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【年表6-④】世界女性史年表(人名)20世紀

【年表6-④】世界女性史年表(人名)20世紀

1900~1978年(ナイジェリア)
Funmilayo Ransome-Kuti
:アベオクタ出身のヨルバ人。反植民地主義、女性の権利擁護の活動家。20世紀の傑出した女性のひとり。  

1900~1989年(ペルー)
Magda Portal
:詩人、フェミニスト、作家、政治活動家。政党Alianza Popular Revolucionaria Americana(APRA)創設者のひとり

1900?~1960年(ジンバブウェ)
Mai Chaza
: ショナ人の女性治癒師の伝統を受け継ぎ、ジェンダーと権力の領域で、預言者として絶大な力を発揮した。独立教会Guta reJehova(City of God)のリーダー。

1900~1973年(中国)
Yang Zhihua :
初期の共産主義革命家、卓越した共産党の労働組織者、All-China Federation of Trade UnionとAll-China Women’s Federation の指導者。

1900年~1978年(ナイジェリア)
Funmilayo Ransome-Kuti:反植民地闘争の指導者、ナショナリスト、女性と貧者の権利擁護のために国際的に活動。ヨルバ人。
アベオクタ南西部に生まれ、学校教育を受けた最初の世代。のちにイングランドにも留学(1919~1922)。帰国後、女性のために識字教育をはじめ、1930年代には保育園を設立。やがて、Abeokuta Women’s Unionを創設して植民地政府の恣意的な権力行使に抵抗し、マーケットで働く女性への課税やマーケットへの統制に反対して闘った。何万もの女性デモを組織して、税金の不払い、ストライキを指導し、王を退位させ、Sole Native Authority(植民地行政への発言権を認めたられた委員会)への女性の代表権を獲得した。
1947年には、ナイジェリアの初期のナショナリスト政党のひとつであるNational Council of Nigeria and Cameroonsのメンバーとしてロンドンへの代表団に随伴、その際、さまざまな女性の組織と接触したり、工場を訪問したり、ラジオ出演したりして、ナイジェリア人女性の権利と植民地からの解放を訴えた。イギリス新聞Daily Worker(1947年8月10日)に寄稿した論説では、ナイジェリア女性を代表するのは、自分のような教育を受けた女性ではなく、子供を背負って朝から晩まで畑仕事をする女性たちであることを力説した。
Ransome-Kutiは、20世紀におけるアフリカのもっとも有名な女性活動家のひとりである。その活動は、1930年代から60年代にかけて頂点に達し、しかもナイジェリアにとどまらず、国際的な広がりと展望を持っていた。のちには、南アのアパルトヘイト反対運動の支援も行っている。彼女の政治的スタンスは、必ずしも共産主義に偏っていたわけではなかったが、共産圏を訪問したことで1957年にパスポートを没収され、1958年には、サンフランシスコでの女性会議に招待されたにもかかわらず、アメリカ当局によってビザの発給を拒否された。
彼女自身は、自分は政治家ではなく、人権活動家であると自負している。女性の権利を主張し擁護しつつ、男女を問わず、貧困層の人びとの生活向上に心血を注いだからである。

1902年~1986年(スウェーデン)
Alya Myrdal :社会改革者、社会学者、作家、政治家。反核運動によりノーベル平和賞受賞(1982)。夫のGunnar Myrdarとともにスウェーデン型福祉国家の創設に尽力。

1902年~1991年(朝鮮・北朝鮮)
許貞淑
:日本、上海で学び、結婚後は東亜日報社の記者として活躍しながら朝鮮女性の啓蒙に努めた。1927年に米国留学から帰国。婦人解放運動に関わる延長上で反日学生デモを指導したために逮捕・拘禁される。獄中で出産、体調を崩して保釈されるが、保釈後も運動を続行し、再び逮捕される。釈放後、中国に渡り、中国革命における女性運動から大きな影響を受ける。1945年、民族解放後の朝鮮に戻ったのちは朝鮮民主主義人民共和国の建国に参与。1977年には、日本共産党の招きで来日もしている。

1903年~1979年(南ア)
Josie Mpama:Josie Palmerという名でも知られる黒人の活動家。1926年に南ア共産党に入党。当時住んでいたジョハネスバークから117キロほど離れたPotchefstroomの黒人居住地域には、農場の仕事が徐々に減ったことにより労働者が流入し、1920年代には人口過密になっていた。そうした状況下で、町の評議会が下宿税を課し始めたのである。しかも両親と暮らしている14歳以上の子供たちにまで、それを要求したのである。これに抵抗したのがMpama率いる黒人女性たちだった。
白人が、黒人の政治的デモを制圧しようとして、ひとりの死者がでたあと、Mpamaは怒った女性たちを組織し、すべての労働者に仕事をボイコットするよう呼びかけ、評議会に請願書を提出した。結局、女性たちは州政府と南ア政府、およびマスメディアの同情を勝ち取ることに成功した。しかし、評議会は違反者を強制的に家から退去させる反撃にでた。Mpamaは退去させたれた場所から、家具をもとの家に運びもどすという運動を組織し、一年にわたる抵抗を続行した。さらに住む場所を失った人びとに食料やシェルターを提供したりしたが、結局、1930年に、評議会の圧力に屈して、仲間とともに町を離れた。この年、彼女は南ア共産党の中央委員会の数少ない女性メンバーのひとりに選出され、1935年には革命理論を学ぶためにモスクワに留学。1938年には南ア共産党の支部組織を立ち上げる責任者に指名され、専従の地位を確保した。1940年代を通して、パス法反対などで活動し、その後は、全国レヴェルの活動から引退し、地域レヴェルでの活動を続けた。

1904年頃~1975年(エジプト)
Umm Kulthum:歌手。エジプトの近代文化の発展に寄与したと言う意味でも、おそらく20世紀のアラブ世界でもっとも有名な歌手。ナイルデルタの小さな村のイマームの娘として生まれ、幼い時からコーランの暗唱と宗教歌に馴染んだ。その才能ゆえに、父親は彼女を男装させて、さまざまな催しに連れて行って歌わせた。当時、女子が公共の場で歌うことは家の名誉を傷つける行為だったからである。      1923年にカイロに移住。20年代末には、歌手としての不動の地位を確立。レコードの発売、ミュージカル映画への出演、コンサートの開催が相次ぎ、出演料は高騰し、財政的にも潤った。作詞作曲を、当時の最高級の人びとに依頼、そのスタイルや歌詞に新風を吹き込み、新しいエジプト音楽を生み出した。しかし、多くのエジプト人が西欧の楽器や技法にあこがれる中、彼女の音楽は、アラブの音楽の伝統に基づいた真にエジプト的な文化の一環に位置付けられるものだった。

1904年~1920年(朝鮮)
柳寛順:3.1独立運動の闘士。

1905年~2004年(カナダ)
Ellen Louka Fairclough:政治家。女性で初めて連邦内閣の大臣に就任(1950~63)。

1905年頃~没年不明(ケニア)
Wambui Wangarama:キクユ人政治活動家。若くして、他の大勢の女性たちとともに、ヨーロッパン人入植者のコーヒー農園で、性的暴力の危険にさらされながらの過酷な低賃金労働を強いられた。それに対して、キクユ人女性たちはストライキなどの手段によって抵抗を試みた。こうした状況の下で、Wambuiは抵抗運動にのめりこんでゆく。同級生には後の初代大統領Jomo Kenyattaがおり、そして夫はKikuyu Central Association(KCA)の指導者だった。
女性たちは、ナショナリストの思想に共鳴していたが、活動は男性たちへの調理人という地位にとどまっていた。1930年、女性たちはKCAを離脱して、ケニア初の女性の政治組織Mumbi Central Association(MCA)を創設、Wambuiはその会長に就任。3年後、KCAが女性にフルメンバーシップを与え、指導的地位に就くことを約束した時点で、MCAのメンバーはKCAに復帰した。女性が、ナショナリスト運動においてエージェンシーを見せつけた重要な出来事だった。
1952~60年の戒厳令下における解放運動(いわゆるマウマウ闘争)では、夫とともに逮捕され、その時の暴力で聴力の一部を失った。釈放後は地下組織Kiama Kia Muingiに所属し、再三にわたり逮捕拘禁され、1957年に釈放されている。1963年にケニアが独立を達成すると、Wambuiは与党の女性問題担当の責任者として80年代まで活動を続けた。

1907年~1964年(アメリカ)
Rachel Carson :海洋生物学者、作家、地球環境活動家。Silent Springの著者。

1907年~1954年(メキシコ)
Frida Kahlo :画家。非伝統的な自己、アイデンティティを絵画を通して追い求めた。インディヘニスモの代表的美術作家。

1908年~1975年(エジプト)
Durriya Shafiq:1940~50年代エジプトのフェミニスト。裕福な家庭に生まれ、13歳の時に母を失う。アレキサンドリアのフランスのミッションスクールで学び、のち、フランスのソルボンヌで哲学博士号を取得。パリ在住中にソルボンヌの同級生だったイトコのNur al-Din Ragaiと結婚。エジプトに戻ったShafiqは、“モダン・ウーマン”であることを理由に、国立大学のポストを拒否され、差別に直面する。それが、女性の権利のために立ち上がるきっかけとなった。
当初、著名なエジプトのフェミニスト・リーダーHuda Sharawiが率いるEgyptian Feminist Union(EFU)と共同歩調をとっていたが次第に距離を置くようになり、1945年にジャーナルBint al-Nileを発行しはじめ、1948年にはBint al-Nile Unionを組織し、女性の法的・政治的権利の獲得に焦点をあてて活動した。1951年にEFUと連携して起こしたエジプト議会への突撃行動では、女性の政治への完全なる参加を要求した。
エジプト史の混乱期には常に、Shafiqは中産階級の女性の政治的権利闘争を支えた。スエズ運河地帯におけるゲリラ闘争や、イギリスとエジプト王室に対するデモに身を投じ、1952年革命への地ならしに貢献した。ナセル新政権との短い蜜月時期が過ぎると、1957年以降は、ナセルに辞任を要求し、ハンガーストライキも行った。その後、自宅監禁下に置かれ、表舞台から姿を消した。1970年代に、再び表舞台に立つ機会が訪れたが、彼女はそれを拒否し、ひとりでつましい生活をしながら、執筆活動に専念した。1975年、バルコニーから身を投げて自死。

