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【年表】アフリカ史(5)ーヨーロッパ人探検家

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【年表】アフリカ史(5)ーヨーロッパ人探検家

掲載:2016-05-05 執筆:富永智津子

【ヨーロッパ人探検家】(18世紀末~19世紀)

 James Bruce:    176874年 

  • 40生没年1730~1794:スコットランドの旅行家、著述家。エジンバラ大学卒。ワイン輸入業者の娘と結婚したことを機に、ビジネス界に進む。妻は結婚後9か月で死亡。その後はビジネスの傍ら、スペインやポルトガルを旅行。オリエンタル・マニュスクリプトの調査からアフリカに関心を持ち、アラビア語とゲーズ語を習得、必要な医学的知識も学んだ。
  • 駐アルジェリア・イギリス領事を経て、ナイルの水源探査のため1768年にアレキサンドリアから一旦アラビア半島のジッダに入り、再び紅海を渡ってマッサワに上陸、エチオピアに向かい、1770年に首都ゴンダールに到着。そこからナイルの水源に向かう。1771年、ブルースは白ナイルと青ナイルが交わる分岐点に到達した最初のヨーロッパ人となる (誰が最初に到達したかについては議論あり)。1773年、フランスを経由して翌年、ロンドンに戻る。
  • 【著書】
  • Travels to Discover the Source of the Nile, In the Years 1768, 1769, 1770, 1771, 1772, and 1773 (Five volumes, G.G.J.and J.Robinson, London,1790)              

Mungo Park:    1795~97年;1805~06年 

  • 41生没年1771~1806:スコットランドの探検家、医者、博物学者。小作ではあったが、比較的裕福な家庭の13人兄弟の7番目に生まれた。父親は、死後3千ポンド(現在の価値にして2千万円以上)の遺産を遺した。エジンバラ大学で医学と植物学を学び、1788年に友人とともにLondon Linnean Societyを設立。1791年、大学を卒業して、東インド会社の船に、医者として乗船。1793年にはスマトラへ航海した。1794年に帰国し、発見した新種の魚8種についての講演をおこなった。
  • 1794年、African Associationから、ニジェール川の探査を行う途中、サハラで命を落としたDaniel Houghtonの後任に抜擢され、1795年、蜜蠟と象牙の取引をしていた商船Endeavorでポーツマス港を出航した。ちょうど一か月後、ガンビア川の河口に到着。300キロをさかのぼり、イギリスの公交易拠点のあるPisaniaに到達し、そこから内陸に向かった。ムーア人の首長に4か月間捕らわれたりしながら、1795年、ニジェール川流域のセグーに到着した最初のヨーロッパとなった。再びPisaniaまで戻れたのは、2年後の1797年のことだった。死んだと思われていた彼の帰還に、イギリス中が熱狂した。旅の記録はBryan EdwardによってAfrican Associationのために書き起こされた。
  • 1805年、政府のニジェール川探査隊の隊長としてガンビアに向けて出港。川を遡上する中で、住民の攻撃を受け、銃弾薬で何度も応戦したが、遂にボートが座礁し、弓や槍で攻撃され、川に逃れたが、溺死。生き残った唯一の奴隷が捕虜となっていたがのちに解放された探検隊のメンバーのひとりに語り、彼の最後の様子がイギリスに伝えられた。彼の遺骸は、ナイジェリアのニジェール河畔沿いに葬られている。
  • 【著書】
  • Travels in the Interior Districts of Africa: Performed under the Direction and Patronage of the African Association, in the Years 1795,1796,and 1797,W. Bulmer and Company, London, 1799.

Walter Oudney:  1821~24年 

  • 性没年1790~1824:スコットランド人、エディンバラ大学で医学を学ぶ、アフリカの植物も採集
  • 1821年にDixon Denham(性没年1786~1828 :イギリス人、弁護士・軍人・探検家・シエラレオネ総督)とHugh Clapperton(生没年1788~1827:スコットランド人、海軍士官、探検家)とともにトリポリを出発し、1823年にナイジェリアのクカからボルヌー帝国に入る。サハラを南北に縦断した最初のヨーロッパ人。その後、3人は別々の行動をとり、Oudney は死亡、Clappertonはカノからソコトに入り、再びDenhamと合流し、2人はトリポリに向かい、1825年に帰国。
  • 【著書】
  • Narrative of Travels and Discoveries in Northern and Central Africa in the years 1822,1823, and 1824, 1826

Hugh Clapperton:   1825~27年 

  • 生没年1788~1827:スコットランド人、海軍士官、探検家
  • 1821~1825:第一回探検。Walter Oudney, Dixon Denhamとともにナイジェリアのクカからボルヌー帝国に入る。
  • 1825~7年: Clapperton による第二回探検。ナイジェリアのヨルバランドを通り、ニジェール川を渡ってカノに到着。その後、ハウサとソコトの抗争に巻き込まれ、足止めを食い、マラリアで没す。
  • 【著書】
  • Difficult and Dangerous Rowds-Travels in Sahara and Fezzan, 1822-1825、eds.,Bruce-Lockhart, J & Wright, J. Sickle Moon Books, London, 1826.
  •   Dixon Denham, Hugh Clapperton, Walter Oudney, Narrative of Travels and Discoveries in Northern and Central Africa; In the Years 1822, 1823, and 1824 (2volumes), John Murray, Scans, London,1926.
  • Hugh  Clapperton, Richard Lander, Journal of a second expedition into the iterior of Africa, from the Bight of Benin to Soccatoo by the late Commander Clapperton of the Royal Navy to which is added The Journal of Richard Lander from Kano to the Sea-Coast Partly by a More Easterly Route, London ,Joh Murray, 1928.

