【年表6-①】世界女性史年表(人名)1700年以前

今後随時更新します。 掲載:2015.11.10 執筆:富永智津子

紀元前2400年頃 (メソポタミア)
Ku-Bau :はたご屋の経営者から都市国家Kishの支配者となった女性。古代の近東において知られているおそらく最初の女性支配者。

紀元前2334年頃 (メソポタミア、アッカド、ウル)
Enheduanna: アッカドのサルゴンがシュメールを征服し、南部の都市国家ウルのシュメールの月神Nannaの最高位の司祭に娘のEnheduannaを任命。名前が知られている最初の文学者(詩や文章)でもある。

紀元前1570年頃(古代エジプト)
Ahmose Nefertari誕生(1305年没):第18王朝の開祖アフメス王の妹であり、正妻。アフメス王は在位中に、妻のネフェルタリや後世の王妃たちのために「アフモンの神妻」の地位を職位として定めた。この法は「神妻」の地位に富と土地を与えるものであった。王妃は、男性の神官に混じって神殿の儀式に参加し、夫である王に助言もした。
夫や息子に先立たれたが、トトメス1世の治世まで生き、長く栄誉を称えられ、新王国時代を通して神格化され崇拝の対象となった。(L.ブレイクマン監修『世界女性史大事典』)

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ハトシェプスト

紀元前1479年頃(エジプト)
Hatshepsut(在位紀元前紀元前1479~1458年):古代エジプトの数少ない女性ファラオのひとり。トトメス1世の娘、トトメス2世の妹であり妻。娘Neferureの母。しかし、トトメス2世は、他の妻の息子をトトメス3世として後継者に指名。おそらくトトメス3世が幼かったため、以来、Hatshepsutが摂政となる。王が幼い場合に年長の女性の親族、通常は母親が摂政となることは珍しくはなかった。しかし、Hatshepsutは、共同統治というエジプトの伝統を利用し、7年後には実権を掌握。ただし、伝統的には、王が自分の後継者を共同統治者として指名するのが通常だったため、Hatshepsutの場合は全く異なっていたといえる。
Hatshepsutは、神々のなかの神であるAmun-Reの娘であると宣言することによって王としての地位を固めた。また父トトメス1世が、彼女を後継者として任命していたが、トトメス2世の治世にはGreat Royal Wifeの肩書きだけを与えられ、実権を行使できなかったのだともいわれている。
王の役割は、男性に限定されていた。この役割を全うするために、Hatshepsutは付け髭や短いスカートを身に着け、男性を模した銅像や図像で自分を表象した。テキストでは、男性形と女性形の両方の名詞や形容詞を使用させた。一方で、王族としての名前は女性の名前を使い、しかも男性の支配者には不可能だったであろう女神に結びつけたさまざまな言葉の言い回しを使って、王権を強化したという研究者もいる。
他のエジプト王と同じく、Hatshepsutも廃墟となっていた神殿を再建し、新しい神殿を建設した。なかでもカルナックのアムン神殿や王家の谷の墳墓は有名である。その他には、プント(おそらく現在のソマリアかエリトリア)の地への交易船の派遣が有名であり、それについては、Deir el-Bahriにある葬祭殿にレリーフとして残されている。この遠征は、乳香没薬が採取できるミルラの木を含むアフリカ産の贅沢品を多く持ち帰ったことでも知られている。その木は、現在でも神殿の中庭に残されている。
こうした交易により、Hatshepsutは平和的な外交政策を実施していたとされるが、それは正しくはない。女性であったこともその理由のひとつに挙げられている。Hatshepsutは、少なくとも一回は、ヌビアに対する軍事行動を指揮している。彼女はトトメス3世とともに、ナイル川の第四瀑布までのすべてのヌビアを支配下に置き、その金鉱や石切り場や労働力を手に入れるとともに、中央アフリカへの交易路を確保するという先人の願望を達成したのである。これによってエジプトの南の境界線が確保され、トトメス3世のその後のレヴァントでの戦争を勝利に導く布石となった。
Hatshepsutは、娘のNefrureを重用していた。一説によれば、彼女をトトメス3世と結婚させるか、もしくは自分の後継者としてファラオに即位させようと思っていた可能性があるという。というのは、Nefrureは、しばしば若い王子として図像に登場しているからである。しかし、彼女に関する記録は短期間に終わっており、おそらく若くして死亡したものと思われる。
Hatshepsutはトトメスの治世22年目までに記録から消えている。彼女のミイラも発見されておらず、したがって死因も不明。20年後、トトメス3世は、彼女に関する記録やリリーフの多くを除去し、自分の父親や祖父のもとに取り換えた。しかし、これは、個人的な悪意によるものというより、自分の息子のAmenhotepの王位継承を確実なものとしたいがためであったという可能性もある。のちに、記録係がHatshepsutの名を神殿の王家の祖先のリストから取り除いた。しかし、Hatshepsutの名を持つ女性が、その後の世代に現れていることは、Hatshepsutに関する記憶がすべてタブーとなっていたわけではないことを示している。
間接的にではあるが、Hatshepsutは多くの女性の生き方に影響を与えた。Amun神を称えるために、その祭事に多くの女性の歌手や楽師を雇用したことも、そのひとつに挙げられる。

紀元前14世紀(古代エジプト)
Tiy, Queen of Egyptアメンホテップ3世の妻。多神教を一神教に変えたアクエナテンAkhenaten(アメンホテップ4世)の母。

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ネフェルティティ

紀元前14世紀(古代エジプト)
Nefertiti:古代エジプトの女王、多神教を一神教(太陽神Aten)信仰へ変えたアメンホテプ4世(のちにイクナートン、あるいはアクエンアテンAkhenatenと改名;在位1353~1336)の妻。神殿や墳墓のレリーフは、Nefertitiが突出した人物であったことを示している。とりわけ、王妃は王とともに祭殿に描かれているのが一般的だった中、Nefertitiがひとりでテーベの太陽神を祭った神殿で捧げものをしているレリーフの存在がそれを証明している。
Nefertitiの夫への影響力については断片的な資料しかないが、夫がTell el-‘Amarnaに遷都した時には、その儀礼や宗教的行事で重要な役割を果たしており、絵画にも夫と同じサイズで描かれているなど、古代エジプト史上もっとも王と同等の立場にあった王妃とされている。
【女性】古代エジプトの女王たち

