【現代アフリカ史13】セクシュアリティの統制―その変化と多様な攻防

掲載:2015.09.24 執筆:富永智津子

アフリカ社会のセクシュアリティの管理の方法は、世界の他の地域に比べ、きわめて多様だった。もっとも過酷な管理をされていたことでたびたび引用されるのが、東アフリカ沿岸部のイスラーム社会に住むザラモ人(タンザニア・ダルエスサラーム周辺に居住)の女性である。1939年の論文で、栄養学の専門家G.M.カルウィックは、「4年間、私は隔離された40人のイスラーム教徒の少女をまぢかに見てきた。そのうち5人は精神的不調をきたし、3人は気が狂い、祝福されることなく外に出された。暗い部屋に長期間閉じ込められていることは、精神的にも身体的にも若い女性に打撃を与える。身体的不調は隔離後1年以降に現れる。発作を起こしたり、病気になったりすることもしばしばある」との白人のシスターの記録を引用しながら、初潮から結婚するまでの期間、何か月、場合によっては何年も暗い部屋に隔離され、精神的にも身体的にも異常をきたしている少女の存在を確認している(Culwick,1939)。

この状況に介入し、少女たちに新たな環境を用意したのが、キリスト教ミッションだった。ザラモ人居住地(マネロマンゴ)に拠点を設置したベルリン・ルテラン・ミッションは、まず、隔離期間を2か月間と定め、隔離後に入学する寄宿制の学校を開設したのである。少女たちは、結婚までそこで過ごすことになる。新しい制度をアフリカの制度に接ぎ木することによって、少しずつ「近代化」を図ろうとするキリスト教宣教団のやり方である。この新しいシステムは、すでに第一次大戦前のドイツ統治下で始まっていたが、敗戦にともなうドイツの撤退によって機能不全に追い込まれていた。それと同じ制度を、戦前から活動を続けていたベルリン・ルテラン・ミッションが引き継いだのである。シスターが残した記録によれば、1932年に3人の少女の受け入れから出発し、1938年には117人を受け入れるようにまでなったという。

その後の状況については、1980年代に調査研究を行ったスワンツの論文が参考になる。彼女によれば、学校教育が始まり、教師が少女の成女儀礼に介入し始めたことにより、こうした隔離の慣習が廃れたと思われたが、実際には、さまざまな形で残っていた。少女から成人女性への変化を象徴する形式的な儀礼として残っている村もあれば、彼女の調査村(ムワンバオ)では教育課程を終えると通常1年間の隔離がまだ行われていたという。宣教所が活動していたマネロマンゴはどちらに入るのだろうか。

隔離の目的についてもカルウィックとスワンツとでは見解が異なる。スワンツは、隔離によって、少女が成人になり、セクシュアル・アイデンティティを身に着け、子孫を残すという基本的な女性の社会的役割を叩き込まれるのだという。一方、カルウィックは、隔離は結婚前の妊娠を防止するためだと、さまざまな慣行や実態を事例にあげながら力説する。どちらが正論かは判断が難しいが、隔離の慣行が、1980年代になり、形を変えながらも残っていたということは、カルウィックの言うようなセクシュアリティの統制と、しかし、それ以上に、民族としてのアイデンティティと結びついた女性のセクシュアル・アイデンティティの社会化が隔離の「真髄」に、その目的があったと言うべきであろう。

なお、スワンツは、こうした隔離の慣習はタンザニアのバントゥー民族の間では普遍的にみられた慣行にその起源があり、イスラームの女性隔離とは直接関係がないとしている(Swanz,1986:197)。というのは、イスラームの女性隔離が処女性を守ることを第一の目的としているのに対し、ザラモ人の隔離は、カルウィックの説をとるにしろ、スワンツの説をとるにしろ、少女の処女性を守ることが目的ではないからである。とりわけ、カルウィックは、多くの少女が初潮前にセックスを経験していることをその理由として挙げている。なお、ザラモ社会ではFGM(「女性性切除」あるいは「女性割礼) は行われていない。ちなみにスワンツは、この女性隔離の起源を、奴隷商人に娘を誘拐されないために始められた慣行だとしているが、妊娠防止やセクシュアル・アイデンティティとの関連については、もう少し慎重な史料の跡づけが必要となるだろう。

t16ちなみに、これと全く同じ慣習が、モザンビーク北部のインド洋に点在するキリンバス諸島に属するイボ島にも残っていることを最近テレビのドキュメンタリーで知った。それぞれの家庭によって期間は異なるが、少女は初潮を迎えるとその後、2か月~3年ほど隔離され、家の中で過ごす。隔離が終わると結婚の準備が整った合図となる。スワンツが述べているように、バントゥー系諸民族に共通してみられる慣行だとしたら、この島でまだ行われていても不思議ではない。

