【特論5】Ⅰ―⑱ アフリカ人クリスチャンの道徳性 by Monica Hunter (タンザニア)

   Monica Hunter, “An African Christian Morality,” Africa Vol 10, no.2, 1937

掲載:2015.08.03 執筆(翻訳):富永智津子

アフリカ在住の人びとや旅行家たちは、アフリカ人社会への宣教所の影響について言及することがあるが、具体的な事実の分析にもとづいているものは少ない。アフリカ人は多様な西欧文化の影響を受けており、宣教所の影響を他の西欧文化の影響と区別することはきわめて難しい。とりわけ、さまざまな理由から、アフリカ人クリスチャンは、その他の非クリスチャン(pagan)とは異なり、その影響を強く受けているからである。しかし、非クリスチャンとクリスチャンの家族を比較することによって、両者の信仰と行動の違いを研究することができる。そのような違いのひとつが、宗教的制裁の機能(working of religious sanctions)に見られる違いである。タンガニイカ南部のニャキュサ人の行動は、先祖や妖術や魔術への信仰から直接的に影響を受けている。クリスチャンの教師はこうした信仰を攻撃している。問題は、伝統的な制裁(sanctions)への信仰がどの程度クリスチャンのコミュニティに残っているか、そうした伝統的信仰がどの程度キリスト教の信仰に置き換わったり、キリスト教の信仰によって修正されたりしているか、あるいはキリスト教の信仰を受け入れたことによってどのような行動の変化が見られるか、である。

 拘束力(sanctions)―罰則への恐怖、もしくは報酬への期待―は、人びとの行動を決定するにあたり相対的に小さな役割を演じているだけであるということは押さえておく必要がある。人びとは、罰則への恐怖とか報酬への期待よりむしろ、何かを望むがゆえにある決まった行動パターンを選択する。宣教所は、改宗と教育によって―つまり人びとの価値観や願望を変えることによって―人びとの行動を変化させることを目的としている。それはある程度成功している。例えば、ニャキュサ人のクリスチャンの男女の中には、一夫一婦の方が良いという者がおり、彼らは一夫一婦を実践している。一方、すべての非クリスチャンは男女を問わず、一夫多妻がいいという。にもかかわらず、信仰の拘束力は非クリスチャンとクリスチャンのどちらに対しても、その行動を決定する重要な要因となっており、私がここで問題とするのは、クリスチャンの共同体における宗教的拘束力の機能であり、非クリスチャンとクリスチャン両共同体の構成員の行動の比較なのである。ここで議論する教義(dogma)は、宣教師によって教えられたものではなく、アフリカ人クリスチャンの共同体の中で流布している教義である。ふたつの共同体間のギャップは大きい。本稿の目的は、非クリスチャンとクリスチャンの道徳を比較してその価値を比べるといった哲学的な問題を議論することではなく、宗教的な信仰と道徳的行為にみられる両者の相違のアウトラインを簡潔に示すことにある。

キリスト教徒の共同体

 対象はタンガニイカ南部のニャキュサ社会である。ニャキュサの社会組織や宗教的、あるいは法制度については、すでにAfricaに発表されている(原注:Godfrey Wilson, “An African Morality,” Africa, vol 9,no.1【特論5】Ⅰ-④参照;”Introduction to Nyakyusa Law”, Africa, vol.X,no,1)。キリスト教会のメンバーとキリスト教の信者は人口の約3%である(原注:98%がMoravian宣教所とBerlin宣教所に所属している)。モラヴィア宣教団とベルリン宣教団の宣教師は1891年に活動を開始し、第一次大戦後、ホワイト・ファーザースとアメリカン・ペンテコスタルの宣教師が宣教所を設立、その他、ウォッチ・タワーとバンゲメラ(BaNgemela=ウォッチ・タワーから分派して独立した教会で、一夫多妻を認めている)、アフリカ人の指導者が率いているアフリカン・ナショナル・チャーチが活動している。クリスチャンの大多数は、モラヴィア宣教所かベルリン宣教所に所属し、本稿の資料は主としてこの両宣教所で収集した。両宣教所は、合わせて11人の男性宣教師と4人の女性宣教師が、1,750平方マイルの地区に住む人口19万5千人をカヴァーしている。人口の15万人以上はニャキュサ語が母語で、その他は第二言語としてニャキュサ語を習得している。

 クリスチャンの多くは宣教所か学校(“bush school”)のまわりにできた共同体の中で暮らしている。その共同体は、新しい世代の少年たちが年長者とは別に集住する年齢村(age village)から構成されている。最初の改宗者は宣教所の近くに住みつき、クリスチャンとして育ったその息子たちは10~11歳ころになると親元を離れ、隣人の同じ年齢の息子たちと一緒に、親元からそう遠くないところに住みつく。非クリスチャンの年齢村で育った若者がクリスチャンの村に合流する場合もあれば、同じ学校に通っている何人かの非クリスチャンが改宗して近くに新しい村をつくることもある。クリスチャンで、非クリスチャンの年齢村に住んでいる者もいる。クリスチャンの大多数は改宗者である。キリスト教徒の家庭に生まれ育った成人はまだ少ない。

 学校のまわりや非クリスチャンの年齢村に住むクリスチャンは、近くの学校で行われる礼拝に出席しているが、定期的に近くの宣教所の礼拝にも出席し、宣教所のまわりに住む人びとと一緒に信徒団(congregation)を形成している。クリスチャンの共同体の指導者は信徒団のメンバーによって選ばれた長老(elders)や助祭(deacons)と、信徒団との話し合いの末に宣教師によって任命された教師である。宣教所のそれぞれの共同体には、数人の長老と助祭、それに1~3人ほどの教師が学校の運営にあたっている。教師は助祭や長老が兼ねている場合もある。

 クリスチャンの共同体のメンバーは、その地域の首長と補佐官(councillor)もしくは年配の平民の実力者(great commoner)の政治的権威下に置かれている。補佐官もしくは年配の平民実力者は、首長の管轄する領域の半分を治めており、そこにはクリスチャン村がある。しかし、非クリスチャンと対照的に、(彼らが告白するところのものを彼らが信じている限りにおいての)クリスチャンは、攻撃的な妖術からの保護も豊かさも平民実力者や首長に期待しておらず、裁判も平民実力者や首長に訴えることなくクリスチャン村の中での裁定によって解決している。若い非クリスチャンの兄弟たちに宗教的機能を委ねているクリスチャンの首長が2~3人いるが、平民実力者は常に異教徒である(原注:ひとりだけクリスチャンの平民実力者がいるとの情報を得ている。最近、クリスチャンの首長の就任にあたり、平民実力者として任命されるに適していると考えられた若者が、彼より若い異教徒の弟にその地位を譲ったという事例がある。その理由は、彼がクリスチャンだったからである)。クリスチャンはクリスチャンの年齢村を攻撃的妖術から守ることはできないのだ。

 クリスチャンの多くは、非クリスチャンと同じく、農民として家畜を育て、自給用作物を植え、自分で家を建て、税を支払うための現金を稼ぎ、米やコーヒーといった換金作物を育てたり、短期間ヨーロッパ人の元で働いたりして木綿の衣類を購入している。両共同体の家族形態は、一方の中年以上の男性の多くが一夫多妻なのに対し、他方が一夫一婦であるという点で異なっている。一夫一婦は夫と妻、両親と子供の関係に変化をもたらしている。クリスチャンの家族には僚妻や異母兄弟姉妹といった関係が存在しないからである。しかし、一夫一婦に関連した変化とは別に、伝統的な慣習は残っている。親族の絆は婚姻と葬儀の際の牛のやり取りによって維持されている―男性は異母兄弟の娘もしくは娘の結婚時に受け取った家畜から牡牛か牝牛を一頭異母兄弟に与え、その異母兄弟の妹もしくは娘の結婚時にその返礼を受け取る。義理の息子は義理の父親の葬儀で牝牛を殺さねばならない、そして、彼が死んだときには、彼の妻の親族が牝牛を彼の名誉のために殺さねばならない。男性の系譜と牝牛のやり取りの分析は、一夫一婦によって条件づけられた違いとは別に、この交換がベルリン宣教所の所属している非クリスチャンとクリスチャンの両方の家族に同じ方法で機能していることを示している。モラビア教会のメンバーは葬儀で牝牛を殺さない。クリスチャンの遠縁の親族のメンバーの中には、もちろん常に非クリスチャンが含まれている。 

