「ザンジバル保護領(英領)判例集解読の試み―植民地的介入のジェンダー分析」(富永智津子)

掲載 2015.06.30 執筆 富永智津子

はじめに

 東アフリカ沿岸部では、インド洋西域を舞台に展開した人と物の交流と8世紀以降のイスラームの影響により、「スワヒリ」と呼ばれる独特の言語や文化を持つ社会が形成され、興亡を繰り返してきた。その特徴は、アフリカ的要素を色濃く残しながら、アラブとインドの文化や思想を柔軟に受け入れた都市的社会に象徴されている。

 本稿の対象とするザンジバル(ウングジャ島とペンバ島、および周辺の島からなる人口約100万のタンザニア島嶼部)は、そうしたスワヒリ社会のひとつとして19世紀のオマーンによる支配下で経済的に躍進を遂げた地域である。当時、象牙と奴隷の貿易中継地として栄えたザンジバルは、現在、一方でクローヴ(丁子)とココナツを主要産業とし、他方で、主としてヨーロッパの人々がバカンスを楽しむ観光地として発展しようとしている。治安が比較的良好で、かつストーン・タウンが、2000年12月にユネスコの世界遺産に登録されたことも、この観光開発に一役買っている。

 ザンジバルは、10世紀から15世紀の「シラジ時代」、15世紀末から17世紀初頭の「ポルトガル時代」、17世紀から19世紀の「ウスタアラブ時代」を経て、1897年にイギリスの「ザンジバル保護領」となり、1963年に独立した(ザンジバルの歴史に関しては、拙著『ザンジバルの笛―東アフリカ・スワヒリ世界の歴史と文化』未来社、2001年、参照)。翌年、アラブ主導の政権が革命によって打倒され、その後を継いだアフリカ系の政権は旧英領タンガニーカとの連合に合意し、現在のタンザニア連合共和国を形成することとなった。

 スワヒリ社会の構成員の中には、大別してアフリカ系、インド系、アラブ系の諸民族が含まれる。これらの人々は、現在、タンザニア国籍を持っているが、イギリス支配下のインド系とアフリカ系住民の法的地位は、イギリス帝国保護臣民(British Protected Subject)とザンジバル王国臣民(Zanzibar Sultanate Subject)に区別され、それ以外のアラブ系住民(その多くはザンジバル在住のオマーン人)は上記いずれかのパスポートを取得するまで、保護領政府発行のアイデンティティ証明書により母国との間を往来していた。

 ここでは、イギリス支配下の「ザンジバル保護領」時代の判例集から、女性が原告または被告になった事例に注目し、そこから、スワヒリ社会の女性の法的権利や社会的地位の変化を読み解くための資料の整理を目的としている。

 

Ⅰ『ザンジバル保護領判例集』について

 ザンジバル国立文書館所蔵のこの判例集(Zanzibar Protectorate Law Reports, London/Zanzibar, 1919-1961)は、八巻から構成され、1868年から1956年までの判例667件が収録されている。そのうち、女性が関係している判例は63件である。

(1)裁判事例

 女性の判例が初めて登場するのは1897年である。以下、判例を2つ紹介する。

 

Civil Case 1934 (His Highness The Sultan’s Court)

・原告―女性(Shinunaとその妹) : 被告―ワクフ・コミッショナー

・アラブ系ザンジバル人

・女性がワクフの管財人になれるかどうかを争点とした裁判。

・本件の概要:ワクフの寄進者(すでに死亡)が、ムタワッリー(管財人)として複数の男性(3人の息子)を指名したがすべて死亡。そこで、娘たちがムタワッリーに指名さるべく名乗りを挙げたが、ワクフ・コミッショナーがこれに反対したため、娘たちが裁判をおこした。