Richard Lemon Lander:  1825~1828; 1930~1831; 1832~1834  

  • 生没年1804~1834:コーンウォール生まれのイギリス人。Hugh Clappertonの1825年の西アフリカ遠征隊に助手として参加。Clappertonがナイジェリアのソコト近くで死亡したあと、唯一のヨーロッパ人の生き残りとなり、1828年にイギリスに帰国。
  • 1830年に弟とともに西アフリカに赴き、ニジェール川流域を探査し、1831年にイギリスに帰還。
  • 1832年、リヴァプールの商人たちが組織した遠征隊を率いてニジェール川とベヌエ川の合流地点に交易拠点の建設を目指したが、カヌーで遡上中に住民に襲撃され、被弾して命を落とした。
  • 【著書】
  • Journal of Richard Lander from Kano to the Sea coast, 1929.
  • Records of Captain Clapperton’s Last Expedition to Africa, 1830.
  • Journal of an Expedition to Explore the Course and Termination of the Niger, 1832.

René Caillié:  1827~9年 

  • 42生没年1799~1838:フランス人、貧しいパン職人の息子。両親を亡くしたのち、16歳でフランス海軍の艦船の船員としてフランス領西アフリカのサンルイ(現在のセネガル)に数か月滞在する。
  • 1824年、25歳の時、探検家になることを目指して再びサンルイに戻り、ひとりでトンブクトゥに向かうことを決意。サンルイの総督を説得し、8か月間の滞在費用をもらい、現在のモーリタニア南部の遊牧民と生活を共にしてアラビア語とイスラーム文化を習得。その後、シエラレオネで働いてお金を貯め、ムスリムに変装して、ギニアから内陸に向かい、1828年にトンブクトゥに到達。トンブクトゥは、すでに往時の面影はなく、小さな、貧しい町となっていた。その後、サハラ砂漠を超えてモロッコに向かい、フランスに帰国。
  • トンブクトゥから生還した初めてのヨーロッパ人。
  • 【著書】
  • Travels through Central Africa to Timbuctoo; and across the Great Desert、to Morocco, performed in the years 1824~1828(2vols), London, colburn & Bentlry, 1830.

David Livingston:   1840~56年;1858-64年;1865-73年 

  • 43生没年1813~1873:スコットランドの貧しい家庭に生まれる。探検家、宣教師、医師
  • 1840年、宣教師としてケープタウンに赴任、妻子とともに宣教の拠点となる場所を探しながら、内陸を探検。カラハリ砂漠を北上しザンバジ川に到達するも子供のひとりが熱病で倒れたため、妻子をイギリスに送り返す。その後も宣教の拠点を探しに内陸を探査しつつ、奴隷貿易の廃絶のため、その交易ルートを探査、1854年、コンゴ川を通過し、南大西洋沿いのルアンダに到着。帰路、大瀑布を目にし、当時にイギリス女王の名にちなみヴィクトリア滝と名付けた。1856年、インド洋沿いのモザンビークの町に到達。2年6か月かけてヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸横断に成功。
  • 1858年~64年、ザンベジ川河口からマラウィ湖を経て、ルブマ川周辺を探査、UMCAのために布教の拠点を探す。その間に妻をマラリアで失う。64年に一旦帰国。
  • 1865~73年、王立地理協会の依頼で白ナイルの水源探査を行う。ポーター36人とともにザンジバルから内陸に入るも、過酷な旅の中でポーターの脱落者が相次ぎ、最終的には数名しか残らなかった。タンガニーカ湖に到達するも体調を崩し、湖畔のウジジで静養をかねて布教活動を行う。この間に死亡説が流れ、『ニューヨーク・ヘラルド』の特派員ヘンリー・スタンリーに捜査を依頼。1871年11月、ウジジ近辺でリヴィングストンと遭遇し、帰国を勧めるも、リヴィングストンはナイルの水源を突き止めるため更なる探査に挑んだが、73年5月、バングウェル湖南側の村チタンボでマラリアの複合症により死亡。遺骸はザンジバルを経由してイギリスに運ばれた。現在ウェストミンスター寺院に葬られている。
  • 【著書】
  • David Livingstone nad Horace Waller(ed.), The Last Journals of David Livingstone in Central Africa from 1865 to his death, 2 volumes, John Murra, London, 1874
  • Missionary Travels and Reserches in South Africa, John Murray, London ,1912.