宗教的拘束力

 ここでは、社会的安寧を守らせるための拘束力(sanctions)のさまざまなタイプを分類しておく。つまり、法的、宗教的、経済的、感情的な拘束力である。これらすべての拘束力は非クリスチャンとクリスチャンの間では異なる機能を果たしているが、ここでは、宗教的拘束力(religious sanctions)と、宗教に規定された法的拘束力(legal sanctions determined by religion)を取り上げる。 

 <現世における罰則への恐怖>Fear of Punishment in the present Life

 クリスチャンの共同体は、非クリスチャンの共同体において機能している通常の法と同時に、教会法(Church law)によっても拘束されている。窃盗、不倫、詐欺、夫婦間での執拗な口論、非クリスチャンのダンスに参加すること、霊媒師に相談すること、妖術との交信、といった教会法に違反した者は、教会の法廷(Church court)もしくは長老や助祭や宣教師から構成される審問所(session)に引き出され、叱責されるか、もしくは教会から破門される。したがって、窃盗や不倫といった通常の法と教会法の両方に違反したクリスチャンは、一般の法廷(civil court)と教会の法廷の両方で裁かれることになる。

 教会の法廷で下された裁定の効果は、信仰の度合いに依存している。それは、現世における幸せと未来の幸福を失うことへの恐怖であり、教会からの破門と結びついている。しかし、そこには更なる拘束力が加わっている。宣教所近くに住む多くの改宗者は、宣教所の土地に自分の家を建て、畑を耕している。破門されるとこの宣教所の土地からの立ち退きを要求される。他の土地を確保することが難しくないとしても、移動には家の再建や、土地の開墾や、バナナの植林が必要となるし、宣教所の土地に植えたコーヒーや果物の木を失うことにもなる。加えて、クリスチャンの友人を失うこともある。さらに、クリスチャンの父親は娘との結婚を拒否するかもしれない。

 しかし、教会の法廷で審議されることのない場合でも、悪行を犯した者には超自然的な力を通して現世や来世で不幸がもたらされると信じられている。非クリスチャンは、不幸を、先祖や妖術や魔術によって罰せられる行為をおこなったせいにするのだが、多くのクリスチャンも同じように考えている。多くの教会メンバーや信者は、実際、非クリスチャンの信仰を持ち続けており、病気や死を先祖や攻撃的な妖術や破壊的魔術のせいだと考えている。このような信仰はヨーロッパ人やアフリカ人の教会の指導者によって、非クリスチャン的だと非難されており、私がこのことについて議論したすべてのクリスチャンは、自分自身はそういう考えを持っていないが、多くの隣人たちはそのような考えを信じていると言っている。「改宗度の低い人は非クリスチャンと同じであり、攻撃的な妖術や占いを信じている。彼らはこう言う、妖術師が私を食べた、と。おそらく彼らは非クリスチャンに対してもクリスチャンに対してもこのように言うと思うが、公にはそれを否定する。そんな人たちは良いクリスチャンではないと思う。密かに物を盗む者がいるように、夕方、こっそり占い師のところに行く者がいる。そんな人を見つけたら、しばらくはコミュニオンには加わらせない。また、妖術対策のためにひそかに薬を飲むクリスチャンもいる。しかし、そういうことをする人を、われわれはクリスチャンとは言わない。そういう人を見つけたら、少なくとも一年間は教会から追放し、コミュニオンに参加させない。」(ある助祭の証言)

 ニャキュサ人の教会の指導者の中には、現世の不幸は罪を犯した報いと考えてはいるが、罪人を罰する力を持っているのは神であって、妖術でも先祖でもないと考える人が多くいる。ただし、神の力とは言え、先祖や妖術の力と同じやり方で力が引き出されると考えられている。非クリスチャンは、正当な理由で子供を叱る親は、つぶやく(okwibonesya)と、先祖が行いの悪い子供を罰してくれると信じている。また、正当な理由で年齢村のメンバー、あるいはその成人した子供と対立した場合、攻撃的妖術によってその人に病気や不幸がもたらされるとも信じられている。クリスチャンのほとんどは、両親、長老、教会の牧師、年齢村や信徒共同体のメンバーが神の力を通して同じような影響力を持っていると信じている。

 罪を犯したことと不幸との関連の事例については、二人のクリスチャンの教師の語りを紹介する。「Aは○○の生徒だった(原注:多くの人が関係しているので、個人名や場所の名称は伏せてある)。学校で彼はニャキュサ人の教師に従わなかった。彼はいつもこの教師と口論していた。今、彼は仕事に就けない状態にある。人びとは、その原因が学校にいたときに教師といつも口論していたその自尊心のせいだと考えている・・・。」

「Bは宣教所の奨学金で宣教所が経営する寄宿学校で学んだ。卒業はしたが、彼は宣教所を手伝おうとはしなかった。その後、彼は政府の仕事に就いたが、理由もなく解雇された。われわれは、その理由を、彼が宣教所をないがしろにしたことが原因だと思っている。神(Kyala)が彼を罰したのだ。今、彼は失業中である。あるクリスチャンは、Bの事例について、宣教所の奨学金で学校を出ていながら、宣教所のためにはたらくことを拒否し、12人もの妻を娶り、政府の仕事を解雇され、窃盗の罪で投獄されたのは、『信徒共同体が彼に呪いをかけたからだ』語っている。」

 次の事例は、Dの息子のCについての、もうひとりの教師による語りである。

「Dは○○という村の長老だった。息子のCは寄宿学校から戻り、村で教師の職を得た。その後まもなく彼は首長の娘と不倫を犯した。信徒共同体(つまり、Dの隣人とクリスチャン村の住民)の”父親世代の人たち”は、“長老の息子Cは不倫を犯すことによって神の呪いを受けている”と噂した。その後、Cは教会の悪口を言うようになった。噂は現実となり、彼はワニに食われてしまった(湖畔の村では珍しくはない事故)。彼らはそれを人びとの呪いではなく神の呪い(ekegune)のせいだと話し合った。しかし、神は、“何だと!われわれの息子A、そして彼は他の男性の妻を誘惑している!”と言いながら、信徒共同体が怒ったせいだという声を聞いた。Cの弟も、兄の行動を見習って、同じことをしでかし、“女性の病気”で死んだ。信徒共同体は、“彼らは自分たち自身で呪い(ekegune)を呼び込んだ!”」と言った。Cは1927年に不倫を犯し、ワニに食われたのは1934年だった。しかしこの時間差は私の情報提供者にとっては些細なことのようだった。この回答は、直接質問した時の返事で引き出されたものである。

 もうひとりの教師は、友人と○○宣教所まで旅をしてきた長老Eについて、「彼らが到着した時、たいそう腹が空いていたので、非クリスチャンの男性のところに行って、サトウキビをくれないかと尋ねた。すると彼は“誰にもあげない”と言って拒否した。Eはこの男性に“このサトウキビはおまえにとってどんな価値があるんだ。おまえが死んだら、何の価値がある?役立たずめ(Popapo oligwaki 伝統的な呪いの言葉)!”と言ってその場を離れた。帰路、彼らが同じ道を戻っていくと、人びとがその男性の葬式をしていた。彼は死んでいたのだ。人びとは、Eが彼に呪いをかけたのだと言った。」