3年も隔離状態だったという少女も、それを誇らしげに話していた。イボ島は、少なくとも15世紀にはイスラームを受け入れ、ザラモと同じスワヒリ文化圏に属している。興味深いことは、イボ島の社会はイスラーム社会にもかかわらず、父系に移行することなく妻方居住の母系制を維持していることである。だから、夫はきわめて肩身の狭い思いをして暮らしている。そのよ うな ジェンダー関係の中で、隔離をどのように意味づけることができるのか。スワンツはそれに対するひとつの仮説を提示している。つまり、ザラモも元もとは母系社会である。イスラームの受容は「男子割礼」の風習をムスリムになることと関連づけさせ、それによって、女性の隔離に対抗できる心理的・社会的意味を男性に与えたというのである。この仮説を介在させると、ドキュメンタリーの中で、隔離期間が長いほど、女性としての品位が高いとみなされ、良い結婚相手に恵まれるという説明にも納得がいく。(イボ島についての情報は、2015年9月12日放送の東日本放送「所さんのびっくり村」のドキュメントから得た。)

t17カルウィックの報告にあるようなザラモの事例の対極に位置づけられるのが、ボツワナはカラハリ砂漠に住むサン(ブッシュマン)のグイ/ガナ集団だろう。先に引用した今村によれば、少女は、初潮前からいいなづけ(その多くはイトコ)を持ち、結婚は初潮後に成立していた。結婚前の性交渉は妊娠することがないため自由であり、いいなづけ以外の男性との性交渉も容認されている。したがって、ここでは処女性は全く問題とはされない。結婚後は、配偶者の同意のもとに夫婦がそれぞれ愛人をもつことが社会的に承認されており、しかも2組の夫婦がパートナーを交換することもしばしば行われる。基本的に一夫一婦が多いが、中には2人の妻を持つ男性や2人の夫を持つ女性もいる。離婚と再婚も頻繁におこなわれる。今村は、初潮前からのいいなづけの慣行は、1980年代には見られなくなったとしながら、このゆるやかなセクシュアリティと婚姻システムが作り出す錯綜したネットワークが、多数の核家族を結び付ける働きをしていると分析している(今村、2010)。それは、平等主義、絶えず移動を繰り返す生活形態、50人規模の共同体だからこそ成り立つシステムであることは確かであるが、そのような平等の原則を守るために、彼らは徹底した分かち合い(肉・鍋・弓矢・楽器など。ただし、女性が採集した食用植物は分配の対象ではない)の原則を、並々ならぬ努力を払って維持してきたというのである。こうした柔軟なセクシュアリティとジェンダー関係の有り様は、政府の介入による定住化政策によって大きく変わろうとしている。この政策とそれによるグイ/ガナ集団の変容については、この集団を30年以上にわたって追跡調査してきた田中二郎が詳しく記録している(田中、1994,2008)。それによると、定住化は、まず井戸の設置から始まった。人びとが井戸の周辺に集まったところで、援助物資が支給され、男性には弓矢猟にかわる騎馬猟のための馬が導入された。その結果、それまで集団の食料の大部分を支えていた女性の野生植物採集の需要が激減し、一方で、騎馬猟による狩りの効率化とそれにともなう余剰肉の商品化によって男性の現金収入が増えた。騎馬猟に費やす時間は、弓矢猟より少なく、余暇を持て余した男性は、収入の大部分をアルコール飲料に費やすようになり、中毒患者も増えた。こうして、かつての平等原理は崩壊し、相互補完的だった性別分業も過去のものとなりつつある。

その他の事例は、この両者の間のどこかに位置づけることができる。たとえば、1940年代のK.L.リトルの報告に見られるシエラレオネのメンデ社会の事例である(Little,1948)。それによれば、7歳~14歳ころまでの少女は、女性の秘密結社ザンデで性に関する知識を伝授され、軽々しく性交渉しないよう教育される。とりわけ、ザンデでの約3か月間の教育課程を卒業するまでは厳しく禁止されており、その間に少女と性交渉した男性は、ザンデに罰金を支払うことになっていた。性生活は安定した結婚の中で行われるとされているものの、夫が多くの妻を抱えすぎて、夫と疎遠になった妻にはそれも望めない。そうした場合の解決策として浮上したのが、夫の公認のもと、妻が若い男性を同居させる慣行である。この男性は夫から「婚資」にあたる少額の対価を支払われており、妻への労働の提供が義務付けられるともに、勝手に妻の元を離れられない。それが妻の「不倫」の歯止めにもなっていた。