紀元前1300年頃(古代エジプト)
Nefertari古代エジプト第19王朝、第3代ファラオ、ラムセス2世(ラムセス大王)の正妃。出自は不明。ネフェルタリは、アメン神の神后の称号を持ち、この称号によって、独立した多くの富と権力を授けられた。ネフェルタリは夫ラムセスに深く愛されていたと見られ、王妃の谷のなかにあって、もっとも壮麗な彼女の王妃墓-QV66からもそれが伺える。

紀元前10世紀頃(イエメン/エチオピア)
Makeda, Queen of Sheba: ソロモン王を謎かけ問答で試したとされる知的で美しい女王。古代の文献に登場するが、謎に満ちた人物であり、その生涯についてはほとんど知られていない。実名も統治していた国の正確な所在も不明。にもかかわらず、アフリカ系アメリカ人やエチオピア人、あるいはムスリムやユダヤ教徒を3000年にわたって魅了してきた。
イスラームとユダヤの伝承においては、この女王が、紀元前10世紀頃、現代のエチオピアとイエメン、あるいはアラビア南西部あたりに存在していたサバ(シェバ)王国の支配者であったことについては一致している。コーランの中ではBalqis,、もしくはBalkisの名で登場し、人間に超自然的な力を行使できるジン、つまり精霊の末裔とされている。ユダヤの伝承の中では、名前は記されておらず、エチオピアの文書の中ではMakedaという名前で登場し、今日、このマケダという名前が頻繁に引用されている。
女王が、イスラエルの王でありダビデの子孫であるソロモンの宮廷を訪れたことについては、旧約聖書(ユダヤの聖典)、コーラン、エチオピアのKebra Nagast (The Glory of Kings)という3つの文書が立証している。もっとも有名なシェバの女王の物語は、旧約聖書の「列王記上」10:1-14と「歴代誌下」 9:1-12に登場する。両方ともに同じ描写で始まる。「シェバの女王は主の御名によるソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうとしてやってきた。彼女はきわめて大勢の随員を伴い、香料、非常に多くの金、宝石をらくだに積んでエルサレムに来た。ソロモンのところに来ると、彼女はあらかじめ考えておいたすべての質問を浴びせたが、ソロモンはそのすべてに回答を与えた。王にわからない事、答えられたい事は何一つなかった。」。これが、その後の女王の旅に関する物語の基本形となっている。
コーランは、アラム語のTargum Sheniのユダヤ版である旧約聖書のエステル記に依拠している。そこでは、メッセージを運ぶ鳥がソロモン王に、Balqisという名の強力なサバの女王がいることを告げたことになっている。しかし、コーランでは、Balqisはアラーではなく太陽神を崇める異教徒となっており、ソロモン王の宮廷に呼ばれ、その偉大さに感服してアラーを信仰するようになったとされている。後に、イスラームの記者が、物語を装飾し、Balqisを天から落ちてきた天使か悪魔に似たジンの末裔に仕立て上げた上に、ソロモンとBalqisが結婚したという話を付け加えた。ふたりの間に生まれた息子はシェバの女王の後継者となったというわけである。
この結婚から生まれた息子が、エチオピア伝承の核心部分となる。そこでは、女王の名はMakedaとなっている。14世紀に口頭伝承から編まれたKebra Nagastによれば、マケダは、商人からソロモン王の名声を聞いて贈り物を携えてエルサレムを訪れたところ、マケダに魅了された王がマケダを誘惑し、息子(Ebna Hakim またはMenelik)が生まれ、この息子がエチオピアの最初の皇帝メネリク1世になったというのだ。
最近になって、シェバの女王をめぐるふたつの説が浮上してきた。ひとつは、ソロモンとシェバの女王の出会いは、ソロモンの名声とは関係なく、交易に関する交渉をするためであったという説。もうひとつは、近年のアフリカ人やアフリカ系アメリカ人の研究者が主張するシェバの女王のアフリカ起源説である。彼らは、女王がアフリカ起源であることを示す歴史的史料があると指摘する。たとえば、シェバの女王は聖書に登場する2人のアフリカ人の女王のうちのひとりであるというのだ。ちなみにもうひとりは新約聖書の「使徒言行録」に登場するCandace。初期キリスト教の指導者であったFlavius Josephus(c.185~c.254)とSaint Jerome(c.347~c.420)は、シェバの女王がアフリカの黒人王国の女王であったと考えていた。 シェバの女王の死後、何世紀も経てなお、女王は時空間を越えて人びとの想像力を掻き立てていることは確かである。

紀元前7~6世紀(ギリシア)
Sappho :古代ギリシアで大詩人として知られる数少ない女性のひとり。当時 流行していたlyric meterを洗練し、現在、Sapphic meterとして知られているものを確立させた。また、文学の中でレズビアン関係を描いたことでも有名であり、「レズビアン」という名称は、彼女の故郷であるLesbos島に由来している。

紀元前4世紀末~(マケドニア/古代エジプト)
アルシノエ2世(前3世紀初頭没):マケドニアの王妃。エジプトに帰国後、実の弟プロレマイオス2世と結婚、王と王妃の一対からなく王権のイメージを作り上げることに寄与。(⇒森谷「マルシノエ2世―プトレマイオス1世の娘、プトレマイオス2世の王妃」参照)

紀元前375年頃~316年(マケドニア)
オリュンピアス:
モロッソイ王国の王族の娘として生まれ、マケドニア王フィリッポスと結婚、息子アレクサンドロス(のちの大王)誕生。338年には、カイロネイアの会戦を指揮してギリシアを征服し、ギリシア諸国の代表を招集してコリントす同盟を結成。336年フィリッポスが暗殺され、息子のアレクサンドロスがマケドニア王に就く。323年にアレクサンドロス大王がバビロンで死去すると、王位をめぐっての抗争中に316年、欠席裁判で死刑判決を受けたうえで殺害される。(参考文献 森谷公俊『アレクサンドロスとオリュンピアス―大王の母、光輝と波乱の生涯』ちくま学芸文庫、2012)