 「Mwayaにひとりのスワヒリ人(ムスリムの意味)が住んでいた。彼は日曜毎に畑を耕していた。Eの友人であるFとGが通りかかった。“なぜ日曜に畑を耕しているんだ?”と聞くと、彼は“私の日曜は今日ではない。なぜ私の邪魔をするんだ?私は君たちの邪魔はしていないのに。きみたちは私の日曜に畑を耕してるんだよ”と言った。すると“だけど、耕すのを止めるべきだ”とこの通りかかった2人が言うと、スワヒリ人は“私は止めないよ”と答えた。この2人は“止めなければきっと何かが起こるだろうよ(Fimo fikubcnekela)”。と言った。まもなくスワヒリ人は自分の鍬で足を切った。彼は耕すのを止めて、他の人のところに行って不満を言った。“この男が何をしたっていうの?いったいどんな力を持っているんだろう?彼らはこう言ったんだ。きっと何かが起こる、と。そして本当にその何かが起こったんだ”」。

 他にも宣教師による呪いについて話してくれる者がいた。「彼は学校では優等生だった。特に英語はうまかった。ある日、J(宣教師)が彼に腹を立て、彼を指さした。われわれは彼が何をしたのか知らない。彼は学校をやめ、ヨーロッパ人のところで働き始めたが、しょっちゅう首になった。今は、湖で釣った魚に英語で話しかけながら、漁師をしている」と。

「寄宿舎にいたKはスタンダードⅣの時に退学を申し出た。退学するや否や、女性と駆け落ちした。その女性というのは他のクリスチャンの男性の婚約者で、2人は結婚する寸前だった。宣教師が彼に呪い(okoguna)をかけたのだと噂された。彼はぶらついているだけで、仕事にも就いていなかった。これからも仕事には決して就けない。彼は無教育な人びとと同じように畑を耕しているだけである。」

「もう死んでしまったLという男性のことである。彼は宣教師Mの仕事を手伝っていた。宣教師とその妻が留守をしていた時、Lは宣教師のスーツを着てテーブルに座り、ペンを手にして、何かを書いているふりをしていた。そんな彼を、宣教師が見つけて、彼を首にした。彼は他の仕事を見つけ、数回結婚したが、いずれの妻も死んでしまった。宣教師が彼を呪ったからだと言われている。」

「Nは金持ちだった。一度、ある女性のとりこになったことがあった。宣教師に呼ばれた時、彼はその女性と不倫をしたことを否定した。宣教師は“その女性と不倫をしていないことが確かならば、おまえの財産は失われないだろう。しかし、もし不倫をしていたなら、財産は消えてなくなるだろう。”その後、宣教師が言ったように、財産は消えてなくなった。これは宣教師の呪いのせいだった。」

 上記の話のうち、最後の3話を提供してくれた2人の男性は、「人びとがつぶやいている(okwimonesya)のを神がきいている。神はお見通しするだけでなく、罪人を罰してくれる。」と言った。一方、N(実際、全財産を失った)は、財産を失ったことを、直接、神のせいにしている。

 宣教師の言葉がいかにして呪いとして解釈され得るかは、次の事例が示している。「Oの妻は泥棒だった。彼女は義理の母の小屋のロフトから物を盗んだのだ。彼女はこういい始めた“もう夫にはうんざりだわ”。そして他の男性を愛し始めた。夫が彼女を求めても、彼女は拒否した。彼女は隣人に、“夫は厳しい人で、食事の用意をしている時もわたしを見張っている。離婚して他の男性と再婚したい。私はまだ若いので夫は必要なの”と語った。この事例は教会の審問所に持ち込まれた。夫も呼ばれた。夫は“私はびっくりしている。この女性はただトラブルを引き起こしているだけだ。私は彼女を傷つけてはいないが、彼女は泥棒なんだ。彼女は私の母親のものを盗んでいる”と証言。すると彼女は“夫はケチなの。彼は、ふつうの食事を作っているのに、いつも私を監視している。彼は意地悪な男性だから離婚したいんです”と反論した。審問官は“まず、家に帰ってよく考えなさい”と忠告した。しかし、彼女はまたやってきて、夫と別れたいという。すると審問所は、また家に帰って考えろと忠告。これが3度続いた。3度目の後、彼女は教会にやってきてこう言った“彼とは別れるわ”。すると宣教師は“あなたが夫と別れる理由は見当たらない。あなたはクリスチャンでありながら、他の男性のところに行こうとしている。われわれはあなたにこそ欠陥があるのであって、夫のほうにはないと思う。夫とのトラブルの原因をつくっているのはいつもあなたの方なのだ。そのトラブルは、あなたがどこにいってもあなたについてくるでしょう”と言った。その結果、彼女は宿無しになって、あちこちをぶらついている。人びとは、宣教師が言ったことにその原因があると話している。」

 この話は、いかに女性の性格に関する宣教師の洞察が、彼女のその後の不幸の外的要因として解釈されたかを明白に示している。性格が不幸の直接的な原因であるという考えは、非クリスチャンの人びとにとっては全く新しいものであり、クリスチャンによっても受け入れられることはなかった。ある機会に、私は、こうした事例について語ってくれた2人のクリスチャンの教師とひとりの書記から、意見を求められた。私が、職を失ったのは、彼らがサーヴァントや教師としての資質に欠けていたからだと思うと言うと、書記は「そんなことは考えてもみなかった」と言いながらも、この考え方は事実を説明しており、ヨーロッパ人の考え方に従えば合理的だと同意してくれた。この男性は日々の出来事に際して、常に、先祖や妖術や魔術といった力を否定する宣教師や、呪いについての私の懐疑的な意見との調整に苦慮していた。

 ひどい悪事を働いた人にすぐさま不幸が降りかからない時、クリスチャンは次のようなタイプの説明をする。「Pという若者が父親に無礼な態度を示すと、多くの人々は、そのような態度をする子供は子供ではないと言う。“見てごらん”と彼らは言う。“彼は父親にあんな無礼な態度をとっている”と。そして父親は友人にこう言う、“彼は私の子供ではなく、私の子供は弟の方だけだ”と。さらに、クリスチャンの年齢村の“父親世代の人たち”はこうつぶやく。“われわれの友人はこの子の父親ではない!”と。彼らは父親に同調してこうしたことをつぶやくが、その子供には何も起こらない。というのは、Pの父親がその子を愛していることがはっきりしているからである。父親が“彼は私の子ではない”というのは、単にそう言うことが慣行となっているからだ。もし、父親がそう言わない場合には、人びとはこの父親がバカで、子供をしっかりと育てることができないだろうと考える。父親は息子を愛しており、小言を言えば、神がそれを聞いて、子供にお仕置きをしてくれるだろうというのだ。ただし、父親が子供を溺愛しすぎて、心の底から子供のことを叱ろうとしていない場合には、神はお仕置きをしてくれないのだと。」

「Qも、父親に対して無礼な若者だった。仕事を命じられる度に、父親にむかって、“あなたは私の母親には不釣り合いだ。なんで彼女があなたのことを好きになったのかわからない”と言っていた。この若者は他の人に対しても無礼で、盗みもしている。何事も起こらなかったが、人びとは、この若者はいずれ呪われるだろうと言っている。最近、彼は父親とけんかし、彼を殴った。彼はLupaの金鉱に仕事を探しに行ったが、見つけることができなかった。たまには仕事をすることもあるが、通常はぶらぶらしている。人びとは、大きな不幸が起きないので、彼は呪われているとは言っていない。しかし、彼は数回もLupaに行ったが、いつも仕事にありつけなかった。人びとは、彼は呪われているが、その程度は軽いので、ひどい不幸は起きないのだと言っている。」