活動家としてのShafiqは、さまざまな点で論争の的となっている。アラブ世界にいながら、フランス語でスピーチしたり書いたりし、法律家の夫に守られ、派手な服装で身を飾り、アラブ社会主義が全盛の時代にリベラルな個人主義を標榜し、エジプトが東陣営を向いていた時期に共産主義と対立し、国際的な女性運動では保守的なアメリカ主導の組織と連携した。ナセルに辞任を迫ったのも、ナセルがスエズ運河危機で人気絶頂の時期と重なっている。エジプトにおける彼女の評価は、こうした選択のせいで、低いが、女性の政治的権利に関する貢献を再評価しようとする動きもある。

1909~1981年(インド)
Durgabai Deshmukh :社会改革者。Andhra Mahila Sabha (Andhra Women’s Conference)を創設し、女性のための教育と職業訓練に尽力。

1909年~1996年(インド)
Aruna Asaf Ali:独立運動の闘士。独立後、初代のデリー市長となる。

1910年~1944年(朝鮮)
朴次貞
抗日運動の闘士。別名林哲愛。1919年、帝国日本の侵略に悲憤し、父親が自殺。独立運動で中心的役割を果たしたオーストラリア系ミッションスクールの日新女学校(現在の東菜女子高校)に進学、抗日思想を内面化していった。卒業後は槿友会に身を寄せ、学生の抗日運動に関わり、何度も逮捕され、体調を崩す。次第に厳しくなる状況の中、南京に亡命していた長兄の勧めで北京に亡命。1930年のことだった。抗日組織の義烈団のリーダーと結婚後、保安法違反で逮捕される。1935年、南京で朝鮮民族革命党を結成、1938年には漢口で結成された朝鮮義勇隊の隊本部婦女服務団の団長として抗日戦を戦った。正確な死因は不明だが、1944年5月、34歳の若さで亡くなる。

1910年~1997年(アルバニア)
Mother Teresa :カトリック修道女。インドでの貧困者救済に尽力。世界中に影響を与える。1979年度ノーベル平和賞受賞。

1910年~1941年(ヴェトナム)
Nguyen Thi Minh Khai :1930年代のインドネシア共産党で最高位に就いた女性。モスクワでの第7回コミンテルン会議で演説した唯一の女性。その中で、植民地と西欧社会におけるジェンダー抑圧の問題を指摘した。

1911年~1985年(オーストラリア)
Dorothy Tangney :オーストラリア初の女性上院議員。

1911年~1932年(インド)
Pritilata Waddedar:反英闘争に殉じた女性のひとり。戦闘員として武器をとり暗殺まで行い、それまでの女性の周縁的な役割からの転換点を画した女性。イギリス人クラブを襲撃したのち、青酸カリ自殺。

1911年~1956年(アメリカ)
Babe Didrikson Zaharias :アスリート。ゴルフ、バスケットボール、陸上。1932年のオリンピックで3個の金メダルを取得。

1911年~1980年(南ア)
Lilian Ngoyi:南ア解放運動の傑出した女性リーダー。貧しい家庭に生まれ、人種差別を受ける両親の姿を見て育った。そうした状況に何の手立ても講じないキリスト教に疑問を持つ。結婚5年後、夫が交通事故で死亡し、3人の子供を抱えたシングルマザーとなる。1945年から1956年までジョハネスバーグの衣料工場で働く中で、Garment Workers Union に関わるも、その活動に不満を持ち、従兄弟のEzekiel Mphahleleの薦めで、ANC(African National Congress)のDefiance Campaignに参加し、白人のみに許されていたポストオフィスに入って逮捕拘禁される。
その間、Ngoyiは急速にANCの組織の中で頭角を現してゆく。1954年にはTransvaal ANC Women’s Leagueの会長、人種の壁を越えた女性の組織Federation of South African Women(FEDSAW)の副会長、1956年にはFEDSAWの会長となり、ANCの全国実行委員(National Executive)にも選出された。また、1955年にはスイスで開催されたWomen’s International Democratic Federation によって開催された「世界母親大会」(World Congress of Mothers)に招待され演説をしている。この機会に、彼女はドイツの強制収容所や、中国、ソヴィエトを訪問している。その際、パスポートを取得できなかった彼女の身元を保証したのがANCの指導者であった弁護士ネルソン・マンデラだった。
帰国すると、1956年8月9日、パス法反対運動、移動の自由、雇用機会の拡大を求める2万人デモをプレトリアで指導した。その後、政治活動を制限するさまざまな拘束を受けるようになり、国家反逆罪で他の155人とともに有罪となる。5年後に釈放されると、以後、自宅軟禁を強いられるようになった。1960年にANC Women’s Leagueが禁止になり、FEDSAWも指導層が抑圧され、まもなく機能停止に陥った。         自宅軟禁中は、裁縫の仕事で生活を支えていたが、ソウェトの若者たちを背後で精神的に支え続けた。1980年の彼女の死とその葬儀は、その後の新たな解放運動の再出発点となった。親しい友人であり、共に闘ったHelen Josephは、彼女の隣に埋葬されている。

生没年不明(ケニア)
Mekatilili Wa Menza:イギリス植民地時代のケニアにおける沿岸部の民族集団ギリアマの抵抗運動(1912年~14年)の指導者。1912年、イギリス当局が、長老の権威を無視して、当局が指名した若い村長や評議員に国税調査・徴税・労働力調達の権限を委託したことに対して、1913年8月までには、さまざまな形での抵抗運動を組織。その形態は、19世紀に、白人の到来によってギリアマ社会は打撃を受けるだろうとの預言をした預言者Mepohoの手法を踏襲していた。権威の喪失、家族メンバーの喪失、土地の喪失に不満の焦点を絞り、政府が任命した村長のボイコットを訴えた。同時に、奴隷制や婚姻を通じて母系集団ドゥルマに奪われた娘や息子への注意を喚起し、ギリアマが政府の要求を受け入れない場合にはサバキ川北方の土地(4分の一以上のギリアマが居住)を失うだろうと当局から脅かされていることを暴露した。もっとも重要な事は、年長のギリアマ男性の宣誓(oath)と子供の保護者である母親の宣誓という強力な2種類の宣誓を、かつてすべてのギリアマが暮らしていた先祖代々の埋葬地であるkayaと呼ばれる土地の精神性と結び付けたことだった。
ギリアマ人は宣誓をし、不満と非協力を軸に抵抗をするが、決して戦闘はしないことを表明した。ほとんどの住民が税金の支払いを止め、村長の集会には行かず、公道や公共の建物の建設労働を拒否した。イギリス当局はMekatililiと最長老のWanje wa Mwadorikolaを逮捕し、千キロ以上はなれた場所に投獄し、すでに行った宣誓を取消し、新たにkayaを閉鎖する宣誓を行うよう強要した。
この対立が本格的な「戦争」に発展したのは、第一次世界大戦の勃発により、ギリアマ人のポーターの需要が高まった1914年8月である。Kayaへの爆撃、政府の警官によるギリアマ女性へのレイプ、千人にのぼるギリアマ男性の徴兵と何万シリングもの罰金という損害を被って、ギリアマは敗北した。効果的な行政組織が失われた中、イギリス当局は1915年にkayaを再建し、Wanjeを評議会の長として据えるとともにMekatililiをそれまで存在しなかった女性評議会の長に据えた。しかし、ギリアマ人の抵抗は続き、当局はついに1918年には、サバキ川を越えた土地への帰還を認めた。その後、労働者になるギリアマはほとんどなく、息子や娘は故郷にとどまり、ギリアマ社会は崩壊を免れた。

1912年~1980年(フランス領スーダン/マリ)
Aoua Keita:政治活動家、産婆、フェミニスト。バマコの高貴な家系の出身。フランス領アフリカで教育を受け、批判精神と進歩的な価値観を身に着けた数少ない女性のひとり。1931年にEcole des Sages Femmesを卒業し、保健局に勤める。1935年のイタリア軍のエチオピア侵略によって政治に目覚め、1944年にアフリカ人の労働組合が合法化されると、その中心的な団体Symevotopharsaに加入し、ストライキに参加。その後、フランス植民地主義と対決していた急進的な政党Rassemblement Democratique African(USRDA)の支部の数少ない女性の活動家となる。2年間の国外追放後、Union of Salaried Women of BamakoをAissata Sow(Teachers’Unionの書記長)とともに設立。その代表として西アフリカや海外にも出かけた。1958年、女性として初めてUSRDAの中央委員会の委員に任命され、1960年には独立後のマリの国民議会に代表代理として参加。一夫多妻に強く反対し、1962年のMalian Marriage and Guardianship の起草に参加した唯一の女性。

1913年~1976年(アルジェリア)
Marie-Louise Taos Amrouche :Fadhma Amrouche(1882~1967)の娘。作家、シンガー。初めて小説を出版したアルジェリア人女性。

1913年~1996年(イギリス/ケニア)
Mary Leaky:人類考古学者。イギリスやフランスでの人類の起源についての考古学的研究の研鑽後、Louis Leakyに誘われて1935年にタンザニアのオルドヴァイ峡谷の発掘調査に参加。2年後、2人は結婚。1972年の夫の死後も発掘調査を続行。2人の発掘成果としては、1959年のオルドヴァイ峡谷での初期原人Zinjanthropus(Australopithecus boisei)の化石が有名である。夫の死後の成果としては、1978年のレイトリで発見した360万年前の人の足跡が挙げられる。

1913年~2004年(南ア)
Ray Alexander Simons:反アパルトヘイト運動の活動家。ラトヴィアの小さな村に生まれ、共産主義者の地下活動に加わったために、10代のはじめに国外に逃亡。1929年に南アに到着するや否や、共産党に入党し、指導的地位に就いた。その他、Food and Canning Workers’ Unionなどの労働組合でも指導者として活動。白人である彼女の活動は黒人との無条件の連帯を特徴としており、南アの解放運動が必ずしも反白人闘争ではなかったことを示している。
Rayは、女性の権利拡大にも指導的役割を果たした。その役割は、1954年のFederation of South African Womenの創設に結実する。彼女の自伝は、彼女の死後まもなく出版されている。

1914年~2006年(南ア)
Ellen Kuzwayo :政治家、女性の権利を主張。解放後の最初の全人種参加の国会に、80歳で議員として選出される。ANCメンバー。

1915年~2000年(パキスタン)
Begum Shaista S. Ikramullah :政治家、外交官、作家。ムスリム女性として初めてロンドン大学から博士号を取得。後に国連代表、モロッコ大使を務める。

1916年~2000年(スリランカ)
Sirimavo Bandaranaike :第4代セイロン首相ソロモン・バンダラナイケの妻。夫の暗殺後、世界初の女性首相に就任(セイロン首相1960~1965;スリランカ首相1972~1977;1994~2000)。