・原告代理人(イギリス人)の見解:この裁判は家族ワクフの事例であり、ワクフ設定者とワクフ文書の精神が問われるべきである。原告を支えているのは夫とこのワクフからの受益者であるその息子。原告の資格が問題となるのは、女性であるという点だけである。女性がムタワッリーになれないというのは、シャリ-アに依拠したものではなく、ザンジバルの慣習である。ムタワッリーの役割は財産の保存に関する義務である。法廷は、ムタワッリーになる資格を持つ家族メンバーがいる限り、よそ者を指名するべきではない。その際、性別は関係ない。女性は世俗的義務を果せるし、宗教的義務を果すために代理人を任命できる。被告が原告より財産の管理に長けているということは唯一の判断基準ではない。

・被告代理人(インド人)の見解:女性がムタワッリーに指名されるのは次のような一定の条件下においてのみである。

(a)明確な指名がおこなわれ、ムタワッリーとしての認定が行われること。

(b)ヴェールをしていないこと。

(c)代理人を通して義務を遂行しないこと。

原告はこのような条件を満たしておらず、彼女は自分の親指の指紋を認識できないし、畑に何が植わっているかも知らない。

・裁判長(イギリス人)の見解:問題は、Sheikh Seif bin Hamed bin Ali el-Sumri の娘である原告が、ワクフに寄進された畑のムタワッリーになれるかどうか、ということであるが、原告が女性であること自体は問題ではない。この原則はKassim HassanとHazra Begumとの間で争われた裁判の中で裁判長代理(インド人)の次のような文言が参考になる。

 「原告がムタワッリーに任命されなかった理由として、彼女が女性であったということが論議された。… この主張は、女性はムタワッリーになる能力がないという間違った仮定に依拠しているため、正しくない。……イスラーム法の下では、女性がひとりで、あるいは代理人によって遂行できないような性質の宗教的な仕事でないかぎり、女性も宗教的な役割を担うことができる。……この原則は、モスクの一時的な事柄とそれに伴う精神的な機能との間の根本的な区別に依拠している。」(Imam Bee v. Molla Khasim Sahib, 37 I.C.p.889.)

  一見したところ、原告がワクフのムタワッリー(管財人)に任命されることに何ら問題はない。しかし、被告側は声明書の中で次のような問題点を挙げている:

(a)女性をムタワッリーに任命するのは、ザンジバル・アラブの慣習に反する。

(b)ワクフ文書と遺書は原告や他の女性をムタワッリーに任命することを考えていなかったのみならず、いかなる女性をもムタワッリーに任命するという考えを排除している。

(c)原告はムタワッリーになれる通常の資格を持っていない。

(d)原告は遺書にもとづいてムタワッリーになるために必要な資格を持っていない。

(e)原告はワクフ財産を効果的に管理する隔離された女性たちである。

(f)原告をムタワッリーに任命することは、被告の見解としては、ワクフの利益にはならない。

(g)原告は、以前にワクフの合法性を議論したため、ムタワッリーの任務に就く資格がないと判定された。

(a)に関しては、証拠はきわめて少なく、否定的な性質のものであるとわたしは考   える。女性であるからといってムタワッリーへの任命が拒否された事例をわたしは   知らない。実際、カーディー法廷では、女性のムタワッリーが原告だった裁判があった。それゆえ、被告が主張するような慣習はザンジバルにはない。

(c)に関しては、ムタワッリーとして任命される際にどのような資格が一般にもと   められるかの説明はなされなかった。

 (d)に関しては、どのような側面において、遺書にもとづくムタワッリーとしての   資格を原告が持っていないのかは明確にされていない。

 (e)に関して、わたしは原告のShinunaに会っているが、彼女は完全な隔離下には置かれていない。彼女は、タウンに出かけるといった特別な機会にはヴェールをすることを認めている。わたしが見るところ、彼女はたいへん有能な女性であるとの印象を受けている。

 (f)は、重要なポイントではない。

 (g)に関しては、ただ以前にワクフの合法性について質問したかもしれないという   だけで、なぜムタワッリーに任命される資格がないのか、その理由は示されなかった。しかし、この事例では、そのような疑義は生じていない。というのは、裁判でワクフを無視しようとしたのは寄進者の妻であるSaada binti Said bin Nasorであって原告ではなかったからである。

  以上のような理由から、わたしは原告が(a) (c) (d) (e) (f) (g)の理由で原告にムタッワリーとしての資格がないとは考えない。したがって、被告の意見の中で考慮すべきは、(b) のみということになる。

