【現代アフリカ史15】キリスト教宣教団の介入

掲載:2015.09.24 執筆:富永智津子

奴隷貿易の禁止という人道的な目的からアフリカに介入し、その後、植民地化と植民地統治の「協力者」となったキリスト教宣教団は、キリスト教的道徳律を導入し、アフリカ人のジェンダー関係を変革しようとした。そのひとつが、一夫一婦制の奨励である。先に引用したクライジェは、1930年代の南アのプレトリアのアフリカ人居住区において、「教会と国家は、一夫一婦制を奨励しているが、一夫多妻からの移行は簡単ではなく、妾や不倫が横行している」と記している。同様に、1930年代の結婚前妊娠についてのモノグラフを書いているI.シャペラは、「オランダ改革派教会が公式の宗教となっていたベチュアナランド保護領(現在のボツワナ)では、一夫多妻主義者に追加的な税金を課すことによって、その全廃をねらっており、効果は次第に現れている。たとえば、1930年の小屋税支払者に登録されている3574人のうち、一夫多妻を実践しているのは73人、そのうち2人以上の妻を持つ男性は4人だけだった。しかし、これが、以前には第三、第四夫人になっていた若い女性の結婚を困難にし、生活のために妾になるしかない状況を生み出している」と報告している(Schapera,1933)。

Weltreligionen

宗教(ブルー=プロテスタント、バイオレット=カトリック、ピンク=ギリシア正教/グリーン系=イスラム教/オレンジ=ヒンドゥー教/黄色・黄緑・薄茶=仏教) クリックすると拡大 出典:https://de.wikipedia.org/wiki/Christentum#/media/File:Weltreligionen.png

同じ1930年代、こうしたキリスト教のアフリカ文化への介入に批判的な宣教師があらわれた。マラウィで活動していたイギリス人T. カレン・ヤングである(Young,1935)。彼はアフリカ人の儀礼や宗教を外国人が変えたり適用したりできるとするのは、宣教師の安易な考えであるとする。アフリカ人は完成された信仰体系をもっており、その信仰体系がよって立つ基盤が内部から変化しなければ、アフリカの信仰は変わらないというのである。つまり、アフリカ人共同体が、より開かれた大きな共同体になること、それ以外にキリスト教が入り込む余地はないというのが彼の結論であった。同時期、同じような批判が「アフリカの言語と文化に関する国際協会」の機関誌『アフリカ』に掲載された。Martin Parrの論稿「婚姻条例ー英領アフリカの事例」である( “Marriage Ordinances for Africans” Africa vol.17, no.1 1947⇒翻訳を参照のこと)。著者の批判の矛先は、この婚姻条例が、クリスチャンと非クリスチャンを差別化するなど、政教分離というイングランドの基本方針に反している点に向けられている。しかも、アフリカにはアフリカの法があるにもかかわらず、それを無視して外国人が勝手に決めた条例を押し付けたこと、それによってアフリカ社会を混乱に陥れたことを、具体的な事例を紹介しつつ検証している。たとえば、クリスチャンはイギリス法廷に、非クリスチャンは原住民法廷に、それぞれ提訴すべしという規定は、手続きや費用の点で、実質的にイギリス法廷に提訴できるアフリカ人クリスチャンがいなかったことによる弊害、あるいは部族法では「近親相姦」にあたる結婚が、クリスチャン同士の結婚で見られることによる動揺、などが指摘されている。

一方、1940年代にベルギー領コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)におけるプロテスタント宣教団の方針について調査したJ.デビッドソンによれば、「ここでは、市民婚、慣習婚、宗教婚(教会婚)が認められているが、プロテスタント宣教団の間には、宗教婚についても慣習婚についても、統一した見解や政策は存在しない。慣習婚をしているメンバーに形式的に宗教婚をさせる教会もあれば、慣習婚がふさわしいとしながらも、頼まれれば宗教婚を執り行う教会もある」と報告している(Davidson,1948)。こうした宣教団のあいまいな態度の背景には、アフリカ人の側の事情も関係している。たとえば、婚資を非クリスチャンの親戚から援助してもらう若者は、クリスチャンであってもまずは慣習婚を行う。しかし、宗教婚より永続性がないということを現実問題として認識しはじめている若者は、その後、宗教婚を行って慣習婚を補強しているというのである。問題は、クリスチャンと非クリスチャンの結婚の場合である。ここにはストレートにジェンダー差別が露呈している。男性がクリスチャンなら、女性が非クリスチャンでも教会は宗教婚を執り行うが、その逆は教会での結婚式の対象にはならない。つまり、妻は夫の慣習婚に従うべきだというアフリカ人の男性優位の考え方を、教会も共有していたのである。