この状況は、植民地下での鉄道建設や自動車道路の敷設によって大きく変化する。女性が自由に出歩ける環境が出現し、交易や労働に従事して現金収入を得るチャンスが生まれたのである。同時に売春に従事する女性も現れる。その中には、既婚女性もおり、若い男性を雇って客引きをさせる女性もいたという。もちろん、妻の「同居人」になるしかなかった貧しい男性にも自立の道が開けた。こうした状況に対し、男性は首長会議や植民地行政を動かし、女性は老いも若きも、夫もしくは両親の保護のもとに置かれ、1か月以上離れてはいけないとする条例を制定したり、他人の妻を誘惑した男性に罰金を科したりするなどして対抗した。女性を他の男性から隔離したり統制したりできるイスラーム人気は、こうした状況下で上昇したという。

それから50年後、女性の移動を制限しようとする同様の動きが、エイズとの関係で浮上した。たとえば、タンザニアの南部地域の事例である。エイズのまん延を、遠方にまで足を延ばして商売をしている女性の責任にしたのである。とりわけ、キリスト教会がエイズと性道徳とを結び付け、女性のセクシュアリティの管理を男性に呼びかけるというジェンダー差別を行ったことは、きわめて植民地的だったと言わざるを得ない(ムビリニ、2006)。

ここで、少女の健康への悪影響という観点から国際的に批判の対象となっているFGM(「女性性器切除」、「女子割礼」)について、セクシュアリティの管理という観点から見ておこう。FGMの目的については、大きく2つに分類できる。処女性を守るというセクシュアリティの管理を目的としたタイプと、成人儀礼や共同体への入会儀礼の一環として行われるタイプのふたつである。前者はイスラーム圏に多く見られ、後者は非イスラーム圏のアフリカ社会で行われているタイプである。母系制社会では行われておらず、男子の割礼が行われていない民族ではFGMも行われていないという相関関係は、アフリカ全土に共通している。

FGMに関して、まず、国別の実施状況がよく地図で示されるが、これは民族の慣習であって、国家とは無関係であることに注意を促しておきたい。FGMの施術が行われる時期については、セクシュアリティの管理を目的とする場合は、比較的幼い時期に行われるが、成人式の儀礼の一環の場合には多様である。たとえば、シエラレオネのメンデ社会では、ザンデでの「教育」の一環として5~10歳ころに行われるが、ケニアの牧畜民レンディーレの場合には、10日にわたる結婚式の儀礼の一環として行われる。儀礼の一環として行われる場合にも、セクシュアリティの管理の意味合いがないわけではない。FGMを受ければ、性的に放縦な女性にならない、ということは当事者の語りによく出てくる。しかし、レンディーレ社会では、未婚の時期には性的管理を強く受けるが、結婚してFGMを受けてからは、一定の規制はあるものの、比較的自由な性生活を送っているという(佐藤俊,1996)。さらに、ケニアのサンブル社会の20年以上にわたる調査研究の中で、中村香子は、サンブルの人びとは、世界的な廃絶運動については周知しているものの「割礼を受けずに出産することを不吉に思い、そのことがもたらしうる不幸な出来事に対する恐怖心が人びとの心から消えないという意味において、現在までのところ、サンブルによっての女性の割礼は、子どもを産むことができない(娘の)身体から、産むことができる(既婚女性の)身体への転換という文化的な意味を維持している」と考察している(中村香子、2016:151注)。筆者が遭遇したタンザニアの事例では、「美容のため」という理由がトップに上っていた。こう見てくると、現在、FGMの目的や意味を一般化して語ることは、もはや不可能であると言わざるを得ない。

