【年表】ロシア史(9世紀~1917年)

掲載:2016-06-06 作成:三成美保

ルーシ(キエフ大公国)(882頃-1240)

882頃~1240 ルーシ(キエフ大公国)

913/923 イーゴリ1世即位(位913/923ー945)

【女性】摂政母后オリガ(キエフ大公妃:890頃ー969)による夫暗殺部族への復讐

オリガの復讐(945年)

903年、オリガはイーゴリ(のちの1世)と結婚した。945年、イーゴリ1世がデレヴリャーネ族Drevlians(6~10世紀に現在の北ウクライナ・南ベラルーシの辺りに居住していた東スラブ系部族。自分たちを支配下に置こうとするキエフ・ルーシに抵抗し続けていた)によって暗殺される。息子スヴァトスラフ1世が幼少(3歳)であったため、945~963年にかけて(息子が20歳になるまで)、オリガは摂政母后としてルーシを統治した

摂政母后として最初に行ったのが、デレヴリャーネ族への復讐である。この復讐は徹底したもので、デレヴリャーネ族の使節や貴族達を皆殺しにし、首都イースコロステニを焼き払った。こうしてデレヴリャーネ族を服属させた後、オリガは彼らの土地をキエフ・ルーシの領地に編入し、ヴルチイをその中心とした。オリガは、ルーシ貴族として初めてキリスト教に改宗した人物でもある(945/957年)。

(出典)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%A8%E3%83%95%E5%A4%A7%E5%85%AC%E5%9B%BD

945 スヴャトスラフ1世即位(942-972:位945-972)

978 ウラジーミル1世即位(960-1015:位978-1015)

○ウラジーミルには多くの正妃・側妃がいた。
Rogneda von Polozk(ポロック公国の公女ログネダ:960頃-1000頃)
Anna von Byzanz(ビザンツ皇女アンナ)

【男性】ウラジミール1世

ウラジミール1世

ウラジミールは、スヴャトスラフ1世とMaluscha(スヴャトスラフ1世の母オリガの侍女。兄弟はのちにウラジーミルの側近として、ノヴゴルドを治める)の間の「婚外子」として、958/960年に産まれた。969年、父大公は、嫡出ではない末子ウラジミールを北方のノヴゴルド伯(ルーシの第二の拠点)に任じ、長子で嫡出のヤロポルクをキエフ大公に任じた。

父死後の975年、長兄ヤロポルクが次兄オレーグと争い、これを殺害した。
977年、ウラジーミルはスカンディナビアへ逃亡したが、やがてノルマン人(ヴァリャーグ)人を率いて帰還、ヤロポルクを破り、キエフ大公として即位した。

キエフに帰還する途中で、ポロック公国の公女ログネダに求婚したが、拒否されたためレイプし、のちに強制的に妻にした。ログネダが、ウラジミールを「盗人」とののしり、ウラジミールよりもヤロポルクとの結婚を望んだからである。

【女性】ログネダ(キエフ大公妃=ウラジーミル1世后)

Rogneda von Polozk(ポロック公国の公女ログネダ:960頃-1000頃)
978/980年に、ウラジーミルはポロック公国を攻撃した。ログネダを両親の眼の前でレイプし、父親のポロック公と兄弟たちを処刑した。ログネダはもともとキエフ大公ヤロポルク1世(ウラジーミルの長兄)との結婚を望んでいたが、ウラジーミルはヤロポルク1世を殺害し、キエフ大公となった。彼は、ログネダを強制的に自分の妻にした。

その後、ウラジミールはキリスト教に改宗して、ビザンツ皇女を妻に迎えた。そのさい、ログネダを含むすべての妻妾を離縁した。この頃、ログネダがウラジミールの殺害を計画したと伝わる。ログネダは修道院に送られた。

ログネダは、4人の息子と2人の娘を産んだ。ログネダの長男子イジャスラフは、ウラジーミルに破壊されたポロック公国を再建し、彼の子孫は代々のポロック公となった。ベラルーシでは、ログヴォロ ド・ログネダ・イジャスラフの三代から始まるポロック公国とイジャスラフ朝を、ベラルーシ国家の根源たる王朝と位置づけている。

15世紀頃の年代記。ログネダがウラジミールを殺害しようとしている。

ウラジミールとログネダ, 油彩: Anton Losenko, 1770

988 キリスト教(東方正教会)を国教とする。ウラジーミルは洗礼を受け、東ローマ皇帝バシレイオス2世の妹アンナ(963-1011/12)と結婚した。

1000年ごろのキエフ・ルーシ (出典)https://de.wikipedia.org/wiki/Kiewer_Rus

11~13世紀 内乱とポロヴェツ族(キプチャク族)の侵攻

キプチャク(Qipchaq)は、11世紀から13世紀にかけて、ウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯(キプチャプ草原)に存在したテュルク系遊牧民族。ポロヴェツ族ともいう。モンゴル族ではない。遊牧国家「キプチャク汗国」(900-1220)をつくった。

ノヴゴロド公国の位置

ノヴゴロド公国の位置

1136ー1478 ノヴゴロド公国の成立

1240頃 キエフ大公国が分裂⇒「ジョチ・ウルス」による支配

○いわゆる「タタールの軛(くびき)」
キエフ大公国が分裂し、モスクワ大公国が成立するまでをさすロシア史の用語であり、「モンゴル族によるロシア支配の時代」とされる。しかし、これは史実には即していない。「タタール」は多様な民族を含む呼称である。また、キプチャク・ハン国は、モンゴル=トルコ人の国家であり、イスラーム化して高い文化水準を持っていた。したがって、「圧政」があったわけでもない。