紀元前248年頃(ヴェトナム)
Trinh Trieu Thi :ヴェトナムの女性戦士。Lady TrieuもしくはElder Sister Trieuとしても知られる。中国軍に対して、象に乗って、勇猛果敢だが、あまり訓練されていない軍団を率いて戦った。

紀元前180年頃(中国)
Dowager Lü Zhi(呂后) :漢王朝を建てた初代皇帝劉邦(Gaozu)の妃。皇帝の死後、摂政に就任。勅令を発布した中国史上最初の女性支配者。

紀元前170年頃(スーダン)
Shanakdakheto誕生(紀元前150年頃没)

クシュ王国メロエ朝の最初の女王。戦場に赴いた武人女王としても知られる。王妃や摂政としてではなく、自立した女王であり、支配者であった。メロエのピラミッドの中でもひときわ大きなピラミッドは彼女のために建設され、内部には芸術性の高いリリーフで装飾されていたと考えられている。「ラーの息子」「2つの国の支配者」という称号を持つ。ナカで発見された彼女の名前が書かれた碑文は、現存するメロエ文字で書かれた最古のものである。その後、メロエは、4世紀までに7人の女性の支配者を輩出している。

紀元前69年~紀元31年(古代エジプト)
CleopatraVII: 古代エジプトのプトレマイオス朝最後の女王。アクティウムの戦いの後、自殺。
【女性】プトレマイオス朝エジプトと女王クレオパトラ

紀元前58年~紀元29年没(ローマ帝国)
Livia Drusilla :初代皇帝Octavian(のちのAugustus)と結婚、50年以上にわたり、Julio-Claudian clanの王朝政治における中心的役割を担った古代ローマ期のもっとも重要な女性。

紀元前?(ローマ帝国植民都市/ガリラヤ)
Mary, Mother of Jesus
:イエスの母マリア、のちの聖母マリア。

紀元前?(ローマ帝国植民都市/マグダラ)
Mary Magdarene
イエスのガリラヤ伝道中、イエスと弟子たちに奉仕した女性たちのひとり。女性たちの多くは、イエスによって「病気を癒された」人びと。とりわけマグダラのマリヤは、7つの悪霊から解放された女性として描かれている。4つの福音書に共通に伝えられるマグダラのマリヤの登場場面は、イエスの十字架と埋葬と復活の朝の三か所。とりわけ、ヨハネ記者によって描かれた、マグダラのマリアが復活のキリストと出会う場面は有名である。一方、外典『マグダラのマリヤによる福音書』は、彼女が罪ある女性であるどころか、イエスの最初の女性使徒であったことを伝えている。

紀元42年~43年頃(ヴェトナム)
Trung姉妹の反乱 :中国による侵略への反乱(紀元42~43)に火をつけたエリート女性。敗北に終わったが、今でもなおヴェトナムのレジスタンス運動の象徴となっている。

61年頃(イギリス)
Queen Boudicca :東ブリタニアを治めていたケルト人の女王。夫の死後、実権を掌握、ローマに対する反乱を指揮。ローマによって占領された後、自殺。

182年~203年(カルタゴ/チュニジア)
Perpetua :キリスト教徒であることを放棄しなかったため、ローマによって処刑された女性殉教者。

2世紀(ローマ帝国)
Thecla
2世紀の外典“Acts of Paul and Thecla”に登場するパウロの弟子。小アジア(現在のトルコ)の Iconium出身の女性。パウロの訪問後に結婚することを拒否したため、婚約者と母親が役所に赴いてパウロが町の女性たちを「堕落」させていると訴える。パウロとテクラは逮捕され、パウロは町から追放される。しかし、テクラは火刑の最中に、雷光と降り注ぐ雨で炎がかき消され、難を逃れた。
釈放されたテクラはAntiochに向かったが、その途中でAlexanderという名の男性にレイプされようとしたが、彼女は彼の衣服をズタズタに咲いて、公衆の面前で彼に恥をかかせた。Alexanderは、権力を行使して、彼女を捕え、動物の餌として闘技場に引き出すことに成功する。闘技場に引き出されるまでの間に、彼女は裕福な女性に接待を受ける。闘技場に引き出されたとき観衆の中にいた女性たちが、彼女の勇気を称えたたため、雄のライオンからの攻撃を雌のライオンが防御してくれ、命を助けられた。その後も数々の苦難を切り抜けたため、総督はついに、彼女を釈放。その後、彼女は男装し、使徒としての道を歩み始める。外典の使徒行伝は、彼女が小アジアのSeleucuaという町で永遠の眠りについたと伝えている。
この外典については、その詳細な女性の性格や社会関係のゆえに、当時の口頭伝承を起源とした物語ではないかとする研究者もいる。こうした起源は不明のままだが、3世紀初めには、女性が説教したり、洗礼を授けたりする自由を擁護するために、テクラの事例を取り上げていたという証拠は存在している。
古代ローマ・ギリシア時代末期までには、テクラはマリアに次いで人気のある聖女となっていた。Seleuciの教会(Hagia Thekla)は、巡礼の中心建造物となっており、未婚女性の共同体がそこに形成されている。テクラ信仰は、地中海一帯に急速に広がり、彼女の名前を子供に付ける信者も多い。テクラの名を冠した女子修道院も多い。

272年(パルミラ/シリア)
Zenobia :この年、Palmyra(現在のシリア)を拠点とした王国の王Septimius Odaenathusの妃没。王の死後、王位を継承し、272年にローマに滅ぼされるまで支配者として君臨した。
【年表】古代オリエント~地中海世界(BC3500~AD500)(ゼノビアについて解説あり)

360年頃~415年頃(アレキサンドリア/エジプト)
Hypatia : アレキサンドリアの哲学者であり、かなりのライフヒストリーが知られている最初の天文学者・数学者。新プラトン主義者。総督とアレキサンドリア主教との対立に巻き込まれ、暴徒によって殺害された。