*ちなみに、リヴィングストン以前にザンベジ川上流のテテからキルワまでを踏査し、記録に残したのは、ポルトガル人探検家ガバル・ボカロだけである。

John Thomas Baines: 1842~59年; 1870~75年

  • 44生没年1820~1875 : イギリス人、画家、探検家
  • 1842年、ケープタウン着。キャビネット工房や画家として働きながら、1848~50年に内陸部を3度にわたり探査。
  • 1855~57年、王立地理学協会のスポンサーで、オーストラリア北部を探査。
  • 1858年には、リヴィングストンのザンベジ探検隊に参加、多くの絵を描くも、リヴィングストンの弟によって、砂糖を盗んだとの嫌疑をかけられ、絵をテテに残したまま、1859年、本国に送り返された。リヴィングストンの著書の中には、彼の絵が使われているが、Bainesの名前は書かれていない。
  • 1859年には、マショナランド(現在のジンバブウェ)への遠征を行い、金鉱探査を行う。
  • 1861~62年、James Chapmanとともに南西アフリカへの遠征を行う。
  • 1870年にはマタベレ首長ローベングラから、河川の砂金探査の許可を入手。
  • 1875年、南アのダーバンで死亡。
  • 【著書】
  • Explorations in South-West Africa: being an account of a journey in the years 1861 and 1862 from Walvisch Bay, on the Western Coast to Lake Ngami and the Victoria Falls, London, Longman, 1864.
  • The gold regions of south eastern Africa, London, 1877.

Heinrich Barth:   1849~55

  • 45生没年1821~1865:貿易の仕事で成功したハンブルクの家族に生まれた探検家、地理学、古典学、歴史を大学で勉強。在学中から各地を旅行)
  • アラビア語を習得してアフリカに赴き、現地でアフリカの諸言語を学び、その文化を詳細に記録。各民族のオーラルヒストリーの重要性を理解した最初の人でもある。5年間の探検中、多くのアフリカ人支配者や知識人との間に信頼関係を築いた。その記録は5巻本にまとめられ、英語とドイツ語で出版されている。ハウサ諸国、バルギミ王国、チャド湖、トンブクトゥ、などを訪問。
  • 【著書】
  • Travels and Discoveries in North and Central Africa: being a Journal of an Expedetion undertaken under the Auspices of H.B.M.’s Government, in the Years 1849~1855, 5 volumes, London, Longman, 1857-1858.

Charles John Andersson :    1850~55年;1855~67

  • 46生没年1827~1867:スウェーデンの探検家・イギリス人の猟師とスウェーデン人のサーヴァントとの間に生まれた私生児。大学卒。自然誌家。多作で有名
  • 1850年に喜望峰からウォルヴィス湾を経由してナミビアに入る。
  • 1853年にンガミ湖を探査。
  • 1859年にオカヴァンゴ川に到達。その後結婚してナミビア中部のOtjimbingweに定住。
  • 1867年、アンゴラのポルトガル人の居住地まで行きつけずに戻る途中、死亡。妻子はその後もケープ植民地に定住した。
  • 【著書】
  • Lake Ngami, or Explorations and Discoveries in the Wilds of Southern Africa, New York, 1856.
  • The Okavango River, a Narrative of Travel, Exploration and Adventure, London, 1861.
  • Notes of Travel in south-Western Africa, New York, 1875.

William Balfour Baikie:   1854~5年、1857~64

  • 47生没年1824~1864:スコットランド生まれ、エジンバラで医学を学び海軍の軍人になる。探検家、自然誌家、言語学者
  • 1854年、政府が支援する探検隊の医師兼自然誌家としてニジェールに遠征。司令官の死去に伴い、遠征隊の指揮をとる。118日の船旅の末、ニジェール川河口の到達。ひとりの死者も出さなかった。
  • 1856年に旅行の記録を出版すると翌年再び領事の肩書きを携えてアフリカに旅立つ。2年にわたりニジェール川を探査。1859年には同伴したキューガーデンの植物学者Charles Barterを病気で失う。最終的にヌペのエミールと条約を締結し、領事館の建設にとりかかる。数年後、開墾地は2000人の商人が訪れる町へと発展した。その間、50以上のアフリカの言語を収集し、聖書の一部をハウサ語とアラビア語に翻訳した。一時的な休暇のために帰国の途中、シエラレオネで没する。
  • 【著書】
  • Observations on the Housa and Fuifuide(i.e. Fula)Languages , 1861.
  • Narrative of an Exploring Voyage up the Rivers Kwora and Binue in 1854, John Murrya,1856.

