルク政府が活動を開始。
  • 5月2日 ベルリンがソ連軍に占領される。
  • 5月7日 アルフレート・ヨードル大将がランスにおいて連合国への降伏文書に署名。
  • 6月5日 ベルリン宣言により、ドイツに中央政府が存在しないことが確認される。統合的な占領行政がスタート(連合軍軍政期)。
  • 7月5日 ドイツの統治を担当する連合国管理理事会(Allied Control Council)設置。

【解説】「地獄の血の天使」強制収容所の女性看守イルマ・グレーゼ

イルマ・グレーゼ(1945年)

イルマ・グレーゼ(Irma Grese, 1923年10月7日 – 1945年12月3日)には、1945年、死刑判決が下った。ナチスの全死刑者のうち、最年少である。
イルマは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ならびにベルゲン・ベルゼン強制収容所の女性看守として、「地獄の血の天使」とよばれた。アウシュヴィッツで1万8千人に及ぶ女性収容者を殺害したとされる。
イルマは、ナチスの一組織ドイツ女子同盟 (BDM) に深く共鳴し、15歳で学校を辞めた後、親衛隊幹部のサナトリウムで看護師などをしていたが、18歳の時にラーフェンスブリュック強制収容所で看守として訓練を受け、19歳の時にアウシュビッツ強制収容所に配属された。その後、連絡主任にまで出世した。

参考記事→*【映画評1】『さよならアドルフ』とその背景 (姫岡とし子)