475年~545年(フランク王国/フランス)
Clotilda  : フランク王クローヴィスの妻。夫より早くからカトリックを受け入れていた彼女は、夫を説得して、496年に改宗させたとされている。それによって、ヨーロッパ諸王国に典型的な教会と国家との公的な関係が構築された。
【女性】メロヴィング王妃たちの攻防(三成美保)

525年~587年(フランク王国/フランス)
Radegund  :   フランク人の王妃。フランスのポワティエにHoly Crossの女子修道院を創設。あらゆる階層の女子を受け入れたが、時には、家庭内暴力や政治的迫害を逃れてきた貴族の女性の避難所ともなった。聖人。

604年~632年(イスラーム/サウジアラビア)
Fatima bint Muhammad : 預言者ムハンマドと第一夫人ハディジャの娘。シーア派の合法的イマームとされるハッサンとフセインの母。

614年頃~678年(イスラーム/サウジアラビア)
A’isha : 預言者ムハンマドの第三夫人。656年のBattle of the Camelで第3代カリフのウスマンが殺され、第4代カリフにアリが指名されたのを聞き及び、武器をとってアリの支持者(シーア派)に戦いを挑んだ。ムスリム同士が初めて交戦したことで、ムスリム世界における最初の内戦とされている。

614年頃~680年(イギリス)
Hild of Whitby
: ホイットビーの女子大修道院長。聖人。

619/620年頃(イスラーム/サウジアラビア)
Khadijah :この頃 イスラームの開祖ムハンマドの第一夫人ハディジャ没。ムハンマドを預言者と認め、イスラームを受け入れた最初の人。イスラーム初期の苦難の時期、ムハンマドを精神的・経済的に支えた。

A_Tang_Dynasty_Empress_Wu_Zetian

武則天

624年~705年(中国)
Wu Zetian (武則天:在位690~705):唐の高宗の皇后となり、15年間統治。中国史上、唯一の女帝。道教に代えて、仏教を国教とした。

 

 

634年(古代韓国)
Sandok(善徳女王):この年、女王に即位。朝鮮半島南部の新羅の3人の女性支配者の最初のひとり(在位634~654)。彼女は新羅の自立を保持し、学問・外交・研究を奨励し、宗教と行政に関する改革を行った。
【特論11】朝鮮女性はどのように生きてきたか?(宋連玉)

714年頃~801年(イスラーム/イラク)
Rabi ‘ah al-‘Adawiyyah :著名な禁欲主義者であり教師。バスラの3人の偉大な女性スーフィーのひとり。

752年~803年(東ローマ帝国)
Eirēnēhē Athēnaiā(エイレーネー):東ローマ帝国イサウリア王朝の第5代皇帝(在位:797~802)。同王朝第3代皇帝レオーン4世の皇后で、第4代皇帝コンスタンティノス6世の生母。ローマ帝国史上初の女帝。渾名の“アテナイア”は「アテナイ人」の意であり、生地がアテナイであったことによる。第一次聖像画破壊運動(726年頃~784年)に際し、夫の死後、幼い息子コンスタンティノス6世の摂政となったエイレーネーは、擁護派を総主教につけて(784)この論争に終止符を打ったことでも知られる。長じて帝位についた息子コンスタンティノス6世との間で確執が生じ、エイレーネーは息子を追放し、自ら帝位に就くことになる。ちなみに、第二次聖像画破壊運動(814~843)を再燃させたテオフィロス皇帝の死後、この運動に終止符を打ったのはその皇后であったテオドラである。(詳しくは、若林啓史著『聖像画論争とイスラーム』知泉書簡、2003年参照)

9世紀(中国)
Lu Meiniang(820年頃没):中国南部生まれの唐代の有名な妓女。道教に造詣が深く、かつ詩人としても知られる。

10世紀(エチオピア)
Agaoの女王 Gudit:「Damotの女王」としても知られている。エチオピア高地のキリスト教王国に反抗。エチオピア南部における女性の政治支配の伝統を代表する人物。

970年~1023年(エジプト)
Sitt al-Mulk:シーア派の分派イスマイリアを奉じるファーティマ朝(969~1171)の王女。現在のチュニジアのal-Mansuriyyaで、カリフal-‘Azizとキリスト教徒の奴隷の母親との間に生まれ、エジプトのカイロの自分の宮殿に、何千人もの奴隷とともに住み、独身を通した。
また、義理の兄弟であり、カリフの地位を継承したal-Hakimの暗殺に関わったことでも中世イスラーム史によく登場する女性。al-Hakimの死後、彼の息子でありSittの甥にあたるal-Zahirを後継者に指名させ、al-Zahirが1021年に即位するまで、実権を掌握。Al-Zahirの即位後も摂政として実権を行使した。al-Hakimが導入した女性の外出禁止令を廃止したり、税制を改革したり、奪った屋敷地を地主に返還。カイロの公衆浴場や庭園を一般市民に開放したことでも知られている。
国際的な場面では、1022年に外交交渉によってビザンティン皇帝にキリスト教会の再建とキリスト教徒の受け入れの認可を与えている。その代わりに、ビザンティンはムスリムに課していたビザンティン領内での交易禁止令を解除した。こうした交渉は、Sittが病死した1023年以降は中断することになる。

973年頃~1014年(日本)
紫式部 :世界最古の物語のひとつ『源氏物語』の著者。

1083年~1153年頃(東ローマ帝国)
Anna Comnena コンスタンティノープル生まれの王女。医術にも長け、父である皇帝Alexios1世の生涯を描いた歴史書Alexiadis(The Alexiad)の著者としても有名。
【女性】ビザンツ皇女アンナ・コムネナ(1083-1153/54)(三成美保)

1098年~1179年(ドイツ)
Hildegard of Bingen  :多彩な才能を持ったBingen女子大修道院長。もっとも洗練された神学論を展開したとされるBook of Divine Worksの執筆が最後の仕事となった。