  この事例におけるワクフは、原告代理人が言うように家族ワクフである。寄進者の死後3年以内のメッカ巡礼と、寄進者の墓で毎月死者への祈り(Khitma)をあげることが要求されているが、このワクフが宗教的な目的で寄進されたものとは考えられない。そうであるならば、女性がムタワッリーに就くことは何ら問題ではない。メッカ巡礼は行われたし、毎月の死者への祈りも行われてきた。これらが、原告の男性親族によって行われてきたことは事実であるが、このことは単に便宜的に起こった事である。原告はこれらの義務を代理人に遂行させることのみならず、自分で行う資格も持っている。

・判決:寄進者は子供たちのために畑をワクフに設定したのであり、女性といえども子供たちが生存しているかぎり、他人が管理人になることは好ましくない。しかし、現実的には、被告であるワクフ・コミッショナーのスタッフが管理することがよいという事実があることも確かである。しかし、これは決定的な要因ではない。したがって、原告はムタワッリーとして任命される資格を持つことを宣言する。

  • 原告の勝訴

 

Civil Case 1940  (His Britannic Majesty’s Court for Zanzibar)

・原告―女性(Irene binti Farazi) : 被告―男性(Juma Jones bin Sudi Mnyasa)

・アフリカ系ザンジバル人(キリスト教徒)

・婚姻上のトラブルをめぐる裁判

・本件の概要:原告と被告は1923年にキリスト教の儀式にのっとって結婚、以来、両者はクリスチャンとなった。3-4年後、被告(夫)はイスラーム教に改宗し、次々に2人の女性と結婚した。原告は被告がムスリムになった時点で家を出たが、思い直して家に戻ってみると、他の女性と同棲していることがわかり再び家を出た。その後、原告は一度ならず不倫を犯し、結局、2人目の男性と長期にわたる不倫関係に入り、現在に至っている。こうした状況が発生してから12‐13年を経て、原告は離婚の申し立てを裁判所に行った。

・判断の法的論拠:Native Christian Decree(Cap.70)によれば、夫の改宗は、他の女性との再婚とも重なって、離婚の理由となるが、本令第9条の但し書きによれば、原告が結婚期間中に不倫を犯したり、訴えを起こすのが不当に遅すぎたりした場合、結婚解消の仮判決を受けられないと記されている。また、本令第4条(2)は、法廷が、当面、イギリスの離婚・婚姻法の原則になるべく近い原則にのっとって救済措置を講じるべきであると規定している。

・自由裁量権の範囲:ザンジバル裁判所は、不倫を犯した原告に有利な裁量権を行使するにあたり、次のような一般的な条件を考慮するであろう。

(1)法廷は、クリスチャンの結婚は本質的にひとりの男性とひとりの女性との自   発的なユニオンであるという事実を考慮し、誠実な結婚を維持することによる社会全体の利益という観点から判決を下すべきである。