1917年~1984年(インド)
Indira Gandhi :政治家。インド首相を4期務める。

1917年~2009年(南ア)
Helen Suzman:政治家。リトアニア出身のユダヤ系移民の家庭に生まれる。母親を幼くして失くし、食肉領域でのビジネスに成功した父親のもとで育てられる。16歳で、ジョハネスバーグのWitwatersrand 大学に入学したが、3年次のテストに失敗して退学、医師のMoses Suzmanと結婚。ウィーンへの新婚旅行中に出会ったナチスの活動家を目前にして政治に目覚める。第二次世界大戦に南アが参戦したことは、彼女に決定的な決断を促した。子供を育てながら、大学に戻り、二番目の娘を出産後、War Supplies Boardで働き始める。一方、大学では歴史学科に所属し、政府の隔離政策への鋭い批判で名を上げる。1948年、彼女は、先住民政策に関する政府のFagan CommissionへのSouth African Institute of Race Relationsの意見書を準備した。その年にはUnited Party(UP)のメンバーとなり、1953年に教育レヴェルが高く、リベラルな住民の多い地区であるHoughtonから立候補して、議員に当選。新しいアパルトヘイト法の導入に対する反対の陣営を張った。1958年には再選されたが、UPは次第に右よりに舵を切り始めたため、UPを脱退した仲間とともに、1959年、新たにProgressive Party(PP)を創設。大多数の黒人を排除する識字資格を条件としたPPによる選挙権の提案は、鉱山王Harry Oppenheimerの支持やANCの支持を取り付けたにもかかわらず、白人の支持層は広がらなかった。
その後の13年間、Helenは反対意見を持つ唯一の議員として政府に対峙しようとした。1963年には、ひとりで180項目の質問を提示し、人権違反についての情報を民間に届けようとした。彼女は人種差別法の内容を修正することには成功しなかったかもしれないが、アパルトヘイト反対について、白人の世論に影響を与えたことは確かである。1967年にロベン島にネルソン・マンデラを訪問して以来のマンデラとの交流もあり、ANCや共産党とは良好な関係を維持した。
1974年の総選挙で5人の議員を当選させた後、PPは1978年にReform Party に合流し、野党としての歩みを鮮明にした。国民党の指導者に嫌われはしたが、政府の平議員やアフリカーナーのナショナリストの新聞からは、ひそかな尊敬を勝ち得た。議員として、Helenは離婚、結婚、中絶に関する重要な改革草案の作成にも寄与している。
1989年に議員を辞職したが、1991年の憲法制定にあたってはDemocratic Partyの党員になり、1994年には選挙管理委員を務めた。その際、囚人の選挙権を確保するために決定的な役割を演じた。
Helen Suzman Foundationは、彼女が生涯をかけた自由主義的な市民権の原理を守りつつ、活動を続けている。

1918年~2009年(南ア)
Elizabeth Mafekeng:労働組合運動家。10代で果物の缶詰工場労働者となり、低賃金労働に従事。1941年のFood and Canning Workers Union(FCWU)の設立メンバーとなり、1947年にその副会長に選出される。急進的な政治思想のために工場を解雇された後、1952年のDefiance Campaignの期間中に逮捕される。1953年、FCWUの専従セクレタリーとなると同時に、警察による労働者の自宅への襲撃への憤りからANC(African National Congress)のメンバーとなり、Federation of South African Womenの中心的メンバーとしての活動。1955年、ブルガリアでの国際食糧労働者会議に代表として出席した機会に、アウシュヴィッツ、中国を訪問。1959年、パス法反対を指導した後、住み慣れた自宅からの退去を命じられ、国内移動を制限されるも、当時イギリス植民地だったバストランドに逃亡。夫と子供たちも合流。1994年の新生南アフリカ共和国の誕生後、南アの自宅に戻る。

1918年~2000年(シエラレオネ)
Constance Cummings-John:フェミニスト、政治活動家。クレオーレのエリートの家庭に生まれ、フリータウンのミッショナリーとイギリス系の学校で学ぶ。17歳の時、イギリスに渡り、ロンドン大学のWhiteland Collegeを卒業。1936年にはアメリカのCornell Universityで6か月間研修を受けた。その過程で、帝国主義や人種差別への批判に触れ、ロンドンに戻ってからはパン=アフリカニズムの活動家との交流を深めた。1937年にEthan Cummings-Johnと結婚し、シエラレオネに帰国、African Methodist Girls’ Industrial School の校長に就任。政治的には、Wallace-Johnsonの設立した過激なWest African Youth Leagueに参加。1938年、20歳でフリータウン評議会の選挙で大勝利をおさめ、マーケットの女性たちとの同盟関係を構築し、1942年まで評議会を拠点に活動した。第二次大戦で活動を中断され、1946年、ふたたびアメリカを訪問し、5年間滞在。共産主義に共鳴し、反植民地主義を掲げてデモに参加した。1951年、フリータウンに戻ると、Eleanor Rooseveltの名を冠した学校の建設に着手する。この間、同じくクレオーレ出身で、教育者として活動していたAdelaide Casely Hayfordの影響を強く受けた。政治的には非クレオーレの政党Sierra Leone People’s Partyに加わり、その実行委員を務める一方、Sierra Leone Women’s Movementを他の女性たちと共に立ち上げた。1966年、フリータウンの市長に任命される。独立後の混乱の中、政敵から汚職の嫌疑で訴えられ、ロンドンに居を移し、労働党員になって反核運動などの活動に参加した。その後、1974~76年と1996年の2度、彼女の立ち上げた政党が政治の表舞台に浮上したが、その都度、政情不安のためロンドンに戻り、82歳でこの世を去った。

1919年~2013年(イギリス)
Doris Lessing:作家。The Golden Notebookなど。2007年度ノーベル文学賞受賞。「女性の経験を描く叙事詩人であり、懐疑と激情、予見力をもって、対立する文明を吟味した」と評価された。

1919年~1952年(アルゼンティン)
María Eva Duarte de Perón :アルゼンティン大統領フアン・ペロンの最初の妻。国政に介入し大統領を支えた。「エヴァ」、あるいは「エビータ」の名で、今でも国民の人気は高い。

1920年~1958年(イギリス
ロザリンド・フランクリン:物理化学者、X線結晶学者。DNA結晶解析に重要な貢献をしたにもかかわらず、正当に評価されてこなかったが、近年、再評価がすすんでいる(→三成【年表8】人文学・科学技術の歴史)

1920年~1992年(ヴェトナム)
Nguyễn Thị Định :フェミニスト、政治家。1969年以降、National Liberation Frontの武装組織の司令官代理を務める。ヴェトナム戦争中、南ヴェトナムの共産主義勢力の最高位に就いた女性。のち、Vietnam Women’s Union の会長として女性の権利擁護に尽力。

1921年~2006年(アメリカ)
Betty Friedan :フェミニスト。Feminine Mystique(1963)の著者。National Organization for Women(NOW)の創設メンバー。

1921年~(ヴェネズエラ)
Flor Isava-fonseca :作家、ジャーナリスト。1981年にフィンランド人のPirjo Häggmanとともに女性として初めてInternational Olympic committeeのメンバーに選出される。

1921年~2011年(ボリヴィア)
Lydia Gueiler Tejada:ボリヴィア初の女性大統領(1979~80)。

1922年~1993年(カナダ)
Jeanne-Mathilde Benoit Sauve :カナダで最初の女性総督(1984~90)。

生年不明~1922年(ケニア)
Mary Muthoni Nyanjiru:過激な活動家のシンボル的女性。多くの知られざるヒロインのひとり。1922年のいわゆるHarry Thuku暴動で殺されることによって、ケニアにおける女性の役割が見直されるきっかけとなった女性。
Harry Thukuは、反植民地闘争の中で、入植者のプランテーションで過酷な労働を強いられ、性暴力やレイプの被害にあっている女性や少女の不満にも目を向けた政治指導者。反政府活動により、1922年3月14日に逮捕され、その釈放交渉の過程でNyanjiruの短い政治との関わりが生まれた。彼女はThukuの釈放を求める7~8千人の群衆の中のひとりだった。交渉が決裂すると、彼女は、スカートをめくるという伝統的な方法(guturama)で、勇気のない男性を嘲った。この方法は、窮極の欲求不満や怒りの表現形態であり、女性たちの甲高い賛同の声が続いた。群衆がThukuの収監されている警察所めがけて押し寄せると、パニックに陥った警官が発砲し、Nyanjiruを含め、22人が射殺された。150人が殺されたと主張する者もいた。Nyanjiruの行動は、Thukuの釈放には結びつかなかったが、その家父長制と植民地権力に対する挑戦は、1952~1960年のマウマウ解放闘争における女性の参加へと受け継がれていくことになる。

1923年~2007年(イラク)
Nazik al-Malaika :自由詩によって社会的、心理的現実を表現した詩人。

1923年~2007年(カナダ)
Bertha Wilson :1982年、カナダで最初の女性最高裁判事に就任。

1923年~2014年(南ア)
Nadine Dordimer:ユダヤ系移民(父はラトヴィア出身、母はイギリス出身)の家庭に生まれる。15歳で、いわゆるアパルトヘイトという人種差別を念頭に執筆を始める。1950年代以降の作家と政治活動により、1991年度のノーベル文学賞受賞。