Sir Richard Francis Burton :   1854~5年;1857~9年;1861~65年;1886年

  • 48生没年1821~1890:イギリスの探検家、人類学者、作家、言語学者、翻訳家、軍人、外交官。気管支ぜんそくだった父親の転地により、フランスやイタリアで育つ。オックスフォード大学に入学するも素行が悪く、2年で退学処分にされる。1842年、父親の勧めでインド駐屯軍の将校になりボンベイに赴任。1850年に帰国。
  • 王立地理学会から援助を受け、1853年に中東へ、1854年には白人として初めてエチオピアのハラールに入る。その後、クリミア戦争に従軍、オスマン・トルコの不正規軍の隊長を務める。
  • 1857年、東アフリカのナイル川の源流を訪ねて、友人のジョン・ハニング・スピークとともに出発し、翌年、タンガニーカ湖に到達。バートンはこれがナイルの源流だと主張するも、スピークは納得せずにヴィクトリア湖に達し、これがナイルの源流だと主張。帰国途中、アデンで病を得たバートンを残し、イギリスに帰国したスピークは、約束に反して単独で成果を報告したため、2人の関係は悪化。
  • 1861年、スペイン領西アフリカの領事として赴任、ダホメーへ足を延ばす。
  • 1865年に帰国し、スピークと話し合いをしようとしていた前年、スピークが銃の暴発により死亡(自殺説も)。
  • 1886年、西アフリカを再訪。
  • 【著書】
  • The Book of the Thousand Nights and a Night(『千夜一夜物語』) 1885 (英訳)
  • The Kama sutra of Vatsyayana(『ヴァーツヤーヤナ・カーマ・スートラ』)1883(英訳)
  • The Perfumed Garden of the Shaykh Nefzawi(『匂える園』)1886(英訳)
  • Zanzibar, City Island and coast, 2vols.
  • First footsteps in East Africa

John Hanning Speke: 1856~59年;1860~63年

  • 49生没年1827~1864:インド軍将校
  • 一回目はBurtonと、2回目はGrantとアフリカに遠征。彼のアフリカ遠征は主としてナイルの水源の探査に費やされ、初めてヴィクトリア湖に到達したヨーロッパ人として知られている。
  • 【著書】
  • The Discovery of the source of the Nile

James Augustus Grant:1860~63年;1868

  • 50生没年1827~1892:スコットランドの探検家。父親は司祭。学業を終え、1846年にインド軍に入隊、シク戦争で活躍。1857年の大反乱で負傷
  • 1858年に帰国すると翌年、John Hanning Spekeのナイル川の水源探査に同行。1860年にザンジバルを出発、63年帰国。Spekeは主として植物の採集を行う。
  • 1868年にエチオピアに遠征。
  • 【著書】
  • A Walk across Africa, London, 1864.

Samuel Baker:  1861~64

  • 51生没年1821~1893:イギリスの裕福な商人の家に生まれる。探検家、自然誌家、狩猟家、エンジニア、作家、植物学者。オスマン帝国領ではPasha, Major-Generalの称号を持つ。
  • 1861年、中央アフリカへ遠征。目的はナイル川源流の探査、および、東アフリカを探査中のスピークとグラントにヴィクトリア湖のどこかで遭うこと。1年間、スーダンとエチオピア国境で過ごし、アラビア語を修得したのち、1862年にしろナイルの源流をめざす。2か月後、ゴンドコロでナイルの水源を発見したばかりのグラントとスピークに遭遇。先を越された失意のベーカーに、2人は、未踏のアルバート湖の探査を勧める。こうしてベーカーは、1864年、もうひとつのナイルの水源であるアルバート湖に初めて到達したヨーロッパ人となった。
  • 1869年、オスマン帝国領エジプトのkhedive Ismailの要請により、奴隷貿易を廃止させ、通商に道を開くため、ナイル上流の赤道地域への軍事遠征を指揮。khediveは彼を赤道地域の総督に任命。4年の任期満了後、チャールズ・ジョージ・ゴードンが後任を務める。
  • 【著書】
  • The Albert N’yanza, Great Basin of the Nile and Explorations of the Nile Sources、1866.
  • The Nile Tributaries of Abyssinia; And the Sword of Hamran Arabs,  1867.
  • Cast up by the Sea, 1868.
  • Ismailiaーa Narrative of the expedition to Central Africa for the Suppression of Slave Trade, Organised by Ismail, Khadive of Egypt,  1874.
  • In the Heart of Africa, 1886