 罪を犯した後、何年かたって不幸が襲った時、人びとがそれを宗教的な罰だと解釈することは、ワニに食われた若者の話によって、すでに立証されている。

 通常の不幸は、個人的な不幸と同様に、しばしば罪を犯したことに起因すると解釈されている。教会のある長老は、今の世代の非行について次のように語った。「ここでは昔より病いが蔓延している。悪がはびこり、ここは腐っている。牝牛も昔はこんなに死ななかった。濃いミルクを(皮膚に塗る油のように)頭髪に塗ったものだった。それにあふれるほどたくさんのミルクが搾れた。男性が高いプライドを持つようになったため、牝牛が死んでいる。神は怒っている。神は、“人びとは慎み深くなくなっており、ミルクを無駄にしている。私は彼らの牝牛をすべて殺してしまうだろう”と言った」と。

 しかし、ある宣教所の指導的な長老は、こうした不幸の説明を受け入れず、不実で非クリスチャン的だと彼らを非難した。彼は「そんなことは決して起こらない。私は、人びとの力が誰かに不幸をもたらすことができるとは思わない。男性はいつも誰かと対立しているが、何も起こらない。われわれはいつも誰それから呪われたという話を聞いているが、ここではそのようなことが起こったのを見たことはない。神が人を殺すとは思わないが、多くの牛を持っている男性がある女性と不倫関係になり、(罰金として)牛を支払い、その後、他の女性と結婚して、さらに牛を失い、結局、手元に一頭も残らないとしたら、悪魔が彼に入り込み、すべての彼の牛を消費したからだ。」と語った。私は尋ねる「宣教師が呪いをかけることができるのですか?」すると長老は「わたし自身は、宣教師がそのようなことができるとは思わない。宣教師が非常に怒ったために、他の人に危害が及んだとは思わないからだ」と答えた。長老は、怒りが原因で引き起こされたと多くの信徒が信じている不幸について、長老自身はその原因は自然の成り行きだと信じているとして、次のような話をし始めた。「1人の若者がいた。彼は結婚した時、人びとをもてなすために一頭の家畜も殺さなかった。後に ”人びとに何もふるまわなかったから、この若者には子供ができないだろう“ と人びとが噂をしているのを私は聞いた。若者は一年間ここに住んでいたが、子供はできなかった。彼は、結婚した時に肉をふるまわなかったから子供ができないのだと何人かが呟いている(okwibonesya)のを聞いた。彼はここから何マイルか離れた村に引っ越した。彼の妻はそこで子供を産んだ。彼は二番目の子供が生まれるまでそこで暮らした。その後、ヤギを見つけ、それを私に持ってきて言った。“このヤギを、私の結婚式にきてくれたけど、肉を食べられなかった人に渡してくれませんか?”と。私は、“どうしたんだ?何のためのヤギ?妻をもらい、すべてが順調じゃないか。君はそんなことをする必要はないよ。われわれの慣習じゃないんだから、ヤギを連れてお帰り!”と答えた。私は彼のいう人びととは誰なのか、誰がつぶやいたか(okwibonesya)を探し出そうと努力した。何人かがつぶやいた(okwibonesya)という証言を得たが、誰も名乗り出なかった。現在、その男性は戻ってきて、ここに住んでいる。ヤギを連れ帰ったが、信徒の誰にもヤギの肉を分配しなかった。私は、こうした出来事が非クリスチャンの慣習と同じだったから、どうしてクリスチャンにこのようなことが起こったかに戸惑っている。当時、私はある場所でRの料理人として働いていた。私がここにやってきて、この話を聞いた時、すべての友達を集めて、人間の力が他の人びとに作用するということはないと話した。つまり“このようなことを考える人は良いクリスチャンではない。そういう人は教会から追放されるべきだ。この若者が子供を得られなかったのは、神の力のせいなのだ”と。」

 同じ村に住むあるニャキュサ人の牧師も、「神は聞く耳を持っておられる。もし悪事をはたらけば、神はそれをごらんになっているし、われわれの心の中もお見通しなのだ。悪事を働いた者が、われわれより悪い人だとは言えない。われわれも罪人であることをわれわれは知っており、神もそれを見通しておられる。われわれは、間違いを犯した人と話し合い、彼を裁くが、その理由は、彼の罪が公になったから、それを放置することができないからだ。神は、われわれの審判を聞いておられるが、神が病気をもたらすことはない。」と言ってこうした信仰を非難した。ところで、父親を殴った少年は病気になったかどうかという私の質問に答えて、この牧師は「もしそれが本当なら、われわれすべてが病気になるはずだ。われわれは、病気は罪を犯したことが原因だと口ではいうが、心の中では誰もそれを信じてはいない。なぜなら、彼は自分自身の罪を知っているからである。もし、そうであるなら、われわれすべてが同じ病気になるだろう。神は慈悲深い。病気の原因をわれわれは知らない。われわれ人間は、神のやり方に従っているのだ。神は時には病気を送り込んでわれわれに教訓を垂れようとするが、われわれが特定の病気の原因を指摘できるとは思わない。」

 上記の二人の男性の証言者ともう一人の教師は、上に述べた不幸の説明を信じていない私が知っている唯一のニャキュサ人のクリスチャンである。紹介したすべての事例は、クリスチャン共同体の中でふつうに話題となっている。「学校では誰もが悪いことをしたくないと話している。さもないと湖で魚と英語で会話しているHのようになるから・・・。」などと。 

  <呪いの道徳性>The morality of cursing

 悪行を犯したものを呪うことについての道徳性に関するクリスチャンの意見は分かれている。呪いは、呪われた人が罪を犯していないなら効果はないと信じられているが、同時に他の人に呪いをかけることが、いかなる人にも正当化されるかどうかについては議論がある。食べ物を分けてくれなかった非クリスチャンに呪いをかけた人に関して、教師は「われわれクリスチャンは、人を呪うことはわれわれの仕事ではなく、神の仕事である。われわれの仕事は説教をすることであり、人を呪うことではないはずだ」と言う。同じ案件について、別のインフォーマントは“(食べ物を拒否されたあとで)彼は、拒否した男性は死ぬに価するとたいそう怒っていたので、友人たちが、“ほっとけ!”と言ったら、“いやいや、そうはいかない。彼は呪われるべきであり、死なせてやる”という。彼はその日の夕方に死んだ。」しかし、別のクリスチャンは「私は、彼は間違っていたと思う。しかしおそらく彼自身は自分が正しかったと思っている。自分自身のことで他人を呪うのは良いことだとは、私は思わない」と語った。

 夫Oと別れた女性について語った男性(クリスチャンだが、教会の役職には就いていない)は、「この女性を呪うのは間違っていたと私は思う。彼女は呪われるべきではなく、夫と別れるのを許されるべきだ。そういう人が呪われるべきだという人には年長者が多いが、他の人びとは、それは間違っていると言っている。呪うべきではないと、聖書にも書いてある。呪われた人が教会に戻るのを拒否するのはいつも男性だ。宣教師や信徒集団の人びとが、“呪いがあなたにくだるかもしれない”というのを聞いて、呪われた人に同情する人々がいるかもしれない。私は、信徒集団の人びとがそのようなことをするのは良くないと思う。その人は許されるべきだ。」

 不倫を犯してしばらく家を離れていた息子とのちに和解したSは、息子を父親が呪うという慣習について議論していた時に「われわれクリスチャンはこの呪いを恐れており、“おまえは何者でもない”(Olilindo=You are nothing)とは言わない。それがクリスチャンになった時の誓いのひとつなのだ。もし“おまえは何者でもない。おまえは私の子供ではない”と言ったなら、息子が家に帰ってきた時に何といえばいい?われわれクリスチャンは、呪いを送りつけた人にその呪いを送り返す力を持った「人」がいると思っている。」この事例について、他の長老が次のようにコメントしている。「Sは本心から息子を追い出したのではない。ただ、しばらくの間、顔を見たくないと思っただけなのだ。彼は息子が他の男性の妻を誘惑したことを怒っているのだ。われわれは、息子に不幸が起こるように祈ったことなどない。われわれはいつもその息子が正しい道を歩む事を祈っている。」