1923年~2012年(ポーランド)
Wisława Szymborska :詩人。1996年のノーベル文学賞受賞。

1924年~1978年(ザンビア)
Alice Lenshina Mulenge:預言者、治癒師。1953年、Aliceという名の若いベンバ人女性が死んだにもかかわらず、数度にわたり生き返ったとの噂が広まった。彼女は夢の中で、福音を広めるようにイエスに指示されたとも言われている。
南部および中部アフリカでは、病気や死についての物語や先祖についての夢が、霊媒師や伝統的な治癒師が信者を惹きつける一般的な方法だった。ヨーロッパ人宣教師がもたらしたイエスの死と復活の物語は、新しい宗教的指導者の特別な権威についての信仰を強化し始めたのである。Alice Lenshinaも、他のアフリカ人が始めた教会の指導者と同じく、死の間際の経験、もしくはヒーリングに続く本物の苦痛の経験によって、預言者として認められる第一歩を踏み出すことになる。
Aliceは飲酒、一夫多妻、不倫、ウィッチを、悔い改めるべき罪と呼び、イエスの再臨の前に洗礼を受けなさいと説いた。彼女が創設したLumba Churchには、男女の信者が集ったが、女性の方がはるかに多かった。というのは、女性は男性よりウィッチや不倫で訴えられることが多かったからである。ウィッチの嫌疑をかけられた女性たちが、家族から逃れてLumba Church に避難してきたこともあった。そうした女性たちは、シェルターとなっている村で生活し、傷を癒し、信者として生活再建をするのだ。
イギリス当局は、悪魔の支配下で活動している人びとによって運営されている制度だとしてAlice Lenshinaを否定的に見ていた。彼女は信者に税金を納めないように指示し、当局の攻撃に備えて、Lumba Churchの置かれていた村の守りを固めた。1964年、Kenneth Kaundaが独立後の初の大統領に選出されるころには、Aliceの信者は2~3千人に膨れ上がっていた。Lumba Churchの教えが独立後のザンビアの目指す方向とは異なるとして、Kaunda大統領は警官と兵士を送りこみ、Lumba村を破壊しようとした。小競り合いが3か月ほど続き、700人ほどの死者をだし、Aliceの逮捕と拘禁によって終結した。
預言者Aliceは1978年に、他の信仰を求めて右往左往する信者を残して、牢獄でこの世を去った。女性の中には、Catholic Legion of Maryに合流した。そこでは、Lumba Churchを特別なものとして称える讃美歌が21世紀の初頭になっても歌われている。

1924年~1996年(ガーナ)
Efua Sutherland:作家、教育者、詩人、活動家、子供の福祉に深くコミット、近代的な劇場の生みの親。Saint Monica Teacher Training Collegeで教師としての訓練を受ける。アフリカ系アメリカ人のWiliam Sutherlandと結婚し、3人の子供を授かる。ケンブリッジ大学のHomerton Collegeで、教育学士を取得。その後、ロンドン大学のSchool of Oriental and African Studiesでドラマ、言語学、アフリカの言語を学ぶ。ガーナに戻った後、教育界に身を置かず、劇場を舞台に読み書きのできない人々との接点を大事にした。
1960年、ロックフェラー財団とガーナのArts Councilの支援で、Efuaが2年前に創設したExperimental PlayersをGhana Drama Studioに改組。このスタジオは1990年に、新しいナショナル・シアターに改編されるまで、彼女の作品を上映、女性や子供たちの才能やエネルギーを引き出す重要な役割を果たした。

1925年~2008年(南ア)
Liz Abrahams:労働組合運動の活動家。ケープタウンを拠点に、人種主義・経済的搾取・アパルトヘイトと闘った。Nanaの愛称で知られる。幼くして父を亡くし、高校を中退して母親とともに工場で働く。その時の労働環境の劣悪さの経験から、社会意識に目覚めた。Food and Canning Workers’ Unionでリーダー的役割を務める。1955年のSuppression of Communism Actにより組合活動を禁止され、逮捕もされた。釈放後、組合活動を再開。交通事故をきっかけに、運動の第一線から引退するも、相談役として重要な役割を果たした。1995年、国会議員に選出され、1999年に引退。

1925年~1982年(南ア)
Ruth First:ジャーナリスト、作家、政治活動家。リトアニアのポグロムを逃れてヨハネスブルグに移住した左翼の家庭に生まれる。高校を卒業するころには、一人前の政治活動家になっていた。Witwatersrand大学を卒業。1949年に大学の同級生Joe Slovo(共産主義者、ANCのリーダー)と結婚。卒業後、社会主義を標榜し、人種差別反対の拠点であるGuardian紙に勤務。同紙は何度も発禁となり、その都度新しい名称で活動を続けていた。女性へのパス法導入についての彼女の論説は、3万人もの女性の反対運動を後押しした。また、パス料金値上げ反対のバスボイコット運動のレポート以降、彼女の政治思考は草の根の活動へと変化していった。地下組織South African Communist Party とANCを支持するSouth African Congress of Democratsの創立メンバーであった彼女は、のちに新生南アの指針となるFreedom Charterの起草にかかわり逮捕拘禁される。釈放されはしたが、政治活動を禁止されたFirstは、南アが不法に統治しているナミビアについての調査と執筆に専念した。1960年代初頭、ANCはUmkhonto we Sizweを結成、武力闘争へと舵を切る。彼女は、ネルソン・マンデラや夫とともにそれに参加し、逮捕拘禁され、厳しい尋問の中で自殺を図る。釈放後、夫のいるロンドンへ娘3人を連れて移住し、反アパルトヘイト運動と執筆活動を続行。Manchester 大学やDurham Universityでの研究員や講師を務めた後、1977年にモザンビークのEduardo Mondlane UniversityのCenter for African Studies のディレクターとなるも、1982年、南ア警察によって送付された手紙爆弾によって殺害された。

1925年~2013年(イギリス)
Margaret Thatcher :イギリス最初の女性首相。フェミニズムに批判的だったことでも知られる。

1926年~2000年(タンザニア)
Bibi Titi Mohamed:1950年代のナショナリスト運動のリーダー。ダルエスサラーム生まれのムスリマ。父はビジネスマン、母は農民。初等教育を終え、初潮を迎えると、当時の他のムスリマの少女と同じく、14歳で両親の選んだ年長の男性と結婚するまで隔離された。娘が生まれると離婚し、今度は自分で選んだ男性と再婚、離婚、再再婚。これは、当時の沿岸部の多くの女性がたどった婚姻歴だった。   Bibi Titiは、預言者ムハンマドの誕生日を祝うマウリディ祭への参加とンゴマ(歌と踊り)の歌手として公的場面へ登場する。マウリディとンゴマを通じた女性のネットワークが彼女の政治運動を支えることになる。とりわけ誰でも参加できるンゴマは、120以上の異なる民族集団をひとつの民族へと結集させる重要な役割を果たした。1955年、ニエレレの指導の下に結成されたTANU(Tanganyika Nationalist Union)の女性部の議長に選ばれるや、たちどころに5千人以上の女性の党員の獲得に成功。イギリス委任統治下で独立運動に参加することを躊躇する男性を尻目に、インフォーマル部門で働く女性たちは、社会的・経済的ネットワークを活用して多くの基金を集めることにも成功。1961年、その功績が評価され、独立を祝う日には、ニエレレと同じ壇上に並んだ。
独立後も政治活動を続行、All African Women’s Conferenceを創設し、政府の社会開発部門の大臣(junior minister)やUmoja wa Wanawake wa Tanzania(UWT、「タンザニア女性連合」)のリーダーを務める。しかし、1965年に議会での議席を失い、さらに1967年にニエレレの「アルーシャ宣言」(社会主義宣言)の中の「借家禁止令」に抗議して、TANUの中央委員会からも脱退した。教育を受けていない女性にとって借家は、数少ない収入源のひとつだったからである。1969年、彼女はニエレレ政権の転覆を図った罪で裁判にかけられた。無罪を主張したにもかかわらず有罪判決が下った。
Bibi Titiは、釈放されたのち、ほとんど公に姿を現すことはなかったが、彼女の足跡は、多くの学歴を持たないムスリマの女性たちが、イギリス統治からの独立に向けての政治的覚醒を拡散するために果たしたきわめて重要な役割を検証ための試金石となっている。

1926年~2002年(モザンビーク)
Noémia de Sousa:詩人、作家。ドイツ、ポルトガル、インド(ゴア)、ロンガ、マクアといったさまざまな民族の入りまじった混血。ロレンソ・マルケス(現在の首都マプト)生まれ。父親の死により、高校への進学をあきらめ、商業学校でタイプや速記を習得し、秘書として働く。
最初の詩は、19歳の時に雑誌に発表したO irmao nogroThe black brother。政治的には、アフリカ協会に所属し、その機関紙の復刊に寄与。1940年代を通して、モザンビーク文化と歴史を称える詩作に没頭したが、1951年に秘密警察を逃れて移住したポルトガルでGaspar Soaresと出会い1962年に結婚。以後、サモラ・マシェル大統領の死(1986年)を悼む詩を例外的に書いただけで、詩作からは遠ざかった。夫妻はフランスに渡り、彼女はジャーナリストとして活動。2002年にポルトガルに戻り死去。

1927年~2002年(アメリカ)
Patsy Takemoto Mink :政治家。アジア系アメリカ人かつ女性ではじめてアメリカ議会(下院)に選出されたハワイ州の女性。

1927年~(カナダ)
Lois M. Wilson :カナダ最大のプロテスタントの一派United Churchの最初の女性議長。

1928年~(トルコ)
Türkan Akyol:政治家、医者、学者。女性で初めて入閣。

1928年~2010年(南ア)
Fatima Meer:グジャラート出身のインド系ムスリム、ナタール大学で社会学学士号および修士号取得。活動家、研究者。Indian Viewsの編集者だった父親から大きな影響を受け、自由と抵抗の精神を学ぶ。Indian Viewsの編集を手伝いながら、Student Passive Resistance Committeeを立ち上げ、インド系の人びとの土地所有権を制限している法律への抵抗を1946年から2年間展開した。反アパルとヘイト運動にも、夫とともに積極的に参加。1954年、あらゆる公的集会への参加や演説や友人との面会を禁じられた南アで最初の女性となる。1975年には6か月の拘禁、1976年には独房に入れられた。同年、釈放されたが、禁止令は1976年にさらに5年間延長され、1981年にはさらに5年間更新された。南アのインド人についての歴史や解放の政治学などについて40冊以上の著書があり、ネルソン・マンデラ本人の要望によりネルソン・マンデラの自伝も執筆している。

1929年~(ニカラグア)
Violeta barrios de Chamorro :左翼革命家ダニエル・オルテガの失脚後のニカラグアで、女性初の大統領となる。

1929年~1981年(セネガル)
Mariama Bâ:小説家。フェミニスト。現代都市の女性の経験を描いたUne si longue letter(1979:邦訳『かくも長き手紙』中島弘二訳、講談社、1981)で第一回野間文学賞受賞。20世紀アフリカ文学100選のトップ12位以内に選ばれる。父親の権威、人種、階級、ジェンダーの交叉する社会で生きる女性を描き、死後に出版されたUn chant ecarlate(1981:英語版Scarlet Song)も、世界的に大きなインパクトを与えた。