1095年頃~1164年(フランス)
Heloise :夫のPeter Abelardから贈られたTroyes近郊の土地にParaclete女子修道院を建設。その修道院長を務めた。当時の女性としては珍しくラテン語に通じ、夫宛ての手紙を残している。

1122年~1204年(フランス)
Eleanor of Aquitaine :フランス王ルイ7世の王妃だった時、夫とともに第2回十字軍に参加しエルサレムに遠征。ルイ7世との結婚が解消されると、イングランド王Henry Plantagenetと結婚。
【年表】ヨーロッパ中世(500~1500)(エレオノール・ダキテーヌの記事あり)

1130年頃~1160年(インド)
Mahadevi Akka :詩人。世俗の生活を離れ、シヴァ信仰を通して、聖人の域に達した女性。Veerashaiva Bakti運動の中心人物

1157年~1225年(日本)
北条政子:北条時政の娘、源頼朝の妻。頼朝亡き後、仏門に下り尼となったが、後継者選びに乗じて深く政治と関わるようになる。長男頼家と次男実朝の後見役として実権を掌握。朝廷が幕府討伐を命ずると兵を挙げて京に攻め入り、幕府体制を維持。死ぬまで、北条氏の執権とともに幕府を支配した。

1194年~1253年(イタリア)
アッシジのキアラ(クララ)

聖人(1255年列聖)。キアラは、聖フランチェスコへの忠誠で知られ、「もう一人のフランチェスコ」とよばれることもあった。
キアラは、サッソ=ロッソ伯ファヴォリーノの娘として、アッシジで生まれた。母オルトラーナは非常に敬虔な女性で、後に娘キアラの修道院へ入った。1210年、キアラはアッシジの路上でフランチェスコの説教を聞き、強く心を動かされた。彼はローマ教皇インノケンティウス3世に新たに認可された托鉢修道会について話していたのである。1212年3月20日、キアラの両親が娘を裕福な男に嫁がせることにしたため、キアラは家を飛び出し、聖フランチェスコの指導をあおぎ、修道生活に入った。キアラは、清貧、貞節、従順の誓いを受け入れた証として髪を短く切り、粗末なチュニックを着た。 やがて、尼僧アグネス(ボヘミアのアグネス:もとボヘミア王女:1211–1282)とともに清貧の女性修道会を創立した。フランチェスコ会が国中を説教して回るのと異なり、聖キアラの尼僧たちは囲い地の中に暮らし、祈りと労働を日課とした。当時、女性が各地を転々とすることは、世間から非常に厳しく見られたからである。

1236年~1240年(インド)
Sultan Raziyya:デリー王朝(1206~1526)唯一の女性のスルタン(在位1236~1240年。 彼女自身が、スルタンの女性形であるスルタナと称することを拒否)。

13世紀~1257年(エジプト)
Shajar al-Durr :アユーブ朝のSultan al-Salih Ayyubの妃。夫の死後、フランスのルイ9世の第7回十字軍から、エジプトをの防御に重要な役割を果たした。

1262年~1289年(インド)
Rudrama-devi  :デカン高原のKakatiya王国の王位を父から継承し、統治に成功した数少ない女性支配者のひとり(在位1262~1289) 。

13世紀末~1298年(インド)
Muktabai :詩人、聖人。マハラシュトラのアランディ生まれ。兄弟とともにVarkari bhaktiとして知られるマラーティ語の詩の一派を創設。

1347年頃~1380年(イタリア)
Catherine of Siena :ドミニコ会第三会員。哲学と神学に秀で、法王グレゴリー9世をフランスからイタリアに迎えるために尽力。イタリア諸都市間に和平をもたらしたことでも知られる。厳しい断食と苦行の末、33歳で没。教皇等とかわした300通以上の手紙は、初期トスカーナ文学の傑作の一つとみなされている。1970年、教皇パウルス6世は、女性として初めて聖カタリナと聖テレサに教会博士の称号を贈った。

1365年~1430年頃(フランス)
Christine de Pizan :男性が知的に女性より優れているとの主張を批判し、女性にも公的な場を確保すべきだとするThe Book of the City of Ladiesを著し、フランスで最初に出版された。

1395年~1472年頃(ビルマ)
Shinsawbu  :Pegu(Hanthawaddy)のMon王国の女王となる。Shengtasambhuの名でも知られる。

1412年頃~1431年(フランス)
Joan of Arc(Jeanne d’Arc) :百年戦争中、フランス皇太子シャルル(チャールズ)7世を支持したために異教徒と非難され、1431年、当時イギリスの支配下にあったノルマンディーのルーエンで火あぶりの刑に処せられた。

15世紀末~16世紀(ベニン王国/南西部ナイジェリア)
Idiaiyoba(皇太后=queen mother)のタイトルを与えられたベニン王国最初の女性。宮殿で裁判を行い、軍隊を率いて戦場で戦った唯一の女性として人びとに記憶されている。司祭としても実権を行使した。

1451年~1504年(スペイン)
Isabel of Castle :夫であるAragonのFerdinand2世とともに、ルネッサンス期のスペインの女王として君臨(在位1474~1504)。

1496年頃~1531年もしくは1551年以降に没(中米)
Malinche:現地語のNahuaとMayaの両言語を話し、Hernan CortesのTenochtitlan征服期(1519~1521)に先住民妻として付き添った。

1490年~1549年(スペイン)
Maria de Toledo :クリストファー・コロンブスの息子の妻。家族のために経済的資産を巡って法的な闘いを挑んだ。スペインの王室評議会がコロンブスの残した屋敷を認め、勝訴。

1507年頃~1580年(スペイン)
Inés de Suárez :スペインの軍人Pedro de Valdiviaがチリのサンチアゴ市を建設するときに尽力したスペイン女性。同じ年、Valdiviaの不在中、サンチアゴ奪回を図った何千人もの先住民を追い払うにあたり、助力した。こうした功績への報酬として、チリ植民地の広大な土地を付与された。

1511年~1548年(タイ)
Suriyothai :アユタヤ王国の王妃。男装して夫とともにビルマ軍との戦いに赴き、夫をかばって戦死。

1519年~1589年(フランス)
Catherine de Médicis:国王アンリ2世の王妃。王の死後の1560~1574年、摂政としてフランスを統治。フランス宗教戦争における重要人物。