(2)法廷は、社会の利益を考えて、道徳や徳目の推進に関心を払うべきである。

(3)法廷は夫と妻の調停に関する法令を参照しない場合もありうる。

(4)「きれいな手」(clean hands)という旧来の原理は、このような配慮から修正されるべきである。

(5)法廷は、このような判断が不道徳を奨励する可能性がある場合には、原告に有利な裁量を行わない。

(6)法廷は第9条の但し書きが意味する条件を否定する前に、積極的な実情の提示をするべきである。

・原告代理人(イギリス人)、被告は本人が出頭

・裁判長(イギリス人)の見解:本件のような裁判事例は、ザンジバルにおいても、他のキリスト教国においても類例がない。初め、原告は自分の不品行を明らかにせず、被告への解答においてもそのことを否認した。しかし、後になってそのことを告白し、裁判官に情状酌量を願い出た。彼女は、自分の不品行は夫が改宗し、再婚し、扶養義務を怠ったせいであり、訴訟が遅れたのは夫が再びクリスチャンに改宗して自分のところに戻ってくることを望んでいたからであるとの説明を行った。イギリスの離婚・婚姻法に照らせば、原告に非がある。しかし、本件の場合には特殊な状況を勘案して、できるだけイギリス法に近い判決を下してよいとの留保条件が考慮さるべきである。つまり、原告は不倫を犯すことによってクリスチャンの道徳に違反しているが、夫はムスリムとして4人まで妻をめとることができるため、何ら不法な行為はしていないことになる。しかし、クリスチャンの原告にとって、夫の行為は重婚にあたる。この観点から本件における原告への情状酌量が可能である。さらに、夫が扶養義務を果さないなどの困窮状況を考えると、原告が不倫を犯したこともやむを得ないと考えられる。また、両者の和解の可能性がないこともあり、判決を留保する理由はない。したがって、法令をそのまま適用するのではなく、原告に不道徳な状況から脱却して真っ当な暮らしにもどるチャンスを与えるために、離婚の仮判決を与える。

・離婚仮判決(Decree nisi for dissolution of marriage)1941/2/1

 

(2)女性が関係した判例の分類・整理

 まず、係争の類別から見てみよう。一番多かったのは「婚姻」(15例)、次が「ワクフ」(13例)と「相続」(13例)、次いで「商取引・所有」(12例)、「子供の養育権・嫡出」(5例)、「裁判手続き」(3例)、「傷害」(2例)となっている。分類・整理の対象としたのは、この内「婚姻」の事例が15例、「ワクフ」関連の事例が7例、「相続」関連が10例、「商取引・所有」7例、「子供の養育権・嫡出」5例、「傷害」2件である。

 次に、係争に関わった民族を、名前から分類してみよう。明らかに識別できるのはコモロ系や奴隷の子孫である。難しいのは、その他のアラブ系とシラジ系、あるいはスワヒリ系とアフリカ系の識別である。明らかにスワヒリ語やバントゥー起源の名前の場合は、アラブ系ではないことが類推できたが、その他の場合は、筆者のこれまでのザンジバル経験からの恣意的な判断に依拠していることを断っておきたい。

 以上、2つの指標に基づいて判例を分類したのが、次表である。

 

 係 争 アラブ系 インド系 アフリカ系 コモロ系   計
 婚 姻   4件   2件    8件  1件  15件
ワクフ   6               1     7
相 続   1   2    5     8
商取引・所有   2   1    4     7
養育権・嫡出   1   1    3     5
傷  害   1     1     2
  計 14件   7件   22件 1件  44件

 

表を一瞥して気づくことは、アフリカ系の係争が「婚姻」に、アラブ系の係争が「ワクフ」に集中していることであろう。ワクフとは、イスラームに独特の財産寄進制度であり、なんらかの収益を生む私財の所有者が、そこから得られる収益をある特定の慈善目的に永久に当てるため、私財の所有権を放棄する行為、または設定された財源を指す。資産の流動化を妨げるとして廃止している国もあるが、ザンジバルでは、法的効力を維持している。

 さて、個々の判例の分析に入る前に、1897年から1951年までの54年間の判例を読み解く中で気付いた点をいくつか補足しておきたい。

 

(3)裁判制度

①植民地制度の導入

 ザンジバルがイギリスによって保護領化されたのは1890年である。イギリスはただちに司法制度の整備に着手する。その第一歩が、1897年に公布されたNative Court Regulationsである。これによってザンジバルにイギリス総領事と2人のイギリス人判事によって管轄される法廷(His Britannic Majesty’s Court for Zanzibar=High Court of Zanzibar)が、地方にはDistrict Magistrate Court(Sub-Commissionerが管轄)が設置された(以下、これらを一括して「イギリス法廷」と略記)。一方、イギリス総督は、植民地化前から存在したカーディー裁判所(イスラム法廷)にも介入し、1899年にNative Courts Decree for Zanzibarを公布した。これにより、ザンジバルとペンバを統轄するNative Courtsが整備され、ザンジバル王が管轄するSupreme Court(1920年以降、His Highness The Sultan’s Court for Zanzibarと改称)とシャーフィイーとイバード両派のカーディーが常駐するChief Native Court(Court for Zanzibar and Pembaと呼ばれた)、その下位にDistrict Courts(ザンジバルタウンではカーディーが、その他の地域ではリワリが統轄)が設置されることとなった(以下、これらを一括して「ザンジバル法廷」と略記)。