1930年~(ケニア)
Grace Ogot
:英語で小説を発表したケニアで最初の女性作家。ルオ人。ウガンダの看護師養成所を卒業、産婆としてイギリスやケニアで働いた経験を持つ。Writers’ Association of Kenyaの創設者のひとり。
Ogotの作家としてのキャリアは、ドイツで出版されているBlack Orpheusとウガンダで出版されているTransitionに作品を発表したことに始まる。1962年と1964年に英語で小品を発表、1966年のThe Promised Landで本格デビューした。その後、Land Withour Thunder(1968)、The Other Woman(1976)、Island of Tears(1980)、The Graduate (1980)を次々に発表した。
作品の中で、Ogotはケニア、とりわけルオ社会におけるジェンダー関係や、植民地主義と政治的独立という歴史的背景に抵抗するアイデンティティを追求している。たとえば、The Grduateは、独立後まもないケニアで、女性たちが直面した家事と専門職のジレンマや政治的な意思決定機関や公的機関からの女性の排除を描いている。彼女は、独立後のジェンダーや人種的差別を描き、社会的正義と民主主義は女性が男性と同等の教育の機会と専門職に就く機会を与えられることによってのみ達成できることを伝えようとしていたのである。
Ogotは、英語の他に、ケニア一般民衆が作品にアクセスできるように、母語であるルオ語でも書いている。ルオの神話の翻案であるThe Strange Brideは、まずはルオ語で執筆し、次に英語に翻訳して、歴史的変化の主体としての女性の重要性を力説している作品である。

1930年~2007年(キューバ)
Vilma Espín :義兄フィレル・カストロが創設したFederacion de Mujeres Cubanas(FMC: Federarion of Cuban Women)の議長に就任(1969~2007)。

1930年~(アメリカ)
Sandra Day O’Connor :アメリカで最初の女性最高裁判事。

1931年~(エジプト)
Nawal el Saadawi :フェミニスト、精神科医、心理学者、作家、活動家。保健省のディレクター。Women and Sex(1969)の出版によって論争を引き起こし、1972年、保健省を辞職に追い込まれた。

1931年~(アルゼンティン)
Isabel Martínez de Perón フアン・ペロン大統領の3番目の妻。夫の死後、世界初の女性大統領(1974~76)に就任。政治・経済政策に失敗して失脚。María Eva Duarte de Perón(1919~1952)はフアン・ペロン大統領の最初の妻。

1931年~(アメリカ)
Toni Morrison : アフリカ系作家。1993年度ノーベル文学賞受賞。

1931年~1993年(ナイジェリア)
Flora Nwapa
:作家。ナイジェリアで小説を発表した最初の女性。両親とも教師という家庭に生まれ、1957年にイバダンの大学を卒業後、1958年にはイギリスのエジンバラ大学で教育学の学位を取得。1967年に勃発したビアフラ戦争の際には、ビアフラに入り、戦争が終結するまでそこにとどまった。1970年からの5年間は、戦争で疲弊したビアフラの再建のために、保健・社会福祉大臣としてナイジェリア政府で働いた。とりわけ、戦争中に難民となった孤児の救済に力を入れた。のちには、土地の計測や都市開発を担当する大臣も務めた。
彼女の最初の作品Efuru (1966)は、女性の立場から女性の世界観を表現するという、女性を中心に据えている。Igbo人の民話からヒントを得、Uhamiriという女神によって選ばれた女性が主人公となっている。富裕で美人、しかも人びとから尊敬される主人公Efuruは、しかし、女性性とは母親になることであるという文化の中での不妊などのさまざまな悲劇に遭遇する。しかし、彼女は、こうした悲劇によって規定される自分というものを拒否し、自分が心酔できる女神を探し求め、自分自身が司祭になることによって、社会的・文化的制約を越えて、自分自身の条件に合った幸せを追求する。
Efuruは、まごうことなきフェミニスト―Nwapaの言葉で言えば、womanist―の作品でであり、Nwapaは、男性作家によって主流化されてきたアフリカ文化や人びとの描き方の長い伝統を覆そうとした最初の作家である。たとえば、植民地化前のアフリカ人のジェンダー関係を西欧のステレオタイプ的なイメージで描いた同じIgbo人であるChinua AchebeのThings Fall apart(1958)などである。
Nwapaの作品は、批判的に受け止められた。無視はされなかったが、その強いフェミニスト的なスタンスと、男性を弱い存在として描いたがゆえに切って捨てられた。これと対照的に、かなりの評価をされたのが、同じ民話からヒントを得て書かれたElichi Amadiの1966年の小説The Concubineである。主人公のたぐいまれな美しさとセクシュアリティに焦点をあてたこの小説は、彼女の注意を惹こうとする男性と男性神の物語を語るという舞台となっている。
Newapaの二番目の作品Idu(1970)は、伝統的なIgobo社会の女性を描いている。しかし、Never Again(1975)とWives at War and Other Stories(1980)は、それまで無視されてきたビアフラ戦争中の女性の役割や経験を描いている。One Is Enough (1981)とWomen Are Different(1986)は、不妊と女性の自律性を、より現代の都市的状況の中で描いた作品である。こうした作品を発表するかたわら、1976年にはナイジェリア女性ではじめて、出版社を立ち上げている。
Newapaはリズム感のある文章と詳細な描写へのこだわりを持った傑出した作家である。作品の中では、女性を社会の自律したエージェントとして描き、植民地時代以前の相互補完的なジェンダー役割の概念をいかに現代に生かすことが可能かを発見することによって、女性をエンパワーすることを目的としてきた。当初、批判にさらされた女性中心のスタンスは、のちにはジェンダーがまさに社会的・歴史的に構築されたものであるというNepawaのテーゼを立証するものとなっている。

1932年~2008年(南ア)
Miriam Makeba:歌手、人権活動家。子供のころから音楽に親しみ、学校の音楽教師に見いだされ、コーラス部で活躍。イギリスのジョージ四世が南アを訪問した時にソロの歌を披露。16歳で学業を終えると、Gooli Kubayと結婚し、娘Bongiをもうける。まもなく離婚し、Cuban Brothersの歌手として本格デビュー。1954年にはManhattan Brothers に移籍。1959年にはジャズオペラKing Kongに、1960年には映画Come Back, Africaに出演し、国際的な名声を得る。その間に、南アの俳優Sonny Pillayと再婚するも離婚。その後、Harry Belafonteの誘いでアメリカに旅行。アメリカでは聴衆に歓迎されるが、帰国しようとした時にパスポートを取り上げられ、国外追放にあう。これを機に、人権活動家として反アパルトヘイト運動に身を投じる。公演活動を続行しながらHugh Masekelaと再再婚するも離婚。1968年にはブラックパンサーのStokely Carmichaelと結婚することにより、従来のイメージを急速に悪化させた。結局、ギニアに移住し、そこで国連代表としての活動を始める。1998年にCarmaichaelが死ぬと、Bageot Bathと結婚。1990年に国外追放が解除されて帰国すると、Makeba Rehabilitation Centerを設立するなどして女性と少女のためのさまざまなプログラムを実施した。Mama Africaの愛称で呼ばれている。

1933年~2009年(フィリピン)
Corazon Aquino :Benigno Aquino元上院議員の寡婦。アジア初の女性大統領(1986~1992)。

1933年~(スーダン)
Fatima Ahmed Ibrahim:政治指導者、人権活動家。1952年のSudanese Women’s Union(のちにGeneral Union of Sudanese Womenと改称)の創立者のひとり。Sudanese Communist Partyのメンバー。女性の貧困、失業、識字、FGMと闘う。1965年、女性で最初の国会議員となり、女性の権利を擁護する法令の制定に尽力。しかし、1969年にヌメイリ軍事政権の誕生によって、弾圧を受け、夫は処刑され、自身も終身刑を受ける。国際的な非難と支援により、1990年にロンドンに亡命し、政治活動を続行。同時にパレスチナやアラブ女性の支援も行っている。1991年にはInternational Democratic Women’s Unionの会長に選出され、1993年に国連の人権分野における賞を、2006年にアラブ世界における自由のための闘いによってイブン・ラシュド賞を受賞。

1933年~2004年(アメリカ
Susan Sontag:哲学者、映画製作者、劇作家、演出家、小説家。

1934年~(アメリカ)
Gloria Steinem:フェミニスト、ジャーナリスト、社会運動家、政治活動家。1960年代~70年代のフェミニズム運動の指導者。雑誌Ms.の創設者のひとり。

1934年~1976年(ドイツ)
Ulrike Meinhofn:左翼の活動家。Red Army Factionの創設者のひとり。数回の爆弾事件を起こした後、1972年に逮捕される。1976年、独房で首つり自殺。

1934年~(南ア)
Winnie Mandela:政治活動家。東ケープタウン州の比較的富裕な家庭に生まれ、1953年にヨハネスブルグのソーシャルワークの専門学校を卒業。1958年のANCの活動家ネルソン・マンデラと結婚を機に、反アパルトヘイト運動に参加。夫が1962年に国家転覆罪で終身刑を宣告された後、国際的に反アパルトヘイト運動のシンボルとなる。同時に活動も過激化し、1969年に逮捕され、「テロリスト」として繰り返し拷問されるも、1970年に釈放に漕ぎ着ける。
1976年の学生たちのソウェト蜂起を支持したため、遠隔地に8年間追放されたが、その間に自伝Part of My Soul Went with Himを出版するなどして国内的・国際的に発信し続けた。
再びソウェトに戻ると、ますます過激な活動に活路を見出し、私設の軍隊Mandela United Football Clubを組織。活動はエスカレートし、ついに1988年、近くの教会から4人の少年を誘拐する事件を起こした。そのうちのひとりは、警察のスパイとの嫌疑で暴行を受け、結局1991年に殺害される。さまざまな暴力事件に関連した裁判で、6年の刑を受ける。上訴により罰金刑に減刑されるが、これを機に、すでに出獄し大統領になっていた夫ネルソン・マンデラと1996年に離婚。その後も国会議員、芸術や科学技術の大臣代理、ANCのWomen’s Leagueの会長などに就任し、政治活動を続行。しかし、2003年に詐欺罪や銀行ローンに関連した窃盗罪で、執行猶予付き4年の有罪判決を受けるも、一貫して無罪を主張している。 

1935年~(アルジェリア)
Djamila Bouhired:独立戦争時の闘士。「アルジェの戦い」でヨーロッパ人女性に扮装してアルジェのヨーロッパ軍の拠点に爆弾を仕掛けた。1957年に逮捕され、フランス軍の拷問を受けた。