 しかし、このような場合の呪いは正当化できると考える人もいる。「われわれは、それは良いことだと思っている。というのは、われわれは“やくたたずめ!(oligwaki=You good-for-nothing you)”と人びとが言うのを聞いているからだ。そして、まさに何かが起こるのだ。」日曜に畑を耕していたスワヒリ人について、あるクリスチャンは「この地のクリスチャンは日曜には畑仕事をしないように触れ回り、もし止めない場合には、鍬を取り上げる。人びとは、こういうクリスチャンが呪いをかけるのは正しいことだと考えている」と語った。ここでも、クリスチャン共同体の神学が、先祖や妖術もある種の破壊的魔術も復讐したいと思う人がそれに見合う対象を持っていないならば通常は効果がないという非クリスチャンの考え方を踏襲している。しかし、ダメージを与えられた人の友だちは常に、不幸は不法に使用されたパワーのせいだと話している。

<現世における報酬への期待>Hope of reward in the present life

 クリスチャンは、非クリスチャンと同様に、罰を与えられる悪行についてより、この世で祝福される正しい行為についてはほとんどと言ってよいほど言葉にしない。多くの人は、正しい行為をする人が特別に祝福されるということを否定する。ニャキュサ人の牧師は、「“神が私に健康を与えてくれる”もしくは“神が子供を与えてくれる”と考えてクリスチャンになる人は間違っている。子供は神の意志にしたがって与えられる。クリスチャンにも非クリスチャンにも多くの子供が生まれるし、罪びとや聖人にも多くの子供が生まれる。また、子供に恵まれないクリスチャンや非クリスチャンもいる」と語った。

 ある長老は「もし、ある貧者が悔い改めてクリスチャンになったとしても、われわれは神が彼に牛や衣類やお金を与えるとは言わず、“悔い改めたからには、神は、あなたが働いてこうしたものを手に入れるための智恵を与える”と言う。そしてもし彼が賢ければ、こうしたものを手に入れることができるだろう」と語った。

 しかし、「親切で気前の良い人は祝福される。食べ物を気前よく振る舞うなら、神はさらに多くの食べ物を与えてくださる。だから、彼の家には他の人の家より多くの食料が貯まる。神は他人に親切に接する人には名声を与えるから、Tのように首長級の崇敬を集めるようになる。Tはクリスチャンで、非常に親切かつ寛大な人物である。彼は何でも持っており、人をもてなすのに長けており、会話も上手だ。彼は有名になり、誰もが“神は彼を祝福している。彼の親切さや寛大さはすごく、牛や現金や食料を尽きることがないほど持っている”・・・Uも友人に親切で寛大なため、神は彼に富を与えたもうた、と人びとは噂している。彼の寛大さについては、そのために、とりわけ遠くの人びとと良好な社会関係を築いていると噂になっている。人びとはVという男性についても、その寛大さや気前の良さをほめたたえている。彼は見知らぬ人を受け入れ、食べ物を与えている。神が彼に財産を与えたために彼は裕福になったと人びとは語っている。彼はクリスチャンとしても熱心に活動し、正しい行いについての説教もしている。人びとは“Vや彼のような人に対して、神は祝福を与えており、彼が死んだなら必ずや天国に行き、祝福のうちに天国で永遠の命を授かるだろう”と話している」と別のインフォーマントは語った。

 以上の話は、非クリスチャンのニャキュサ人にとって、キリスト教に対する最大の魅力、つまり、キリスト教の道徳性を順守させる最強の仕掛けのひとつが永遠の命への希求であることをわれわれに示している。クリスチャンは宗教を通して得た心の平安のゆえに、非クリスチャンより現世の生活をエンジョイしていると信じている人もいるが、未来の生活への希求こそが現在の喜びの源泉であるとする考える人のほうが多い。「正しいクリスチャンは富裕な非クリスチャンより幸せである、なぜなら非クリスチャンの富や妻たちは消えてなくなれば希望も消えてなくなるが、クリスチャンは未来の生活に希望を託しており、それが非クリスチャンよりクリスチャンにより大きな喜びを与えている」と。 

 <報酬、あるいは罰としての未来の命> Rewards and punishments in a future life  

  非クリスチャンは、死後も生き続けると信じているが、かれらにとっての死後の世界は暗い場所であり、誰も楽しみにはしていない。最初期の改宗者のひとりは、私が改宗の理由を尋ねると「そこには命(life)があるから」と答えた。さらに質問すると、彼は死後の命のことを指していた。それが改宗の理由だったのだ。

 ある若いクリスチャンは次のように書いている。「大方のクリスチャンは死後の永遠の命に希望を託している。クリスチャンに正しい道を歩ませているのはこの希望なのである。現在この世で素晴らしい生活を送っているが、それにもかかわらず平安は与えられない。しかし死ぬと、平安がそこにあると。私のように、この世で平安を得られ、誰にも傷つけられることもないし、迷惑なことをされることもないと考える人は非常に少ないが、いないことはない。」(原注:ニャキュサ語からの翻訳)

 天国への希望は、地獄への恐怖を伴う。地獄を信じない者がクリスチャン共同体に中にいるが、大多数は、すべての悪人、とりわけ教会から追放された人々や死の直前に悔い改めない人々やすべての非クリスチャンには地獄の火が待ち受けていると信じている。先に引用したクリスチャンは「教会から追放されたある男性は私にこう言った“教会から見放され、もう道を見失ったんだから何をしてもいいんだ”(彼は既婚女性を誘惑し、その後、別の女性と結婚したために教会から追放された)。」さらに彼は「クリスチャンに正しい行いをするようにさせているのは、永遠の命への希望なのだ。悪いことをして教会から追放された人々は、道を見失ったから地獄に堕ちるだろうと考えている。しかし、地獄を信じない私などは、道を見失った者には別の場所があり、単に死ぬのではなく、生きながらえているんだけど、それはベストな生活ではない・・・と考えている。多くの人びとは永遠の命を失い、地獄の火で焼かれることを恐れており、そのことについていつも話し合っている。そのような人びとは、永遠の命への希望は困難に立ち向かう勇気を与えてくれると話している」と語った。

 改宗の理由として地獄の恐怖を挙げたクリスチャンもいる。「私は宣教師のWのために働いていた。はじめは礼拝には参加しなかった。宣教師はいつも“ふたつの道がある。きみたちはふたつの道について知っているか?”と説教の中で聞いていた。われわれは“知りません”と言うと“ふたつの道があるんだ。ひとつは非常に困難な道で、それは生きる方法なのだ。もう一つは地獄への道。この困難な道を選ばなければ、地獄で焼かれるんだよ”と説明してくれた。これが多くの人びとを惹きつけたんだ。私もね。」

 私は、非クリスチャンの村々で宣教をしていたニャキュサ人のクリスチャン女性たちの説教を聞いたことがある。その中では、キリストは審判のために再来し、不信心者は地獄に送られるだろうという部分が強調されていた。他の宣教団も「おまえたちは焼かれたいのか?」と何度も繰り返していた。宣教師はこのタイプの説教をしていないというが、実際には行われており、それがニャキュサ人クリスチャンの態度に反映されている。