  その後イギリスは、Native Courtsの機能を効率化するために、1908年、Zanzibar Court Decreeを公布し、ザンジバル国王の司法権を完全にイギリス人判事の支配下に置いた。その際、2人のカーディーが補佐として陪席することとなった。また、Court for Zanzibar and Pembaに対しても権限を強化し、それまでザンジバル国王か2人のカーディーの要請によって裁判を行っていたEuropean District Magistrateが、単独で許可もなく裁判ができるようになった。こうしてイギリス人判事はアラブ人カーディーより強大な権力を掌握することとなる。

 以上の裁判制度の変遷に照らして判例を点検してみると、19世紀末から1920年代まではイギリス法廷で裁かれる事例が多く、以後、次第にザンジバル法廷での裁定が増加し、1940年代以降の判例はほとんどがザンジバル法廷での事例となっている。紹介した事例からも明らかなように、どちらも主審はイギリス人であり、必要に応じてアラブ人のカーディーが副審をつとめるという方式は同じである。民族や係争案件の種類と法廷(イギリス法廷かザンジバル法廷か)との関連は、特に認められない。

②判事と弁護士(代理人)

 当初、イギリス法廷ではイギリス人の判事が、ザンジバル法廷ではカーディーが主審を務めていた。しかし、1908年以降、ザンジバル法廷は完全にイギリス人判事の支配下に置かれ、カーディー、もしくはリワリによって裁かれるのは最下級の裁判所のみとなった。

 ここでひとつ留意を要するのは、1940年代から50年代に最高裁判所の判事をつとめたSir John Grayの存在である。彼は、イスラーム法の見識も高く、しかも歴史家としても初めて『ザンジバル史』を著したことでも知られている。この時期の裁判は、イギリス法廷でもザンジバル法廷でも彼が主審をつとめている。したがって、この時期の判例は、彼の見識が大きく影響している。

 弁護士(代理人)については、当初、イギリス人だったが、次第にインド人の弁護士が登場してくる。アラブ人弁護士は1例にすぎない。どの判例にも弁護士(代理人)の名前が記されており、本人が出頭した場合にはその旨の記載があることから、ほとんどの裁判は弁護士(代理人)を通して行われていたと思われる。

③原告・被告のジェンダー分析

 判例集は1868年以降の事例を収録しているが、女性がはじめて係争者として登場するのは1897年である。この年は、Native Court Regulationsにより、ザンジバルに領事裁判所にかわるイギリス法廷とザンジバル法廷が設置された年である。このことは、多くの係争がカーディー裁判所で審議されていた時代から、上級裁判所に上告したり、初めからカーディー裁判所以外の裁判所に訴えることができるようになったことを意味した。  

 さて、女性と男性との間で係争が生じた時、どちらが原告になるかは、ジェンダー分析にとって重要な論点となる。「研究ノート」で紹介した46例を検証すると、半数以上の25例が、女性が原告となって起こされた裁判である。しかも、カーディー裁判所で敗訴した女性が、上級裁判所に上告して勝訴している事例も少なからず存在する。このことは、裁判所が女性のエージェンシーとしての機能を担うようになったことを意味するのではないか。さもなくば、女性が原告となって訴訟をおこしたり、上告したりはしなかったであろう。

 一方、46例中、女性が被告として訴えられた事例は21件。たとえば、夫を捨てた女性が、夫によって訴えられるというような事例である。この場合でも、明らかに夫側に非がある事例が多く、夫に屈することなく被告の立場に甘んじた状況が見て取れる。

 このように見てくると、女性が関わった判例の増加は、それ自体が女性の主体的なジェンダー闘争の証しであったということができるだろう。

④「制定法」との関係

イギリスは1909年以降、「制定法」を導入し始め、1930年代には全6巻からなるLaws of Zanzibarが編まれることになった。その中には、Marriage and Divorce (Muslim) Regulationや、Waqf Property Decreeといった条令が示しているように、イスラーム法の成文化の試みがなされている。しかし、すべてのイスラーム法が成文化されているわけではなく、実際の裁判のほとんどは、著名なウラマーが著した解釈本や過去の判例に依拠しながら裁定が行なわれていた。