1936年~2011年(ケニア)
Wambui Otieno:政治活動家。ギクユ人。10代から、高位の警察官だったにもかかわらず、ケニヤッタやコイナンゲといったナショナリストと関係のあった父親の影響を受け、1952年に始まったマウマウ闘争(自由と土地を求める植民地解放運動)に飛び込む。父親の逮捕、従兄弟の処刑にも触発されて、ナイロビに活動拠点を移し、スパイ活動や武器弾薬の密輸などを通してマウマウ闘争を支えた。その間、何度も逮捕拘禁される。
マウマウ戦争が終結すると、新たに結成された政党Kenya African National Union(KANU)のメンバーとなり、女性部の責任者に選出される。イギリス当局は、過激な政党の抑圧に乗り出し、Wambuiは逮捕され、沿岸部のラム島に送られる。そこで、イギリス人の憲兵にレイプされ、精神的にも追い詰められる。1961年に釈放されると、レイプしたイギリス人を探し出し、裁判を起こそうとしたが、彼は国外に逃亡。その弁護を買って出てくれた弁護士Silvano Melea Otienoと1963年に結婚。
1960年代から1980年代中葉にかけて、Wambuiは女性と開発の問題に取り組み、国連女性会議には代表として参加。1986年、夫の急死により、その遺産と埋葬場所をめぐって、夫の出身民族であるルオの慣習との闘いが幕を開ける。一年半に及ぶ法廷闘争の結果、遺産は相続できたが、夫はナイロビから離れたヴィクトリア湖畔の実家に葬られることとなった。この裁判は、単なる家族の問題を越えて、ルオ対ギクユという民族間の慣習の違いと、女性の相続権の問題としてケニアのみならず、国際的な関心を集めた。
2003年、Wanbuiは、40歳ほど年下の青年と再婚。これが、ケニア中に論争を巻き起こし、家族からも非難された。これも、進歩的な近代的な生き方を選ぶか、あるいは伝統的な文化的遺産を守って生きるべきかという二つの価値観の間の論争であったとされている。     

1937年~(ロシア)
Valentina Tereshkova :世界初の女性宇宙飛行士。のちに政治活動に入り、Soviet Committee for Womenの議長を1968年から9年間務めた。

1937年~(中国)
Zhang Jie :毛沢東以後のフェミニスト作家の先駆者。最初の小説Cong senlin li lai de haizi(The Music of Forests)でNational Best Shor Story Prizeを受賞。

1937年~1986年(南ア)
Bessie Head
作家。母親は精神的な疾患を抱えていた白人。最初、白人家庭に引き取られたが、肌の色や髪の毛の特徴によりアフリカ系であることが判明して、混血の家庭に引き渡される。こうして、父親は白人ではなかったことが判明。この誕生の経緯が、生涯彼女のトラウマとなった。人種差別のないユートピアを夢想し、政治的にはPan-Africanist Congress(PAC)の指導者Robert Sobukweに傾倒した。1964年にボツワナに移住。そこで、代表作となる小説を執筆。数多くの手紙類を残しており、現在、その分析が研究者の間で進められている。

1938年~(中国)
Wu Yi (吴仪):政治家。2003年、保健大臣に就任。1970年代以降、もっとも高い地位に登りつめた女性。

1938年~(リベリア)
Ellen Johnson-Sirleaf:政治家。選挙によって選ばれたアフリカ初の女性大統領。両親は、アフリカ系アメリカ人入植者。17歳で結婚後、夫とともにアメリカに渡り、学業に専念。離婚後も大学でビジネス、経済学、公共行政学で学位を取得。1970年代初頭にリベリアに戻り、トルバート政権の財務相に就任するも、意見が対立して辞職。1980年にトルバート政権がドエ軍曹による軍事クーデタで崩壊すると、2度投獄された挙句国外追放となる。その後の15年間は、ケニアのナイロビで世銀のスタッフやUNDPのスタッフとして過ごす。その間、リベリアは内戦によって国家崩壊の危機に陥る。1997年、反政府軍との和解成立後、リベリアに戻り、大統領選挙に立候補。この時はテイラーに敗れたが、2005年の総選挙で大統領に当選。2006年1月に、アフリカ初の女性大統領に就任。2011年、ノーベル平和賞受賞。2012年、インディラ・ガンディー賞受賞。

1939年~(リベリア)
Ruth Sando Fahnbulleh Perry政治家、教育者、実業家。暫定元首格である国家評議会議長や上院議員などを歴任。ヴァイ人のムスリム。モンロビアのカトリック系の女学校から国立リベリア大学のティーチャーズ・カレッジに進学。卒業後、小学校の教師として勤務。その後、裁判官であり議員だったマクドナルド・ペリーと結婚し、7人の子供をもうけた。1985年、野党の統一党(UP)から立候補し、上院議員に当選(1986~1990)。1989年の内戦ぼっ発後の1990年、上院議員を退任し、Women Initiative Liberiaで、女性のために働いた。1996年、サンカウロが暫定元首格にあたる国家行議員議長を退いたあと、1996年に後任に就いて国家元首となる。

1940年~2011年(ケニア)
Wangari Maathai:生物学者、環境活動家。植民地下で初等教育、および中等教育を終え、学位号と修士号は、アメリカとドイツで取得。その後、ケニアに戻り、博士号を取得した。科学の領域での中部・東部アフリカ初の女性の博士となる。1974~79年、ミュンヘン大学とナイロビ大学で教鞭をとる。その間に貧困や政府の無策に起因する森林破壊を目にし、環境問題に目覚め、植樹活動による環境保全を軸としたGreen Belt Movement(GBM)を創設。苗木の配布による草の根の保全活動を指導する傍ら、1989年に政府がナイロビ中心部のウフルーパークに党本部を建設しようとしたことに反対し、撤回させた。持続的発展、貧困削減、民主的かつジェンダーに配慮した世界の実現を目的としたフェミニズムを展開したことにより、2004年、ノーベル平和賞受賞。

1940年~(セネガル
Mame Madior Boye(マーム・マジョル・ボイ):セネガル初の女性首相に就任。在任中の2002年9月26日、ジョラ号沈没事件が起きる。2002年11月4日、内閣総辞職。その後、2004年9月、ボイはアフリカ連合の特別代表に任命された。

1940年~(アメリカ)
Nancy Pelosi :アメリカ初の上院議長に就任(2007~2011)。

1940年~2005年(ブラジル)
Dorothy Stang :アメリカ生まれ。Sisters of Notre Dame de Namurのブラジルメンバー。貧困と環境問題に取り組み、虐殺される。

1941年~(オーストラリア)
Pat O’Shane :オーストラリア初の先住民出身の弁護士。1986年から引退する2013年まで地方裁判所の判事を務めた。

1942年頃~(ガーナ)
Ama Ata Aidoo:作家、劇作家、活動家。母系社会アカン文化の影響を強く受けて育った。1964年、ガーナ大学卒業。ンクルマ大統領とデュボイスのパン=アフリカニズムの影響を強く受け、アフリカとディアスポラとの関係の再構築をテーマにしたThe Dilemma of a Ghost(1965)を発表。その後も、ジェンダー、経済、人種の問題をグローバルな視点で描いた。Womanismの立場からは、黒人性と白人性、男性性と女性性の文化的構築、奴隷貿易と奴隷制および植民地主義に起因する貧困を焦点化した。1970年に発表したAnowaは、20世紀のアフリカにおける文学作品100選に入っている。作家活動以外では、ローリングス大統領のもとで教育大臣(1982~83)を務めたが、フラストレーションからジンバブウェに逃亡し、作家活動を続行しながら、アメリカの諸大学での講演を行っている。

1943年~(カナダ)
Beverley McLachlin :カナダ初の女性最高裁長官。

1943年~(ブラジル)
Benedita da Silya :政治家。Partido dos Trabalhadores(PT: Brazilian Workers’ Party)の創設者(1980)。1994年にはブラジル初の上院議員に当選。2002~03年、女性初のリオデジャネイロ市長(governor)となる。

1943年~1988年(ケニア)
Gaudencia Aoko:ケニア西部出身のカリスマ的宗教指導者。階層化された男性中心のローマ・カトリック教会を批判し、Simeo Ondetoとともに独立教会Legio Mariaを創設。1962~63年、ルオ人を中心に、多くの信者を獲得。しかし、それも、時の流れとともに、ローマ・カトリック教会と同様の男性中心の階層化された組織に戻ってしまった。その結果、Legio Mariaの司祭に就任することを拒否。1967年、指導部から追放されたため、新たにCommunion Church of Africaを創設。カトリック教会やLegio Mariaに見られる男性の権威や性差別、ジェンダー格差に挑戦したAokoの活動は、フェミニズムに軸足を移行した第三世界の解放の神学を代表するものと見ることができる。

生没年不明(アメリカ)
Mitsuye Endo:日系タイピスト。1944年の第二次大戦中の日系人強制収容を市民権違反として裁判を起こし、最高裁で勝訴。裁判名Ex parte Mitsuye Endo。

1944年~(ナイジェリア)
Buch Emecheta:ナイジェリア生まれのイギリスの作家。両親はIgbo人。ラゴスのMethodist Girls High Schoolを卒業。11歳の時に婚約していた男性と1960年に結婚し、ロンドンに移住。5人の子供に恵まれる。しかし夫が彼女の原稿をを焼却したのを機に離婚し、1970年にロンドン大学に入学して社会学を学ぶ。1972年に最初の小説In the Ditchを出版。二作目はSecond-Class Citizen作風はロンドンでの人種差別やゲットーでの貧困の経験をもとにした自伝とフィクションの間。その後も黒人の移民女性を主人公とした作品を発表している。もうひとつのテーマは、急速に変化するナイジェリア社会の女性性と家族と母性の関係。The Bride Price(1976)とThe Slave Girl(1977)はその代表作。その後1983年に発表したアフリカと西欧近代との出会いを哲学的に描いたRape of Shaviは、もっとも評判を呼んだ作品のひとつ。現在、息子とともにロンドンとナイジェリアに事務所を持つ出版社Ogwugwu Afor Publishing Firmを経営している。

1944年~1991年(インド)
Rajiv Gandhi :インド首相。1985年の最高裁の判決(刑法は民法に勝る)に呼応して1986年、Muslim Women’s ( Protection of Rights on Divorce)Actを制定、ムスリムの宗教指導者の間に批判が噴出した。

1944年~(アメリカ)
Alice Walker :フェミニスト作家。The color Purple(1982)でピューリッツァー賞受賞。FGMを女性への暴力として告発。

1944年~(アイルランド)
Mary Robinson :アイルランド初の女性首相(1990~97)。その後、国連難民高等弁務官事務所に2007年まで勤務。

1945年~(ビルマ
Aung San Suu Kvi:非暴力民主化運動の指導者。父は独立を目前に暗殺された建国の父アウンサン将軍。1988年、政党National League for Democracyの創設に参加。1989年に自宅監禁され、2010年まで自由を拘束された。2015年11月の総選挙でNLDを勝利に導いた。