キプチャク・ハン国の位置

キプチャク・ハン国の位置

1240年代ー1502 ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)

○チンギス=ハンの長子ジョチの後裔によってつくられたウルス(遊牧政権)
⇒キプチャク草原を支配したため、「キプチャク・ハン国」ともよばれるが、キプチャプ族の国家ではない。
ルーシを支配した。

キプチャプ草原

1462 イヴァン3世即位(位1462-1505)

モスクワ大公国(1480-1613)

1480 モスクワ大公国成立=キプチャク・ハン国から独立⇒はじめてツァーリの称号を用いる

【女性】ゾイ・パレオロギナ(1440/49/55頃 – 1503)

イヴァン3世の2番目の妻。夫に強い政治的影響力をもち、外国使節との接見にも同席した。

【女性】摂政母后エレナ・グリンスカヤ(1510頃 – 1538)

Glinskaya reconstruction.jpg

エレナ

モスクワ大公ヴァシーリー3世(1479-1533:位1505-1533)の2番目の妃。1533ー1538年まで、モスクワ大公国の摂政を務めた。イヴァン4世の母。リトアニア大公国の大貴族ヴァシーリー・リヴォーヴィチ・グリンスキー公爵とその妻のセルビア王女アンナの娘として生まれた。

ヴァシーリー3世は、1505年に即位すると(当時26歳)、伝統の花嫁コンテストを開き、1500人の高貴な娘の中からソロモニヤ・サブーロヴァ(1490頃-1542)を妻に選んだ。しかし子供に恵まれず、1525年、府主教ダニールに婚姻無効の宣言させ、彼女を修道院に幽閉した。翌1526年、47歳のときに「容貌の美しさと年齢の若さに惹かれて」、エレナ(当時16歳)を妻に選んだ。ロシア正教会はヴァシーリー3世の離婚にも再婚にも猛反対した。

エレナはヴァシーリー3世とのあいだに2人の息子をもうけた。モスクワ大公、そしてロシア最初のツァーリとなる長男のイヴァン4世(1530 – 84)と、聴覚に障害があり、後にウグリチ公となる次男のユーリー(1532 -63)である。

1533年、ヴァシーリー3世は死去したが、長男のイヴァンが成人して国家を統治できる年齢になるまで、後見役を何人かの貴族たちに任せた。しかし、エレナは夫の死後間もなく権力を後見役から奪取し、事実上の摂政に納まった。エレナは、夫の2人の弟(ドミトロフ公ユーリーとスターリツァ公アンドレイ)と対立し、2人をそれぞれ1534年と1537年に失脚させた。エレナの死には毒殺の疑いももたれている。

1533 イヴァン4世(雷帝)即位(位1533-84)

ロマノフ朝(1613-1917)

1613 ミハイル・ロマノフ即位(位1613-45)ロマノフ朝(1613-1917)

1670-71 スタンカ=ラージンの反乱

1682 ピョートル1世(大帝)即位(位1682-1725)

1725 エカチェリーナ1世即位(位1725-27)

1730 アンナ即位(位1730-40)

1741 エリザヴェータ即位(位1741-62) 

1762 エカチェリーナ2世即位(位1762-96)

1764 スモーリヌイ女学院設立

1772 第1回ポーランド分割

1773-75 プガチョフの農民反乱

1793 第2回ポーランド分割

1795 第3回ポーランド分割⇒ポーランド消滅

1799-1837 プーシキン

1801 アレクサンドル1世即位(位1801-25)

1809-1852 ゴーゴリ

1812-14 ナポレオン戦争

1814-15 ウィーン会議

1818-1883 トゥルゲーネフ

1821-29 ギリシア独立戦争に介入⇒黒海沿岸の領土獲得

1821-1881 ドストエフスキー

1825 ニコライ1世即位(位1825-55)

1825 デカブリストの乱(青年将校・自由主義貴族が憲法制定・農奴解放を求めて蜂起したが、弾圧)

1828-1910 トルストイ

1830-31 ポーランドの反乱(ポーランド11月蜂起)

1831-33 第1次エジプト=トルコ戦争⇒ロシア軍艦のボスポラス・ダーダネル両海峡通過を承認

1839-40 第2次エジプト=トルコ戦争(両海峡の中立化。ロシアの南下阻止)

1840-1893 チャイコフスキー

1840-50年代 インテリゲンツィア(知識人)の活動

1853-56 クリミア戦争(黒海の中立化)

ナイチンゲール(1820-1910)の活躍

1855 アレクサンドル2世即位(位1855-81)

1855 日露和親条約締結

1858 アイグン条約(ロシアと清)=アムール川以北をロシア領とする

1860 北京条約

1861 農奴解放令

1863-64 ポーランドの反乱(ポーランド1月蜂起)

1868-76 中央アジア併合

1870-1924 レーニン

1875 樺太・千島交換条約

1877-78 露土戦争⇒1878 サン・ステファノ条約

1878 ベルリン条約

1879-1940 トロツキー

1879-1953 スターリン

1881 アレクサンドル2世暗殺

○ナロードニキ運動⇒挫折

1881 アレクサンドル3世即位

1881 イリ条約

1891 シベリア鉄道着工

1894 ニコライ2世即位(位1894-1917)

1900 恐慌、労働運動の激化

1904-05 日露戦争

1905 血の日曜日事件⇒第1次ロシア革命(1905-07)⇒ニコライ2世、十月宣言(国会開設を約束)

1905 ストルイピンの弾圧政策(1905-11)⇒ミール(農村共同体)の解体

1914-18 第一次世界大戦に参戦

1917 三月(ロシア暦二月)革命(ニコライ2世退位=ロマノフ朝の滅亡)

十一月(ロシア暦十月)革命ソビエト政権成立