1940年代のフランス領アフリカにおけるキリスト教会については、H.G.パリンダーの報告がある(Parrinder, 1947)。フランスはイギリス領アフリカで施行されていたようなアフリカ人キリスト教徒向けの婚姻に関する法令を公布していなかったため、さまざまな宣教団がそれぞれの方針のもとに、アフリカ人の慣習法を基盤として、その修正版の確立を試みていた。その点では、ベルギー領コンゴの事例に近いといえよう。

このように、アフリカの慣習を一部認めながら、新しい試みを導入するという方法は、他でも見られた。すでに紹介したベルリン・ルテラン・ミッションによる隔離される少女を救出するための寄宿制学校の事例がそれに該当する。この傾向は、19世紀末~20世紀にかけて現れた「アフリカ独立教会」では顕著にみられる。

キリスト教宣教団のもうひとつの活動領域は教育である。植民地下では、宣教所に寄宿制の学校が併設され、男女別々にカリキュラムが組まれた。西欧の習慣や価値観が伝授され、女子学生には、良妻教育が行われた。教育を受けた女性の登場は、当該社会のジェンダー関係をどのように変えたのだろうか。先に引用したリトルの報告にある1940年代のシエラレオネ保護領の事例をみてみよう(Little,1948)。

当時、学校教育を受けていた少女は約2千人。保護領の3分の2の学校は、都市部に開設されたミッション経営の学校である。ほとんどの少女は初等教育レヴェルで教育を終える。専門職としては看護婦と教師への道が開かれていたが、資格を取れる人数はごくわずかだった。問題は、ひとたび都市の西欧化された文化と近代教育を受けた少女には、きわめて厳しい現実が待っていたことである。それは、少女たちがそれまでの生活様式への劣等感を植えつけられたこと、かといって新しい生活様式を手に入れることはできない、それを実現するための結婚相手も容易にみつからない、いたとしても彼らは近代的な洋服や靴を欲しがらずに良く働いて小銭をかせいでくれる無教育の少女で一夫多妻に反対しない少女を妻にしたがる、といった現実だった。当時は教育を受けた階層の男性は一夫多妻を実践しており、たとえば、62人の教育を受けた男性のうち、38人が一夫多妻婚をしていたのだ。この状況に追い討ちをかけたのが、結婚に関わる法規定の混乱である。保護領のすべてのアフリカ人と同様に、教育を受けた女性が婚資を介して結婚した場合、夫が先に死亡すると、夫の親族に身請けされ、教会婚をして婚資がやり取りされない場合、結婚は「合法」とはみなされず、夫の家族に扶養してもらえる法的権利を失うのである。どちらに転んでも、立場は苦しい。たとえ、給与生活者の妻となって都市部に住むとしても、新しい環境に順応するための社会的訓練を欠いているため、夫婦間の諍いが絶えない。伝統社会におけるジェンダー関係が、近代的外観の表面下でくすぶっていた結果だという。

とはいえ、こうした過渡期を経て、アフリカのどの都市でも、女性の社会的地位は確実に変化し始めており、キリスト教宣教団や植民地政府が導入した近代教育が、家父長的な拡大家族への女性の依存度を減らし、女性が自立への道を歩みだすことによって、ジェンダー関係にも多様な変化がもたらされる時代は近づいていたといえるだろう。ちなみに、このプロセスは、独立を経て、公教育が導入された21世紀の現在も進行中であり、そのひとつの事例として、中村香子「スルメレイが手にした選択肢ーケニア・サンブル女性のライフコースの変容」落合雄彦編著『アフリカの女性とりプロダクションー国際社会の開発言説をたおやかに超えてー』(昂洋書房、2016年、第3章)を挙げておきたい。そこでは、「スルメレイ」という女子割礼(FGM/C)を受けはしたが結婚をしないという、かつては蔑視の対象であった女性の特異な社会的地位をあえて選択する女性が増加してきたこと、その背景のひとつに教育が介在していることがフィールドワークの中で明らかにされている。その選択は、親が決めていた結婚相手を自分で選択する自由を手にすることによって、伝統的なジェンダー秩序の一角を突き崩しつつあるという点で注目される。

さて、話は再び、植民地時代にもどる。植民地下での社会的変容のプロセスと並行して展開したのが解放闘争だった。解放闘争は、女性の意識も大きく変えた。その先頭を切ったのが、アパルトヘイトという抑圧体制と闘う中でジェンダー平等をめざして立ち上がった南アフリカの女性たちである。女性たちの思いは、1954年に採択された『女性憲章』に込められている(→【史料】『女性憲章』(南アフリカ女性連盟創立大会、1954年)・『自由憲章』(1955年)(富永智津子/永原陽子共訳))。

【現代アフリカ史16】『女性憲章』

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