1945年~(モザンビーク)
Graça Machel :貧困家庭に生まれたが、初等教育での優秀な成績が認められ、中等教育に進学。1967年には奨学金を得てポルトガルのリスボン大学に留学。在学中の1969年、Frelimo(Mozambique Liberation Front)の活動家としてモザンビーク解放運動に飛び込む。1972年に秘密警察に察知され、スイスに亡命。その後、タンザニアのFrelimoのキャンプに合流し、軍事訓練を受けながら難民の子弟への教育に携わる。まもなくSamora Machelと結婚、1975年の独立後、初代大統領となった夫をファーストレディー兼唯一の女性閣僚(教育相、1990年まで)として支えた。教育改革に取り組みつつ、Organization of Mozambican Women(OMM)の書記長やFrelimoの中央委員会のメンバーとしても活躍した。1986年に夫が飛行機事故で死亡。飛行機事故は、南アに支援された反政府軍によるものとされている。1990年にはFoundation for Community Developmentを創設し、独立後の内戦の中で孤児となった子供たちや子供兵へのさまざまな支援プロジェクトを企画した。内戦は1992年の和平の成立によって終焉。1998年には、南ア大統領ネルソン・マンデラと再婚。マンデラの親族は婚資(ロボラ)として60頭の牛を支払ったという。結婚はしたが、モザンビークと南アを往復しながら、自立した活動を展開し続けた。女性の権利擁護にも精力的に取り組み、1999年には、University of Cape Townの学長に任命された。受賞歴は数多い。

生年不明~1945年(ウガンダ/ルワンダ)
Muhumusa:預言者。ルワンダ王国の偉大な支配者Rwabugiri(在位1867~1895)の寡婦。後継者Rutarindwa(在位1895~1896)の治世に生じた派閥間の争いに敗れて、Bahororo人のMpororo王国に逃れると、Mpororo王国に正統性を与えた精霊Nyabingiの化身であると宣言する。1901年までに精霊の化身であるというアイデンティティを確立し、貢納制を導入してBahororo人の首長たちを支配下に置くことに成功する。
一方、ルワンダのMusinga王(在位1897~1931)は、Muhumusaとはいずれ敵対関係になると考え、ドイツ人に討伐を要請した。Muhumusaは捕えられ、ルワンダの首都に連行されたのち、自宅監禁および100頭の牛を罰金として課された。しかし、Musinga王の正統性に挑戦した囚人である彼女の待遇はあまりにも特権的だとして、東方のヴィクトリア湖に追放になった。その際、75人の付き人が同伴したという。
1911年7月、ドイツによって監禁されていたMuhumusaは、そこを脱出して英領ウガンダ南西部の高地に逃れ、それまでのNyabngiの化身であるというアイデンティティを捨て、Ihangaにある洞窟に隠されているとされる太鼓を探しだすと宣言した。その太鼓は、彼女の声を聴くや、地面から無数の牛が湧いて出てくるというのである。
女性かつ王族のルワンダ人として、地元のクランや民族、あるいは家父長的政治構造と距離を置いていたことが、Muhumusaにユニークな力を与えた。妨害されることなく高地をよぎって太鼓の方角向かって移動した彼女は、今度は自分をNdorwa の女王であると宣言する。彼女がその戦略を捨てたのは、祭司でありイギリスの協力者であったふたりのクラン指導者が彼女の覇権を認めることを拒否した時だった。クランの指導者たちの非協力的な態度に気付いた彼女は、1904年以降、西部の高地人たちを虐殺し、ドイツ人の追手からもうまく逃れていた悪名高いBatwa人のBassebya と結託した。1911年8月、Muhumusaは2000人の部下とともにIhangaに移動し、9月には、Bassebyaの軍団が抵抗するクランの指導者を攻撃して、かれらを居住地から追い出した。その直後、65丁のライフルと大砲を装備したイギリス軍がMuhumusaの要塞を攻撃。Muhumusaは逮捕され、ウガンダに追放され、1945年に没した。

1946年~(ウイグル/中国)
Rebiya Kadir:実業家。11人の子供の母親。Thousand Mothers Associationを創設、女性の起業をサポート。ウイグル人の若者の間に流行している麻薬の撲滅にも取り組む。

1946年~(パレスチナ)
Hanan Ashwari :政治活動家。平和運動家。Sydney Peace Prizeを受賞(2003)。

1947年~(イラン)
Shireen Ebadi :弁護士。2003年度ノーベル平和賞受賞。

1947年~1992年(ドイツ)
Petra Kelly :フェミニスト、環境保護活動家、平和運動家。世界に先駆けて「緑の党」の創設に尽力。

1947年~(ヴェトナム)
Dương Thu Hương :政府の汚職を告発した小説Paradise of the Blind(1988)により、1989年に共産党から除名され、海外渡航を禁止され、逮捕拘禁された。著書は当局によって発禁処分となる。

1947年~(カナダ)
Kim Campbell :カナダ初の女性首相。

1947年~(台湾)
Annette Hsiu-lien Liu(呂秀蓮) 政治家。1979年には投獄された。2000年、台湾初の女性副大統領になる。

1947年~(インドネシア)
Megawati Sukarnoputri :政治家。インドネシア初の大統領(2001~04)。

1948年~(メキシコ)
Leslie Marmon Silko :小説家、詩人、語り部。小説Ceremonyを出版(1977)。Native American Renaissance派の先駆者。

1951年~(フィンランド)
Pirjo Häggman :陸上アスリート。ヴェネズエラのFlor Isava-Fonsecaとともに1981年、国際オリンピック委員会の初の女性メンバーに選出される。

1951年~(カナダ)
Ethel Blondin-Andrew:初めてカナダの国会議員となった先住民女性。

1951年~(マラウィ)
Joice Hilda Banda国民議会議員、女性青年地域社会サービス省大臣や外務大臣をつとめた後、2009年に副大統領に就任。一方で、「マラウィビジネス女性協会」NABWを創設、1997年にはモザンビークのシサノ大統領と共同で、ニューヨークに本部を置くNGO「ハンガープロジェクト」からアフリカ賞を受賞、ジョイス・バンダ財団の設立者として、ブランタイヤの孤児の支援や初等・中東教育の普及に力を注いでいる。2009年、副大統領候補として立候補して当選。しかし大統領ムタリカと対立し、民主進歩党を追放されている。ムタリカの急死したため2012年、大統領に就任。2013年には、横浜で開かれた第5回アフリカ開発会議に出席し、自身の経験から助成への教育投資、女性の政治参加の重要性を訴えた。

1952年~(ニュージーランド)
Jenny Shipley :政治家。最初の女性首相(1997~99)。

1952年~(アメリカ)
Lois Gibbs :環境保護活動家。1980年にCitizen’s Clearinghouse for Hazardous Waste(CCHW)と呼ばれる全国的ネットワークを立ち上げる。

1952年~(ブルンジ)
Sylvie Kinigi
トゥチの家族に6人兄弟姉妹の3番目に生まれる。父親は商人、母親は農婦。尼僧によって経営されていた女学校で学ぶ。その後、首都のブジュンブラで経済学を学ぶ。19歳で大学の教授を結婚し、4人のこどもに恵まれる。同時に学問も続け、トゥチ系の政党の女性の組織化に携わり、女性組織の全国実行委員のメンバーとして活動。ブルンジ大学を卒業後、ブルンジ中央銀行に就職、同時に大学で教べんとった。1991年に首相のアドヴァイザーになり、軍事費の削減や経済改革に取り組んだ。1993年、民主化に向けた選挙が行われ、Melchior Ndadayegaが大統領に当選、ほとんどが大統領と同じフトゥ系の閣僚の中、彼女が首相に任命される。トゥチとフトゥの敵対状況の緩和が目的で、彼女に白羽の矢が立ったのだった。しかし、その直後、大統領と6人の大臣がトゥチによって殺され、内戦が勃発。彼女はフランス大使館に避難し、命を守った。1994年の議会選挙後、フトゥのNtaryamiraが大統領に就任。トゥチ陣営はこれに反発したが、彼女は大統領を受け入れたが、首相職は辞した。このことで、彼女は批判にさらされ、身の危険を感じた彼女は亡命を決意。2004年現在、国連開発計画(UNDP)で働いている。

1952年~1985年(アメリカ/中央アフリカ)
Dian Fossey:環境保護活動の先駆者。アメリカ生まれ。中央アフリカのマウンテンゴリラの保護活動で知られるが、その生涯については不明な部分が多い。セラピストとして勤務していた病院で知り合った同僚に刺激され、1963年に、北ローデシア(現在のザンビア)、ケニア、タンザニアを経て現在のコンゴ民主共和国の東部でゴリラと出会う。1966年にルイス・リーキーの講義に出席、リーキーにゴリラ観察を勧められる。1967年、Karisoke Research Centre をVirunga 山系に設置し、本格的なフィールド調査に乗り出し、ケンブリッジ大学から博士号を取得。密漁者やアフリカ諸国のゴリラ対策への批判を1970年代からNational Geographic に掲載、世界の注目を集めた。1978年に最も愛するゴリラが殺害されたことをきっかけに、保護基金を立ち上げ、やがてルワンダ政府を巻き込んだ国際的なMountain Gorilla Projectに結実する。1980年代には、世界各地で講演活動をこなしたが、1985年、拠点としていたKarisokeで殺害される。犯人は不明。死の直前に出版されたGorillas in the Mistはベストセラーとなった。

1953年~(パキスタン)
Benazir Bhutto :35歳でパキスタンの首相に当選。1990年に失脚するも、1993年に再当選。汚職の嫌疑により1996年に失脚。

1953年~1994年(ルワンダ)
Agathe Uwilingiyimana
農家に生まれ、長じて教師となる。結婚して、5人の子供に恵まれる。1983年にはルワンダ国立大学で化学を教えた。その後、1985年には科学で修士号を取得、ブタレの学校で教鞭をとったが、理科系の女性に理解がない社会で、メディアからの批判にさらされた。1993年5月、ハバリミャナ内閣で首相に就任。党派間の確執の中で、就任後18日目に彼女はハバリミャナ大統領から解任されるも、1994年4月のハバリミャナ大統領の飛行機が撃墜され大統領が死亡した直後に勃発した虐殺事件の中で暗殺されるまで首相の地位にとどまった。女子教育に力を注ぎ、Forum for African Women Educationalists(FAWE)の創設にも関わった。

1954年~(アメリカ)
Katharine Jefferts Schori :Episcopal Churchの初の女性Presiding Bishopに任じられる(2006~2015)。