 <夢という証拠> The evidence of dreams

 非クリスチャンの共同体では、夢は宗教的現実を表していると考えられている。先祖が夢の中で子孫を訪問し、攻撃的な妖術師は撃退し、防御的な妖術師は自分たちの年齢村を守ってくれる、という具合に・・。クリスチャンの共同体でも夢は宗教的真実の表現であり、夢を見た人、あるいはその友人たちの未来の運命を示していると解釈されることが多い。そのような夢はクリスチャンの村々でさまざまに語られている。次の事例は典型的なものである。「私(教師)は夢を見たが、夢を見たという意識はない。私はあたかも未知のクニを歩いているかのように感じた。短い草や白い草の生えた草原で、木はなかった。小さな丘のようなところに私は登った。上から谷を見下ろすと、バナナの林と一軒の家が見えた。それは寄棟のある大きな家で、一本の黒っぽい木があった。丘の上からその家を見ると、人びとがその家の屋根をはがしていた。私はその家に這うようにして近づいた。その家にはたくさんの本があり、大勢の人がいて、あたかも勉強をしているようだった。私は教師を見つけた。彼は学校の生徒に“あのバナナの林のところに行って、この人のために椅子を持ってきなさい”と命じた。彼は私にその椅子に座るように勧めた。ところが椅子が運ばれてくる前に私はもう外に出ていて、違う場所の草原にいた。わたし自身は出て行ったという意識はなかった。私は、谷を下っていた。左手に丸太橋のある小川があった。私はそれを渡り、別の丘に登った。上に登ると小さなブッシュを右手と谷に見つけた。私の後ろにひとりの男がいて、私にこう話しかけてきた。“ブッシュを見なさい。あなたの信徒集団だよ・・・。”近づいてよく見ると、大きなブッシュがひとつと小さなブッシュがいくつか左手にあった。彼は“もしもこれらのブッシュが枯れていたら、彼らは悪人。その木は長老の誰それだ・・その木はもうすぐ根こそぎ切り倒されることになっている。”私は尋ねた。“この私は?”と。彼は谷にあった一本の木の枝を手に取って、“これがあなただよ”と言った。それから私は谷を再び渡って戻った。谷を渡ったとき、突然私は目が覚めた。はじめに私が入ったあの家で、クリスチャンの教えが与えられたのだと思う。そして(夢の中で)私は説教師に任命され損なったと思っていたが、この役職に就くことができた(原注:この夢の話を私は友人が夢を見た3日後に聞いた。何年もこの友人は説教師に任命されることを願っていたが、この夢を見る数か月前にやっと任命されたばかりだった。夢の中で彼はふたたび説教師に任命されるという願いを夢想している。)私が渡った道はWay of Lifeを象徴しており、丸太橋を渡ったならこのLifeを手に入れられるのだと思う。その場所に到達した時、それは天国なのだ。ブッシュに関して、(私の夢の中で私に話しかけてきた男性である)彼は私に“おまえの信徒集団のすべての人々が正しいなんて思ってはいけない”と言った。私はマタイの次の言葉を思い出した。“私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである”。」

 ある長老の娘Xが、自分が見た夢について語った。「妹のY(原注:死ぬ直前に不倫を犯した)が私のところにやってきて“私は今トラブルに巻き込まれている。たまたまうまく眠れると、空の上にいて、地上をうろついているあなたを見ている”と言った(原注:Xはのちに、母に夢の話をしたら母は、“Y は眠る場所がないのよ、空中をただよっているだけなの”と言いました。人びとは悪い行いをした人は天国に居場所がなく、たださまよっているんです、と私に語った)。私は“私のお母さんAはどうしたの?一緒なの?”と尋ねると彼女は“いいえ、Aとは彼女が死んでから一度も一緒にいたことはない”と言う。私は“それではB(死んだ友人)はどう?一緒なの?Cの奥さんは?”と聞くと、彼女は“彼女たちとも一緒じゃない”という。そして、彼女はこうも言った。天国に着いたとき、牝牛が畑に戻る時間だった、と(原注:およそ午後3時ころで、それはYが死んだ時間)。また、命が糸のようにちぎれた、とも言った。私はこの夢を3度見た。3度目の夢で、Yが語り終わった時、私は再び夢を見た。右側に座っていて、誰かが左にいた。しかし私は道を歩き続けていた。登っていくと、背が高く頑丈な男性を見た。彼は右側に立っていた。彼は私に、“どこに行くの?”と聞いた。私は“主のところに行くんです”と答えると、彼は“おまえの名前はここにはない”という。私は“そう、それはここにあります。見てください。私に反対する者はいませんでした”と言う。すると彼は、“ちょっと待って。命の本を見てみるから”と言った。それから彼は私の名前を小さな木片に書いた。私はその後でD(まだ生きている助祭)を見た。彼がそこにやってくる。背の高い男性は無言だ。しかし彼に小さな木片を渡した。そこにはDの名前を書かれていた。彼は“行きなさい、そして主を見つけなさい”と言った。それから、あたかも私は再び戻ってきて、初めに人びとを見つけた場所にやってきたかのようだった。人びとの中の何人かは、右側におり、何人かは左側にいた。Dと私は一緒だった。Eが到着した。背の高い男性は“ここから出ていきなさい。おまえは地上に取り分を与えられたから”と言った。大勢の小さな子供がいた。アリが彼らを噛み、皆死んでしまった。大勢の人びとがそこにいた。特に非クリスチャンが。砂を持ち上げている者がいたり、板を運んでいる者がいたり、小石を運んでいる者がいたり(原注:金鉱のLupaで男たちが行っていること)、非クリスチャンの歌を歌っている者がいた。しかし誰もがぼんやり見えていただけだった(原注:のちにXは,この人びとは天国にはいなかった、と説明してくれた)。このYの夢を私は3回見た。初めてその夢を見てから4日後、さらに4日後、また同じ夢を見たのだ。トータルで3回夢を見たことになる。私が母親にこのことを話すと彼女は“Yはあなたにこういっているのよ。それはYの仕事だと”。私が夫に話をすると、彼はひどく驚いたが、私も夫も意味が分からなかった。わたし自身が死んだ夢を別の夜に見た。私はこのことを母親には言わなかった。というのは単なる夢だったから。しかし、夫には話した。すると彼は“それが何を意味するのか分からない”と言った。おそらく背の高い男性は実際にいるのだろう。Fは、死ぬ間際にこう言った。“G(長老)を呼んでくれ”。Gが来ると彼は“おまえは教会の建設を終えていない。見てごらん、屋根の垂木がそれを示している!と背の高い男性が私のところにそれを伝えにきた”と言う。それはちょうど、今、われわれが礼拝を行っている教会を彼らが建設している時だった。それから彼はGに建設費用として10シリングを与えた。その後、彼は死んだ。」

 私が聞いたその他の夢の話はふたつあり、いずれも行動に直接的な影響を与えていた。教師であるHは、「私はある場所で、火がリヴィングストン山脈のスロープに燃え広がり、天に昇って行った夢をみた(リヴィングストン山脈のふもとにある谷のHの家からは、たびたび草が燃え広がり、谷の上空7千フィートにも達している。「火」は「地獄」に例えて用いられる単語である)。火は山のスロープを下り、人びとは大声で叫んだが、われわれは小川の反対側にいて、沈黙していた。火は小川を越えては来なかった。その時、私は目が覚めた。私は眠っていたことに気づき、びっくりした。それから私は“洗礼を受けた人が話しているのはこのことと関係している”と考えた。というのは、私はいつも、火がすべての人を焼き尽くすためにやってくると彼らが話しているのを聞いていたからである。私はこのことについて2か月もの間考えていた。そして私は出かけて悔い改めた。それは1921年のことだった。」