1523年頃~1603年(ムガル帝国/アフガニスタン/インド)
Gulbadan Banu Begam :現在のアフガニスタンのカーブル生まれ。ムガル帝国初代国王Baburの娘。Humayunなどのムガル帝国初期の皇帝たちの宮廷生活を描写した回想録Ahval(Humayun-nama)の著者。

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エリザベス1世

1533年~1603年(イギリス)
ElizabethⅠ世 イングランドとアイルランドの女王在位1558~1603年)。テューダー朝第5代にして最後の君主。
【女性】メアリ1世とエリザベス1世ー王位継承権をめぐって

1536年~1610年(ナイジェリア)
Aminatu , Queen of Zaria:ハウサ人。王家の出身。戦士として頭角を現し、1576年、王位を継いだ弟の死後、現在のナイジェリア北部に存在したサハラ交易の拠点である王国Zauzau(20世紀初頭、イギリス植民地下でZariaに改名される)の支配者となり、36年にわたり君臨。領土の拡大に寄与。900年におよぶZauzauの歴史上、唯一の女性支配者。ムスリム王国の女性支配者となったという点でも稀有な存在。

16世紀中葉(ニジェール/ナイジェリア)
Aisa Kili Ngirmaramma
:ボルヌのカヌリ帝国の支配者(在位1563年頃~1570年)。前支配者Dunama(在位1545頃~62/63)の娘。女性の君主を軽視してきたアラビア語文書には登場しないが、伝承されてきた歴史の中には残されている。H.R.Palmerが収集した伝承によれば、彼女はIdris Alomaが統治を引き継ぐまで、支配を行った。(Dictionary of African Historical Biography)

1552年~1614年(イタリア)
Lavinia Fontana
ヨーロッパでプロの画家として成功した最初の女性。

1557年~1640年(フランス)

Jeanne of Lestonnac :1607年、カトリックの女子教育の修道会Sisters of the Company of Mary, Our Ladyを創設。聖人。

1577年~1645年(ムガル帝国/インド)
Nur Jahan :Jahangir王と結婚したムガル朝時代にもっとも大きな権力を掌握した王妃。1627年にJahangir王が死去する直前には、実質的な君主として振る舞った。

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Nzinga

1582年~1663年(アンゴラ)
Njinga(Nzinga), Queen of Matamba:アンゴラ北部のNdongo とMatamba両王国の支配者(在位1624~1663年)。
1617年から1622年のポルトガル人侵略者とImbangala(軍事化した難民集団)とMbundu人農民との間の戦闘により、Ndongo王国が弱体化。1622年、Njingaとふたりの姉妹Kambo とKifunjiは、ポルトガルと義理の兄であるNdongoの王Ngola Mbandeとの和平の人質として首都Luandaに到着。和平が結ばれる。NjingaのNdongo王国における地位は不明だったが、彼女がキリスト教の洗礼をうけたことにより、ヨーロッパ人の注目を惹くことになる。
1624年、Ngola Mbandeの死後、Njingaは後継者であることを宣言。しかし、ポルトガルが1622年に結ばれた和平を遵守していないという彼女の主張がポルトガル人の役人を怒らせ、結局、Njingaは、Njingaの正統性に疑問を持つ貴族たちを支援するポルトガル軍によって、1629年に追放される。天然痘の流行も彼女に不利な状況をもたらした。
NjingaはImbangalaのリーダーと結婚。その後、新たに入手した呪薬によって、夫の軍団の半数以上を支配下におき、Imbangalaの将軍の地位を確立してMatamba王国の領土を奪い、自分の宮廷を構えた。
1630年代~1640年代を通して、Njingaは奴隷狩りを行い、交易ルートを確保して勢力の奪回を図ったが、ポルトガルとポルトガルに支援されたNdongo西部の指導者Ngola Airiの脅威は続いた。Njingaは、多様な民族集団を徒離婚ながら、Luandaを占領したオランダ人と組んで、こうした脅威を取り除こうと戦いを挑むが、1646年にポルトガルに敗れ、再び妹Kamboが囚われの身となった。もうひとりの妹Kifunjiは、スパイとしてポルトガルの支配領域に配置した。その間、Njingaの軍団は、態勢を立て直してポルトガルに攻勢をかけた。この戦闘と同時に奴隷反乱が勃発、ポルトガルはこの反乱の責任をNjingaに押し付けた。ポルトガルは報復として、妹のKifunjiをスパイとして殺害した。
1648年8月、ブラジルの艦隊がポルトガル勢力に加勢し、オランダ人をLuandaから追い出した。援軍を期待できなかったNjingaは、妹のKamboを救出するために宗教と交渉という戦略に転じた。1650年代初頭、彼女はイタリア人のカプチン修道僧たちとの交渉を通してポルトガルに対抗しようとした。妹との交換条件として、ポルトガルは奴隷を要求。一方、カプチン修道僧は、Njingaの悔悛と宮廷の改宗、および新生児の洗礼を求めた。1655年、Njingaとポルトガル間の敵対関係に終止符が打たれ、妹Kanboが釈放された。しかしなお、Njingaは、Mbunduの貴族層(その多くはキリスト教に改宗)と定住を好まないImbangala集団との対立が、自分の死後、内戦を引き起こし、王国が崩壊するのではないかという不安に捉われていた。
Njingaは妹のKamboを後継者とすることによって、後継者争いを防止しようとしたが、すでに年老いていた妹がそうした権威を確立することは難しかった。Kamboと自分自身の身を守るために、Njingaは、親族と血族の価値を再評価し、女性は宮廷内で子供を産むこと、そして人びとには定住農耕に励むようお触れを出した。1663年12月、Kamboが後継者となり、Njingaの遺産は継承されることとなった。17~18世紀には、Mtambaの女性支配者が、Njinga の偉業を宮廷儀礼に再現し、後世に伝えた。演劇、祭り、伝記などを通して、アンゴラや海外在住のアフリカ系の人びとは、敵対勢力に果敢に抵抗したNjingaの功績を称えている。