 ただし、「制定法」との間で重大な対立が生じる場合には、「制定法」にイスラーム法を制限する文言が盛り込まれていることがある。たとえば、子供の嫡出性をめぐる場合、イスラーム法の証拠提示に関する規定は適用されないとの条項が「制定法」に盛り込まれている。このことは、イスラーム法を西欧的価値観によって一方的に制約することを意味したが、その方向性は、女性の権利の拡大に寄与するものであったことは見逃してはならない。

Ⅱ 事例分析

 ここでは、先に挙げた表に基づき、係争案件別に分析を行なうことにする。そこから、どのようなジェンダー関係を抽出することができるか。

 (1)「婚姻」に関わる係争

 15の事例のうち、女性が勝訴している事例は11例(インド系1、アラブ系3、アフリカ系6、コモロ系1)である。そのうち4例(アフリカ系2、アラブ系2)は、カーディー裁判所で敗訴した女性がザンジバル法廷に上告して勝訴した事例である。その他の7例(インド系1、アラブ系1、アフリカ系4、コモロ系1)のうち6例はいずれもイギリス法廷における裁定であった。

 一方、女性が敗訴した4例(インド系1、アラブ系1、アフリカ系2)はすべて、カーディー裁判所での判決が上告審であるザンジバル法廷においても追認された事例である。

 こうして見てみると、婚姻に関連した係争においては、イギリス法廷が女性に有利な判決を出していること、それに比べ、カーディー裁判所は男性に有利な判決を出しがちであったことが読み取れよう。それは、カーディー裁判所で敗訴した女性が上告して逆転勝訴している事例からも裏づけることが出来る。このことは、イギリスの統治下で導入された裁判制度により、女性の権利が認められるチャンスが拡大したと考えて良い。

 (2)「ワクフ」に関わる係争

 ワクフ案件の原告・被告は、ほとんどがアラブ系の人々に限られている。アフリカ系は7例中1例のみである。このことは、アラブ系とアフリカ系との経済的格差がいかに大きかったかを示している。ワクフは寄進する財源(畑、家屋、土地など)がなければ成立しないからである。取り上げた7例すべてがザンジバル法廷で審議されており、内5例で女性が勝訴している。係争の内容を整理する中で見えてきたのは:

①ワクフからの収益は男女平等に分配されることがイスラーム法で決められているが、実際には女性が除外されるケースがあったこと

②夫が資産をワクフに設定することが、妻に不利益を与えていたこと。妻が起こした裁判のすべてが、ワクフの無効を訴えていることが、その何よりの証拠である。さらに、妻の利害は、子供たちとも対立することが事例から見て取れる。

③ワクフの管財人に女性がなれるかどうかが争われた事例の中で、女性が管財人になれないのがザンジバルの慣習であるとの言及がある。この事例で女性の管財人が認められたことは、こうしたローカルな慣習がイギリス人の判事によって修正されたことを意味する。

④「ワクフ」に関する7件の事例の中で、カーディー裁判所が関わっているのは2例である。そのいずれもが上級審におけるイギリス人判事によって女性が逆転勝訴している。いずれも、制定法の条項を持ち出したり、インドでの判例を引いて来たりして、女性の側に有利な判決を導き出そうとするイギリス人判事の意図が読み取れる。

 以上、「ワクフ」のジェンダー分析を通して見えて来た事は、ワクフ制度が女性に遺産や収益を分配しないで、なるべく男系親族の男性の手に財産を留保しておくという機能を果していたことである。とりわけ、妻はワクフ制度によって、さもなければ相続できた財産をも失う場合があったことを判例は示している。