Friedrich Gerhard Rohlfs :1861年;1865~67年;1868~69年;1878~79年;1880年 ; 1885

  • 52生没年1831~1896:ドイツ人、探検家、地理学者。医師の父親の希望に反して、軍人の道を選択。その後、医師となる。
  • 1861年モロッコへ、アトラス山脈を踏破し、初めての正確な地図と科学的な調査報告を残す。
  • 1865~7年には、ヨーロッパ人として初めてサハラを縦断してナイジェリのラゴスまでを踏破。
  • 1867年末にはプロイセン王の命令により、イギリスのアビシニア(エチオピア)懲罰遠征隊に参加。
  • 1868年、トリポリに戻り、翌年にはトリポリからアレキサンドリアまでを踏破し、ドイツに帰国。
  • 1878年、ドイツ・アフリカ協会の要請により、ワダイ王国やサヌーシー教団の中心地のひとつであるクフラを訪問したが、アラブ人に襲撃され1879年に撤退。
  • 1880年に再びアビシニアへ。しかし、ドイツ皇帝のアビシニア皇帝への手紙が届けられると、ドイツに引き上げた。
  • その後、1885年、東アフリカを巡る英独分割競争の中で、ザンジバル駐留ドイツ領事に任命されたが、イギリス領事のJohn Kirkに手玉にとられ、成すすべなく本国に召還され、再びアフリカの地を踏むことはなかった。
  • 【著書】
  • Reise durch Marokko, Ubersteigung des grossen Atlas, Exploration der Oasen von Tafilet, Tuat und Tidikelt und Riese durch dei grosse Wuste uber Rhadames nach Tripoli, Bremen, 1868.
  • Adventures in Morocco and journeys through the the oases of Draa and Tafilet, London 1874.
  • Land und Vold in Afrika: Berichte aus den Jahren 1865~1870, Bremen, 1870.

Karl Mauch :  1860~72

  • 53生没年1837~1875:ドイツ人探検家、地理学者
  • 1871年のグレートジンバブウェ遺跡の考古学的発見で有名。彼はのちに、高度な技術を駆使した遺跡が「未開」のアフリカ人の手によるものだとは考えなかったことで批判を受けることになる。
  • 【著書】
  • Karl Mauch’s Reisen im Inneren von Sud-Afrika, 1874.

Gustav Nachtigal: 1862~85

  • 54生没年1834~1885 : ドイツ人、ルテラン教会の司祭の息子。医者、軍医、探検家。
  • 軍医として仕事をしていた時に肺の病気にかかり、1862年にアルジェリアやチュニスに転任させられ、アラビア語を習得。その後、中央アフリカへの探検に数度参加。
  • 1869年、妻の要望もあり、ボルヌーを訪れる。ボルヌーからブルギミ王国へ、そしてワダイからコルドファンに至る。スーダンのハルトゥームには1874年に到着。
  • その後、チュニジア駐在のドイツ総督に任命される(1882~84)。
  • 彼の西アフリカへのCommissionerとしての派遣は、トーゴランドとカメルーンのドイツによる植民地化に道をひらくことになる。
  • 帰路の船中で没。彼の遺骸は、カメルーンの植民地政府の建物の前に葬られた。
  • 【著書】
  • Sahara und Sudan, 3 Bande, Berlin:Leipzig 1879~1889.
  • Tibesti. Die Entdeckung der Riesenkrater und dei Erstdurchquerung des Sudan, 1868~1873. Hrsg. v/ Heinrich Schiffers. Erdmann, Tubingen, Basel 1979.

Frederick Counteney Selous(フレデリック・セルー):  1872~92年;1893~1917

  • 生没年1851~1917:イギリスの探検家、貴族階層の出身。将校、狩猟家、テオロール・ルーズヴェルト、セシル・ローズ、フレデリック・ラッセル・バーナムの友人。Edmund Selousの兄
  • 1872年、19歳で南アフリカに渡り、喜望峰からマタベレランドを踏破、首長ローベングラから狩猟の許可をもらう。以後1890年まで現在のジンバブウェの領域内での狩猟に明け暮れる。同時に住民と親しく交流し、親交を深めた。
  • 1890年、セシル・ローズの要請でBritish South Africa Companyに就職、マショナランドの探査を行い、会社の支配領域の拡大に貢献し、1892年にイギリスに帰国。
  • 1893年にアフリカに戻ったSelousは、第一次マタベレ戦争に参加。一旦帰国し、結婚後1896年に妻とともにマタベレランドに戻り、第二次マタベレ戦争で大活躍する。
  • 第一次大戦では、64歳で、東アフリカ戦線においてドイツと戦う。1917年、戦闘中に頭を銃で射抜かれて即死。
  • 【著書】
  • A Hunter’s Wanderings in Africa: Being a Narrative of Nine Years Spent Amongst the Game of the Far Interior of South Africa, London, 1881.
  • Travel and Adventure in South-East Africa: Being the Narrative of the Last Eleven Years Spent by the Author on the Zambesi and its Tributaries; With an Account of the Colonisation of Mashunaland and the Progress of the Gold Industry in that County, 1893.
  • Sunshine & Storm in Rhodesia: Being a Narrative of Events in Matabeleland both Before and During the Recent Native Insurrection up to the Date of the Disbandment of the Bulawayo Field Force, 1896.
  • 他多数