1954年~(カンボジア)
Mu Sochua :女性の発展とエンパワーメントを目指してKhemaraを創設(1991)。1998年には女性と退役軍人を統括する省の大臣を務める。

1954年~(ドイツ)
Angela Merkel:女性初のドイツ首相に就任(2005~)。

1956年~2007年(ウガンダ)
Alice Lakwena:霊媒師、軍人。Lakwenaは、アリスに憑依した聖霊の名前。本名はAlice Auma。北部ウガンダのアチョリ民族の出身。英国国教会の家庭で育つ。7年の初等教育を修了後、カトリックに改宗。多くのアチョリ人が、現大統領の率いていたNational Resistance Army(NRA)に対抗して、当時の政府軍Uganda National Liberation Army(UNLA)に与した内戦(1981~86)中の1985年1月2日に、Lakwena(アチョリ語でメッセンジャーの意味)という名前のキリスト教の聖霊の霊媒師となり、土着の精霊に対抗して、苦難からの救済を目的としたキリスト教のカルトを立ち上げた。NRAがアチョリを占領するという非常事態が起こった1986年8月6日に、Holy Spirit Mobile Forces(HSMF)を設立し、キリスト教の預言者として「聖戦」を開始。国内および国際的メディアによって「ブードゥー教の司祭」、「魔女」、「ウガンダのジャンヌダルク」などと報じられた。こうした報道に対抗して、Department of Information and Publicityを創設し、宣伝作戦を展開した。人びとは、男性であるLakwenaという精霊が、抑圧されている女性を救うという力をAlice に与えているを信じていた。したがって、このHSMFは、男性の覇権を維持しつつ高度に複雑な権力の技巧を駆使することを通して機能していたといえる。HSMSは、北部ウガンダの7千人~1万人の男女の信者を擁していたが、1987年10月に決定的な敗北を被り、Lakwenaはケニアの難民キャンプに逃れた。彼女の信念は父親やイトコが創設したLord’s Resistance Army(LRA)に受け継がれ、21世紀初頭まで戦闘を続行した。2007年、ケニア北部の難民キャンプで死去。

1959年(メキシコ)
Rigoberta Menchú 誕生マヤ民族。社会活動家。先住民の権利擁護に功績があったとして1992年、ノーベル平和賞受賞。先住アメリカ人初の受賞。

1959年~(コスタリカ)
Laura Chinchilla(ラウラ・チンチージャ)
コスタリカのサンホセで生まれる。コスタリカ大学を卒業後、ジョージタウン大学院で公共政策を学び(修士)、政治家になるまではラテンアメリカとアフリカを対象としてNGOで、法律の改善や公共のセキュリティ関連の仕事をしていた。その後、Jose Maria Figueres Olsenの副大臣(1994~96)、公共セキュリティ大臣(1996~98)を経て、2002~06年は、サンホセ州代表の国会議員を務めた。2010~2014、大統領を務める。

1959年~(モーリシャス)アミーナ
Ameenah Gurib
スリナム生まれのモーリシャス人。高等教育はイギリスで受け、有機化学の領域で博士号を取得。1987年にモーリシャス大学に就職。1988年、外科医のDr. Anwar Fakimと結婚、2人の子供に恵まれる。2013年、モーリシャス大学の副学長に立候補するにあたり、宗教上の差別を受けたとしてMauritian Equal Opportunities Commission(EOC)に提訴。EOCは、訴えが正当ではないとしたが、選出のプロセスに問題ありとして、候補者の適格性に関する基準の見直しを行った。結局、彼女は大学を去り、自分のリサーチ研究所を開設。2015年5月以降、モーリシャス大統領。

 

 

1959年~(ジンバブウェ)
Tsitsi Dangarembga:作家。英領ローデシア時代に生まれ、幼くしてイギリスに両親とともに渡り、西欧の文化に直接触れる。1965年に帰国後、初等教育と中等教育を終える。1977年、18歳の時にイギリスのケンブリッジ大学医学部に入学するも、修了することなく再び帰国し、ハラレ大学で心理学を学ぶ傍ら、ドラマクラブに所属。自分の考えや経験を文章や劇で表現することに関心を持ち始め、初めての作品The Lost of the Soilを発表(1983)。1987年にはShe No Longer Weepを上演する。しかし、彼女の作品の中でもっとも評価が高いのは、1988年に出版し、翌年にCommonwealth Writers Prizeのアフリカ部門賞を受賞した小説Nervous Conditionsである。ジェンダー、植民地、ポストコロニアル文学として、20年を経てなお読まれ続けている。1990年には詩集In a Voyageを世に出したが、その後映画製作に没頭し、現代アフリカにおける寡婦の権利を描いたNeria(1992)は、ジンバブウェ映画界にセンセーションを巻き起こした。その後、エイズ大流行に直面し、アフリカ人女性の身体とセックスライフのコントロールによる女性自身の闘いを描いた。2000年代には、Nyerai Filmsというプロダクションを立ち上げ、2002年には、小説を執筆する傍ら、ハラレで女性の映画製作者の祭典を開催するなどの活動と続けている。

1959年~(中央アフリカ共和国)
Catherine Samba-Panza
:実業家、弁護士出身で、同国では多数派のキリスト教徒。2013年から首都バンギの市長であったが、2014年1月に暫定議会の決選投票で同国初の女性元首に選出された。国内のキリスト教徒とイスラーム教徒の衝突に対し、武器を捨て、平和を回復するよう呼びかけている。 

1960年~(オーストラリア)
Marion Scrymgour :政治家。先住民女性初の大臣。

生年不明~1960年(南ローデシア/ジンバブウェ)
Mai Chaza:治癒師、預言者。1948年に夫の家族から追い出された後、死と再生の経験を経て、預言者兼治癒師として身障者や不妊女性や悪霊にとり付かれた人々の救済を開始。それまで所属していた男性主導のメソディスト教会から信者を獲得することに失敗し、1954年にウィッチ退治というショナ民族の女性が担ってきた慣習をメソディストの一夫一婦制という理想で強化した独立教会Guta re Jehova(CityofGod)を創設、2500人ほどの信者を獲得。彼女の教会は、女性が主導した預言者的な独立教会であったことが特徴である。入植者型の植民地の都市部に顕著な現象であり、他にAlice LenshinaのLumpa Church(1950年代)や1990年代のZenzele Church(ジンバブウェ)が挙げられる。 

1961年~(カメルーン)
Calixthe Beyala:作家、エッセイイスト、フェミニスト。中学~大学教育をフランスとスペインで終える。1987年以降、パリを拠点にフランス語で2年に一本の割で執筆。とりわけ、フェミニストの闘いを描いた“Lettre d’une africaine a ses soeurs occidentals,”(Letter from an African Woman to Her Western Sisters,1995)とフランス社会の人種差別を描いた“Lettre d’une afro-francaise a ses compatriots,”(Letter from an Afro-French Woman to Her Compatriots,2000)の二本のエッセイは、大きな反響を呼んだ。彼女の執筆の中心テーマは、アフリカとアフリカ人の在るべき姿を描くことではなく、ポストコロニアルのアフリカの都市の貧困と、女性へのそのインパクトである。パリを舞台にした作品では、アフリカ人移民社会に視点を移し、そこでの家族のダイナミックスと女性の自律性を描いた。移民は女性に力を与え、新しいアイデンティティを獲得させる一方、かつてのアフリカの父権制は急速に姿を消していく。作品をめぐる賛否両論が渦巻く中、彼女は植民地主義の結果として引き起こされ、アフリカとアフリカ人に多様なインパクトを与え続けている文化と階級の現代的衝突の中で、女性が生き抜いていく方法を探し続けている。

1968年~1985年(シリア)
Sana’a Mehaydali : Syrian Socialist National Party(SSNP)によって、1885年、レバノンのイスラエル護送隊への自爆テロを行った最初の女性。1985~87年の間に、SSNPはさらに6人の女性に自爆テロを敢行させた。

1974~1991年(インド)
Thenmuli Rajaratnam :1991年、インド首相Rajiv Gandhiを自爆テロで暗殺。他に16人死亡。

1975年~(コソヴォ)
Atifete Jahjaga:
コソヴォダイ代大統領。女性の権利擁護政策を実施。

1978年~2005年(南ア)
Makobo Modjadji :「雨の女王」(rain queen)。2003年にBalovedu民族集団の「雨の女王」に即位、2005年に病死。祖母も母も「雨の女王」だった。彼女は、200年間の歴代の「雨の女王」の中で、高校を卒業した初めての女王であり、女王であった期間が最短の女王。
Baloveduの「雨の女王」の起源は、近親相姦的な関係を暗示する口頭伝承しか残っていない。ジンバブウェ南部のMonomotapa王国のKaranga人の首長が娘のPrincess Dzugundiniと近親相姦関係を持ったという伝承もそのひとつ。子供が生まれ、それが共同体に大きな動揺と批判を巻き起こした。娘は父親から「雨を降らす力」(rain-making power)をもらい、Monomotapa王国から南の方向へと逃がれたという伝承である。もうひとつは、Princess Dzugundiniが兄弟と近親相姦関係を持ち、子供が生まれたと言う伝承。王女の父親は、王女とその近親相姦の相手である兄弟、そして生まれた子供は殺されるべきだという共同体の期待に背き、王女に「雨を降らす力」を与えて、一行を南方へと逃した。彼らはMolototsi Valleyに定住し、Mugudoという称号を持った首長の支配下に入った。この首長は家族内のトラブルで息子たちを殺害し、移住してきた王女の集団が持つ母系の王朝を再興するために、自分の娘との近親相姦関係を持つよう、先祖に命令されたと主張した、というのである。
このようにして、政治権力と「雨を降らす力」は、女性の支配者Rain Queen Modjadjiに託された。彼女は公に姿を現すことを許されず、会話も仲介者を通してしかできなかった。しかも結婚することも許されなかったが、密かに仕組まれた方法で子供をもうけることはできた。その方法というのが、いわゆる「女性婚」である。「妻」となる女性は、王室の評議会が、Baloveduの名だたるクランから選び、女王の男性親族との間で子供をつくった。その子供たちが、女王の子供となったのである。ModjadjiはこうしたBaloveduの聖なるシステムを象徴する存在なのである。多くの植民地化前のアフリカ人支配者に崇められていた「雨の女王」は、抗争と変化のダイナミズムを体現する存在でもあった。過去200年間に、植民地的侵略下の変容などを強要されたにもかかわらず、その権威は揺るがずに維持されている。

 

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