(3)「相続」に関わる係争

 「相続」に関わる係争は8件。その民族別の内訳は、アラブ系2、インド系2、アフリカ系4となっている。女性の勝訴率は低く、8件中3件にすぎない。その理由は、遺産相続に関してはイスラーム法による厳密な規定があり、イギリス人判事が女性に有利な方向へ裁判の流れを変えるのは難しかったと思われる。その結果、女性の訴えは却下される事例が多くなった。したがって、相続に関するジェンダー間の不平等が是正されることはなかった。

(4)「商取引・所有」に関わる係争

 7つの事例(アラブ系1、インド系2、アフリカ系4)のうち、女性が勝訴したのは1件、不明が1件、あとはすべて女性が敗訴している。この係争は、女性がどのように商取引に関わり、どのように所有権を主張したか、という観点から興味深い事例である。判決はイスラーム法ではなく制定法にのっとって行なわれており、ジェンダーに基づく偏見や差別が介在したとは思われない。

(5)「養育権・嫡出」に関わる係争

 紹介した5件の事例中、女性は4件で勝訴している。しかもその内の3件はカーディー裁判の「父権の制約」という観点から重要な判例である。ここでは、すべての判例について検討する。

・離婚した父親が娘の養育権を求めて元妻を訴えた案件(イギリス法廷)。離婚後、母親が子供を養育できる期間に関するイスラーム法の規定が検証された。イギリス人判事が最も重視したのは、ザンジバルでは子供の意思が尊重されるというザンジバルにおける慣行であった。この事例では、娘は母親との同居を望んでいたため、母親が再婚するまでは娘の養育権は彼女に与えられた。

・外国(ケニア)に住んでいた夫婦が協議離婚し、離婚後生まれた娘が4歳になった時、父親が養育権を請求した事例。カーディーが父親の父権を認めたため、母親が上告。しかし、上告審(ザンジバル法廷)でも、父親から娘を引き離したのは母親であり、父親は娘の養育権を放棄する意思はなかったとしてカーディーの判決が認められた。

・離婚した夫が13歳になる娘の養育権を請求した事例。母親は死亡し、姻戚関係のない女性が面倒を見ている。一審のカーディー裁判では、女性が子供と姻戚関係のない場合、父権が優先するとのイスラーム法を適用して父親の養育権を認めた。しかし、上告審(ザンジバル法廷)では、13年も放置していた父親は、明らかに養育権を放棄していたと見なし、その場合はイスラーム法を厳密に適用しなくてもよいとの見解から、女性に逆転勝訴を認めた。

・父子関係をめぐる係争。一審で、死亡した男性と父子関係にあり、相続人であると訴えた娘は勝訴する(カーディー裁判)。これを不服として死亡した男性の代理人が上告(ザンジバル法廷)。争点は、娘が離婚後のいつ誕生したかに絞られた。ここでは、制定法の規定が用いられ、離婚後10-11ヵ月後に誕生していたという証言が採用され、カーディーの判決が追認される形で女性が勝訴。

・結婚後4ヵ月で子供を産んだ女性が、夫の子供ではないとして養育権を主張して起こした裁判(イギリス下級法廷)。一審で妻が勝訴。それを不服として夫が上告し、結婚前に性交渉があったと主張したが、その証拠を示せず女性が勝訴(ザンジバル法廷)。ここでは制定法とイギリスの判例が援用されている。

 以上の判決理由を検証してみると、ザンジバルの慣行という理由、イスラーム法に則って父親の保護者としての資格がないとの理由、制定法とイギリスの判例に基づく再審議により、いずれもカーディーの判決を追認する形で女性が勝訴している。判決を導き出すためにさまざまな理由が挙げられているが、それらが一貫した法的手続きにのっとっているようには思われない。しかし、子供の養育権に関する係争では、アラブ人カーディーもイギリス人上級裁判官も女性に有利な判決を導き出す傾向にあったといえるだろう。

(6)「傷害」に関わる係争

 刑事裁判に関しては、1897年以降、制定法に基づいて裁判が行なわれている。ここで紹介した2件に関しても同様である。どちらの事例も「故意」になされた傷害・殺人かどうかが争点になり、いずれも最終審で減刑されている。その際、加害者が女性であることがどのように裁判の経過に影響を与えたかは不明である。