Georg August Schweinfurth:1863~66年;1869~70;1873~4;1876~88年;1891年;1892年;1894

  • 55生没年1836~1925:ロシア帝国の一部だった現在のラトヴィアで生まれる。ドイツで教育を受ける。植物学者、民族誌家、旅行家
  • Freiherr von BarnimとDr. Hartmannの要請で、スーダンからの植物標本の分類を依頼されたのを機に、アフリカへの関心が芽生え、1863年に紅海とナイル川からハルトゥームを旅行し、1866年に帰国。
  • その成果を認められ、1868年、Humboldt-Stiftungにより、東アフリカ内陸部への調査を依頼される。1869年にハルトゥームから南下し、Uele湖に到達(1870)。その地理学的調査には、中部アフリカの植生とピグミーとして知られることになるアカなどの住民に関する情報が含まれている。
  • 1873~4年にはRohlfsのリビア砂漠遠征隊に参加。その後、カイロでKhedive Ismailに依頼されて地理学協会を設立。アフリカ研究に没頭する。
  • 1876~88年の間、アラビア砂漠やファイユームを探査。1889年にベルリンに戻る。その後も1891年、1892年、1894年にイタリア植民地エリトリアで調査を行った。
  • 【著書】
  • The Heart of Africa. Three years’ travels and adventures in the unexplored regions of Central Africa from 1868 to 1871. Translated by Ellen E. Frewer, with an Introduction by Winwood Reade, 1874.

Henry Morton Stanley: 1871~2年;1874~7

  • 56生没年1841~1904:イギリスのWales出身、「私生児」として生まれ、生後すぐに母親から捨てられ、父親は数週間後に死亡。母方の祖母に育てられるが、5歳の時、祖父が死亡。イトコや姪の家に厄介になるも、結局、貧民層向けのworkhouseに預けられる。そこで年長者や寮監から虐待を受ける。18歳でアメリカに移住、独立戦争に遭遇し、Confederate Armyに参加、1862年のBattle of Shilohに参戦後、捕虜となる。救出され、Union Armyに参加するも18日後に病気で除隊。しばらく商船で働いたのち、1864年、U.S.Armyに入隊、記録係を勤める。これがのちに彼をジャーナリズムへの道を選択するきっかけとなる。
  • 1871年3月、192人のポーターと共に、ニューヨーク・ヘラルドの要請でリヴィングストンの所在を探しにザンジバル島から内陸に向かう。ポーターはほとんどが途中で死亡したり、逃亡。同年11月、タンガニーカ湖畔のウジジでリヴィングストンに遭遇。「Doctor Livingstone, I presume」(もしかして、リヴィングストン博士ではありませんか?)との有名な出会いの際の言葉は、後にスタンリーの創作であったことが判明。スタンリーはリヴィングストンの探検に随行し、タンガニーカ湖がヴィクトリア湖とはつながっていないことを確認した。
  • 1874年、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンとイギリスのデイリー・テレグラフの支援で、中部アフリカの湖とコンゴ川流域の探査を行う。
  • 1876年には、International African Associationという名の研究と慈善を装った私的な会社を組織したベルギー王レオポルド2世の要請により、中央アフリカを踏査。
  • 1886年、スーダンの赤道州の総督Emin Pasha の救出作戦を主導。1888年の救出に成功、1890年に帰還。
  • 1904年にロンドンで没し、Surryの墓地に葬られた。
  • 【著書】
  • How I Found Livingstone; travels adventures, and discoveres in Central Africa, Dover Publications, 2002.
  • Through Dark Continent, Courier Corporation ,1988.

Verney Lovett Cameron :  1873~5年;1882

  • 生没年1844~1894:イギリスの旅行家
  • 1857年にRoyal Navy入隊
  • 1868年のアビシニア。キャンペーンに参加し、東アフリカの奴隷貿易禁止運動に長年従事する。
  • その結果、1873年に王立地理学協会から指名されて、リヴィングストンの支援に携わる。ザンジバルから内陸に出発してまもなく、リヴィングストンの遺骸を運ぶChuma とSusiに出会い、同伴していた医者に沿岸部までのサポートを委託、自身は旅を続け、1874年にタンガニーカ湖のウジジに到達、リヴィングストンが書き残した書類を見つけ、イギリスへ送る手はずを整える。タンガニーカ湖周辺を踏査した後、大西洋岸にたどり着く。赤道を横断した最初のヨーロッパ人となる。
  • イギリスに帰国した後は、1878~9年にユーフラテス川に、
  • 1882年にはリチャード・バートンの西アフリカ遠征に随行、バートンとの共著を残している。
  • 1894年、イギリスで乗馬中、落馬して死去。
  • 【著書】
  • Across Africa, 2vols, 1877
  • To the gold Coast for Gold: A personal Narraive. 8vols, 1883 (Sir Richard Burtonとの共著)、