また、FGMは、女性の健康を害する非人道的慣習としてキリスト教会や植民地政府の介入を招き、それが政治闘争に発展することもあった。たとえば、ケニアのギクユ人居住地域における1920年代の「女子割礼」禁止をめぐるキリスト教会とアフリカ人教会メンバーの対立である。最終的に教会側は、女子割礼を非難する同意書への署名を強要し、その結果、9割近いギクユ人のメンバーが教会から離脱する事態となった。この対立は、ギクユ社会内部にも「女子割礼」をめぐる賛成派と反対派の対立構造を持ち込み、のちに賛成派が反植民地主義を、反対派が植民地当局への協力派という政治的対立構造に発展することになる。白人が設置した学校教育における女子向けの良妻賢母型カリキュラムに反発したギクユ女性が、「独立学校運動」を展開し、女子教育の改善に乗り出したのも、この「女子割礼」をめぐる対立抗争が契機となっていた(プレスリー、1999)。また、同じくケニアのメル地域では、1956年に植民地政府によってFGMの禁止が強制されると、何千人もの少女たちがお互いに切除しあうといった過激な方法でそれに対抗している。それは、植民地当局と連帯したアフリカ人男性に対する反抗でもあった(Thomas, 1996)。この事例からは、女性のセクシュアリティがヨーロッパ人とかれらと連帯したアフリカ人によって操作されることに対して、あえて女性自身が自分たちの身体を盾に彼らに対抗した、という構図が見て取れる。女性の身体がナショナリズムの象徴として浮上した歴史的瞬間でもあった。それは、FGMが女性のジェンダー・アイデンティティの重要な構成要素となっているというもうひとつの現実と分かちがたく結びついている(FGMとジェンダー・アイデンティティとの関係については、中村香子「スルメレイが手にした選択肢」落合雄彦編著『アフリカの女性とリプロダクションー国際社会の開発言説をたおやかに超えてー』晃洋書房、2016年所収、を参照されたい。)。

セクシュアリティとの関連で、同性愛についても触れておこう。世界的に同性愛や同性婚を容認する流れの中にあって、法的に厳罰化の立場を維持しているのが、アフリカ諸国である。2008年のBBCなどによる調査によれば、同性間の性交渉を非合法としているアフリカの国は55か国中36か国で、いずれも14年以下の懲役刑を科しているが、モーリタニア、スーダン、ナイジェリア北部では死刑の対象となることもある。ただし、そのうち9か国では、レズビアンは違法とみなされていない。一方、同性間性交渉を合法化しているのは19か国で、そのうち南アのみが2006年に同性婚を認めていることはすでに言及した。それにしても、なぜアフリカでは同性愛がそれほど嫌悪されているのか。

キリスト教もイスラームも、ユダヤ教の影響を受けて同性愛を禁じている。アフリカの「宗教」が共同体の道徳を律していたように、イスラーム圏でもキリスト教圏でも宗教が道徳を律していた。同性愛が違法とされた所以である。そのキリスト教の道徳律とそれに基づく法律が、キリスト教国である西欧諸国に支配されていたアフリカ植民地に導入され、しかも、アフリカ諸国は独立後もその制定法を引き継いでいる。それが、現在のアフリカ諸国の同性愛への不寛容な態度を支えている。

しかし、国際的な流れの中で同性愛を容認する国が少しずつ増えていることも確かであり、差別撤廃を謳った憲法との齟齬が同性愛をめぐる議論に発展しているザンビアのような国もある一方、ウガンダのように、同性愛者への厳罰化を図ろうとする動きが、国際社会の非難の的となっている国もある。ちなみに、2009年にウガンダ議会が可決した「反同性愛法」は、2014年に大統領が署名して発効するかにみえたが、憲法裁判所によって、議会での審議の手続きに瑕疵があったとの理由で無効になっている。

ところで、先に言及した南アの同性婚合法化も、ザンビアと同じく、「結婚は男女間でおこなう」との婚姻法の規定が、「性的指向に基づく差別」を禁じた新憲法(1997年発効)に違反していたことに端を発している。裁判所が、この件を下院で審議するよう指示したのである。その際の下院での議論の中でなされた「アパルトヘイト(人種隔離)政策の過去と決別するため、あらゆる差別や偏見と闘わねばならない」という陳述からは、アパルトヘイトという窮極の差別を経験した南アの決意が感じられる。ただし、同性婚に批判的な宗派や宗教、あるいは民族の慣習などを考えると、世界の他地域同様、現実の社会における同性愛者への差別意識が払しょくされるには、まだまだ時間がかかることは言うまでもない。

さらにもうひとつ付け加えるならば、ケニアのルオ社会やシエラレオネのメンデ社会、あるいはその他の民族で行われてきたような「浄化」儀礼としての「性行為」がある。ルオ社会に典型的な、寡婦は見知らぬ男性と「性交渉」を経て初めてレヴィレート(婚)が可能になる(椎野、2008)とか、メンデ社会での「幼児が埋葬された後での両親が行う性交」(little,1948)などである。その意味付けに関しては、筆者の力の及ぶ範囲を超えているので、とりわけ、椎野のルオの事例を参照されたい。

ちなみに、日本には、同性愛行為を処罰した歴史がほとんどなく、平安朝から江戸期まで、は日常生活に組み込まれていた。日本で同性愛行為がタブー視されはじめたのは大正期に西洋から「変態性欲」論が導入されて以降である(三成、2015:8)。

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