 以上、ザンジバルを中心としたスワヒリ社会のジェンダー史を再構築するにあたり、本研究では植民地権力と法の枠内で、どのようなジェンダー関係の操作が行なわれたかを検証した。ここで明らかになったことは、「婚姻」、「ワクフ」、「養育権・嫡出」の各案件で、女性に有利な判決が多く出され、その他は必ずしもそうではなかったということが明らかになった。これらの事例は判例としてピックアップされたものであり、統計処理はできないが、イギリス統治下で導入された上級審が、上記の3つの領域に関しては、従来のカーディー裁判の方向を女性有利に修正するものであったことは疑いない。

 おわりに

 裁判事例を史料として利用する研究は、近年増加傾向にある。その背景には、1975年の「国連女性年」とそれに続く「国連女性の10年」に触発された女性史やジェンダー研究の展開がある。女性の権利の保障という観点は、必然的に法制度の見直しや整備を論点として浮上させたからである。

 多くのアフリカ諸国では、民法の領域において、慣習法と制定法、およびイスラーム法、そして地域によってはヒンドゥー法といった宗教的マイノリティの法律が並存しており、そのどれに依拠した裁判制度を利用するかは各人に委ねられている。とはいえ、男性優位の社会において、女性が自分に有利な法律を問題解決のために利用する機会はかなり限られてきた。1990年代に入って、タンザニアのマサイ女性が父親を制定法による裁判に訴え、父親の婚姻権に挑戦して勝訴した事例が示すように、状況は流動的になってはきているが、まだまだ伝統的な家父長権は根強く残存している。

 アフリカ諸国で使われている3大法である慣習法、制定法、イスラーム法をジェンダーの視点で比較すると、一般的に言って慣習法が最も女性の権利を制約しているといえる。その次がイスラーム法、そして植民地下で導入された西欧起源の制定法は、相対的に女性の権利を保障しており、こうした異なる法律を一本化するのがこれからのアフリカ諸国の課題となっている。しかし、慣習法やイスラーム法は、それらの枠内で社会を存立させてきた共同体の文化と不可分な関係にあり、制定法に近づけた一本化への道はなお遠いといわざるをえない。

 一方、より現実的な方法として、慣習法やイスラーム法自体の修正という道も考えられる。修正の方向は、それぞれの地域の文化に即した女性の権利の拡大と強化が目指されねばならない。それが、制定法の理念とどのように重なり、どのように対立するかは重要な論点である。実際、イギリス植民地下で行なわれた法整備は、制定法への一本化を強制することなく、慣習法やイスラーム法の部分修正という方向を模索したものと言えるだろう。本研究は、ザンジバル保護領における、そうしたイギリス当局の試みとして位置付けることができる。本研究で取り上げた事例に関する限り、イギリス法廷の新たな導入とザンジバル法廷の整備によって、民法のある領域では女性の権利の保障と拡大が見られたと言ってよい。ただし、そうした判決が実際にどのように履行されたかは、別の問題となろう。

 ここで留意しておかねばならないことは、植民地下で導入された法制度により、女性の権利が拡大されたことによって、植民地支配が正当化されるわけではないということである。状況に応じて、自分たちの権利を主張し、拡大してゆく行動は、支配に抗する場合もあれば、支配のふところに入り込む場合もあるからだ。植民地支配と男性による家父長的支配の二重の支配下に置かれていた女性が、植民地支配のふところに入り込んで、男性の家父長権に抵抗する構図は、植民地支配にジェンダーの視点を導入することによって、初めてみえてくる。そのことは、植民地支配の歴史を単純な支配/従属の二元論から解放すると同時に、現在のポストコロニアルな状況に対しても、重要な分析視点を与えてくれるものと考える。                 

  *本稿は以下の論稿を短縮、ないし補足したものである。

  「ザンジバル保護領判例集解読の試み―スワヒリ社会のジェンダー史構築にむけて」(上)(中)(下)宮城学院女子大学付属キリスト教文化研究所『研究年報』37-39号(2004~2006)

  「植民地支配と家族法―ザンジバル保護領(英領)の事例―」『ジェンダー史学』7号(2011年)