Pierre Savorgnan de Brazza:1872~9年;1879~82

  • 57生没年1852~1905:イタリアの法王領で貴族の家に生まれ、のちにフランス国籍を取得。探検家、フリーメイソン
  • アフリカとの最初の出会いは、1872年に奴隷貿易船の取り締まりのためにガボン沖を航海したことだった。その後、何回かの航海を行う。
  • 1874年にはオグエ川の水源調査を申請し、半分は自分のポケットマネーを拠出して1875―8年、少人数かつ非武装で調査を行う。
  • 1879-82年には、バテケ人の王マココと接触し、ライバルを蹴落とす目的でフランスの保護下に入る条約に署名。マココはのちにブラザビルの名で知られるようになる町をもフランス圏に組み込むよう取り計らった。ド・ブラザはこの旅の途上でレオポルド王のための探査を行っていたスタンリーと遭遇したが、マココを通してフランス領を獲得したことを隠していた。スタンリーがこの地域の領土獲得競争に敗れていたことを知るのは、何か月もあとのことになる。
  • その後、ド・ブラザは1897年に解雇されるまでフランス領コンゴの総督を勤める。コンゴ共和国の首都ブラザビルは彼の名前にちなんで名づけられている。

Wilhelm Junker:1873年; 1874年; 1875-1886

  • 58生没年1840~1892:ロシア人探検家、モスクワ生まれ、医者
  • 西アフリカ、チュニジア、エジプトを短期に訪問した後、1875年からはスーダンのハルトゥームとラドを拠点に探査旅行。彼の関心はアフリカの人びと、食睦、動物にあり、その成果は貴重な報告書となっている。
  • 【著書】
  • Travels in Africa: During the years 1875~1878, vol.1,1890
  • Travels in Africa: During the years 1879~1883, vol.2, 1891
  • Travels in Africa: During the years 1882~1886, vol.3,1892     

Von Wissmann:   1880年;1883年;1888年~;1895~96

  • 59生没年1853~1905:ドイツ人探検家、行政官
  • 1880年に軍隊に入隊し、Paul Pogge遠征隊に参加してコンゴ川を探査。途中でPoggeと別れ、現在のタンザニアを踏査してインド洋にでる。
  • 1883年、さらにコンゴ地域を踏査、
  • 1888年にGerman East Africa Companyの支配領域の確定の試みがアフリカ人の抵抗でとん挫した時、宰相ビスマルクに支援を要請。
  • 1889年、ドイツ領東アフリカのReichskommissarに任命され、Abushiri ibn Salim al-Harthi率いる反乱を鎮圧。Abushiri を捕えて処刑、その他の反乱メンバーには恩赦をあたえた。
  • 1895年には同地域の総督に就任するも健康を害して1896年に引退。
  • 1905年、狩猟中に事故死。      

Joseph Thomson:  1878年;1883年;1885

  • 60生没年1858~1895:スコットランドの石工の家庭に生まれ、長じてエジンバラ大学で地理学や植物学を勉強した探検家。アフリカ争奪戦で重要な役割を演じる。トムソン・ガゼルは彼の名前に因んでいる。ポーターやアフリカ人との諍いを極力避け、アフリカ人をひとりも殺さず、同伴した仲間もひとりも失わなかった。
  • 1878年、王立地理学協会の探検隊に参加してダルエスサラームからニヤサ湖とタンガニーカ湖を踏査。
  • 1883年、再び王立地理学協会の探検隊に加わり東アフリカへ。ヴィクトリア湖へのルートの探査で、ドイツの探検隊(by G.A.Fisher)と先陣争いを繰り広げ勝利。この探査についての報告書Through Maasailandは、ベストセラーとなった。
  • 1885年、National African Companyに雇われ、ニジェール川を探査するも成果なく帰国。
  • 1890年、セシル・ローズに雇われ、彼のBritish South African Companyのためにザンベジ川北部を探査、現地の首長たちとの条約をとりつけ、のちのローデシアの植民地化への道を開いた。
  • 「トムソン・ガゼル」は彼の業績を称えて命名された。
  • 【著書】
  • Through Masai Land, 1885
  • To the Central African Lakes and Back, 2 vols 1881.
  • Through Masai LandーA Journey of Exploration Among the Snowclad Volcanic Mountains and Strange Tribes of Eastern Equatorial Africa , 2005(New and revised edition, 1887)

George Grenfell:  1877年;1885年~

  • 61生没年1849~1906:イギリス人、技術者、宣教師、探検家
  • 1877年、結婚したばかりの妻の死後一年を経ずに、Baptist Mission Societyの一員としてミッションの拠点を探しにコンゴ川流域に踏査旅行にでるが、途中でSociety に辞任を申し出る。家事手伝いをしていたジャマイカ人女性Rose Edgerleyの妊娠が発覚したからである。彼はRose と結婚し、娘を授かり、商社で働き始める。
  • やがて、彼は、Baptistの宣教師Thomas Comberに乞われて、コンゴ川に補給所を造り、物資補給のための蒸気船を航行させることに成功し、コンゴ川流域の宣教所にふさわしい戦略的な場所を踏査した。
  • コンゴ川流域の荒れ果てたアフリカ人社会の変化を望んでいた彼は、ベルギーによるアフリカ人を奴隷のように酷使するゴム栽培の現実を目前に、プロテスタントの宣教の仕事は、ベルギーのカトリック教会の抵抗により妨害されたとの不満を生涯抱き続けた。
  • 【著書】
  • “The upper Congo”, Geographical Journal Bd.20, 1902