1586年~1617年(ペルー)
Saint Rose of Lima= Isabel Flores de Oliva :ペルー生まれ。アメリカ両大陸でカトリックの聖人に叙された最初の女性。

1591年~1643年(北米、ボストン)
Anne Hutchinson :女が説く異端のキリスト教がボストンの女性たちに及ぼす影響を危惧したボストン清教徒教会によって、1637年に裁判にかけられる。その結果、他の追随者ともどもボストンを追放され、のちにRhode Islandとして知られるようになる島にコロニーを建設。

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Pocahontas(1616)

1595年頃~1617年(北米)
Pocahontas :ヴァージニアの先住民。首長Powhatanの娘。知られている話は、ほとんどが伝説であり、歴史的事実ではない。歴史的事実はきわめて少ない。
1610年頃、Pocahontasは、同じ部族の実力のない男性と結婚したが、彼女がイギリス人に捕らわれ、1年以上にわたって捕虜となってた間に離婚。その間に、John Rolfeという入植者と恋におちる。ふたりは1614年4月頃に結婚。この結婚により、父親とイギリスとの和平が成立する。その後、息子Thomas Rolfeが生まれる。一家は1616年にヴァージニア・カンパニーの援助でロンドンを訪れる。会社の目的は、キリスト教に改宗した首長の娘を見せびらかすためだった。1617年、先住民の宣教師として故郷へ送り返される船上で、Pocahontasは、出血性の下痢のために死去。ケントに葬られる。

1599年~1672年(フランス/カナダ)
Marie de l’Incarnation :ウルスラ修道会の尼僧。ケベック州のフランス人とインド人の女性教育に尽くした。フランス生まれ。

1602年~1665年(スペイン/アメリカ)
Sor Maria de Agreda :スペイン人尼僧。14冊ものイエスとマリアに関する本を著した。スペインとニューメキシコ、およびテキサス西部に同時に現れたとされている。

1612年~1675年(アチェ/インドネシア)
Taj al-Alam Safiyyat :スマトラ北部のアチェ王国の14代スルタナ在位1641~1675年)。17世紀に王位に就いた4人のスルタナのひとりで、最初の女性。

1614年~1702年(イギリス)
Margaret Fell :二番目の夫George FoxとともにReligious Society of Friendsの創設に携わる。女性の精神的平等と女性の声が会合や説教で尊重されるべきかを論じた小冊子Womens Speaking Justified, Proved and Allowed of by the Scripturesを出版。クウェーカーの指導者。

1618年~1645年(エクアドル)
Marianita De Jesús  :Lily of Quitoとしても知られる。1853年に列福に、1950年6月9日には聖人に叙せられる。

1620年~1700年(カナダ)
Marguerite Bourgeois :フランスのTroyes生まれの尼僧。フランス人と先住民の若い女性のための最初の信徒教会をカナダで設立。

1623年~1673年(イギリス)
Margaret Cavendish:イギリス貴族の家系に生まれる。詩人、エッセイイスト、劇作家、自然哲学者(natural phylosophy)。(→三成【年表8】人文学・科学技術の歴史)

1626年~1689年(スウェーデン)
Kristina:スウェーデンの女王。在位1632~1654)。父王の死後6歳で即位。1644年頃から親政を行う。フランス王国を提携して中央ヨーロッパに進出し、ウェストファーレン条約では、ポメラニアのほか多数の都市と賠償金を得る。神聖ローマ皇帝に迫って、新京都の権益を広げさせることにも成功。インドランド共和国と同盟を結び、スウェーデンのヨーロッパにおける大国の地位を安定させた。レズビアンとしても有名。

1630年頃~1694年頃(ギニアビサウ

Bibiana Vazアフリカ人女性とカポ=ヴェルデ生まれのポルトガル系アフリカ人の父との間に生まれ、17世紀の奴隷商人としてその名を馳せた女性。1670~80年代にガンビアとシエラレオネの河川との間に広大な交易帝国を樹立。

1634年~1693年(フランス)
La Fayette作家。本名マリー=マドレーヌ・ピオシュ・ド・ラ・ヴェルニュ、ラファイエット伯爵夫人(Marie-Madeleine Pioche de La Vergne, comtesse de La Fayette)。
パリの下級貴族の家庭で生まれ、若くしてギリシャ語、ラテン語、イタリア語などを学んだ。少女時代から摂政母后アンヌ・ ドートリッシュに仕え、サロンの花形となった。1655年、ラファイエット伯爵と結婚、オーヴェルニュの領地に暮らすが、1660年ごろには夫婦仲は疎遠になっていた。やがて、亡命中のチャールズ1世の未亡人であったヘンリエッタ・マリアと末娘の王女ヘンリエッタ・アンの知遇を得た。10歳年下のヘンリエッタと深い友情で結ばれ、その友情は生涯変わらず、ヘンリエッタ・アンの最期も看取った。義兄ルイ14世とヘンリエッタの不倫を擁護するために、小説を刊行する。『クレーヴの奥方』などの作品を残し、1693年に死去した。

1635年頃~1711年(北米)
Mary Rowlandson :植民地ニューイングランド生まれの白人女性。King Philipというあだ名を持つ先住民による1676年の襲撃で拉致され、11日後に釈放された経験を持つ。A True History of the Caprivity and Restoration of Mrs Mary Rowlandsonを出版。アメリカでの最初のベストセラーとなる。

1644年~1670年(イギリス/フランス)
Henrietta Anne Stuart:イングランド国王(スチュアート朝)チャールズ1世(清教徒革命で処刑)と王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(フランス王アンリ4世の三女)の次女として生まれた。兄にチャールズ2世、ジェームズ2世、姉にオラニエ公(オランダ総督)ウィレム2世妃メアリー・ヘンリエッタ(イングランド王ウィリアム3世の母)がいる。フランス王ルイ14世・オルレアン公フィリップ1世兄弟は母方の従弟で、イングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世は甥に当たる。教養豊かで、若く才能に恵まれた芸術家達の育成と保護に励んだ。