 現在、ドイツの宣教団はアフリカ人の牧師や教師に支払うための基金をドイツから受け取っていない。その結果、ベルリン宣教団の学校の教師のほとんどは何も受け取っておらず、受け取ったとしても、以前のサラリーのほんの一部にすぎない。次の夢を話してくれた教師は、その夢を見る前に教師の職を辞めていた。彼は店を持っている兄の手伝いをし、教師の給料より高額な収入を得ていたと思われる。夢に出てきたくだんのもう一人の教師が死んだ時、私の情報提供者は、彼がその教師の代わりに教師になるよう依頼されるだろうということを知っていた。彼はそうなることを拒否するつもりだったが、夢が彼の心を変え、のちにその申し出を受け入れた。「1935年4月末ころに私は夢を見た。その夢というのはこうである。私はある場所からやってきて他の場所に自分でいこうとしていた。お金に困っており、いくばくかのお金を取りに行こうとしていたのだ。私のお金は確かにそこにあった。夢だったけどね。流れの速い川をよぎったところで、私はJに会った。彼は1935年4月の同じ日、つまり15日に死亡していた。彼は私のところに挨拶をしにやってきた。しかし彼が近づいてくると、私は怖くなった。すると彼はこう言った。“怖がるなんて、それがクリスチャンなの?私が死んだから君が怖がっているんだよね”。それを聞いて、私は近づき握手した。彼は “見てごらんよ。素晴らしい!私は君の友だちと一緒にその場所に到着したんだ。私は非常にカンフォタブルな気分だ”と言いながら腕を私の首のまわりにまわした。さらに彼は“働け、働け、口先ではだめだ、努力だ”と言った。それから私は彼に質問した。われわれは歩きながら話をしたが、目的地にはまだ着かなかった。私は尋ねた“そこでの私はどんなかな?(天国での)私の名前はどうなってるの?”と。すると彼は言った。“私は君に働くようにアドヴァイスすべきなんだ。きみの名前は、実際のところ、そこにあるんだよ”。その後、われわれは丘に登った。すると彼は再び話し始めた。“ごらん!イエスさまがいつもお祈りにおいでになる。毎日、おいでになる。イエスさまは、滞在はされない。巨大な教会があって、ある時、お説教されていた時にこう言われた。“私は、あるクニに衝撃を与えた。今年は、悪人だろうと善人だろうと、いつもより多くの人が死ぬ“と。私は“話されているのは私のクニのことなんだ。見てごらん!多くの人が死んでいる”と言った。それからわれわれは丘の頂上に登った。この丘には杉の木があった。南側にはJが話していた教会が見えたような気がした。教会があったところの木々は列をなしていて、その間に道があった。登ったところで私は、誰かが洗って白くしたように見える2本の木を見た。その木の間に、誰かの家が見えた。その美しい木々のあるとことに、人びとは滑らかな床を叩いていた。それから私はK(私のインフォーマントの弟で助祭)を見た。彼はわれわれの方にやってきた。彼は長い白い衣服を着ていた。その時、L(隣人)が“平たい鉄版を借りたい”と言ったようだった。それからKは彼の子供を呼んだ。するとJは行ってしまい、私は彼を見失った。その子供がLに鉄版を渡そうとやってきた時、私は丘を降りた。私は、Jはイエスのメッセンジャーだと思う。彼は“友人よ、この小さな仕事を離れるな”と私に告げる。というのは私が教師の仕事を辞めた時にこの夢を見たからである。そのために彼は“ちょっと試しているだけなんて言わないように”と言った。われわれの多くが死んでいることについて彼の言ったことは、ここのわれわれのクニについてなのだ。なぜならわれわれの多くが死んだからだ。」

 宗教によって拘束された規範の非クリスチャンとクリスチャンとの比較

 不幸と特別な祝福、そして夢の報告に関するこうした事例は、ニャキュサ人のクリスチャンが実際には宗教的拘束力を信じていること、それが彼らの行動に影響をあたえていることを立証してくれている。ふたつの宗教によって拘束された異なる行動のタイプとそれが相互にどのように関連しているかを比較する作業が残っている。このような比較は、非クリスチャンとクリスチャン両方の共同体の組織的な記録を必要とするが、それは本稿の領域を超えている。ここでは、短い概要を記すにとどめる。

 罪を犯したことによって引き起こされると非クリスチャンが信じている不幸の事例は、次の3つのタイプに類型化できる。(a) 親族や家族への義務を怠るタイプ、(b) 隣人への義務を怠るタイプ、(c)首長や傑出した平民、そして一般人がそれぞれの義務を怠るタイプ。最初のタイプには、息子が父親に、娘が父親の姉妹に、妻が夫の両親に敬意を払わなかったり、義理の父親と義理の息子が婚資の家畜を巡って言い争ったり、夫と妻が口論したり、妻に対して夫が不条理な扱いをしたり、後継者が被扶養者に食べ物や世話をすることを怠ったり、寡婦が相続する資格のある男性と一緒に住むことを拒否したりする事例が含まれる。

 隣人への罪の筆頭に挙げられるのは、礼儀を失する行為―例えば、儀礼の際に動物を殺さなかったり、地酒を造らなかったり、食べ物を出し惜しみしたりする行為である。プライド、冷淡な態度、無愛想な対応、喧嘩腰の態度、近親相姦、不倫、窃盗などは儀礼の事例ほど直接的には宗教の拘束力と結び付けられていはいない。

 成人の葬儀の際に殺した牛のあばら肉を首長に贈るという義務を怠った一般人が病に取りつかれる危険に陥るのと同様に、配下の民の大多数から敵意を持たれた首長は、深刻な病に取りつかれる危険に陥る。首長の権威は、雨と豊穣と繁栄を保証すると信じられている儀礼に人びとが信頼を寄せ、呪薬の使用によって首長に対する人々の畏怖の念が引き起こされることによって高まる。「偉大なる平民」は攻撃的な妖術から年齢村を守る力と、妖術を合法的に使用することによって違反を犯したメンバーを罰する力を持っているという信頼が、彼の権威を向上させる。

 すでに見たように、クリスチャン共同体の個々人の信仰にはかなりの差異がある。しかし、父親への息子の不遜な態度や、夫婦間の喧嘩や、妻への虐待や、被扶養者への後継者の義務怠慢などは、一般的に超自然的に罰せられると信じられている。私は、クリスチャンの家族に起きた不幸がこうしたことが関わっていると考えられている事例を収集した。

 宗教によって拘束されると信じられている親族の義務に関する非クリスチャンとクリスチャンとの顕著な違いは、クリスチャン共同体(Ngemelaの共同体を除いて)においては一夫一婦制が守られているということである。そして、妻は夫が少しでも自分を殴るなら教会の権威に訴えることができるが、非クリスチャン共同体では、よほどひどい扱いをされない限り、宗教的な拘束力は働かない。

 非クリスチャンの規範のもとでは、同じ年齢村のメンバーに対するホスピタリティのみが重要であるが、クリスチャンは外部の人間や訪問客に対するホスピタリティが重視される。「隣人に対してケチであっても問題ではないが、遠方からの訪問客に対してケチだと、彼は食べ物がなくて死ぬかもしれない。その結果、そうした行為をするものは天国に行けなくなるとされている。」すでに見たように、家畜を殺し損なった者には不幸が訪れると信じているクリスチャンも多いが、殺して肉を分配するよう忠告する者は、非クリスチャン村よりクリスチャン村の方が少ない。

 超自然的に罰せられると非クリスチャンが信じている隣人に対するその他の罪は、クリスチャンによっても宗教的制裁が下されると考えられている。しかし、不倫と窃盗が非クリスチャンによって不幸の原因として語られるのはそれほど多くはないのに対し、クリスチャンはこうした罪は一般にこの世とあの世の両方で罰せられると信じており、もし姦通したことや泥棒したことが発覚したら、教会に参列することを禁じられる。不倫の他、非クリスチャンが容認している同性愛や夜な夜な行われるバナナの林での抱擁パーティー(cuddling-parties)や夕方のダンスパーティーへの参加やわいせつ話を、クリスチャンは非難する。

 非クリスチャンの規範によっては罰せられないが、クリスチャンによっては超自然的に罰せられると考えているその他の行為には、嘘をつくこと、参加するよう呼び掛けられた宣教所のサーヴィスに参加することを拒否すること、日曜に労働することが含まれる。