Mary Kingsley:   1893年;1894~5年;第二次ボーア戦争中~

  • 62生没年1862~1900:イギリスの民族学者、ノンフィクション作家、探検家。貴族の家系。医者であり旅行家でもあった父の影響を受けて育つ。特別な教育は受けずに、父親の蔵書から多くを学ぶ。長じて病身の両親の世話に明け暮れる。
  • 1892年、相次いで両親が亡くなり、自由と8,600ポンドの遺産を手にし、ただちにアフリカに赴くことになる。Kaiserworth Medical Instituteで看護婦の資格を取得。
  • カナリア諸島を訪問した後、1893年、西アフリカに旅立つ。8月にシエラレオネに到着。その後、アンゴラのルアンダへ。現地の住民とともに暮らし、同じ年の12月に帰国。
  • 1894年、出版社と動物学者のサポートもあって、アフリカに戻る。同じく独身の女性の宣教師Mary Slessor(1848~1915)と出会い、アフリカ人の慣習を観察。さらにオグエ川をさかのぼり、魚の新種を発見、カメルーン山にも人跡未踏のルートからの登攀に成功した。1895年帰国。
  • イギリス各地で講演、一夫多妻などのアフリカの慣習を擁護し、アフリカの宣教師の活動を批判したことで、イギリス国教会を動揺させた。
  • 第二次ボーア戦争中ケープタウンに渡り、看護婦として病院でのボランティア活動に従事する中でチフスに感染して死亡。希望により海葬される。
  • イギリスの女性参政権運動には批判的だった。(→世界女性史年表
  • 【著書】
  • Travels in West Africa. Congo Francais, Corisco and Cameroons, Londn, MacMillan 1897.
  • West African Studies, London, MacMillan, 1901
  • 井野瀬久美恵『植民地経験ゆくえ―アリス・グリーンのサロンと世紀転換期の大英帝国』人文書院、2004
  • 井野瀬久美恵『女たちの大英帝国』講談社現代新書,1998

Fernand Foureau:1888~1896

  • 63生没年1850~1914:フランス人探検家、1908~1913年まではマルティニクの総督
  • 1888年から1896年の間に9回のアルジェリア南部への遠征を行い、サハラ縦断鉄道の建設可能性を調査。
  • 1898年から1900年にかけては、Amedee-Francois Lamyとともにチャドにむけての踏査旅行を行い、チャドを征服し、すべての他のフランス支配領域に併合するというフランスの戦略の一部を担った。サハラルートに関する地図を作成し、数多くの地理学的、気象学的調査をおこなった。
  • 【著書】
  • Mission chez les Touareg: mes deux itineraires sahariens d’octobre 1894 a mai 1895, Paris, 1895.
  • Mon neuvieme voyage au Sahara et au pays touareg, mairs-juin 1897, Paris, 1898.
  • D’Alger au Congo par le Tchad, Paris, 1902.
  • Documents scientifiques de la mission saharienne: mission Foureau-Lamy. tom 1: Observations astronomiques, Meteorologie, Orographe, Hydrographie, Topographie Botanique, Paris, 1905.
  • その他

 

Henri Duveyrier : 1859~1862

  • 64生没年1840~1892:フランスの探検家
  • 1859年から3年をかけて、サハラ砂漠のトゥアレグに関する民族学的調査を行うとともに、モロッコからアトラス山脈を越えてチュニジアに至る道を踏査し、フランスの植民地拡大に貢献した。
  • 【著書】
  • L’exploration du Sahara. Les Touaregus du Nord, Paris, 1864
  • La confrerie musulmane de Sidi Mohammed ben Ali Es-Senousi et son domaine geographique, en l’annee 1300 de l’hegireー1883 de notre ere, Paris, 1884.

 

【参考文献】

石川博樹・小松かおり・藤本武編2016  『食と農のアフリカ史―現代の基層に迫る』昭和堂

岡倉登志  1990  『「野蛮」の発見―西欧近代のみたアフリカ』講談社現代新書

小田英郎他監修2010  『新版アフリカを知る事典』平凡社

川田順三編 2009  『アフリカ史』山川出版社

竹沢尚一郎 2014  『西アフリカの王国を掘る―文化人類学から考古学へ』臨川書店

富永智津子 2007(2001)『ザンジバルの笛―東アフリカ・スワヒリ世界の歴史と文化』未來社

富永智津子 2015(2008)『スワヒリ都市の盛衰』山川出版社(世界史リブレット103)

バーガー、アイリス/E.フランシス・ホワイト(富永智津子訳)2004  『アフリカ史再考―女性・ジェンダーの視点ンから』未來社

宮本正興・松田素二1997  『新書アフリカ史』講談社現代新書

山川「世界現代史」13~16,1978~1982『アフリカ現代史』Ⅰ~Ⅳ

歴史学研究会編2001   『世界史年表』岩波書店2001

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