1646年~1684年(イタリア)
Elena Lucrezia Cornaro:Padua大学から博士号を取得した最初の女性。

1647年~1717年(ドイツ)
Maria Sibylla
Merian:自然科学者・画家。とくに昆虫の変態に関する観察研究で業績を残す。(→【女性】マリア・シビラ・メーリアン

1648年~1695年(スペイン領アメリカ)

Sor Juana Inés de la Cruz:スペイン領アメリカでもっとも有名な尼僧。詩人。

1650年頃(ザンジバル/タンザニア)
Mwana Mwema, Queen of Zanzibar:スワヒリ語圏における女性の政治的指導者としての役割については議論があるが、Mwana Mwemaが歴史上の人物であり、支配者であったことについては十分な根拠がある。もっと正確に言えば、彼女はザンジバル島南部のワハディムと呼ばれる民族集団の女王であった可能性が高い。
Mwana Mwemaの歴史的役割については、その名前がザンジバル島北部に位置する小さな島Tumbatuの女王Mwana wa Mwanaと類似していることから、混乱が生じている。さらに、ザンジバルの観光化にともない、ウェブサイトなどで、Mwana Mwemaは「ザンジバルをポルトガル支配から解放した」指導者であるといった物語が流布している。この物語はもう少し込み入っている。つまり、Mwana Mwemaは確かに、独立を維持するために、交易拠点としてのザンジバルをねらうさまざまな勢力と格闘していたという経緯があるからである。
アラブやヨーロッパ人による植民地化前、東アフリカ沿岸部には多くの都市国家が存在した。その統治者は、「王」(mwenyi mkuu)や「女王」と呼ばれ、世襲制だった。
16世紀初頭、ポルトガル人が東アフリカをインド洋交易の拠点として統制下に置こうし、それに続き、17世紀中葉にはオマーンが進出する。そうした複雑な状況下で、Mwana Mwemaのような地元の支配者は、独立を維持するために、外交戦略や戦闘に巻き込まれることになる。
ポルトガルの史料や地元の口頭伝承によれば、当初ポルトガルと同盟関係にあったMwana Mwemaは、1652年にポルトガルによって追放される。彼女が頼みとしたのが、1650年にポルトガルを駆逐して独立を回復したオマーンだった。オマーン軍はカトリックの僧侶を殺害し、キリスト教徒を監禁した。ただちに報復に出たポルトガルは、ザンジバルの町を略奪し、Mwana Mwemaとその息子を追放したということになっている。
その他に、Mwana Mwemaはイエメン出身のアラブ人と結婚し、弟のYusufが王位を継ぎ、その後継者としては姪のFatumaがザンジバル北部の女王に即位したとの史料も残っている。

1671年~1742年(コロンビア)
Sor Francisca Josefa Castillo y Guevara :コロンビアの白人尼僧。死後に出版された自伝が世界的な人気を博す。

1675年~1761年(インド)
Maharani Tarabai :ヒンドゥー国家Maratha王だった夫Chhatrapati Rajaram Bhonsle(Shivajiの息子)の死後、摂政となり、ムガル帝国からMarathaの独立を守る。

1684年頃~1706年(コンゴ王国/コンゴ共和国/コンゴ民主共和国/アンゴラ)Kimpa Vita
Kimpa Vita:「コンゴのジャンヌダルク」として知られている宗教指導者。貴族の家庭に生まれ、洗礼を受ける。洗礼名はDona Beatriz。その当時の地域一帯は政治的に不安定で、数名の首長が覇権を競って、40年間にわたる内戦(1665~1706)が続いていた。 Kimba Vitaは、精霊の世界と交感できるnganga marindaと呼ばれる治癒専門の霊媒師だったが、妖術との関連を疑われるとして、霊媒師をやめた。1704年までに、王位をめぐる内戦が、コンゴのもっとも肥沃な土地の人口を減少させ、さまよい出た農民の多くが、兵士になったり、捉えられて奴隷として新大陸に売られたりした。1703年、Kimba vitaは故郷を救うよう神からの啓示を受け、1704年8月に死んで、PaduaのSaint Anthonyが自分の身体に入ったと宣言。神は彼女に廃棄されたコンゴの首都に人びとを呼び戻し、新しい支配者を選ぶよう命じたというのである。
当初、人びとは“Antonian movement”として知られている彼女の運動に合流し、首都を占拠したが、彼女が新しい支配者を選ぶと、コンゴの貴族層が反旗を翻し、さらにはヨーロッパ人のカトリック教会の書記が、彼女を悪魔にとり付かれた女性であるとの見方を広めた。こうした中、Kimba vita は妊娠したため、首都を離れて子供を産む。運動に敵対的な勢力に捕まり、Pedro4世に引き渡されたKimba Vitaとその連れ合いは、異端審問の末、火刑に処せられた。子供は火刑にされなかったが、まもなく死亡。
Antonian運動の支持者は戦いを続けたが、3年後に敗れ、多くは逃亡したり、自首したり、あるいは行方がわからなくなった。Antonian運動はコンゴ王国を再統合し、首都を再選挙し、さらにキリスト教のアフリカ化を成し遂げたことによって、コンゴの歴史に記憶されている。

1684年~1727年(ロシア)
エカチェリーナ1世
現在のエストニアの農民の娘として生まれ、数奇な運命を辿ってロシア皇帝ピョートル1世に「献上」された。最初の妻との不和から妻を幽閉したピョートル1世は、エカチェリーナを気に入り、1707年にワルシャワ近郊で秘密結婚した。正式の結婚は1712年。1725年にピョートル1世が死去。エカチェリーナが女帝として即位、ロシア史上最初の女性となる。実権は最高枢密院が掌握していたため、ほとんど実績を残せずに死去。
エカチェリーナ

 

 

 

 

 

1695年~1756年(ペルー)
Sor María Anna Águeda de San Ignacio :神学者、作家。スペイン人の父親と先住民の母親との間にメキシコで生まれる。19歳の時に、Pueblaにあるカトリックの女子修道院に入る。1740年、修道院長に昇格。


●続きは⇒【年表6-②】世界女性史年表(人名)18世紀