 クリスチャンは今や、彼らが告白したところのことを信じている限りにおいて、クニの豊穣は首長による犠牲獣に依存しているのではなく(宣教師がやってくる前は、首長によって豊穣が確保されたと考えていたが)、祈祷者を通して直接的にアプローチされ得ると考えられている神に依存していると思っている。1935年の雨季は異常に長引き、平野を襲った洪水と通常より低い気温のせいで食糧不足に陥った。8月10日に犠牲獣が非クリスチャンの首長によって捧げられ、豊穣と食糧と温暖な気候とを願う祈りが先祖に唱えられた。翌日の日曜に、首長国の最大のクリスチャン村でひとりの長老が次のように語った。「われわれを襲った冷害を見てごらんなさい。神の教えはわれわれには馴染のないものなのです。湖があふれて、Mwayaの家々を押し流した様子を聞いたでしょう。平野に住む人びとは寒さで震えあがっています。ここでも同じくわれわれは寒さによって凍えています。パウロとサイラスが投げ込まれた牢獄のようです。われわれは彼らのようにふるまわねばなりません。讃美歌を歌い、神を崇め、祈り続けるのです。そうすれば、パウロとサイラスのまわりの壁はとり除かれ、われわれは寒さから解放されるのです。しかし、そうしなければ、神はわれわれを罰し続け、われわれは死んでしまうでしょう。ひとりも生き残ることはできません。」

 クリスチャンは、成人の葬儀でと殺した家畜(モラビア宣教所の信徒は殺さない)のあばら肉を首長に送らないことによって妖術を信じていないことを表明するよう指導者から奨励されており、礼儀として首長に送る人もいるが、ほとんどの人は、このシンボル的な献上物の慣行を守っていない。

 クリスチャンは、オーソドックスなクリスチャンであるかぎりは妖術の力を否定しており、それゆえに平民の権力者が超自然的な方法で正義の人を守り、行いの悪い人を罰する力を持っていることも否定している。しかし、彼らは行いの悪い人に神の怒りを下すのは、宣教師や長老や自分のクリスチャン村のメンバー、もしくは父親であると信じている。

 非クリスチャンとクリスチャンが宗教によって規制を受けると信じている基準にはかなりの類似性がみられる。しかし、このふたつの基準の違いに対応する行動の違いも確認できる。一夫一婦制はクリスチャン共同体の規範であり、一夫多妻を実施している者は教会には入れないし、教会のメンバーにとどまることも許されない(原注:一夫多妻を行っている家族の中の妻たちは教会のフルメンバーになる事が許されている場合がある)。クリスチャンの寡婦は、非クリスチャンの慣習法が決めている相続者と同居するよう強制されることはないし、クリスチャンの男性は非クリスチャンの男性より妻を殴らない。クリスチャン自身が、自分たちは隣人に食べ物を与えることを躊躇しないが、むしろ外部の人びとに対して優しく接している、と言う。不倫を行う者はクリスチャンの年齢村では、非クリスチャンの年齢村にくらべてずっと少ない。クリスチャンは不倫をすると教会のメンバー資格を停止される。同性愛は、非キリスト教徒の村では珍しくはないが、クリスチャンの村ではめったに見られないと言われており、ミッションの寄宿舎にいたことのある男性によれば、その学校では一例のみが噂になったことがあるという。私自身、日曜にクリスチャンが畑を耕しているのを見たことがないし、クリスチャンは非クリスチャンにもそうするよう説得してきたという。

 宣教師の権威が首長の権威に部分的にとってかわるという傾向は、政府の役人から運搬人を提供するよう要請があったとき、少なくとも何人かの首長が、キリスト教徒ではなく非キリスト教徒の部下を駆り出すという事実に示されている。例えば、宣教所に属しているクリスチャンが召集された時、宣教師が抗議したという事例がある(原注:ヨーロッパ人に雇われている者はもちろん運搬といった義務的な労働から除外されているが、宣教所の無給のヘルパーの立場は微妙である)。クリスチャンが首長の権威から独立していることは、葬儀の際にと殺した家畜のあばら肉を首長に送ることを拒否するという行為にも示されている。同時に首長と非クリスチャンの平民は、聞かれると、非クリスチャンとクリスチャンの首長に対する態度には違いはない、あるとしたら宗教とは関係のない一般的な態度だけだと答える。ある年配の非クリスチャンの平民は「クリスチャンでも“首長はわれわれが依存している人物である”と考えており、首長は食べ物や肉やミルクをクリスチャンにも与えているから首長を尊敬している。首長は家畜を殺せば肉を分配するし、乞われればミルクも与える。首長を尊敬していないクリスチャンは見たことがない」と言う。

 ある非クリスチャンの首長は「若者は以前より年配の人びとを尊敬しなくなっている。ヨーロッパ人の智恵を獲得したからだと彼らは言う。出稼ぎに行き、帰ってくると首長を尊敬しなくなる人がいる。地区の役人には帽子を取って挨拶するが、首長にはしないのだ。年配のクリスチャンは首長を尊敬しているが、若者は違う」と語った。しかし、別の非クリスチャンで「クリスチャンは首長と地位の高い平民を、非クリスチャンと同じく尊敬している。双方に違いはない。首長は神であり父親のようなものなのだ」という者もいる。 

 以上のことから、宗教的拘束力は非クリスチャンの共同体と同様にクリスチャンの共同体においても影響力があることが明らかになったが、信仰の度合いにはかなりの差がある。伝統的な祖先や妖術や魔術の力を信じているクリスチャン共同体のメンバーもいれば、超自然的に不幸を引き起こすような人間の力を否定する者もいるし、その中間の立場を取る者もいる。しかし、クリスチャンの多くは、非クリスチャンと同様に不幸を自分が犯した罪のせいにし、罪を犯したことへの罰は人間の内部からではなく、外部から下されると信じている。上述した事例では、不幸の原因であると信じられているのは、不幸に見舞われた人の性格に欠陥があったのではなく、信徒集団や長老や宣教師の呪いだとされていた。因果関係に関する非クリスチャンの考えはクリスチャンによっても保持されているが、力の源は異なっている。非クリスチャンは不幸が先祖や妖術や魔術の力によって引き起こされると信じているが、クリスチャンはそれが神の力によって引き起こされると信じているのである。

 クリスチャンは罰や報酬が現在だけでなく未来とも関係していると信じていることにおいて、非クリスチャンとは異なっている。永遠の命は常に説教や夢で繰り返されるテーマであり、それは正しい行いと悔い改めへの報酬として与えられると考えられており、この世で優先的に求めるべき生活の質とは無関係だと考えられている。

 クリスチャン神学においては、正義と慈悲との間には対立関係が存在する。長老や宣教師や信徒集団は、悪事をはたらかない人に不幸をもたらすよう神の力を動かすことはできない。にもかかわらず、罪人を罰するために神の力を利用すべきでないが、それは神の審判にのみ委ねられるべきだと信じている人もいる。

 非クリスチャンとクリスチャンの道徳律は多くの点で共通しているが、男性と女性との間の関係ではきわめて大きな違いがあるし、それらが適用されるグループ間でも違いが見られる。道徳律を支える先祖の力は親密圏においてのみ機能し、妖術の力は人口100~3000人の首長国内においてのみ機能すると信じられている。非クリスチャンの信仰において、道徳律が親密圏および首長国の外部に及ぶことはめったにない。占いだけが例外である。一方、キリスト教は普遍的な宗教である。クリスチャンにとって論理的にすべての人が隣人なのであり、実際、首長国の外部からやってきた旅人や親せきではないよそ者は、クリスチャンの行為が宗教によって拘束されていることに気づいている。

 最終的に、キリスト教には、国家と教会との分離という状況がやってくるのだが、非クリスチャンにとっては首長の権威(=国家)と「権力を持つ平民」(great commoner)(=宗教的権威)は分離しがたいものとして存続していくことになる。(翻訳:富永智津子2015年6月7日)